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オホクニヌシと出雲大社

つどい268  同志社大教授 辰巳 和弘先生

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■ オホクニヌシと出雲大社
               同志社大教授 辰巳 和弘先生

一.オホクニヌシの神語り
  七一二年、和銅五年に成った『古事記』(以下に記)の上巻にはオホクニヌシの一代記を中心とするいわゆる出雲神話が大きなボリュームをもって語られます。そこにみる「稲羽のシロウサギ」や、スサノヲに繋がるオホナムチが根(ね)の堅(かた)州(す)国(くに)を訪問し、数々の試練を克服した後にオホクニヌシとなり葦原の中つ国の支配者となる話などの物語りはみなさんよくご存じです。天つ神の子孫である天皇家による葦原の中つ国支配の正当性を語ろうとする「記紀神話」ではありますが、古代国家の正史として七二〇年、養老四年に完成をみた『日本書紀』(以下に紀)にはオホクニヌシに関係する神(かみ)語(がた)りがまったくみえません。オホクニヌシの名は書紀の正伝にはみえず、ようやく一書第六に「大国主神、亦は国(くに)作(つくりの)大(おほ)己(あな)貴(むち)命と号す(云々)。大己貴命と、少彦名命と、力をあわせ心を一にして、天下を経(つ)営(く)る」とみえるにすぎません。なぜ『古事記』が出雲神話に大きなスペースを割いているのか。またそれと『出雲国風土記』(七三三年、天平五年、以下に風土記)に語られる伝承との関連性。またそれを裏付ける文化的事象ついて、古代の北陸地方、すなわち越(こし)(高志)との繋がりに視点をおいて考えてみたいと思います。
  まずオオナムチ登場の前段、高天の原を追われ出雲にくだったスサノヲの八俣の大蛇退治の神語り。この神話は記紀ともにみえますが、記が「高志の八俣の大蛇、年毎
に来て(女を)喫(くら)へり」と、大蛇の高志か

らの襲来を伝えるのに対して、紀はそのことを述べません。また記のみにみえる出雲神話では、オホクニヌシの亦の名をもつヤチホコが高志国のヌナカハヒメのもとへ出向き求婚する長編の歌謡あり、「八千矛の 神の命は 八島国 妻(つま)枕(ま)きかねて 遠遠し 高志の国に 賢(さか)し女(め)を ありと聞かして 麗(くは)し女(め)を ありと聞こして さ婚(よば)ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ」と歌われます。天皇家による中つ国支配の由来の語りに、越(高志)という地名を登場させる必然性が認められないにもかかわらず、記がそれを語ることに目を向けましょう。
 風土記には出雲と越の関係を語る記事が散見されます。国引き神話は、「童(おと)女(め)の胸のように広く大きな鋤を用いて、大きな魚のエラに銛を突き刺すように、高志の都(つ)都(つ)の三埼を切り離して引き寄せた地が(島根半島の東寄りの)三穂の埼」だと言います。この国引き神話が出雲に語られた国土創造の話であることは、その国引き神がヤツカミヅオミツヌという記紀にほとんど語られることのない神であることからも確かです。高志のヌナカワヒメへの求婚譚は風土記の島根郡美保郷条にも語られますが、そこではヤチホコから「天の下造らしし大神の命=オホナモチ(オホナムチ)」に神名が変わっています。風土記において出雲の国土を造ったのはヤツカミヅオミツヌですから、オホナモチに付けられた「天の下造らしし大神」という尊称は、オホナムチがスクナビコナとともに「天下をつくった」という紀の語りがあってのこと。したがって風土記には記紀神話が反映していることは確かです。しかし国引き神話のように出雲独自の伝承の主張も十分見受けられます。
 考古学の分野で、中国地方山間部にはじまった四隅突出型墳丘墓が出雲や伯耆地方で大型化し、それが福井・石川・富山へと分布を拡大する事実はよく知られています。さらに白枝荒神遺跡(出雲)や原(はる)の辻遺跡(壱岐)、青(あお)谷(や)上(かみ)寺(じ)地(ち)遺跡(因幡)、袴(はか)狭(ざ)(但馬)など、日本海側の弥生遺跡からサメやイルカを描いた土器や琴板などが出土するのも、海棲の大型動物に格別の霊性をみいだす共通観念の存在をうかがわせます。青谷上寺地遺跡出土の木製オールにはイルカが五頭描かれ、船足が軽くなることを願う海人の心をみることができます。
イルカといえば神功記にホムタワケ(応
神)が越の角(つぬ)鹿(が)で土地神の神託に従って、神にイザサワケの名を贈ったところ、神は返礼として浦一面に満ちるイルカを浜に寄せたという伝承が思い浮かびます。さらに能登半島の富山湾に臨む縄文中期の真脇遺
跡では、三〇〇頭余のイルカの骨が集中し
て出土、なかに複数のイルカの頭骨を意図的に並べた状況が数箇所で認められ、イルカを対象とする漁撈と祭祀が弥生時代をはるかに遡ると考えられます。
 現在も中国地方山間部でワニと呼ばれるサメについても、考古資料の絵画だけでなく、風土記の意(お)宇(う)郡条にはワニに襲われた娘の仇を討とうとした語(かたりの)臣(おみ)猪(い)麻(ま)呂(ろ)が神々に祈ったところ百余のワニがひとつのワニを囲んで寄り来たり、娘の仇を討つことができたという毘(ひ)売(め)埼(さき)の伝承が載せられています。この話は記が語る稲羽のシロウサギの説話を彷彿させるではありませんか。また風土記の仁(に)多(た)郡条には玉日女命に恋をしたワニが彼女に会おうと川を遡る話もみえます。
  このように風土記や考古情報には、越をはじめとした日本海地方と出雲の交流が随所に指摘されます。記の神話にのこる越(高志)にかかわる伝承の背景に、出雲の王権神話の残映がみてとれるのではないでしょうか。しかし風土記でヌナカワヒメに求婚しようと高志に出向いた神を「天の下造らしし大神(オホナモチ)」とする点に、風土記の成立に中央神話が作用していることもわかります。

