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4・5世紀のヤマト政権と渡来人

つどい283号
堺女子短期大学准教授 水谷千秋 先生

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一 はじめに
かつてはほとんど文献史学からのみアプローチされてきた渡来人の研究は、近年になって考古学の成果や方法を取り入れ、総合的に迫ることが可能になってきた。
たとえば或る集落遺跡に渡来人が住んでいたことを証する遺物として、かつてから知られていたのは須恵器や韓式系土器と言った朝鮮系の土器であった。硬質で灰色をした須恵器は、堺市南部の陶邑を一大センターとして、古墳時代中ごろから生産が始まったと推定されている。
その後、カマド(竈)や、暖房施設であるオンドルの遺構が盛んに発見されるようになった。加えて近年注目されているのが、建物の周囲に溝を掘り、その中に多数の柱を立て並べて壁面を補強した大壁建物で、これも朝鮮半島から伝わった建築技術である。近年の考古学界ではこれらが発見された場合、そこに朝鮮半島からの移住民(渡来人)が生活していた可能性が高いとみなすようになってきている。

二 「応神紀」の渡来人伝承
 『古事記』『日本書紀』には、応神朝に渡来人が移住した伝承が多く掲載されている。
『日本書紀』応神天皇七年九月条には、「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並に来(ま)朝(うけ)り。時に武内宿禰に命して、諸の韓人等を領(ひき)ゐて池を作らしむ。因りて、池を名けて韓人池と号(い)ふ」とあり、「応神紀」八年条に「百済人来朝り」とある。また「同」十四年条には、秦氏の渡来伝承が語られている。
是歳、弓月君(ゆづきのきみ)、百済より来帰り。因りて奏して曰く、「臣、己が国の人夫(たみ)百二十県を領ゐて帰化(まう)く。然れども新羅人の拒(ふせ)ぐに因りて、皆加羅国に留れり」とまうす。
ここに葛城襲津彦を遣して、弓月の人夫を加羅に召す。然れども三年経るまでに襲津彦来ず。
ここに記される「弓月君」が秦氏の始祖である。百済から百二十の県の人民を率いて倭国に帰化しようと図ったが、人民は新羅の妨害に遭って加羅国に足止めさせられていると訴えてきた。応神天皇は葛城襲津彦を差し向けたが、三年経っても帰国は叶わなかった。これをうけて、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に派遣して新羅に圧力をかけたところ、ようやく襲津彦と人民らは帰国できたと記されている。
ほかにも「応神紀」十五年条には王仁(文首等の始祖)の渡来伝承があり、「同」二十年条には倭漢氏の渡来伝承も収められている。
 ここ数十年来、文献史学ではこうした応神朝の渡来伝承には信を置かず、事実は五世紀中葉から後半に渡来の大きな波があったとする見解が優勢であった(山尾幸久氏・加藤謙吉氏など)。しかし、近年の考古学の進展により明らかになってきた渡来人定着の時期は、これとは齟齬するように見える。

三 葛城の渡来人
『日本書紀』神功皇后摂政五年条に、葛城襲津彦が新羅から帰国する際に連れ帰ったという「俘人」が、「桑原・佐靡(さび)・高宮・忍海」の「四邑の漢人等の始祖」であるという伝承がある。これが「葛城の四邑」と呼ばれるもので、「桑原」は、のちの葛上郡桑原郷・御所市池之内、佐靡は、のちの葛上郡佐味・御所市東佐味・西佐味、高宮はのちの葛上郡高宮郷・御所市鳴神、伏見、高天、忍海はのちの忍海郡・葛城市新庄町に当たるとみられる。
 こうした葛城の渡来人についての伝承がどれほど史実を反映したものなのかどうか、平林章仁氏によると、一九八〇年代末ころまで、「考古学上の見解は、五世紀代の渡来人の葛城居住について否定的であり、それは六世紀中葉以降のことと説かれていた」という。それがその後、名柄・南郷遺跡群で渡来人の居住を示す韓式系土器や大壁建物が見つかったこともあって、「五世紀中葉にはかなりの渡来人が葛城の地に居住していたことは明らか(平林氏)」とまで言われるようなった。
この名柄・南郷遺跡群は、金剛山東麓の約四・八キロ平方メートルの広大な集落遺跡で、大壁建物・韓式系土器・初期須恵器なども多く発見されていることから、ここに渡来人が居住していたことも明らかになった。
 近年、大和国における渡来人の遺跡について精力的に研究している考古学者の坂靖氏は、名柄・南郷遺跡群を葛城四邑の「高宮」に比定されている。『日本書紀』の伝える伝承がすべて史実であると考えるのは早計であるが、四世紀末ころの外交・外征に功績のあった葛城襲津彦が、多くの渡来人を自己の本拠地に連れ帰ったという伝承は、考古学の成果と付き合わせても、史実を含んでいると言えるのではないだろうか。

