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考古学からみた4・5世紀における政権交替を考える

つどい285号
大阪市立大学准教授 岸本直文 先生

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はじめに
 四・五世紀における政権交替を考える、すなわち河内政権の成立の問題が主要な課題となるが、本日は、それにとどまらない古墳時代の政治的不安定と、繰り返された政変についてみていきたい。

一 河内政権成立前史
(1)中国王朝の後退と半島諸勢力の自立
 中国・晋王朝は、三世紀末には混乱し、三一六年、北方民族キョウドの侵入を受けて滅びる(永嘉の乱、江南で再興)。楽浪郡・帯方郡も高句麗に攻め落とされ(三一三年)、半島情勢は流動化する。倭は中国王朝の後ろ盾を失い、一方、百済や新羅、南部の伽耶諸国は国家形成へ進む。倭ともっとも関係の深い洛東江下流部では金官国が台頭する(三世紀末)。
(2)佐紀遷都と畿内倭人の渡海(四世紀前半)
 纒向遺跡は布留2式期には遺構・遺物が希薄化する。これは崇神没後、本拠を佐紀遺跡に移したものと思われる(佐紀遷都)。それまでの北部九州・山陰諸勢力による交易から、倭国と金官国の国家間貿易に転換する(沖の島祭祀)。これにより、畿内の倭人が直接半島に赴くことが始まる。例えば紫金山古墳(四世紀第2四半期)の副葬品に見られる鉄製甲冑・筒型銅器・また鍬などは、四世紀前半の伽耶との関係を示す。
(3)半島派兵の開始(四世紀中頃~)
 これについては後述する。従来から『日本書紀』神功紀などから四世紀後半の半島派兵は史実とみられていたが、その契機は、対百済支援ではなく対金官国の関係に出発する。
(4)百済との軍事同盟成立と増強(三六九年~)
 高句麗は、三世紀末以来、慕容鮮卑の前燕と対立してきたが、三四二年、燕軍に都を陥され大敗、南方に活路を求め百済と対立する。そして百済は日本に通交を求める(三六四年→七枝刀三六九年)。伽耶地域への派兵のみならず、百済との軍事同盟の成立にともない、高句麗との戦闘も想定した倭軍の編成に進む。高句麗好太王碑は、四世紀末から五世紀初頭の倭との交戦を伝える。
 以上をまとめると、四世紀前半の倭人渡海→四世紀中頃の伽耶への半島派兵→四世紀後半の対百済支援のための増強→四末・五初の高句麗戦、となる。

二 佐紀政権下の半島派兵
(1)佐紀政権下における倭国の変質(地域首長の再編)
 佐紀古墳群の段階には、各地の首長系譜が変動し、前代までの有力系譜に代わり新興勢力が台頭する。その多くは交通の要衝に現れる。特定首長が有力古墳を築造し(地域大首長の出現―中期的体制―)、それまでの中小首長は退転する。前方後円墳の築造規制が始まり、大型円墳・方墳が出現する。棺・槨の階層性が顕在化する。規格的な鰭付円筒埴輪、各種の器財形埴輪(蓋・楯・甲冑・靱)からなる、大和北部様式の埴輪が普及する。鉄製短甲(縦矧板→方形板)、筒型銅器・巴型銅器などの新たな器物が現れる。
(2)佐紀陵山型の前方後円墳(四世紀中頃~)
 明石海峡を押さえる五色塚古墳が登場する。前期前半まで古墳のなかった和泉に、摩湯山古墳(約二〇〇メートル)を含め有力前方後円墳が出現する。丹後半島の河口部の潟に面して日本海最大の前方後円墳が出現する。これらは、大阪湾岸・丹後半島を押さえ、倭軍派兵のための海上交通の掌握と考えられる。半島派兵ということを考えるならば、長距離航海が可能な船を数多く建造し、直接、近畿地方から瀬戸内・日本海ルートで半島まで兵卒を運ぶことが必要である。瀬戸内・日本海ルート沿いの海運に長けた勢力をとりこみ海上ルートをはじめ交通の要衝をおさえたものであろう。佐紀段階の動きは、海上交通を倭王権が(特定勢力を介して)より直接的に管轄する体制へ移行したことを示す。
 そして、佐紀陵山型の前方後円墳からすると、四世紀中頃には本格的な半島派兵が始まったと考えられる。これは鉄交易の見返りとしての倭人傭兵ではないか。
(3)地域首長の軍事協力を軸とした再編
 四世紀中頃~後半、海外派兵という大きな負担とリスクを倭国は負う。兵役を各地域勢力に求めなければならない。それは、それ以前の王権と地域首長の相互承認的な関係から、大きな転換をもたらす。兵糧もちで兵卒を従えての動員は、それまでの王権への奉仕(都の建設や王陵の築造)とは異なる大きな負担である。権力を発動し軍事出兵を要請し、協力する諸勢力への便宜をはかることを約束し、協力する集団を確保し、倭軍を編成することが必要となったのであろう。
 佐紀古墳群の時期に見られる諸現象から、この事態に協力する特定の地域権力へ強力にテコ入れし、地域での優越を与え、それと引き替えに兵役を課したと思われる。それまで大小さまざまな前方後円墳を築いた、かなりの数の首長系譜が整理・序列化され、後退を余儀なくされる。

