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西条と日岡の古墳群を訪ねる

9月24日(土)
加古川市西条古墳群(行者塚古墳、西条廃寺跡他)から日岡へ
9:00 阪急梅田駅神戸線側売店前集合
9:15  JR大阪駅=10:06加古川駅 網干行き新快速 1,280円(神野まで)
10:27 JR加古川駅=10:35JR神野駅 厄神行き 
神野駅--尼塚古墳--行者塚古墳--人塚古墳--西条廃寺(昼食)--神野駅   
13:26 JR神野==13:29JR日岡  140円   
日岡駅--日岡神社--播磨太郎妃陵、日岡古墳群(西大塚、南大塚、西車塚、狐塚)
15:30 JR日岡駅==15:33JR加古川駅
15:53 JR加古川==JR16:43大阪駅

案内
中司照世先生 前福井県埋蔵文化センター所長 考古学
山本善輔先生 御年95歳 今まで医者の世話になったことがなく、歯も自分のものだという。加古川の古代を澱みなく語られた。
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参加された皆さん
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西条古墳群と日岡古墳群
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神野駅より西条古墳群へ向かう
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山本先生を紹介される山口会長
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茅葺きの民家が残る
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栗の季節
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庭先の花
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西条古墳群(尼塚古墳、行者塚古墳、人塚古墳)
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加古川下流域における首長墳の変遷

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尼塚古墳
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中司照世先生
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行者塚古墳
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三段築成、周濠を持つ。
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行者塚古墳 周濠部に前日の雨水が溜まっていた。
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行者塚古墳 北西・造り出し部
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行者塚古墳 西造り出し部
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祭祀の土製品が出土
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行者塚古墳 墳頂部
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西条廃寺跡
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人塚古墳
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西条廃寺跡・基壇
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基壇壁面は西条寺の瓦で構築されている
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昼は御当地仕出し弁当
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西条廃寺から神野駅に向かう途中
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縄掛け突起のない終末期の家形石棺の蓋石とされる。
加古川市史より
◆市城に関する考古学の成果である。3世紀後半から4、5世紀にかけて畿内王権の力がこの地方に及び、加古川地方は王権勢力の重要な拠点となった。日岡山古墳群・西条古墳群の存在がそれをうかがわせるがもう一つ畿内王権のもとで播磨が占めた位置をうかがわせるものに当地竜山石で作られた長持形石棺(4、5世紀)がある。この長持形石棺は畿内地方とその近辺の有力首長のもとに運ばれ、現在各地に遺存しているが、その分布から、この石棺は、中央政権がその掌握下で竜山の石作工人たちに製作させたものとみられる。畿内王権と播磨の関係をうかがわせる格好の素材ということができる。

◆この長持形石棺につづいて、6、7世紀につくられた家形石棺が遺存している。加西以南加古川下流域に160例を数え、これまた竜山石・高室石など加西一加古川ー高砂市にまたがる凝灰岩の産地で作られたものである。ことに6世紀後半から7世紀にかけて古墳が増えていること、そのころ作られた縄掛け突起のない終末期の家形石棺が圧倒的に多いことは、被葬者の階層が拡大したことをうかがわせる。
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52号墳丘墓跡
弥生終末期の墳丘墓。床面には礫が敷き詰められて朱が散乱していた。床面から弥生土器また下層の黒色土層の中から中国後漢時代の内光花文鏡(径18㎝)一面粉砕されて出土した。
遺跡は消滅し住宅地となっている。P1000435s

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永昌寺石棺仏
阿弥陀三尊像。97代後村上天皇の康永2年銘があったが現在は判読不能
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神野駅から一駅電車に乗って日岡駅へ
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日岡古墳群
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日岡神社

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祭神 天伊佐佐比古命
祭神は天伊佐佐比古命とされているが、本来の祭神は大吉備津日子命という。大吉備津日子命の弟が若建吉備津日子。若建吉備津日子の娘が針間之伊那比能大郎女(はりまのいなひのおおいらつめ)で景行天皇の皇后となる。
(注)人名は『古事記』の表記に統一しています。

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日岡陵
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日岡陵は景行天皇の皇后、播磨稲日大郎女(紀)/針間之伊那比能大郎女(記)の陵とされるが、山本先生は西大塚古墳がそれであると主張された。
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山本先生
祭神は天伊佐佐比古命とされているが、本来の祭神は大吉備津日子命という。大吉備津日子命の弟が若建吉備津日子。若建吉備津日子の娘が針間之伊那比能大郎女(はりまのいなひのおおいらつめ)で景行天皇の皇后となる。隣に日岡陵という陵がある。そこに祀られているのが針間之伊那比能大郎女で景行天皇の皇后になる。大吉備津日子命はその方の伯父さんになる。