四 秦氏の山背定着
 秦氏が日本列島に渡来した時期についても、『記・紀』が伝える応神朝ではなく、もっとのちの五世紀後半であるとするのが近年までの主流的な見方であった。たとえば山尾幸久氏は「倭漢集団の渡来は五世紀中ごろ、雄略朝のごく初期と思われるので、秦氏のそれは少し遅れて五世紀後半か末ころと見ておきたい」(『日本古代王権形成史論』三三八ページ、一九八三年)と述べている。
『新撰姓氏録』山城諸蕃には、最初彼らは応神天皇から「大和朝津間腋上(あさづまわきがみ)の地を賜りてここに居す」とある。「朝津間・腋上」は葛城の地名である。この記事の信憑性に否定的な見解(山尾幸久氏・平野邦雄氏)も多かったが、近年は平林章仁氏などのように、むしろ肯定的に捉える見方が増えてきている。
では秦氏が葛城を出て、山背に定着したのはいつごろからだろうか。たとえば加藤謙吉氏は「葛城から山背への渡来人の移住」を「六世紀初頭頃」に置いている(『秦氏とその民』一七三~一七四ページ)。しかし、一九八七年に調査された京都市右京区の和泉式部町遺跡などからすると、もっと早くに秦氏は太秦近辺に来ていたようだ。この遺跡からは七戸以上の住居跡が発見され、L字型に折れるカマドのある竪穴住居や韓式系土器、須恵器などが発見されている。時期は五世紀中ごろとみられている。この遺跡は現在の「蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)」の周辺に広がっており、まさに太秦の秦氏の本拠地に位置する。秦氏の集落跡に違いないだろう。
同時期の古墳としては、五世紀中ごろに京都市の上桂に山田桜谷二号墳、同後半に巡礼塚古墳、六世紀中ごろには太秦に仲野親王墓古墳が造られている。いずれも造営したのは秦氏と見ていいだろう。彼らは五世紀中ごろには山背に定着していた可能性が高い。
 和泉式部町遺跡よりさらに古い時期の渡来人の集落遺跡が、山背にはもうひとつ発見されている。現在の宇治橋や平等院の周辺に広がっていた宇治市街遺跡である。ここは二〇〇四年に韓式系土器が発見された古墳時代中期の集落跡遺跡で、八〇個の土器のうち、軟質性の韓式系土器が八〇パーセント、硬質性の韓式系土器が十五パーセント、倭人系土器(土師器)が十五パーセントであったという。丸山義広氏は、「古墳時代中期にこの地域に渡来第一世代が定着したことを示す明確な根拠」(丸山義広『山城の渡来人』)であるとして注目している。
 但し、文献史料からは宇治に渡来系豪族が居住していたことを示す、めぼしい史料が乏しい。宇治には宇治公という有力な地方豪族がいたが、秦氏や倭漢氏などがいたことを示す史料は少ないと、井上満郎氏も指摘されている。
 しかし宇治と渡来人というと、気になる史料がある。『聖徳太子伝暦(りゃく)』(九一七年成立)の一節である。
 推古十二年秋八月、聖徳太子が秦造川勝に昨夜見た夢の話をした。「私は夢の中で北を去ること五、六里のところにある、一つの美しき邑に至った。そこでは楓の林が香っていた。この林の下で、汝は親族を率いて私をもてなせ」これを聞いた川勝は太子に言上した。「太子が夢にご覧になった村は、私の邑と同じところのようでございます」かくして川勝の先導の下、太子はその村へ向けて出発した。その夕べに、泉河(木津川)の北頭に宿りした。
明日、菟途橋に届(いた)る。川勝が眷属、玄服、騎馬して橋頭に迎え奉る。道中に溢満す。
太子左右に曰く「漢人の親族、其家富饒にして、また手織の絹?、衣服美好、是れ国家の宝也」木郡に至るに川勝が眷属、各清饔(さん)を献ず。陪従せし輿(よ)台(だい)二百人以上。皆悉く酔飽く。太子大いに悦ぶ。
(次の日、宇治橋に至った。川勝が眷属を率いて、盛装に身を包み、騎馬で橋のたもとに迎え奉った。その人数は道中に溢れるほどだった。太子は左右の者に言った。「漢人の親族は、その家が富み栄え、また手織の絹絁や衣服は美しく好ましい。これはまさに国家の宝であるぞ」木(紀伊)郡に至ると、川勝の眷属は、各々豪華な食事を用意してもてなした。太子につき従う家来たち二百人以上は、皆存分に食べ、酔った。太子は大いに悦ばれた)一行はその日に「楓野(かどの)大堰」(現在の渡月橋付近)に着き、「仮宮を蜂岳の下に造」った。太子はこの地勢を褒め称え、「三百歳後、一聖皇有り。再び遷して都と成す」と予言する。そしてこの仮宮を「楓野之別宮」を名づけた。「後に宮を以て寺と為す。川勝造に賜ふ」これが広隆寺の起源であるというのである。明らかに秦氏の伝えた氏族伝承であるが、本稿の関心から注目されるのは、宇治橋で盛装し、大挙馬に乗って太子を迎えた秦氏の威容である。その騎馬は「道中溢満」し、「漢人の親族、其家富饒にして、また手織の絹?、衣服美好、是れ国家の宝也」と太子に言わしめた。その経済力を誇示した舞台が、宇治橋なのであった。宇治と秦氏との関わりはこれまで等閑視されてきたが、この伝承からすると、秦氏がこの辺り一帯まで自らの影響下に置いていた可能性も考慮する必要があるだろう。
だとすれば、その近くにある宇治二子塚古墳(五ヶ庄二子塚古墳)にまで連想が及ぶ。この古墳は全長百十一メートルの前方後円墳で、築造は六世紀初頭(西暦五〇〇年前後)。二重の周濠をもち、墳形は今城塚古墳と同型でその三分の二の大きさ、三段築成の可能性があるといわれ、尾張型埴輪が発掘されている。この時期では山背最大の古墳であり、継体天皇ゆかりの人物が被葬者である可能性が取り沙汰されている。
かつて和田萃氏はあるシンポジウムで、継体妃「和珥臣河内の娘?(はえ)媛(ひめ)」を被葬者に当てられたが、時期的に古墳の方がやや古いとの指摘を受けて、すぐ撤回された。しかし、宇治市教育委員会の荒川史氏によると、「古墳の立地や墳形、そしてその登場の仕方などから、古くから宇治に住む在地的な勢力ではない、継体天皇の擁立に深く関与した人物が想像される」(『継体王朝の謎うばわれた王権』)という。
ここまでの考察からすれば、宇治二子塚古墳の被葬者が秦氏の族長である可能性もあるのではないだろうか。

