峯ヶ塚古墳の現地公開並びに近つ飛鳥博物館講演会
つどい285号 (会員)阪口孝 男
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峯ヶ塚古墳の現地公開並びに近つ飛鳥博物館講演会 (会員) 阪口 孝男
去る三月五日、古市古墳群にある峯ヶ塚古墳に於いて、「第十二次確認調査の発掘現地見学会」が開かれ、続いて、翌六日には、近つ飛鳥博物館で「羽曳野市 峯ヶ塚古墳の再検討?六世紀の古市古墳群?」と題する白石太一郎館長の講演会が開かれ、何れにも参加して参りました。
この峯ヶ塚古墳は、昭和四九年(一九七四)四月に国の史跡に指定され、平素は立入禁止区域となっている古墳です。去る平成二十年六月二十八日、豊中歴史同好会の現地見学会で訪ねた際も、近くの丘の上から古墳の外観を眺めるに過ぎませんでした。今回は特別に墳丘内に立入る事が許され、墳頂の様子も見る事が出来ましたので、その結果を、次の通りお知らせ致します。
はじめに、
「峯ヶ塚古墳の前方部墳丘裾の確認調査(第十二次確認調査)の発掘現地見学会」の様子を、ご報告する前に「峯ヶ塚古墳」の、あらましを、お知らせ致しましょう。
【歴史的環境】まず、この古墳の場所ですが、大阪府藤井寺市から羽曳野市に跨る「古市古墳群」の南西部(羽曳野市軽里二丁目)に築かれています。
周囲にはボケ山古墳(現仁賢陵)、前の山古墳(現白鳥陵)、白髪山古墳(現清寧陵)などの大型前方後円墳があります。これらは、やや東に離れたところにある高屋城山古墳(現安閑陵)と合わせて、前方部が西を向く古墳として、古墳群の中でも一つのグループをなしています。
羽曳野市では、峯ヶ塚古墳を中心にした都市公園計画に基づき、昭和六十二年(一九八七)九月から発掘調査が続けられています。中でも平成三年(一九九一)から四年(一九九二)の第四次調査では、後円部の発掘調査が行われ、多くの重要な成果が得られています。平成四年三月二八日・二九日の両日には、現地説明会も行われていますので、既にご覧になった方もいらっしゃると思いますが、この古墳は古市古墳群の後期(六世紀前半)の大型前方後円墳の中では唯一その内容が明らかにされている古墳で、その概要は次の通りです。
【築造年代】古墳の築造年代は、出土した埴輪や須恵器の型式から六世紀前半頃と考えられています。
【墳丘長・墳高】全長九六メートル、後円部直径五六メートル、前方部幅七四・四メートル、後円部高さ九メートル、前方部高さ十・五メートルを測ります。
【墳丘の盛土】墳丘の盛土は、土質の違いや積み方などによって四段階の築造過程が復元されます。各工程で使用される土砂の種類は、粘土質や粘土、砂質土を区別し、透水性や締まり具合などを考えて盛土を施しています。このことは、南側の内堤の盛土の調査でも確認されています。
墳丘は元の地盤から土を積み上げ、墳丘高九メートルから十・五メートルの全てを盛土しています。盛土は非常に硬く突き固められており、その強度は三十階建ての高層ビルが建設出来る程だそうです。また、土の量からこれに要した人数を計算すると、二十七万六千人が六年間を費やしたと考えられているそうです。
【墳丘と外部施設】墳丘は現在見られるより一回り大きくなり、盛土や葺石の状況から二段に築かれ、くびれ部の北側には造出しが設けられています。
また、後円部と前方部を繋ぐ鞍部には幅五メートルの範囲に小石が敷かれ、両側には円筒埴輪を立て並べた通路があった事が判っています。
【葺石】葺石は上段斜面の裾部分のみに施されていますが、盛土を行う時に崩れ易い下部を補強するためのもので、墳丘斜面の全面を覆っていませんでした。
【周濠】墳丘の周囲には幅十八メートルの内濠が巡り、南側に現存するため池等の範囲を内濠とし、その外側には内堤、更にはその外側に外濠を巡らせます。この外濠は地形の制約で場所によって幅や深さなど規模の違いがあり、南側(その後の調査で南側の外濠は確認されていません)以外の、古墳の西・北・東側に巡らされている事が確認されています。
【埋葬施設】後円部墳頂では、盗掘部分の土砂を取り除くと、現在の地表面下約二・三メートルの付近から石室石材が現れました。
