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考古学からみた四・五世紀の大和王権と高句麗

つどい284号
国際文化財センター副理事長兼所長  藤田憲司 先生

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考古学からみた四・五世紀の大和王権と高句麗
国際文化財センター副理事長兼所長  藤田 憲司先生

はじめに
 四・五世紀の大和王権と高句麗を考えさせるものがあります。その一つ、かつて大きな反響を呼んだ騎馬民族征服説を今や支持する人はいないと思いますが、この問題提起の意義は、大陸の東端の離れ小島、周囲を海に囲まれた倭人社会の歴史を、東アジア規模で考えさせるようになったことだと思います。
 いま一つは、広開土王碑の記述。これは四世紀末の時期に限定できる貴重な金石文です。広開土王碑の碑文の大意は、もともと百済と新羅は高句麗に朝貢してきていたが、三九一年倭が百済と新羅を破り臣民とした。三九九年倭人が新羅に侵入していると、新羅の支援要請を受けて、四〇〇年に五万の軍勢を送って新羅の都から追い払い、伽耶まで侵攻した。四〇四年に、倭が帯方郡に侵入し平壌まで進出してきたのでこれを打ち破ったという記事があります。
この記事に対応するのでしょうか、『日本書紀』の神功皇后摂政前紀および摂政四九年の条に朝鮮半島出兵、新羅討伐の記事があります。『日本書紀』では、新羅を財寶の国、金銀の國と表現し、新羅の王を服従させ、百済・高麗もこれに倣って倭に朝貢するようになったと書いています。
広開土王碑の結末と『日本書紀』とでは内容が異なっていますが、文献史の立場からみると、『宋書』に見られる倭王の遣使記事と百済や高句麗の関連記事ともに、大和王権との関わりを考えさせる記述でしょう。
 では大和王権と高句麗の関係を、考古学の立場からどのように検証できるのか。それが今回のテーマですが、結論的に言うとご期待には程遠くきわめて頼りない話になります。それは朝鮮半島南部域、現在の韓国の統治権内の北半では四~五世紀の高句麗の姿というか、影響を少しは垣間見ることができますが、日本列島内では高句麗の影響といえるような考古事象をほとんど見出すことができないからです。

 朝鮮半島の事情
 まず、三世紀から五世紀の朝鮮半島の様相を概観しておきましょう。朝鮮半島の三国時代というのは高句麗・百済・新羅が鼎立して覇を争っていた時代のことで、基本的に四世紀以降のことです。それぞれの建国説話は古いようですが、新羅と百済に関しては三世紀代の具体的な姿はいろいろ課題を抱えているようです。三世紀代は馬韓・弁韓・辰韓が韓国南部域にあり、四世紀には伽耶諸国が成立しています。
朝鮮半島の北部域の楽浪郡やソウル近くまで含まれるという見解もある帯方地域は、三世紀代前半は公孫氏の支配下にあったのですが、二三八年司馬懿が公孫淵を破って魏の支配下となり、邪馬台国卑弥呼の遣使が実現したとされています。
三一三年、晋の衰退に乗じ高句麗は楽浪地域を高句麗に併合し、南下策を具体化させますが、百済と新羅が同盟して三六九年には高句麗が敗退しています。逆に三七一年には平壌地域まで百済に攻められ、高句麗の故国原王が戦死しています。三九一年広開土王が即位し、南下策を進めます。五世紀初頭までのことは既に触れました。
四二五年、百済王は宋から鎮東大将軍に高句麗王は征東将軍に叙せられ、宋の柵封体制下に入り、倭王の珍も四三〇年に安東将軍に叙せられています。楽浪・帯方地域が高句麗の支配下にあったとき、どういう経路かわかりませんが、倭も百済も地位保証を求めて宋に渡っています。
四三三年、再度百済と新羅は同盟して高句麗と対峙しますが、四七五年百済蓋鹵王が戦死し、百済は熊津に遷都します。
四~五世紀の三国の推移はざっとこういうことです。三国はその後も時に同盟しあるいは対峙し、その勢力関係を少しずつ変えながら鼎立状態を続け、約二〇〇年後の七世紀後半に新羅が百済と高句麗を相次いで破り、朝鮮半島の統一を成し遂げます。
 広開土王碑によると、四世紀代の終わり百済や新羅、伽耶の地域は高句麗の南下策で高句麗軍が新羅の王都を含め、広範囲に動いたように伺えます。倭人が百済と手を組み、新羅の王都はもとより平壌あたりまで侵攻したことも記されています。『日本書紀』の記事も参考にすると、寶を求めて新羅を往来したことも想像できます。

