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邪馬台国と大和・纒向遺跡

つどい271  兵庫県立考古博物館館長 石野博信先生


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はじめに
今回の標題についての皆さんのご期待は、昨年暮れに纒向遺跡で発見された大型建物群についての話題だと思うが、その話題に入る前にまず日本列島全体の中での纒向についておさらいしておきたい。

一 倭国連合の都が邪馬台国におかれた時
    期
 邪馬台国は、女王ヒミコ・トヨの時代が注目される。ここで邪馬台国の女王というように言ったが、ご存知のように正確にいえば、倭国連合によって共立された女王で、その都を置いた場所が邪馬台国ということである。
 ヒミコが女王に共立され邪馬台国に都をおいた時期については魏志倭人伝には明確な記述がない。ではどうしてこれを推定すればよいか。
 奈良県天理市の東大寺山古墳から後漢霊帝の年号「中平(一八四~一八八)」の銘の入った鉄刀が出土している。これを調査された大阪府立弥生博物館長の金関恕さんは以前から「ヒミコに下賜された刀」というように言っておられるが、私もこれに同調したい。というのも、ヒミコが共立されて倭国連合の女王になったという情報が大陸に届いて、その鉄刀が下賜されてきたと考えるからである。このように考えて、私はヒミコが共立されたのは一八〇年代後半と推定している。
 中平銘の鉄刀が、ヒミコの即位祝いに下賜されたという考え方には反対する意見もある。実は、当時の中国は後漢の末期にあたり黄巾の乱で国内が大きく乱れており、辺境の日本列島での女王の即位を知って即位祝いを贈るなどということができる筈がない、これはもっと後の時期に偶然日本に入ってきたものであろうというのである。
しかしながら、ヒミコにしてもトヨにしても、中国で政権交代などがあると間を置かずに使いを送っている。恐らく、ツクシやイズモなどの日本海沿岸の海洋民あたりから情報を得たのだと考えられる。当時は北部朝鮮から中国東北部一帯は公孫氏の支配下にあり、公孫氏は後漢の年号を使っていたと思われるので、私はこの鉄刀は公孫氏から下賜された可能性が大きいのではないかと考えている。
ヒミコが亡くなったのは、魏志倭人伝によれば、二四七年か二四八年。その後しばらく国内が乱れてのち、トヨが共立され二六六年に魏の後に建国された晋に使いを送っている。トヨが亡くなった時期については記事がなく不明だが、二八〇~二九〇年頃と推定される。
 従って、邪馬台国の時代(ヒミコ・トヨの時代)は二世紀末~三世紀末の約一〇〇年間と考えられる。

二 二世紀末~三世紀末の列島
 邪馬台国の時代の日本列島について考えるに際して、基準となる土器の年代を決めなければ話が進まない。そこで私は、年号を持つ中国や朝鮮半島の器物と同時に出土している土器を対比させることを考えた。私の次のような著書には、その結果を示している。
『邪馬台国の考古学』吉川弘文館、二〇〇一
『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社、二〇〇八
『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』文英堂、二〇一〇
 邪馬台国の時代には当然北海道にも沖縄にも住民はいて独自の文化があったわけだが、ここでは互いに土器交流があった列島内を中心に見ていくと、東北地方から鹿児島まで地域ごとにまとまってそれぞれ独自の土器文化が発達している。表1に各地域の土器形式を示した。邪馬台国問題を考えるに当たっては、単にツクシやヤマトだけを取り上げるのではなく、各地域の文化や政治状況をも整理して考える必要がある。
 土器の流れによって、邪馬台国時代の列島の状況を見てみよう。土器の流れを図化したのが、図1である。
 三世紀代にはツクシやイズモの土器は半島南部のカヤから出土する。ツクシにはヤマトやカワチの土器を出土する遺跡は三十カ所に及ぶが、逆にヤマトでツクシの土器を出土する遺跡は十カ所程度にすぎない。ヤマトの土器はツクシでとどまってしまってカヤには行っていない。タンタン(丹但)やコシナアイ(越・信濃・会津)の土器はイズモから出土するから日本海沿岸地域同士の交流があったのだろうが、イズモの土器はコシナアイでは出土しない。土器の動きが最も活発なのは、ノウビセイゾウ(濃尾勢三)の土器で、各地でまとまって出土する。ヤマトには各地の土器が来ているが、中でも最も多いのはノウビセイゾウの土器である。ヒミコが狗奴国との戦闘で亡くなっているが、狗奴国がノウビセイゾウであるとすれば、ノウビセイゾウの土器がヤマトに多いのは、ヤマトが戦争に勝って捕虜を沢山連れてきたという考え方と、戦争に負けてノウビセイゾウの占領軍が沢山入ってきたという二つの考え方があるが、さて土器の動きがどれだけ政治と結びついているかは分からない。文化現象としては、このように地域同士の活発な土器交流があるのである。