石材の多くは抜き取られていましたが、基底石の位置から平面形は東西約四・三メートル、南北約二・二メートルの長方形で、石室内部の高さは、石室背面の土層の状態から約一・九メートルに復元されるとされています。
実は、この石室は発掘途中で中止のやむなきに至った事情から、未調査の部分がありますが、現時点では竪穴式石室と考えられている様です。
石室の基礎には、基礎治業として拳大の小石が敷かれ、床面には礫が厚く敷かれていたそうです。石棺自体は残っていませんでしたが、赤色顔料の付いた破片の形状から、石室には刳抜き式の舟形石棺(家形石棺の粗型)が納置されていたと考えられています。
石棺の破片は、阿蘇産の熔結凝灰岩製で、二種類の色調の材がありました。同じ古市古墳群の長持山古墳一号棺と同じように、蓋と身で部材の色調が異なっていたと考えられています。
また、石室の長軸が墳丘の主軸に平行し、墳丘と同時に築かれている事や副葬品の豪華さ等を考えると、この石室は峯ヶ塚古墳の埋葬主体であると考えられています。
【遺 骸】撹乱土の中から骨と歯が出ています。骨は、ハッキリと人骨と断定されていません。歯については人の歯に間違いなく、全体にやや大きく、男性である可能性が高く、摩耗状態から死亡時の年齢は、壮年か熟年の前半あたりであったと推定されている様です。
【副葬品】石室は大きな盗掘を受けていましたが多くの副葬品が見つかりました。
銀製や鹿角製などの装飾品を付けた大刀・盛矢具(胡?)などの武器をはじめ、武具・馬具等の副葬品や、装飾品となるガラス玉や石製玉類、銀製三叉形垂飾り、冠帽、帯金具、垂飾付き耳飾りや花形飾り(布に縫い付けスパンコール)等々三千五百点以上にのぼります。古墳時代中期的な武器・武具の多量副葬と後期的な装飾性の高い金・銀素材を用いた品の多量副葬の両方を持合せており、両時期の過渡的な様相を示しています。
また、これ等の副葬品は被葬者を考える上で欠く事の出来ない資料であるばかりでなく、当時の最先端の技術や社会背景を知ることが出来ます。
一「古市古墳群峯ヶ塚古墳」前方部墳丘裾の確認調査現地公開
現地説明会の当日に配布された羽曳野市教育委員会の資料によりますと、
今回の第十二次確認調査は、前方部墳丘裾の位置と構造を確認するために、平成二
三年一月二十日から行われたもので、墳丘南西隅部分に二箇所の調査区域を設定し、ため池の泥土などを除去しながら掘り進め、現在のため池の底から約二メートル下で墳丘の裾部分が確認することが出来た様です。
【第一調査区】墳丘の南面に設定した調査区で、上面では幅四.七メートル×長さ十・五メートル(最大)の範囲が調査されました。
調査区東側の断面等の観察により、上層約一メートルは現在のため池の泥土や砂層です。その下には一部、地山層が現れていますが、何ヵ所もの凹凸があることから、江戸時代の浚渫による掘り込みと考えられています。同じ様な凹凸は墳丘くびれ部の南側の発掘調査でも見つかっています。
この層の墳丘側では、固いレンズ状の塊が見られますが、これは本来、墳丘に盛られていた土砂で、濠の中へ崩れ落ちたものだそうです。一方、その直ぐ下の層には、中世の土器(土師質小皿)の破片が出土している事から、崩れたのは十三世紀後半頃以降である事が判ります。
その土器を含む土層の下部では、円筒埴輪の破片や転落してきた葺石等が見つかっており、古墳のテラス面や墳丘の一部が崩れていたと考えられます。これ等の土層は約〇・六メートルの厚みで堆積していますが、この層の下では地山面を大きく掘り込んだ遺構が確認でき、そこに濃い灰色の粘土層が堆積していました。
この場所は、現在の墳丘裾から約六メートル南側の位置で、同じ深さで南側に続く事から、この遺構が古墳本来の濠であると判断されます。
この濠底部分は、標高三十八・九メートルを測り、約十五メートル東側で平成二年度に確認された濠底の数字と一致するそうです。また、その位置は、過去の確認調査で復元される位置にほぼ一致する事から、峯ヶ塚古墳の墳丘の大きさや形を知る上で更なる成果となっています。