高句麗関連遺跡
では、韓国内で四世紀の高句麗に関わる考古資料、あるいは倭系遺物と考えられるものがあるのか。また、高句麗や倭人社会に新羅や百済に関わるどのような考古資料があるのか。これがなかなか厄介です。

 資料の図1は、韓国の国立文化財研究所が監修している『考古学ジャーナル』二〇〇九に掲載された高句麗関連資料がある分布図です。時期は六世紀まで含んでいます。その遺跡は臨津江から漢江流域に集中し、忠清南道あたりまでは分布域が広がっていますが、慶州以南はきわめてまばらです。
臨津江から漢江流域の高句麗遺跡は古塁あるいは保塁と呼ばれる砦が中心です。私は昨年臨津江沿岸の古塁遺跡を何箇所か見学をしましたが、ほぼ垂直に数十メートルも切り立った川岸に築かれています。支流との合流点の二面が崖で、地続きの場所には高い土塁、石塁が築かれています(図2)。その圧倒的な構えをみますと、とてもこの防衛線を突破できそうにありません。
ソウル市内の漢江の南岸に漢城百済期の都城といわれている土城が二つあります。その一つ風納土城と漢江を挟んだ対岸の峨嵯山の上には幾つもの高句麗の保塁が築かれています。高句麗系と考えられている積石塚も臨津江沿いにありますが、それから南には知られておりません。漢江南岸の石村洞の積石塚は、高句麗の将軍塚などと似ていますが、百済王墓という説があります。保塁などは、高句麗と百済の緊張関係を示す遺跡群ですが、こうした防衛線が漢江の北岸と臨津江沿いに点々と築かれている。いかに高句麗が百済を恐れていたかがよく理解できます。いや、百済にとって、高句麗はもっと脅威だったでしょう。この関連遺跡がすべて同時期のものかというと、少しややこしくなります。
といいますのは、韓国ではソウル周辺の百済地域、慶州周辺の新羅地域のほか、西南部の馬韓地域、東南部の伽耶地域でそれぞれ個性的な文化を形成していますので、研究者の間で編年観のズレがかなりあります。百年以上ズレていることもあります。それは日本列島の編年観とも関わります。韓国のどの研究者の編年観に頼ればよいのか私には定見がありません。
この会でおなじみの柳本さんが最近問題にされている遺跡があります。ソウル市の北隣、坡州市の舟月里遺跡で三角板皮綴短甲の破片が出土しています。韓国域内で確認される倭系遺物では最も北で出土している事例と思います。倭が百済を後押ししたという裏づけになる資料かもしれませんが、私はしばらく見解を保留します。これらの年代観が日本列島とかなり異なる。日本では五世紀と考えられる資料なのですが、四世紀代に位置づけられています。
また、日本の出土品と関連するモノで馬形帯鉤と呼ばれる銅製のバックルがあります。日本では岡山県と長野県から出土しています。列島屈指の大きさを誇る岡山県造山古墳のすぐ脇の榊山古墳で出土しています(図7)。五世紀代のお墓です。
韓国では忠清道の一帯に分布の中心があります。木棺墓に一点ずつ副葬されているケースが多いのですが、最近鷹岩里遺跡で竪穴式住居から数珠つなぎになったものが十数点出土しました(図7右下)。榊山古墳の馬形帯鉤に似ています。この住居の年代を韓国の報告者は四世紀初めと考えているようです。後漢の帯鉤は虎形をしています。馬形をしたものは、その変化形で基本的には朝鮮半島にしか見られません。古いものは大成洞古墳群など金海地域にみられますが、忠清道地域のものは型式的には格段に新しい。その年代観がこれほどズレますと、考古資料による列島と半島両地域の比較は簡単にはできません。
倭系遺物と呼ばれるものが、韓国内でかなり見つかっています。図3は高久健二さんの論文から引用したもので、五世紀中葉から六世紀前半の分布図です。倭系遺物が出土する地域は伽耶諸国を中心にした南東部地域に集中しています。その次に南西部、ついで高句麗に追われて百済が遷都した錦江流域に分布します。
ソウル周辺では風納土城だけです。倭系遺物の内容は短甲のほかに盾の装飾品の巴形銅器、倭系遺物なのか逆に韓系遺物なのか見解が分かれている筒形銅器(図4)のほか、鏃形石製品、八重山群島以南の海でとれるゴホウラ貝製の雲珠、ヤコウ貝製の匙(図5)、列島産の須恵器などです。
それ以前の時代、三世紀後半からおもに四世紀前半の倭系遺物はほぼ伽耶地域に限定されます。その内容は概ね土器です。日本で土師器、布留式と呼んでいる土器が主体です。同じ頃、博多湾岸の遺跡で、畿内系や山陰系の土器が点々と出土しており、博多湾岸では楽浪を含む朝鮮半島系の遺物も点々と出土しています。楽浪系の遺物は出雲でも見受けられますが、瀬戸内にはほとんど入ってきていません。少なくとも三世紀代の後半のある時期までは対朝鮮半島との行き来は、博多湾岸の人々が中心になっていたのではないかと思います。

