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豊嶋郡の「織姫伝承」について-クレハトリ・アヤハトリ(漢氏の伝承)-

つどい262  金谷健一

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■豊嶋郡の「織姫伝承」について
      ―クレハトリ・アヤハトリ(漢(あや)氏(し)の伝承)―
                         (会員) 金谷 健一

はじめに
 いつの頃からか、摂津国豊嶋郡と武庫郡にクレハトリ・アヤハトリ(呉(くれ)の機(はた)織(おり)・漢(あや)の機(はた)織(おり))伝承なるものが根付いている。
 この織姫伝承(漢氏の伝承)を『日本書紀』から見ると、応神三十七年(三○六)春二月条に阿(あ)知(ちの)使(お)主(み)・都(つ)加(かの)使(お)主(み)が縫工女を求めて高麗国に渡り、呉に到り呉の国王から工女、兄媛・弟媛・呉(くれ)織(はとり)・穴(あや)(漢)織(はとり)ら四名の織姫を賜り、応神四十一年(三一○)春二月条に、津の国の武庫津(西宮)に着いたという記述がみられる(呉国に行くのに何故高麗国へ?)。
ここからは豊嶋郡の伝承になるが、呉織・穴(漢)織の二名は武庫川から猪名川を上り、唐船ケ淵(現・池田市新町)に上陸、人々に機織の技術を伝えて死後呉織は呉服神社に、漢織は穴織神社に祀られたという。
 ところが『日本書紀』、雄略十四年正月条に次のような記述が見られる。
「身挟(むさの)村主(すぐり)青(あお)等(阿知使主の子孫、大和高市郡明日香村)呉国の使と共に呉の才技(織姫)の漢織・呉織、及び衣縫(縫姫)の兄媛・弟媛らと住吉津(住吉区)に着く。磯(し)歯(は)津(つ)路(みち)(住吉区から東住吉区にかけての路)を通り、呉坂(東住吉区喜連)と名付ける。三月に呉人たちは桧隈野(飛鳥)に着く。衣縫(縫姫)の兄媛は大三輪神社に奉り、弟媛は漢衣縫部とする。才技(織姫)の漢織・呉織は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫(『和名抄』に伊勢国壱志郡に呉部郷がみえる)の祖である」。
これは身狭村主青と桧隈民使博徳の呉からの帰朝記事であるが、地名の「磯歯津路」などは『万葉集』(九九九番)からも確認出来る、また「呉坂」は現在の平野区杭全町付近で、即ち、住吉津→美章園→平野→斑鳩と通って明日香に入ったのであろう。
 では何故、応神紀と雄略紀に同じような記述が見られるのだろうか。応神二十年秋九月条に、「二十年秋九月に、倭(やまとの)漢(あやの)直(あたい)の祖阿知使主、その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて来帰(まうけ)り」と見え、現在、池田市や西宮市に「クレハトリ・アヤハトリ」として継承されている織姫伝承はこの短い文章にかかっている。八世紀に入って倭漢氏が繁栄し、雄略紀の出来事が応神紀に投影されたのである。それは阿知使主が後漢の霊帝とか、前漢の後裔だとされ、倭漢氏の宗家だと名乗る坂上苅田麻呂の延暦四年(七八五)の上表文にも見られるように、坂上氏によって形づくられた伝承である。
雄略紀の来朝を応神紀に投影している事は、雄略二十三年、宋の順帝に上奏された天皇の文章が「宋書倭国伝」に残っている事や、応神三年(二七二)条の百済の「阿花王」即位の記事が「三国遺事」では、三九二年とあって二運(一二○年)の違いが見られる事などからも応神紀の記事についても五世紀の初め頃と見るべきであろう。

漢(あや)氏(し)の概説
 朝鮮半島から渡来した最も古い中国系を称する渡来系氏族で、後漢光武帝の末裔を称す。高市郡を中心に文官として活躍し、坂上・文・池辺などの氏族に分かれ、東(やまと)(倭)の漢(あや)氏とよばれて、八~九世紀には坂上氏を中心に勢力を保った。
 別系統に西(かわち)(河内)の漢(あや)氏がみられ、西淋寺、葛(ふじ)井(い)寺(でら)、野中寺などで知られる氏族である。