【第二調査区】墳丘隅の西面に設定した調査区で、上面では幅六メートル×長さ十メートル(最大)の範囲を調査しましたが、墳丘裾を更に確認のため、拡張しています。調査区北側の断面等の観察により、その堆積状況は第一調査区とほぼ同じです。
この調査区では、現在の墳丘裾から約五メートルの西側の位置で、地山を大きく掘り込む遺構が確認され、そこに濃い灰色の粘土層が堆積していました。
この部分は、標高三十九・四メートルを測り、約二十メートル北側で平成二年度に確認された濠底のレベルに近い値となっています。また、この墳丘裾部分も、過去の確認調査で復元される位置に略一致しています。なお、この濠の底部分は調査区の範囲では南側に向って徐々に高くなっています。
二 近つ飛鳥博物館講演会、
「羽曳野市 峯ヶ塚古墳の再検討?六世紀の古市古墳群?」 白石 太一郎 氏
註1 以下は、当日の白石館長の講演内容を筆者
(阪口)の責任で整理、要約したものです。
羽曳野市・峯ヶ塚古墳は、古市古墳群の後期の大型前方後円墳の中では、唯一その内容が明らかにされている貴重な例です。同古墳群では、六世紀になっても大王墓が営まれた事が文献資料から窺えますが、その実態は全く知られていません。
そこで、大王墓に準ずる規模の峯ヶ塚古墳の貴重な調査結果を再検討する事によって、五世紀末葉から六世紀中葉段階の古市古墳群の大王墓の実態を想定し、この段階の河内大王家の実像について考えてみる事にしたいと思います。今回は、峯ヶ塚古墳の再検討の視点として、次の三点に絞ってお話したいと思います。
まず、第一点は、峯ヶ塚古墳で明らかにされている ?峯ヶ塚古墳の墳丘と周濠 ?峯ヶ塚古墳の埋葬施設と副葬品 ?峯ヶ塚古墳の年代の三項目について、お話します。
註2 この項目の講演の詳細については、本稿の
冒頭、「はじめに」の部分で説明済みですので、
ここでは割愛させて頂きました。
次に第二点として、峯ヶ塚古墳の石室構造ですが、この古墳の石室は、発掘の途中で中止させられた事情から、その内容は完全に解明されておりません。
現状の報告書では一応、竪穴式石室とされていますが,その実態はよく判っていないのです。私の個人的な考えは、竪穴式石室ではなく、横穴式石室ではないかと考えている事について、お話したいと思います。
横穴式石室墳の出現
我が国に於いて、古墳の石室は本来的には、墳頂部に穴を掘って棺を埋納し、周囲を石の壁で造るか、石材を省略して粘土で固めるか、何れにしても竪穴系の方式が採られているのですが、古墳時代の中頃からは、竪穴系とは全く異なる横に入り口を持った横穴系の石室が北部九州の玄界灘周辺に出現します。
その中で、初期の横穴系の石室で特異な構造を持つ、代表的な前方後円墳として佐賀県唐津市・谷口古墳の東石室、福岡県福岡市の老司古墳の三号石室、鋤崎古墳が挙げられます。
中でも谷口古墳の東石室は、当初、竪穴式石室とされていたのですが、後になって墓道を伴う横穴式石室であることが判明した事実から、これは、折しも朝鮮半島へ出兵した九州の首長たちが、その地の古墳の石室構造を学んで、自国の竪穴系の石室に、追葬可能な横口式のアイデアだけを採りいれて独自のものを造ったと考えられます。
この北部九州系の石室は段差を持つのが特色で、竪穴系横口式石室と呼ばれ、吉備(岡山県岡山市・造山第五号墳)や畿内(大阪府堺市・塔塚古墳)にも、その形の古墳を見る事が出来ます。が、広く他地域にまで定着する事はなく、畿内の巨大な前方後円墳に葬られた大王を始め支配者層は、何れも竪穴式石室に長持形の石棺を埋葬する古墳の築造が続けられていました。
ところが、五世紀後半になりますと、畿内地区でも九州系の横穴式石室とは全く異なった畿内型と云われる横穴式石室が誕生します。その最も古いものの例の一つが、大阪府柏原市・高井田山古墳(円墳の北側に造出しを持った一種の帆立貝式)です。
この古墳の石室は、?平面長方形の玄室、?入口から玄室を見て左側に袖があり、?右側に片寄った羨道を持ち?玄室に向ってスロープがついています。
これは、この時期百済で多く見られるものですが、この高井田山古墳も百済系渡来人の墓と思われます。
この様式の古墳が急速に支配者層に広がり、ある程度の規模の前方後円墳に取り入れられた最初が奈良県高取町・市尾墓山古墳で、その後円部に高井田山古墳と同じ様な構造の、一段高くなった羨道を持つ横穴式石室が見られます。
