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末蘆国を基準としたときの邪馬壱国、投馬国、奴国の位置と面積についての私案

つどい272   草川 英昭

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■末蘆国を基準としたときの邪馬壱国、投馬国、奴国の位置と面積についての私案
                         (会員) 草川 英昭

一.はじめに
 著者は『日本書紀』天武十年紀八月条に、種子島、難波津間の距離が五千余里とあることから、これが『三国志』「魏書」東夷伝倭人条における、
  「倭地を参問するに、絶なれて海中の洲島の上に在り。或いは絶なれ、或いは連なり、周旋するに五千余里ばかり」
とあるのは、九州を一周すると五千余里であり、これは種子島から難波津までの距離と同じ行程距離で、このときの一里は、約百十メートルであることを、『三国志』「呉書」諸葛格伝の丹楊郡の記述と比較して示した。
 ここには、「女王国の東、海を渡る千余里、復、国有り。皆倭種なり」と書かれた本州、四国の国々は含まれていないことが判る。
 ここから韓半島の狗邪韓国、対馬国、一大(壱岐)国を除く、二十七ヶ国は狗奴国を含めて全て九州で求めなければならない。
「魏書」東夷伝の馬韓、辰韓、弁辰、倭人条によると、三韓は大小様々の国から成る連合国家で、大きいのは萬余戸、小さいのは六・七百戸とある。ここでは'戸'と'家'とは同じとする。
 倭人条にも、次のように書かれている。
「対馬国 千余戸、一大国 三千余戸、末廬国 四千余戸、伊都国 千余戸、奴国 二万余戸、不弥国 千余戸、投馬国 五万余戸 邪馬壱国 七万余戸」 ここで地図を観ると壱岐よりも、平戸、五島の島々の方が面積的にも大きいから、これらの島々も三十国の中に入っているのかも知れない。種子島や屋久島など南西諸島も入っているかどうか不明である。
 また、邪馬壱国まで行程論にも直線型と分岐型があるが、奴国や投馬国のような大国は、結構な大きな面積をもつはずだから、直線方式ではないであろう。特に投馬国は陸上よりも海上行程で女王国から水行二十日とあるから、分岐型の方が有利である。しかし、分岐型とすれば何処が分岐点なのかの問題も生じよう。
 ここでは邪馬壱国までの行程・分岐の問題には触れず、大国とされる邪馬壱国、投馬国、奴国の面積を求めてみたい。

二.面積を求めるときの考え方
 先ず、末廬国に着目する。そうして一戸当りの人数を五人とする。五人いないと人口の維持が出来ないからである。したがって、末廬国には四千余戸、二万人の人口があることになる。一人一年に一石消費とすれば、二万石の米が要る。そうして所謂税金用の米も必要である。これを江戸時代の大名の石高数と支配範囲と比較し、邪馬壱国時代の国の面積を求めるのである。
 東松浦半島は唐津藩の領地で、城は唐津にあった。唐津藩の知行石数は六万石である。末廬国と唐津藩の支配範囲が等しいと仮定する。そして、この対応が、卑弥呼の国邪馬壱国などの国々にも成り立つとするのである。
 江戸時代の後期には、米の経済上に占める位置が相対的に低下し、各藩は財政の不足分を補うために特産品の開発に力を注いだ。このために商品・貨幣経済が発達し、信用取引までもが大きな役割を果たすようになっていた。これに機械工業が加われば、産業革命は達成できる状態で我が国は開国した。
 これが明治維新後、日本が他の東アジア諸国と異なる発展をした原因であると考える。民度が上昇し一般庶民の教育・知識レベルが上がっていたのも、要因の一つであろう。
 話が脇に逸れた。末廬国と唐津藩との関係から、邪馬壱国の時代の必要石高一万石の三倍の石高数の大名と同じ面積が、これらの国の面積になるとするのである。
 奴国は二万戸、十万人、三十萬石の大名と同じ広さの面積となる。肥前鍋島藩本家三十六万石、佐賀平野の大部分が奴国の範囲である。この結果は妥当なものと考えられる。
 投馬国五万戸、二十五万人、七十五万石の大名といえば薩摩藩七十七万石、薩摩、大隅と日向南西部が投馬国の範囲となる。江戸時代とは異なるから、宮崎が含まれてもよい。シラス地質の薩摩・大隅だけでは七十七万石はなく(三十五万石くらいしか採れなかったと有る)、日向や肥後の分を入れていたとある。
 邪馬壱国七万戸、三十五万人、百五萬石。これは筑前黒田藩一族六十六万石でも足らず、筑後諸藩の三十二万石と豊前小倉藩の十五万石を加えた範囲となろう。筑前には伊都国、不弥国も加わるからである。