坂上氏の概説
 東(倭)漢氏から分かれた枝族で、系図では前漢の劉邦を祖先とする。壬申の乱では武功をたてる。天平宝宇八年(七六四)坂上苅田麻呂が弓削道鏡追放に功があり、その子坂上田村麻呂は征夷大将軍となり、正三位大納言に昇る。その後武門の氏族としては衰えるが、平安時代末期になって、明法道(律令制の紀伝・明法・算道)家として名を上げる。

坂上氏の豊嶋郡進出
 河内国土師の貫主、坂上維正の子、正任が平安時代中期に豊嶋郡に進出して、この地を「呉(くれ)庭(は)」と名付けて開発領主となった。何故クレハと読むのかは不明であるが、雄略十四年の『書紀』の文章から、呉(くれ)坂(さか)を通って明日香に着き、その地を「呉(くれ)原(はら)」と呼んだとある事から、出自地に准(なずら)えて「呉(くれ)庭(は)」と呼んだとも考えられる。
 坂上一族は在地の秦一族と争う事もなく、
秦氏の祀神、為那都比古神を祀り、既存の「秦ノ上社」に漢氏の系譜上の始祖である阿知使主を祀り「穴(あや)織(は)神社」と呼ぶ。また「秦ノ下社」には都加使主を祀り「呉(くれ)服(は)神社」と呼んだ。
 在地の秦一族との争いがみられなかった事については、九世紀の終り頃になると秦氏にも衰微がみられて、本家筋も惟宗姓に改姓され十一世紀なると、検非違使の下級官吏以外には惟宗姓は見られなくなる。
 坂上氏の豊嶋郡進出と共に呉庭荘が開発されたといわれているが、坂上氏の事跡が見られず蓮華院(三十三間堂)文書に法華堂寄贈がみられるくらいである。
 昭和三十五年発刊の『池田市史』では、大阪教育大学の舟ケ崎正孝教授によって、坂上氏による、呉庭荘園の開発を肯定されているが、平成九年発刊の『池田市史』では、同大学の吉田靖雄教授は呉庭荘園の実在を否定され、この時代の豊嶋郡は久我家(近衛・九条家に次ぐ七清華家)の領地だったといわれる。
 因みに、寿永二年(一一八三)以前の豊嶋郡を見直すと、この頃の摂津国には、手島連・津島部・津島直・津島朝臣・椎田君・穂積臣・島首・久々知氏・勝部首らが入り乱れて、坂上一族による開発の事跡を把握出来ないのが実情である。

摂津名所図会  池田呉織社


池田氏の豊嶋郡進出
 池田氏についてもよく判らないが、元は藤原姓を名乗り寛弘年代に遡るとされるが、池田市の寺院に残されている、藤原景正の年代にも疑問がのこる。だが、多田の家臣には藤原姓を名乗る者が多く、池田氏と豊中の今西家(藤原家執務)の関係が親密であった事はたしかである。紙面の都合で詳しくは書けないが、私は、室町時代初期に多田の家臣で野間城主の内藤伊賀守が美濃国池田郷から池田公貞(土岐一族)を呼びよせた事に始まるのではないかとみる。(池田氏の進出よりも、地名のほうが古いとする説もある)。
 豊嶋郡に進出した池田氏は、すでに消滅していた川辺郡の式内社であった「伊(い)居(こ)太(た)神社」を「秦ノ上社・穴織神社」に同祀して、自身の姓に重ね合わせて「伊(い)居(け)太(だ)神(じん)社(じゃ)」と呼んだと考えられる、神社名は現在三通りである。
 池田市教育委員会発行の「池田学講座」では、伊居太神社を式内社としているが、延喜式神名帳による豊嶋郡秦郷の式内社は「細川神社」であって、神名帳に従って「伊居太神社」は川辺郡の式内社とすべきである。池田の伊居太神社はイケダ神社と呼ぶべきである。なお尼崎に在る「伊居太神社」も式内社を名乗っているが、明治までは「春日神社」であって格式を上げるため消滅した神社名に変更している。
 よって、「伊(い)居(け)太(だ)神社」の成立は池田氏の豊嶋郡進出以後である。因みに、大正十二年に伊居太神社から出されている「伊居太神社略縁起」(神主・河村鼎)には式内社との記入はみられない。