また、奈良県天理市・東乗鞍古墳や、時期が下がるが、京都府向日市・物集車塚古墳にも、同様の構造の横穴式石室がみられます。
それから近年の調査で、真の継体天皇陵と云われる大阪府高槻市・今城塚古墳(六世紀前半)では、後円部墳丘の中央北側で大規模な石組み遺構(石室基盤工)が見つかり、石室自体は失われていましたが、横穴式石室の存在が裏付けられました。
この遺構が、歪んだ形状をしていた事から一五九六年(文禄五年)の伏見地震で、元の位置から四メートル程度、下に滑落したと考えられています。
横穴式石室の石材は出土していませんが
材質の異なる三種類の家形石棺の破片や副葬品等から、三段築成の墳丘の最上段に石棺を納めた横穴式石室が存在していたと判断され、天皇陵級古墳の構造や築造方法が確認されたのは初めての事です。
そこで問題の峯ヶ塚古墳の石室構造ですが、結論的には、追加調査しないと判りません。先にお話した様に、私の個人的見解としては、横穴式石室と考えていますが、然し横穴式石室ではないと云う見方もあります。
その理由の一つに、未調査となっている石室東側の壁の状況から考えると、羨道が幅一・三メートルしか残らないが、これでは刳抜き式石棺が搬入出来ないのではないか?と云うものであります。然し、市尾墓山古墳でもそうですが、この時期の横穴式石室は、先に石棺を据えてから構築された例が多いのです。石室を構築してから後に、刳抜き式の石棺を、入れるのは非常に困難だと思われます。
次に横穴式石室ではないと云う見方の二つ目に、羨道が水平、或いはそれに近い場合に、羨道の後ろの墳丘の側面に達するには、九メートルと云う長いものになるが、初期の横穴式石室に、その様な長い羨道があるのは、疑問であると云う指摘があります。
然し、これについても、初期の九州の横穴式石室で見られる様に、羨道を急傾斜で付けたり、途中で羨道の位置・角度を変えたりしている例が見受けられますので、横穴式ではないとは云えないと思います。
こうした例として、その古墳は既に失われていますが、畿内の大阪府東大阪市・芝山古墳でも見受けられています。
然しながら、こうした個々の事例の比較検討もさることながら、時代の趨勢から見て、畿内では五世紀末から六世紀初頭の段階になると大型の前方後円墳も殆ど横穴式石室を採用する様になって来ているのでは
ないかと考えています。
その例を挙げると、先に示した市尾墓山古墳や、京都府宇治市・五ヶ庄二子塚古墳では後円部がなく石室が失われていますが、横穴式石室のための基礎治業(基盤工)が確認されていますし、東乗鞍古墳、芝山古墳が、更には今城塚古墳が挙げられます。
何れにしても六世紀の早い段階には、近畿の支配者層の営む大型前方後円墳でも中心的埋葬施設は横穴式石室を取り入れたと考えられ、それに反する例はみられません。正に横穴式時代に入っていると考えています。
この点からも、峯ヶ塚古墳の石室を例外的に竪穴式石室であると考えるのは難しいのではないかと考えます。
なお、この時期に畿内の支配者層が横穴式石室を採用する様になったと云う事は非常に重要な事でありまして、時期を同じくして関東地方の有力豪族の間に横穴式石室を持った古墳(群馬県安中市・簗瀬二子塚古墳)が出現する事は、大和に於ける首長層に取入れられている事の影響だと考えています。
第三点として、是非お話したいのは峯ヶ塚古墳の石室から出土した倭風装飾大刀の事です。
この古墳の石室から多くの副葬品が見つかりましたが、中でも石室の西端隅では、鞘の締め金具に金銅製品や銀製刀装具を施すなど装飾性が高く、長いものは一・二メートルにも達する、明らかに実用性を離れた儀礼的な大刀十五振り程が、纏めて副葬されていました。
なお、これ等の大刀は、他の古墳で良く見られる、環頭や円頭の柄頭を持った、朝鮮半島系のものではなく、和風系の装飾を施したものである事が特徴として挙げられます。
そこで、少し詳しく出土大刀と付属品についてお話しますと、
【大刀】鞘の締め金具に金銅製品や銀製刀