このお宮さんがなぜ安産の神となったかというと実は大吉備津日子の姪になる日岡陵の針間之伊那比能大郎女がお産をするとき非常に難産であった。そこで大吉備津日子が一心に祈願したところがものすごく安産で双子が産まれた。その生まれた双子が大碓命(おうすのみこと)と小碓命(こうすのみこと)です。小碓命が成人して日本武尊(やまとたける)となった。

若建吉備津日子は孝霊天皇の命令によって吉備の平定のためにこの地から出兵した。このあたりが「氷河の前」と申します。今は平地になっているけれどその頃は淵になっていてものすごく水の流れがきついところであった。そのために吉備の兵力は海岸の向こうまでは押し寄せたけれどこの川を渡ることができなかった。ここが吉備とヤマト朝廷の境目であった。ヤマト朝廷としては吉備の兵力が余り伸びてきては困るということでここへ軍勢を送って、いろいろ戦略を練って守った。

そのときいやはら?というのがあってすぐこの先ですけれど、そこにここの祭神となる大吉備津日子命が故人に祈りをささげて弟が今から吉備の国へ行くので守ってほしいと頼んだところ皇祖の天照大神があらわれて必ず平定することができるから行きなさい。と言ってそのときに加護するためにお供をつかわした。その方が天手力男命で岩戸を開けた人である。その方が吉備津日子命と一緒に向かってありとあらゆるところで戦略を練って吉備冠者という勢力の宇羅という百済からきた皇子だと言われているその宇羅と戦って第一回の吉備の平定をした。そして引き上げてきてこの地で亡くなった。そのためこの地で祀られている。

そのとき孝霊天皇がここ一帯の土地を大吉備津日子命に与えた。大吉備津日子命はその土地を全て姪の針間之伊那比能大郎女に与えてしまった。針間之伊那比能大郎女が祀られているのが日岡陵とすると年代が合わない。地元でも違うのではないかということがよく出るのだけれども、宮内庁はいくら言っても訂正をしない。一応日岡陵が針間之伊那比能大郎女の陵ということになっている。けれども内実はどうも違うようです。これから行くところの西大塚古墳がおそらく針間之伊那比能大郎女の墓ではないかと、そして日岡陵が大吉備津日子を祀っているのではないかと云う説もここでは出ている。

中司先生
ああそうですか。私の推測と合っていますね。いままでの通説は間違っていると思うのです。既往の文献では日岡古墳群の西大塚古墳と南大塚古墳は二段築成と書いてあるのだけれど昔十四、五年前に見たときには三段築成でした。むこう(西大塚古墳と南大塚古墳)が皇族の墓とするほうが合っている。日本全国を見てもらうとわかるのだけれど周濠を巡らす古墳というのはほとんどない。周濠を巡らす古墳というのはヤマト政権のかなり上位の豪族か皇族です。しかも三段築成だから針間之伊那比能大郎女の墓というのにふさわしい。

実は来月近江の古墳にバス旅行に行かれる方は知っていただいた方がいいのですが、この関係者の息子が小碓命、後の日本武尊です。今度見に行くのが日本武尊の子孫の犬上の君と建部の君ですから、どうもだんだんと『日本書紀』に書かれていることと古墳とが合うようになってきて、ヤマトタケルの実在性が確かではないかと思えるようになってきました。すべてが本当とは云いませんがかなり実在性が信用できるようになってきました。


(注)大吉備津日子命
7代孝霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめ)の子。倭迹迹日百襲姫命の弟。四道将軍(10代崇神天皇の時、四方の征討に派遣された)の一人。

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尖った山のあたりが竜山石の産地
竜山石・高室石など加西一加古川ー高砂市は石棺に使われた凝灰岩の産地として名高い。
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西大塚古墳
中司照世先生の測量によれば三段築成。周濠を持ち皇族の墓である。山本先生も述べておられるように播磨稲日大郎女(紀)/針間之伊那比能大郎女(記)の墓であるかもしれない。

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南大塚古墳
三段築成。周濠を持ちこの地を治めた豪族か皇族の墓である。
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西車塚古墳
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勅旨塚古墳
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雑木が群生して眺望がきかないが、築造当時は加古の平野から一番近くに望まれた古墳である。
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日岡駅にもどる途中の庚申塚
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天候に恵まれた一日でした。
御案内いただいた中司先生、山本先生に感謝いたします。