三.倭人国二十七ヶ国の人口推定
 倭人国条には、九州には狗邪韓国、対馬国、一大国を除くと二十七ヶ国あるとするが、残念なことに、総戸数が記載されていない。邪馬壱国、投馬国、奴国は大国であるから、書かれたとし、それ以外は壱万戸に満たない国として考える。
 対馬国、一大国、末廬国、伊都国、不弥国の五国の平均は二千余戸となる。
 一方、馬韓五十ヶ国、十万戸、一国当り平均二千戸。弁辰韓二十四ヶ国、四・五万戸、一国当り二千戸弱。倭人国も一国当り二・三千戸とすれば、狗邪韓国と大国の三国を除いた二十六ヶ国の戸数は約七万戸、三十五万人の人口を支える米を生産できる百二・三十万石の土地が必要となろう。これは豊前の残り十一万石、豊後二十三万石、肥後六十三万石、日向十八万石となることがわかる。
 しかし、薩摩藩の事情は七十七万石ではなく実質三十五万石程度とされる。このため、日向にも薩摩藩の領地があったとされる。日向の石高十七万五千石と少ないのはそのためと考えられる。
 この様にして計算された倭人国の総人口は邪馬壱国七万戸、三十五万人、投馬国五万戸、二十五万人、奴国二万戸十万人、狗邪韓国を除くその他、二十六ヶ国九万一千戸、四十五万五千人となり、倭人国総人口百十五万人くらいになろう。九州の総石高は三百七十七万石と総人口の三倍を、やや上回る石高数となることになる。

四.終りに
 ここでは、唐津を含むとされる末廬国と江戸時代の唐津藩とが同じ面積で、東松浦半島を占めているとし、末廬国の人口を戸数四千余戸の五倍の人数二万人が住むとした。唐津藩の石高が六万石なので、人数の三倍の石高数の面積が必要だとする。
 この様にすると、大国で戸数が記載されている奴国二万余戸は佐賀鍋島藩の三十六万石、投馬国五万余戸は薩摩島津藩七十七万石で、薩摩・大隅と肥後・日向のそれぞれ一部、邪馬壱国七万余戸と伊都国、不弥国それぞれ一千余戸を加えると、面積は筑前六十六万石、筑後三十二万石と豊前小倉藩十五万石の百十三万石の範囲となった。その他の小国の人口は約九万戸、四十六万人、倭人国総人口百十五万人、三百五十万石の石高の面積が必要であると得られた。九州の石高数は三百七十七万石であるから、九州で倭人国の食糧がまかなえることが判った。今後はこの様な計算が成立つかどうかを検討したい。
 ここで注目すべきは三韓よりも九州の方が面積が少ないにもかかわらず、人口が多いと観られることである。
 稲作技術は倭人国の方が三韓より高いのではないかと思われる。南方系の米作技術が、北から入ることは考えにくい。中国江南の米作技術が九州に入り、朝鮮半島に伝播したとするのがよいと考える。しかし、金属加工文化は北から入ったのであろう。韓国文化の影響は大きいものと考えられる。  

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