豊嶋郡における織姫伝承の疑問
* 応神紀・雄略紀の織工女渡来記事に豊嶋郡の地名がみられない。
* 豊嶋郡に於ける秦氏の確証は得られるが、漢氏に関する事跡、墓地が見られない。
* 織姫の墓と云われる姫室・梅室は平安時代の経塚である。
* 豊嶋郡の古墳から、紡錘車などの出土がなく、桑畑などの伝承もない、麻田の地名も古くには浅田とみられる。高  槻市宮之川の神服神社(式内社)の近くには五十基以上の土饅頭の墓があって(現在は消滅)、紡錘車が出土、近くには「桑原」の地名が残っている。
* 穴織神社(秦ノ上社・伊居太神社)も、呉服神社(秦ノ下社)も延喜式内社ではなく、創起の時代は下がる。
* 『穴織宮拾要記』には、古代には神社の前まで海であったと書かれているが、弥生時代の田能遺跡(尼崎市)や、宮ノ前遺跡(池田市・伊丹市)からは人間の生活がみられる。

蓋然性のある神社 
* 西宮市の松原神社(廣田神社南宮)にも織姫伝承が継承されていて、津門呉羽町、津門綾羽町の地名が存在する。
* 『日本書記』の応神紀には、津門・武庫の地名がみられ、津門の首が武庫の津を管理していた。
* 『梁塵秘抄』(後白河法皇遺稿)によると、「廣田より、戸田へ渡る船もがな、浜のみたけへ事付もせむ」とあって、武庫の津から廣田神社(式内社)までは船で往来していた事が判る。
* 『住吉神社神代記』に、武庫川と、猪名川の女神が一人の男神を巡って争う話があり、その中に「両河一つに流れ合いて海に注ぐ」とあって、武庫の津から武庫川を経て猪名川に入り豊嶋郡に行けると暗示しているが、この話は神戸市灘区にある西求女塚古墳と、東求女塚古墳の戦士が求塚墓(菟原処女墓)を巡る話で、『万葉集』や、謡曲の「求塚」に仮託された話であって、両川の合流はあり得ない。

豊嶋郡に織姫伝承が広く膾炙された根拠 
* 平安中期以後に坂上正任が豊嶋郡に進出し、自身の祖先伝承から応神紀の織工女渡来記事に結びつけて、地名を「呉(くれ)庭(は)」と名付けて、呉庭荘と称した事によるとする説。
* 室町時代になると武士社会から、庶民に至るまで「猿楽」(能楽・謡曲)が広がり、世阿弥作と云われる「呉(くれ)服(は)」が演能された事もその一面と考えられる。稿本の「海士乙女」「浦里」などの文から海の傍が舞台であると考えられる。
* 元禄九年、池田の俳人で漢氏に繋がる家系を任じる坂上稲丸が「呉服絹」という俳書を出版し広く読まれたのも一因と考えられる。その他江戸時代の『摂陽群談』『摂津名所図絵』などに取り上げられて読まれた事にもよる。

おわりに
 世阿弥の能楽「呉服」の概説は、帝に仕える臣下が住吉から西宮神社へ参詣の途中、
松原で機を織る二人の乙女をみて、曰くを尋ねると二人は応神天皇の御代に唐から渡ってきて、御衣を織った呉織・漢織であると答え、今日また目出度い御世であるので再びこの世に現れたと云う。翌朝磯に打ち寄せる波の音に添えて機音高く錦を織り、御世を祝って舞うと云う話である。
 前述したように織姫伝承については『日本書紀』雄略十四年の機工女渡来記事には、地名、工女の派遣先などが具体的に記載されていて正しく時代考証がなされていると考えたい。
 『書紀』には武庫・津門の地名がみられ話の舞台が海辺であり、西宮市の松原神社の前には「漢織呉織伝承碑」が建ち、池田市と共に、クレハトリ・アヤハトリ伝承が語り継がれているが、いずれの話も史実として語るには合理性に欠ける、伝承は伝承として永く地域に語り継がれて行くべきであろう。


摂津名所図会  呉織穴織の錦織伝授

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