東播磨の西条古墳群から日岡古墳群を歩く
(会員)   阪口 孝男


播磨の地は、飛鳥池遺跡や藤原宮跡などで発掘された木簡には「針間国」「幡麻国」と表記しているものもある。
タイトルに、敢えて東播磨と掲げたのも、この地を語るに加古川市と書くよりも、ずっと似つかわしいと思うからである。
それに播州と云う言葉の響きも、私には何とも堪らなく心地良いのである。

JR山陽本線加古川駅からJR加古川線の電車に乗換える。北播方面に走ると、直ぐ次の駅が目的地への最寄り駅である日岡駅、次いで神野駅(かんのえき)である。

この日、平成二十三年九月二十四日、午前十時三十五分、豊中歴史同好会一行、三十名が先ず降り立ったのは、一点の雲もなく晴れ渡った爽秋の地、神野駅である。
駅には、豊中歴史同好会の会友で地元の山本善輔先生(加古川市文化財保護協会理事)が、吾々一行を出迎えて下さり、恐縮の限りである。
ご挨拶も早々に、山本先生のご案内で早速、西条古墳群を目指す。
ここで先ず、西条古墳群の概要を知って置きたい。

【西条古墳群概要】
「加古川左岸の独立丘である城山(標高八十五メートル)に向って南から延びる段丘上に、約一キロメートルにわたって分布する、多くの小形円墳群は殆ど消滅し、現在は帆立貝形前方後円墳である行者塚・人塚と尼塚と云う三基の古墳が、一九七三年に国の史跡指定を受けている」

歩くこと凡そ三十分、神野町西条山手地区に入ると、周辺に人家の建ち並ぶ一角に古墳群を擁する森が見えて来る。先頭グループは、最初に現われた人塚古墳を通り越し、先に尼塚古墳に行く様だ。
一行全員が、尼塚古墳に到着するのを待って、何時もの様に早速、中司先生のレクチャーが始まる。

【尼塚古墳】
「尼塚古墳は、人塚古墳の南約二〇〇メートルに位置し、略、南側に前方部を持つ。墳丘の周囲には幅八メートルから十メートルの周濠を巡らす二段築成の帆立貝形前方後円墳である。
墳長五十一・五メートル、後円部の直径約四十四メートル、高さ六メートル、前方部復元幅十三メートル、長さ六メートル、
高さ一・一メートルを測る。同古墳群の中で一番遅く造られた古墳で、五世紀中頃の築造と考えられている」

尼塚古墳の見学を終えて、次の行者塚古墳
に着く。先日の台風の為か、通路に面した、前方部の周濠付近は水浸しの状況で、後円部の方に廻って見学する。

【行者塚古墳】
「行者塚古墳は、五世紀初頭に築造された、播磨地方屈指の古墳である。三段築成の帆
立貝形前方後円墳で前方部を南西に向け、クビレ部の左右に造り出しがある。
墳長凡そ百メートル、後円部の直径が約七十メートル、高さ約八メートルを測る。更に後円部北側の二箇所も含めて、造り出しを有する。これまでの調査によって、大規模な埋葬施設や豊かな副葬品、各段のテラスに並べられた埴輪列など、その構造や内容に於いて優れた特色を持っている。
なお、副葬品において、他の鉄製品と共に四十枚の鉄?が出土しているのも特筆すべきことである」

くびれ部の方に進むと、北西造り出しのところに、埴輪列や家形埴輪・囲形埴輪に、供献された食料や土器など、祭祀が行われた様子を現わした形が復元されている。
中でも、造り出しの上部の平坦な部分には、円筒埴輪列が方形に立て並べられ、東側の埴輪列には喰い違い部分があって、入り口の様な状態になっている。そこに並べられている家形埴輪や囲形埴輪が、塀で囲まれた居館を見る様な形に作られていて、興味深かった。
次に、中司先生から副葬品に関し、興味あるお話を伺った。すなわち、墓坑の内部に木の箱も並置されており、中から金銅製帯金具・鉄製馬具などの副葬品が出土。この金銅製帯金具は、大和葛城の新山古墳出土のものと類似の品である。古墳の被葬者はこの地の首長で、恐らく葛城氏と共に朝鮮半島に出兵したものではないか、と云うお話である。
行者塚古墳から元来た道を戻り、人塚古墳に行く。


【人塚古墳】
「人塚古墳は、前方部を南西に向けた二段築成の、埴輪や葺石を持つ帆立貝形前方後円墳である。全長六十三メートル+α、同古墳群の中では、行者塚古墳の次に造られた古墳で、その時期は五世紀中頃と考えら
れている。埋葬施設は不明である」