三 河内政権の成立
(1)佐紀前半期の河内の掌握
 佐紀段階、大和川水運の掌握のため、玉手山古墳群被葬者に代わり松岳山古墳の被葬者を起用する。大阪湾岸の和泉の勢力も取り込む。ほかにも八尾の花岡山古墳、東大阪・えのき塚古墳、大阪の御勝山古墳などにも注意が必要である。
(2)佐紀後半期の王権の直接把握
 しかし、松岳山古墳も後続墳なく断絶する。八尾の萱振1号墳、大阪の長原塚ノ本古墳、高廻1号・2号などが出現する。そして津堂城山古墳が登場する(活躍期は佐紀後半期)。
のちに津堂城山古墳に葬られる被葬者のもと、長原地域の小規模墳の被葬者らにより、河内地域を直接的に掌握される。
(3)津堂城山古墳の位置
 佐紀では四世紀中頃から第3四半期にかかる陵山古墳のあと、石塚山古墳が執政王位を継承する。神聖王位は菅原の宝来山古墳のあと五社神古墳の被葬者が継承する。津堂城山古墳の墳丘は石塚山古墳の後続型式とも考えられるが、出土埴輪からすると城山古墳と石塚山古墳はほぼ近似した時期であり、被葬者の活躍期は重なる。つまり、佐紀後半の佐紀石塚山の執政王の統治期に、河内で城山古墳の被葬者が併存する。城山古墳の墳丘や埴輪は佐紀の王墓の後続型式であり、河内・松岳山古墳から導かれるものでない。
 津堂城山古墳の被葬者は、佐紀後半期に、河内の直接把握のために佐紀政権から送り込まれた河内方面将軍であり、この時期の大阪湾岸からの半島派兵の実務を担った人物ではないだろうか。
(4)ホムダワケのクーデタ(三九〇年)
 こうした津堂城山古墳の被葬者像は、塚口義信の主張するホムダワケの人物像に合致する。ホムダワケは新たな王統の始祖とされるが、それをささえた集団は南山城を基盤とし、佐紀政権の権力基盤そのものであることから、塚口はホムダワケは佐紀政権に連なる人物とみる。そして、神功凱旋時のカゴサカ王・オシクマ王の抵抗と敗北は、佐紀の王権を打倒した内乱とみる。津堂城山古墳の被葬者は、四世紀後半の河内での活動により、各地諸勢力と結びつきをもち、河内における権力基盤を形成しクーデタを敢行したのではないか。これにより河内政権が樹立される。
 応神元年は百済王の記事から三九〇年、没年は『古事記』崩年干支から三九四年とみてよい。活躍期は四世紀後半にあり、晩年に政権を奪取したと理解できる。文献によるホムダワケの性格と、津堂城山古墳の考古学からみた被葬者像は一致し、河内政権の始祖であるホムダワケ墓を、古市・百舌鳥最古の倭国王墓である津堂城山古墳とすることが妥当だろう。