装具を施した長いものは一・二メートルに達し、明らかに実用を離れた儀礼的な大刀です。木製・鹿角製・銀製の刀装具で飾られていたほか、魚佩・青銅製鈴・三輪玉・捩じり環頭が付くものがあり、これらの装
飾性の高い大刀は、後世に伊勢神宝として大王家のシンボルである「玉纒大刀」のルーツになるものと考えられています。
【刀装具】材質としては木製と鹿角製があります。鹿角製のものは鞘口部から二振り以上と考えられます。木製は大半が朽ちているため、形状や構造が不明ですが、縁を飾った銀製品の形から、?側面菱形杷頭及び?楔形杷頭捩じり環付きの二種類で五振りがありました。
?の銀製捩じり環頭は全部で五点出土しており、一点は鉄芯で鹿角製品に嵌め込まれたものです。他のものは中空となり芯材は不明ですが、銀製の針金金具で木製把頭に付くものと考えられます。
何れも各部材の表面には直孤文を彫り、赤彩されており、細かな細工が注目されます。
【魚佩】全部で三セット確認され、何れも大刀の把間付近に副葬されていました。
材質は銅板に金メッキを施した金銅製品です。魚形部分は二匹が向かい合った状態で、胸鰭・腹鰭・尾鰭でつながり、目・鰓・鰭・鱗などが「蹴彫」によってリアルに表現されています。なお、この魚は瑞魚を表し、避邪の思想に通じるもので、麒麟などの霊獣と同じと考えられています。
この魚佩は、奈良の藤の木古墳から出土した状況から考えて、大刀を佩く際の帯の両端に付けるもので、楔形杷頭捩じり環付きの魚佩を付けた大刀は、出土例が極めて例のない事から、大王が佩く大刀に付けられていたものと考えられます。
最後に、後期の古市古墳群について、お話する時間がなくなりましたので、結論だけを申しますと、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体、安閑、宣化、欽明と続く大王の内、二四二メートルと云う五世紀末の最大規模の前方後円墳である岡ミサンザイ古墳は、現在、仲哀陵とされていますが、古墳と被葬者の時代が合いませんので、簡単には決められません。私は恐らく雄略陵と考えています。
その後の大王の古墳は、最近の円筒埴輪の編年研究結果から云いますと、九六メートルの峯ヶ塚古墳を除き、一二〇メートル級のボケ山古墳(現仁賢陵)→白髪山古墳(現清寧陵)→高屋城山古墳(現安閑陵)の順となるのではと考えています。
従って、この三つの古墳は、勿論、被葬者の比定は難しく、問題が残りますが、岡ミサンザイ古墳に続く古市古墳群に営まれた六世紀の大王陵であることは間違いないと思います。
勿論、五世紀末から六世紀初めにかけて大王陵が総て古市に築かれた訳ではなく、継体陵は摂津の三嶋に、顕宗陵は大和の葛城に、宣化陵は同じく大和の新沢千塚に、欽明陵は大和の飛鳥に造られています。
これらの限られた古墳については、欽明が蘇我氏の、宣化は恐らく大伴氏の、顕宗は葛城氏の、と云った各大王を支援する有力豪族の本拠地に造られる様になっておりますが、六世紀代になっても依然として大王家の本拠地は南河内である事を物語っていると思っています。
そう云う意味で峯ヶ塚古墳は、六世紀の古墳を考える上で重要な位置を占める古墳と考えられるのです。
(完)
本文中の挿入写真並びに図は、筆者(阪口)が撮影したもののほか、以下の資料から転載したものです。
参考資料
(1)平成二十三年三月五日・羽曳野市教育委員会「史跡古市古墳群・峯ヶ塚古墳前方部墳丘裾確認調査 現地公開資料」
(2)平成二十三年三月六日・大阪近つ飛鳥博物館・「平成二二年度・冬季特別展示
歴史発掘 おおさか」白石太一郎館長
講演会・羽曳野市 峯ヶ塚古墳の再検討~六世紀の古市古墳群~
(3)二〇〇九年一月十七日大阪近つ飛鳥博物館発行。平成二十年度冬季特別展図録百舌鳥・古市『大古墳群展』~巨大古墳の時代~
(4)二〇一〇年十一月三十日古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議発行。図録『古市古墳群を歩く』
(5)一九九三年羽曳野市教育委員会編、
河内古市古墳群『峯ヶ塚古墳概報』
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