人塚古墳を見学中、前もって依頼していた弁当が届き、時刻も丁度頃合いとなったので、隣接する西条廃寺に移動する。

【西条廃寺】
「西条廃寺は、白鳳時代末に創建され、奈良時代に伽藍が完成したが、平安時代には衰退したと伝えられている。伽藍様式は、南に中門があり、西に塔、東に金堂、北に講堂を配する法隆寺式で、今は基壇を残すのみであり、現在は県の指定史跡として保存・整備されている」
西条廃寺で昼食を採った後、記念写真を
済ませると、次の目的地は日岡古墳群である。

日岡古墳群へは、一旦、神野駅に戻って再び電車に乗り日岡駅に向うのである。
西条廃寺から神野駅に戻る道々、塚脇公園の縄掛け突起の無い家形石棺の蓋石や永昌寺の石棺仏を見物しながら、住宅街を歩く。山本先生が、あの辺りが、内行花文鏡が出土した、西条五十二号墳のあったところですと指さされ、発掘当時の様子の数々を伺う。ここは、教えて頂かない限り古墳のあった場所とは到底気が付かない。

【西条五十二号墳】
「西条五十二号墳は、墳丘長約二十五メートルで、円丘と一つの突出部をもち、弥生墳丘墓と前方後円墳の両方の要素を併せもつ墳丘墓である。播磨考古学研究集会による報告書では、三世紀前半の年代が与えられている」
朝方涼しかった気温も、日中になって上
昇し、日差しも厳しくなった所為もあって、一行の足並みが次第に乱れ、神野駅に着く頃は列が長く延び切って、乗車に間に合うだろうかと心配された。しかし、何とか全員揃って電車に乗り込む事が出来て安堵する。
次の目的地の日岡古墳群についても概要を知っておこう。

【日岡古墳群概要】
「加古川左岸の日岡丘陵一帯に立地する四世紀中頃から五世紀初頭にかけて造られた加古川平野最大の古墳群で、西条古墳群よりも古い。南大塚古墳を中心に、日岡陵・西大塚・北大塚・勅使塚各古墳の五基の前方後円墳と、東車塚・西車塚・狐塚各古墳の三基の円墳で構成される」

JR日岡駅から向う先は、先ず日岡神社である。

【日岡神社】
「日岡神社は、加古川東岸に位置し、主祭神は天伊佐佐比古命を祀る式内社。創建は天平二年で、景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命が、我が子の大碓命・小碓命(ヤマトタケル)の誕生の際に祈願して霊験があっ
たと云う伝承があり、爾来、安産の神として広く信仰されてきている」
一行は、日岡神社に参拝の後、日岡陵に行く。

【日岡陵】
「日岡陵は宮内庁の治定で、景行天皇の皇后である稲日大郎姫命の墓とされ、褶(ひれ)墓(はか)(『播磨国風土記』)の別称がある。全長八十五・五メートル、後円部の直径五十メートル、同高さ八メートル、前方部の幅三十三メートル、同高さ六メートルを測る。日岡古墳群では最も古い四世紀代の古墳である」

ここで、山本先生から、次に記す(左記ア~オ)様な大変興味のある、お話をして頂いたので、ご披露したい(一部、割愛させて頂いている)。

ア、日岡神社の祭神は、天伊佐佐比古とされているが、別名は、大吉備津日子命「七代孝霊天皇の子(『古事記』)」という。

イ、大吉備津日子命の弟が若建吉備津日子。その娘が針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)で、景行天皇の皇后となる。
ウ、若建吉備津日子は、孝霊天皇の命令によって吉備の平定のために斎瓮(いわひべ)をすえて神を祭り,この地から出兵したと云う。

エ、ここには、「氷河の前」と云う難所があって、吉備の軍勢が押寄せた時も、この河(加古川か?)を渡ることが出来なかったと云われている。

オ、大和朝廷は、吉備軍の激しい侵攻を阻止する為に、此の地に兵力を増強し、永らくとどまって態勢を整えざるを得なかったそうである。また、ここが吉備と大和朝廷の境目であった、と。

カ、針間之伊那比能毘大郎女の陵は、これから行く西大塚古墳で、日岡陵は大吉備津日子を祀っているのではないか、と云う説を述べられた。

【後日譚】後日、『古事記』の読み下し文を繙(ひもどく )と、
「大吉備津日子命と若建吉備津日子とは二柱相副ひて、針間の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いはひべ)を居(す)えて針間の道の口として吉備の国を言向(ことむ)け和(やわ)したまいき」