三 纒向遺跡
 奈良盆地は大阪平野などに比べるとはるかに狭く南北二五キロメートル・東西一五キロメートルにすぎない。纒向遺跡は奈良盆地の東南部、奈良県桜井市から天理市にかけての位置にあり、三つの川に挟まれた東西南北各二キロメートルの範囲を占める。

 私が調査にかかわったのは、調査開始当初の五年間であったが、当初は纒向に三世紀代のこれ程の遺跡があるとは考えもしなかった。永年の調査で、直径一〇センチメートル程度の柱穴は多数発見されたけれども、中々建物としてのまとまりを見いだすことができなかった。あっても一間四方程度の小さなもので、まともな大型建物群の発見というのは調査開始以来三十八年間で初めてのことである。
 この遺跡は一八〇年代後半から突然マチが作られ始め、三四〇年頃に突然消滅する。
一五〇年間にマチの中は変化しているので年代別に考察してみよう。
纒向(土器分類、以下同)一類の時代は、年代は一八〇~二一〇年、土器は弥生Ⅴ様式(最近の土器分類では弥生後期の最終段階)、このあたりからマチの建設が始まる。纒向二・三類の時代は、年代は二一〇~二七〇年、土器様式は庄内式の古い段階、昨年秋に発見された大型建物群はこの時期に建てられた。ヒミコの治世の時代に当たる。また全国的に長突円墳(前方後円墳)が築造され始める時代である。纒向四類の時代は、年代は二七〇~二九〇年、纒向ではまだこの時期の建物は知られていないが大量の染料ベニバナや仮面の出土も話題となった。トヨの時代であり、箸中山古墳(箸墓)が築造された。全長二八〇メートルの古墳の築造には十年はかかるだろうとして、ヒミコの墓という人が多いが、私はトヨの墓だと考えている。纒向五類の時代は、年代は二九〇~三四〇年、ヤマト政権の成立時代である。行燈山古墳(崇神陵)・渋谷向山古墳(景行陵)などの巨大な大王墳が築造された。纒向遺跡はこの時代はまだ存続しているが、こののち突然消滅する。マチが突然始まり、突然消滅ということからすれば、自然に発生したマチではなく、多分に政治的に建設されたマチである可能性が大きいと思われる。