二.大社造りと古代出雲文化
 さてオホクニヌシといえば出雲大社の祭神です。ちょうど一〇年前の発掘調査で宝治二年(一二四八年)の遷宮になる本殿遺構が現れたことはみなさん記憶されていることと思います。その平面形は現在の本殿と同規模でしたが、直径が一メートルを超える杉の巨木三本を金輪で束ねて一本の柱とした、豪壮な建物だったことがわかりました。この事実は千(せん)家(げ)国(こく)造(そう)家(け)に伝来する「金(かな)輪(わの)御(ご)造(ぞう)営(えい)差(さし)図(ず)」という本殿の平面を描いたとみられる絵図の信憑性をにわかに高めました。この差図には描かれた時代などの記述がなく、また従来の日本建築にかような束ね柱による建物が確認されなかったがゆえに、建築史家の間では軽んじられてきた絵図でした。本居宣長は『玉(たま)勝(かつ)間(ま)』にこの絵図を紹介、鰐(がく)淵(えん)寺(じ)文書を引いて「神殿の高さ、上古のは三十二丈あり、中古には十六丈あり、今の世のは八丈也(云々)」と記しています。
 大社本殿が巨大であったことは天禄元年(九七〇年)に源為憲がまとめた『口(くち)遊(ずさみ)』に、大型建物に関する「雲(うん)太(た)、和(わ)二(に)、京(きょう)三(さん)」という記述があり、それを「雲太謂出雲国城築明神々殿。和二謂大和国東大寺大仏殿(云々)」と注することから、当時一五丈(四五メートル)あったことが確かな東大寺大仏殿より高い建物だったとみられ、さきの「中古一六丈」という伝承はまんざら作り話でもないのです。しかしあまりの高層建築に、建築史家の考察は及び腰で、福山敏男氏が一九三七年と一九六二年に一六丈説に立つ復元図を発表し、後に大林組が福山説をもとにした復元検討が行われたにすぎなかったのです。しかしほぼ差図どおりの束ね柱建築遺構が眼前に姿を表した時は、私も言葉を失いました。ただし柱根が姿を現したにすぎず、建物の高さが証明されたわけではありません。高さをめぐる論争は終わりがないことでしょう。しかし現本殿とほぼ同規模の床面積で、柱(束ね柱)の直径が三倍ほどあるわけですから、高さ八丈の現本殿よりはるかに高い建築であったことは間違いありません。しかも出土した束ね柱から復元される建物の平面は九本柱からなる現本殿とほぼ同じです。どうやら九本柱、床高、妻入りという特徴をもつ大社造り建築は『口遊』の語る古代まで遡るとみることができそうです。
 紀はオホクニヌシの国譲りの段に、オホクニヌシのために千(ち)尋(ひろ)の間(けん)尺(じゃく)を楮(こうぞ)の縄で作り、高く太い柱と広く厚い板を用いて高い階を架けた高層建築を高天原の神々が造ることを語ります。また記でも、オホクニヌシは「僕(あ)が住(すみ)所(か)をば、天つ神の御子の天つ日継知らしめす、とだる天の御(み)巣(す)の如き」宮殿、すなわち大和の王宮と同じ様式の豪壮な神殿を要求しています。風土記にも、天の下造らしし大神の宮を造るために皇(すめ)神(がみ)たちが宮處に参集したことが出雲郡杵築郷の郷名由来に簡単に語られます。しかし風土記は、それ以上には大社建築の具体相について述べることはありません。記紀にいう大社建築の豪壮さを風土記があえて語らないのも気になるところです。
 記紀や風土記は、オホクニヌシの宮殿(出雲大社)が大王の王宮と同様式の建物であったことを述べているようです。ということは切妻高床、または入母屋高床で、平入りの建物ということになります。しかるに出雲大社や神魂(かもす)神社の本殿に代表される大社造り建築は九本柱からなる切妻・妻入の高床建物であることが特徴です。この大社造り建築は『口遊』の時代をさらに超えて、弥生時代中期の田和山遺跡(松江市)の祭祀性の強い中心建物にまで遡る、地域性の極めて強い建築様式であることは確かです。
 風土記は、記紀の伝承にひかれてオホナモチ(オホクニヌシ)の宮殿について、高天原の皇神たちが建築に参画したところまでは語りますが、それ以上に大社建築について誇らしく述べることはありません。そこにわずかながらも出雲の主張が反映しているとみることはできないでしょうか。
  ではなぜ記は出雲の神話をことさらに語るのでしょうか。近年の考古学の成果は、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などの青銅製祭器の多量埋納遺跡、西谷墳墓群などの大規模な弥生墳丘墓群をはじめ、出雲独自の古代文化と王権がヤマト王権の誕生を遡って存在したことを物語っています。記は、あの偉大なる出雲を圧服させたヤマトの王権の正当性を主張するために出雲で語られる王権神話(オホナムチ神話)を取り込むことで、その出雲からヤマトの大王家が国譲りを受けたさらに偉大な王権であることを主張しようとしたのではないでしょうか。そこに記にみるオホクニヌシ神話(出雲神話)の誕生があったとみたいのです。

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