孝霊天皇の段に右の様な、くだりがある。この条文を読んでも、この地に伝わる伝承は思い浮かんでこないが、それを山本先生が、お話しして下さった、―と理解している。
同行の中司先生も、山本先生のお話を受けて、次の様な説明をされた。

「既往の文献は、日岡古墳群の西大塚古墳と南大塚古墳は二段築成と書いてある。しかし、十四、五年前に見たときには三段築成でした。西大塚古墳と南大塚古墳が、皇族の陵墓とするほうが合っている。
国内各地を見て貰うと、わかるのだけれど、周濠を巡らす古墳というのは稀で、大部分は丘陵上の造営。周濠を巡らす事が出来るのは、主にヤマト政権のかなり上位の豪族か皇族の古墳などです。
しかも、三段築成だから針間之伊那毘能大郎女の陵というのにふさわしい。
 実は、来月近江の古墳見学のバス旅行がありますが、景行天皇と針間之伊那毘能大郎女の子供が、大碓命・小碓命(ヤマトタケル)です。今度見に行くのが、日本武尊の子孫の犬上君と建部君等が主ではないかと思える墓ですから、だんだんと『日本書紀』に書かれていることと古墳とが合うようになってきて、ヤマトタケルの実在性がどうも確かではないか、と思えるようになってきました。
すべての事柄が本当とは云いませんが、かなり実在性が信用できるようになってきました」

日岡陵から少し登ったところに展望所がある。ここからは、東播州が一望の下である。
目を遥か西南の方に向けると、古代、石棺等の石切り場として有名な「竜山」を望
むことが出来た。
日岡陵を後にして、西大塚古墳を目指す。

【西大塚古墳】
「西大塚古墳は、かなり破壊されているが、比較的に原形を保つ部分も残っている。後円部北側の裾部を基準に復元すると、全長約七十六メートル、後円部直径約四十メートル、同高さ四・三メートル、前方部幅約二十二・五メートル、同高さ二・五メートルの前方後円墳で、四世紀末の築造と考えられている。後円部が削平されていることや、礫の露出状況から竪穴式石槨がある可能性が強いが、出土品は知られていない」
続いて南大塚古墳の方に廻る。

【南大塚古墳】
「南大塚古墳は、日岡古墳群で最大の規模を有する前方後円墳である。全長約九十メートル、後円部直径約五十四メートル、同高さ約七・五メートル、前方部幅約二十八メートル、同高さ四・九メートルを測り、三段築成の可能性がある。
後円部の墳頂には、主体部と見られる竪穴式石槨の天井石と側石が露出している。
また、前方部にも竪穴式石槨が発見されているが、この石室から三角縁神獣鏡片のほか、滑石製釧片が出土したと伝えられている」
二面の三角縁神獣鏡の内ほぼ全形の残る方にはいわくがあり、かつて、古墳群西端にある勅使塚古墳の上で採集されたと伝えられている。しかし、この古墳には乱掘された痕もなく、当時切断された石槨が露呈していた南大塚古墳の前方部から出土したものが、勅使塚古墳上に放棄されたのではないか?と云う話である。

さて、当初の予定では、最後の見学は、狐塚古墳であった。しかし、山本先生のお話では付近が工事中の為、見学不可との事で、急遽、勅使塚古墳に変更となった。

【勅使塚古墳】
「勅使塚古墳は、日岡古墳群の西端にあたり、日岡丘陵の平野に面した西縁に位置する。全長約五十四・五メートル、後円部直径約三十二・五メートル、同高さ約三メートル、前方部幅一十七メートル、同高さ約二・三メートルを測る。日岡古墳群の現存する前方後円墳の中では、最も規模の小さい古墳である」
勅使塚古墳の見学で、今回の現地見学会
スケジュールは、総て終了した。
後は、一路、日岡駅へと帰路に就き、当初の予定より早く、全員無事に大阪駅に帰着した。

今回の現地見学会は、地元の地理に明るい山本先生の熱心なご案内のお蔭を以て、楽しい古墳巡りが出来て喜ばしいかぎりである。
かねてより、ご高齢と伺っていたが、一行の先頭に立たれて、颯爽と歩まれ、然も明快な口調でお話しされるお姿は、九十五歳という、お年には見えない。実に矍鑠として、只管、頭の下がる思いである。
帰りの日岡駅でも、一行が乗り込み電車が発車しても、長い間手を振ってお見送り頂いた。心から御礼を申し上げたい。
また、今回も懇切、丁寧な解説をして下さった中司先生には、何時もながらの敬意と感謝の念を捧げたい。
(完)

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