四 三世紀の居館
 纒向で今回発見された大型建物の柱穴は長方形または正方形で整然と揃っている。もっと時代が下った場合ならばともかくも、弥生・古墳時代の柱穴は通常丸穴なので、この柱穴の形状は特異と言わねばならない。この柱穴の一部は後に作られた溝によって破壊されており、この溝から纒向二類の土器が発見されているので、二五〇年以前の建物であることが確定した。この溝による柱穴の破壊がなければ、日本中の考古学者が、この時代の建物であることに疑問を持ったであろう。
 柱の太さは、三〇センチメートル程度で、新聞には三世紀代では最も大きな建物であると報道された。
 発見されたA~Dの四棟の建物の中心線が東西の方向に一直線に連なっていることも驚きである。中心線の東の先は柿本人麻呂の万葉歌に出てくる由槻岳の頂上にあたり、そこはかつて兵主神社の奥宮があった場所である。一方西の先は全長九二メートルの纒向石塚古墳の円丘部である。私はこの古墳は二一〇年頃の築造と考えているが、寺澤薫さんは二七〇~二八〇年頃のものと考えているようである。奈良県立図書情報館館長の千田稔さんは、歴史地理学の立場から、この様に建物が東西に連なるのは、太陽信仰の表れだと述べておられる。いずれにせよ、重要なのは建物が一直線上に計画的に配置されている点である。
 時代が下った飛鳥時代や奈良時代の大王宮殿の建物は南北に並ぶのである。
 三世紀後半の滋賀県冨(と)波(ば)遺跡では長辺一〇〇メートル程の長方形区画内に全長四〇メートルの長突方墳が並列し、両者の間に方形周溝墓と円形周溝墓が配列されている例が見いだされている。私はこれは、黄泉の国でも生前の生活ができるようにと、生前の居館配置を再現したものであると考え、二十年程前にこれを参考にして、ヒミコの宮殿の想定図を発表したことがある。
 大阪府尺(しゃく)度(ど)遺跡では、五〇メートル四方の屋敷囲いの中で三世紀の居館跡が発掘されている。方形区画の北辺中央部に幅五~六メートルの北にのびる道の跡があり、北側にも大きな区画がある可能性がある。そうだとするとこの場合は縦の配列になる。三世紀代の館には、横配列の場合と縦配列の場合のどちらもあるということであろう。
 奈良県佐味田宝塚古墳出土の四世紀の家屋文鏡に高屋・平屋・伏屋・高倉など四種類の家屋の図が刻まれている。これは、四世紀のヤマトの屋敷地にはこれら四種類の建物があるという意味だろう。そうであれば、三世紀代でも屋敷地には四種類の家屋があると考えてもいいのではなかろうか。実際、尺度遺跡でも中心の高屋の大型建物の両脇に小さな平屋があり、さらに周囲に竪穴住居が幾つか出土している。
 では九州ではどうであろうか。吉野ヶ里遺跡は南北一キロメートルほどの大きさがある。吉野ヶ里遺跡が発見されるまでは、近畿の唐古鍵遺跡が径五〇〇メートルの環濠集落で国内最大であるとされ、教科書にも掲載されていた。吉野ヶ里遺跡ではひょうたん形の区画内に北内郭と南内郭の二つの内郭があって、北が祭祀空間、南が政治空間と考えられている。
 愛媛県の樽(たる)味(み)四(し)反(たん)地(じ)遺跡では八〇メートル四方の柵で囲んだ区画内に三棟の大型建物が見いだされている。
 石川県万行遺跡では一〇〇メートル四方の範囲に四棟二列の高床の倉庫のような大型建物群が出土している。
 滋賀県伊勢遺跡は東西七〇〇メートル、南北四五〇メートルの範囲に広がっているが、四〇メートル四方の柵で囲んだ区画があって三棟の大型建物が出土しているが、環濠に接してもう一つ区画がある可能性がある。
 この様に三世紀代の大きな遺跡では、集落内に二つの中心区画があって、それぞれ祭祀と政治を分担するというのは、西日本全体のマチづくりの傾向であるように思われる。すなわち、このような施設構成を持った遺跡があれば、直ちにそこが邪馬台国で大型建物はヒミコの宮殿だということにはならないのである。
 今、纒向で見いだされているのは、一直線に連なった四棟の建物だけであるが、今後周辺の発掘が進めば、八〇×一五〇メートルの長方形区画内の建物配置が明らかになり、それによって建物群の性格が始めて検討できる。
 纒向のマチを造るに当たってはまず図4に示した幅五メートルの水路、纒向大溝を築造することで始まった。実線はこれまでに確認された部分で延長二五〇メートル、点線は推定で、総延長二・五キロメートルの直線状の水路である。この水路は、図から分かるように自然地形にさからい川を乗り越えなければならない。
 東京の水道橋は江戸時代に水道橋があったことで名付けられた地名だが、五世紀代
でも、木樋を使った水道橋で四〇メートル幅の溝を跨いで水を居館敷地内に引き込んでいる例がある。群馬県の三ツ寺遺跡がそれである。纒向大溝は更に遡る三世紀にすでに、確実に水道橋によって川を跨いでいる人工の水路なのである。