 倭国の事情
 高句麗関連遺跡が臨津江以南に分布域を拡大するのは五世紀以降と考えられ、朝鮮半島における倭系遺物の分布域が大きく変化するのもよく似た時期です。これを大和王権の朝鮮半島進出の根拠にできるのかどうか、倭国内の事情を考えて見ましょう。
 倭国の四世紀から五世紀代は、世界的に見ても屈指の巨大古墳が河内を中心に築かれた時期です。三世紀中ごろに列島最強勢力を形成した大和の王権は四世紀、五世紀を通して右肩上がりに一系的、全土的に成長していったのでしょうか。
三世紀から四世紀前半の大型前方後円墳は大和に限定されます。その大和では巨大古墳群が、大和古墳群から佐紀盾列古墳群へ移動し、その後半期に大和より大きな前方後円墳が河内で築かれ始めます。これまで王朝交代説や政治中枢の移動説などいろいろ解釈されてきました。
河内だけでなく、吉備や摂津、播磨、丹後、関東の毛野の地域にも築かれています。四国は讃岐、山陰は因幡、九州では日向で、その地域最大級の前方後円墳が築かれています。全国一斉ではありませんが、各地に大和の大型前方後円墳に匹敵するか吉備や毛野の地域ように大和以上の巨大前方後円墳を築いています。おそらくそれは、地域単位の王が単独で配下の労働力を結集して築いた大墳丘墓です。
吉備の造山古墳は、履仲陵古墳と呼ばれている石津ヶ丘古墳よりも古い可能性がありますが、とすると造山古墳竣工時点では吉備の王が、列島最大の墓を造ったことになります。まさに吉備の「大」王墓です。
畿内の場合、大和王権と呼ばれた王権を畿内王権と呼び替えて、畿内五国を一系的な王権で一まとめにして語られている場合があるように私は思うのですが、それ以外の地域は旧国単位で論じられている。その疑問はここでは問題にしませんが、複数の勢力を結集して築いた畿内の大型前方後円墳に匹敵する墓を各地の勢力が地域単位で築いた時代が、まさに四世紀半ばから五世紀の倭国の墳墓の事情です。
その中で吉備の動向は、畿内の王権との関わりを考えるのに示唆的です。三世紀後半から四世紀初めころまでは、吉備と大和の王権は前方後円墳の推移をみても、蜜月のような相似的な変遷をしていますが、四世紀後半からは吉備の独自性が際立ってきます。大和や河内の巨大前方後円墳に匹敵する墓を築いただけではありません。造山古墳の周りには、特徴的な考古資料が認められます。
 さきほど取り上げた榊山古墳では馬形帯鉤以外に、おそらく伽耶地域から入手したと思われる陶質土器が出土しています。榊山古墳の隣に築かれた千足古墳では、畿内諸勢力よりも数十年以上も早く横穴式石室を採用しています(図7)。板石を石室の壁の下端に置いています。石室の中は石障と呼ばれる板石で遺体を据える場所を仕切っています。これらの石材は砂岩製で吉備にはないものです。倉敷考古館の間壁さんの研究では、佐賀県と長崎県にまたがる松浦半島の石材とされています。石室の壁は安山岩が用いられていますが、これも吉備にはなく、香川県産と言われています。この石室の構造は西北部九州の横穴式石室とそっくりで、畿内にはありません。ただし、吉備では千足古墳以後横穴式石室はしばらく途絶え、畿内地域と同様に六世紀になって本格的な横穴式石室の時代を迎えます。
 一口に横穴式石室の登場といいますが、四世紀の終わりころ北部九州に登場した横穴式石室は、瀬戸内・畿内の前方後円墳の造墓思想を根底から覆す埋葬思想です。主題からそれますのでここで止めますが、畿内地域ではこの石室を採用し始めて数十年で前方後円墳は姿を消しました。
 造山古墳の前方部頂上にある石棺も注目しなければなりません。石棺の石材は熊本県の阿蘇石です。
石棺の蓋石は舟形石棺の蓋石と似ていて屋根形ですが、身の造りに特徴があります。刳抜式の身は一見舟形石棺のようですが、小口部分は組合せ式の長持形石棺と同じような形にその凹凸を浮き彫りで造っています。長持形石棺は板状に加工して組み合わせるのが特徴で、運搬もはるかに効率的です。わざわざ刳り抜き手法で造ったのは、畿内の大王墓の棺を意識しながらも、畿内とは違う独自の石棺を九州の石棺技術で造ろうとした吉備の大王の自己主張のように思います。
 いま一つ。これは、吉備だけでありません。四世紀末から五世紀初頭に、列島最初の須恵器生産は、畿内では大阪府下に堺の陶邑大庭寺遺跡、河南町の一須賀二号窯をはじめ四カ所ありますが、畿内以外に、福岡県の朝倉古窯址、香川県の宮山古窯址、三谷三郎池窯址、岡山県の奥ヶ谷窯址、兵庫県出合窯址があります。
これを大和王権による地域支配の現象と解釈するのか、地域単位の首長の独自的な外交姿勢の結果と見るのかは、意見は分かれますが、愛媛県にも畿内には見かけられない韓国南部の陶質土器系の土器が各所で出土しています。山陰でも、全羅北道高敞の鳳徳里古墳出土の高坏形の鈴付き器台と相似形の須恵器が島根県金崎一号墳で出土しています(図6)。
 こうした様相を見ますと、大和または河内の王権がある程度の範囲で主導権を発揮していた三世紀末から四世紀前半と一転して、四世紀後半から五世紀中葉は、列島内諸国は地域単位で対朝鮮半島、あるいは九州諸勢力との関係を築いていた可能性があります。いわば群雄割拠のような様相です。
このような「大和王権」が、とりわけ四世紀末ないし五世紀初頭に、倭国唯一の大王として朝鮮半島に軍事的に進出できる態勢だったといえるのか、ここは冷静に再考する必要があると思います。