四 高句麗による金官国蹂躙と河内政権
(1)高句麗好太王軍に大敗
 ホムダワケは、高句麗にしたがおうとする辰斯を暗殺し阿花王を立てる。しかし好太王の南下の前に百済は敗北を続ける。そして四〇〇年(ホムダワケの次世代)、高句麗軍は新羅救援のため五万の派兵、新羅を救済し、そのまま南下し金官国に進撃。金海・大成洞古墳群の王墓の造営が停止する。四〇四年、帯方海を北上した倭の水軍は大敗。四〇五年阿花王は没し、太子は質として倭にあり(三九七~)、倭兵にともなわれ帰国し即位する(腆支王)。四〇七年にも高句麗は百済を攻めて大勝する。
 三六〇年代末以来の百済との同盟にもとづく半島派兵は、高句麗の前に大敗に終わる。
(2)金官伽耶の混乱と立て直し
 釜山・福泉洞古墳群が隆盛する(親新羅)。金官国勢力は伽耶西部や内陸部に分散したか。陶質土器もこれにより各地に拡散する(趙榮済「型式乱立期」)。金官国主導勢力が伽耶各地で小国を形成し(小伽耶・大伽耶・安羅伽耶)、倭は引き続き伽耶後続勢力と結ぶ。四〇〇年後の伽耶の混乱により、倭への難民渡来が推測できる。
 『日本書紀』の渡来人記事のひとつのピークは応神朝であるが、応神元年=三九〇年からすると、弓月君・阿直岐・王仁・阿知使主・都加使主の来倭は、四〇三年~四〇九年となる。
 日本における須恵器生産も、TG232型式には安羅の陶質土器の影響が大きく、伽耶各地への分散後、一定年限の経過後に陶工が倭に渡ったと考えられる。むろん、鍛冶技術・馬匹生産なども同様である。河内政権は敗北を喫したが、伽耶人の渡来により「文明開化」を果たす。

五 允恭即位と王統の交替
(1)五世紀における倭王並立と允恭即位
 倭王権の二王並立は五世紀にも継続する。神聖王墓の仲津山古墳(オオササギ)と執政王墓の上石津ミサンザイ古墳(イザホワケ)が並立する。執政王墓は、神聖王墓を凌駕する三六〇メートルのかつてない巨大古墳となり、次の誉田御廟山古墳(ミズハワケ)でさらに四二〇メートルに達する。五世紀前半は副系列墳が主系列墳を圧倒する。
 しかし次段階には、一転して主系列墳である大仙古墳が三六〇歩規模という最大規模に達する。ここに副系列墳優位から主系列墳優位への転換がある。
(2)神聖王位の復権
 允恭・雄略による葛城氏の弾圧、雄略のイチノベオシハワケの惨殺など、これまでにも履中系と允恭系の対立論が指摘されてきた。また倭の五王のうち、倭王珍=反正、倭王済=允恭は定説だが、この二王間に続柄が記されず、王統の交替が推定されてきた。つまり、履中系と允恭系の対立論とは見事に符合するわけである。反正までの王統に対して允恭系が優位に立つ転換があったのである。
 そしてこれは、倭国王墓のあり方、すなわち誉田御廟山古墳(反正)から大仙古墳(允恭)への優位の転換と整合する。
(3)雄略朝の画期
 イチノベオシハワケはミズハワケ後の執政王として即位していた(『播磨国風土記』市辺天皇)。允恭没後、神聖王位はキナシカルが継承し、一方で、ワカタケルはイチノベオシハワケを惨殺するが、これは神聖王系が執政王位をも独占するものか。
 そして各地の有力首長を押さえ込む。中央権力は強大となり地域権力は徐々に王権に従属する。しかし、四七五年、百済漢城は陥落する。それまでの諸勢力の弾圧、百済の敗北を考えると、雄略没後の反動が容易に想像される。
(4)継体擁立へ
 記紀の王統譜では、雄略後、清寧―顕宗―仁賢―武烈―継体とされる。この時期、古市・百舌鳥古墳群ではかつての巨大前方後円墳は見られなくなり、王権の弱体化がうかがえる。そして北陸からオホド王(継体)が擁立される(紀では五〇七年だが・・・)。
 河内政権の半島外交の基軸は大伽耶であったが、熊津で再興し南下する百済との関係を重視する日本海・東海系の勢力が、雄略没後、主導権を握ることで継体擁立にいたる。継体政権は親百済政権であり、百済武寧王と密接につながる。
 しかし五二七年の継体没後、安閑が即位するが、継体派に対抗する勢力は欽明を立て、安閑排除のクーデタを引き起こす。

まとめ
 古墳時代、倭国の枠組みができていても、中央と各地域の力関係は安定したものではなかった。王統の断絶、中央権力内部の勢力争いなどを背景として、政治的な変動が何度かにわたって起こった。
 そうした変動を経て、徐々に中央権力は卓越し、地域権力をおさえていく。それが最終的に達成されるのは、ようやく六世紀も中頃のことである。古墳時代の政治的変動は、王墓や各地の古墳群の分析から導くことができる。それが政権交替といいうるかどうかは文献に助けてもらわなければならないが、各地の勢力の激しい浮沈は、この時代の政治的不安定を示し、多くは政権の交替にかかわるだろう。


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