五 おわりに
 一九七八年の調査で、この二つの川に挟まれた微高地には祭殿と思われる建物が見いだされていた。今回、その中心線を東方向の延長した線上に大型建物群が見いだされたのである。以前の調査結果から、ここには、南北八〇メートル、東西一五〇メートルの長方形区画があると推定し、私は、柿本人麻呂の屋敷地ではないかと考えていた。今回、三世紀前半の大型建物群が出土したことで、人麻呂がヒミコに替わってしまった。
 この建物群は、各建物の中心が一直線に連なるなど計画性があること、柱穴が方形であることなどが注目される。これが王の館だとすれば、周囲の附属の建物に何があるかによって、政治構造を知る手がかりも得られるので、桜井市は今後さらに周辺の調査を計画しているようだ。
 今回の調査地は、草地であったので、発掘調査に問題はないものと思っていたが、実はこの土地は、自然農法のために三十数年間にわたって、草を生やして養生してこられた土地であった。所有者は三十八年にわたる周辺での調査の様子を見ておられたこともあって桜井市の説得に応じて下さり、部分的に発掘することを許可して頂けた。但し、発掘する部分以外の草地には足を踏み入れないこと、草地には土も乗せないことが条件であったという。然し、特異な柱穴が出土したこともあって、もう少しもう少しと拡大することになり、ついに現在の広さになってしまった。予算が尽きて今次の調査はこれで打ち切りとなったときには、所有者は「これだけのものを途中で止めるとは何事か、なぜもっと掘らない」と言われたという。振り返って思うに、もし自分が所有者であったら、果たして三十数年間も養生した土地の発掘を素直に許可する気になるだろうかと考えると、よくぞ大きな犠牲を払って承諾して下さったものだと思う。この大型建物群の東方は、密集した民家が迫っているので、現時点では大規模な調査は困難である。
 表2にヒミコの使いが帰国した時点前後の年号鏡とそれを出土した古墳を示した。これらの古墳のなかで日本海沿岸に位置するものは、大きさは小さいが築造年代は鏡の年号の年代に近い。これはおそらく、邪馬台国政権から配布されたものではなく、被葬者自身が直接中国から入手したのであろう。それに対し、和泉黄金塚古墳など日本海から離れた内陸部に位置する古墳の場合は、鏡の年号の年代と古墳の築造年代の間には一五〇年ほどのずれがあり、ヤマト政権から配布されるなど間接的に入手した物であろう。
最近、桜井茶臼山古墳からも問題の正始元年銘鏡の破片が出土していることが判明
した。この古墳の被葬者は政権の中枢にいた人物には違いないが、古墳の形・石室の構造・副葬品の一部などは、おおやまと古墳群のそれとは異なるので、大王家一族ではないと思う。日本海沿岸の海洋民との繋がりのある人物ではなかろうか。
予定の時間も過ぎたので、最後に夢物語を述べて終わりにしたい。それは、邪馬台国ヤマト説をとった場合の親魏倭王の金印の出土候補地である。奴国王の金印が奴国の中心地ではなく、玄関口に当たる志賀島から出土したことを参考にして、ヤマトの玄関口と考えられる場所を複数候補地として挙げた(図5)。
明石海峡。後に仁徳天皇が狩に何度も淡路を訪れているなど、ヤマト政権の領域と意識されており、三世紀ならば玄関口にふさわしい。この海峡に面した五色塚古墳の下あたりに埋まっているかもしれない。
和歌山県と淡路島の海峡の沼島。ここは「おのころ島」の伝承地である。この伝承は
図5 「親魏倭王」金印出土候補地

沼島産の石材が三・四世紀代の奈良や大阪の古墳に使用されていることと関係があるのかもしれない。
大阪の崇禅寺。ここからは三世紀の長刀片が出土している。旧河内湖の入り口に当たる。
大和川沿い、柏原市の松岳山古墳・玉手山古墳付近。
奈良盆地東南部の纒向。
奈良盆地の北の入り口に当たる木津。
若狭の小浜。古墳はないが、三世紀のヤマト系の土器が出ているということで日本海側の入り口にここを選んだ。ここからは琵琶湖西岸を通って南山城に向けて所謂「さば街道」が通じている。
なお、図5の「親魏倭王」の金印出土候補地地図に貼り付けたものは、江戸時代に推定模造された金印の印影をコピーしたものである。

文責 (会員) 石塚一郎・野田昌夫

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