 少しばかりの裏読み
『記紀』の記事と『晋書』『宋書』の記事を裏読みしますと、南朝の対応は、一貫して百済と高句麗と倭国を対等に置いています。五世紀の倭の「五王」の朝貢記事は、南朝から、百済、新羅、任那、慕韓、秦韓の諸軍事を差配する将軍および「倭国王」の認定を受けることに執着していた様子がうかがえます。が、百済の軍事権は認めてもらえず、高句麗の軍事権は主張していません。はたして大和王権は、高句麗の脅威を意識していたのでしょうか。
畿内の王権にとっては、財寶(たから)の国、つまり憧れの新羅との交易の主導権をめぐって百済・伽耶・新羅諸国と自由に通行していた列島内諸国の勢力に圧力をかけるために、宋の旗印を必要としたのではないかとさえ思えてきます。文献史の佐藤長門さんも似たことを指摘されています。
ま、これは少々穿ちすぎかも知れませんが、現代の倭人の高句麗幻想から解き放たれて、少しばかり柔軟に見直す姿勢も大事かと思います。
高句麗に詳しい友人がアルコールで少し口が軽くなると、「高句麗の倭国幻想」という言葉を口にします。『三国志』魏書に、東夷諸国の中で最大の字数を割いて記された倭国を「五世紀の高句麗は具体的な倭人の姿が見えないまま過剰に意識していたのと違うか」と。酔った時ですからどこまで本気かわかりませんが、当たらずともいえども、という気がしないでもありません。
まとまらない話になりましたが、私の力量では、まとまらないのが今日のテーマという結論で終わります。

 

 

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