五 近江・若狭の渡来人
 近江国高島郡は、継体天皇の父彦主人王の「高島宮」のあったところとして、また継体の生誕地として知られているが、同時にここは在地の有力豪族三尾氏の本拠地としても知られている。この「高島宮」や三尾氏の本拠地の有力な候補地といえるのが、滋賀県高島市の南市東遺跡と下五反田遺跡である。 
隣接するこれらの遺跡は五世紀中ごろ~後半ころの集落跡で、南市東遺跡からは六十五棟、下五反田遺跡からは三十二棟の竪穴住居が発掘された。そこからカマド、初期須恵器、韓式系土器などが発見されている。高島市教育委員会の宮崎雅充氏によると、下五反田遺跡では南のグループからは初期須恵器、韓式土器、初期のカマドが発見されているが、北グループからはカマドがなく、渡来系の特色がやや弱い。そのため、南と北とで渡来人と在来の人々とのすみ分けがあったのではないか、と推測されている。
五世紀末から六世紀に入ると、南市東遺跡・下五反田遺跡はやや衰退し、これに代わってその南西に隣接する八反田遺跡が勃興するようになる。集落の中心が少し動いたのかもしれない。その至近距離のところに、五世紀半ば過ぎころ造られた田中王塚古墳と、六世紀前半に造られた鴨稲荷山古墳がある。これらの古墳を築造したのは、南市東遺跡や下五反田遺跡、八反田遺跡で生活していた人々と判断して間違いないであろう。そこに一部とはいえ、渡来人が混在していたのである。
では高島の渡来人はどこから来た人だったのだろうか。当然考えられるのが、若狭である。現在の高島市今津から西北へ向けて山間の若狭街道(九里半街道)を行くと、そこには若狭がある。途中には十善の森古墳など有名な古墳も点在する。
若狭に秦氏がいたことは有名で、たとえば「若狭国貢進物付札木簡」には、併せて二十三名の秦氏関係人名がみえる。若狭国は平安時代初頭以前は遠敷郡(おにゅうぐん)と三方郡の二郡しかない面積の小さい国だが、塩や魚介類などを朝廷に多く納めた御食(みけつ)国として尊重された。秦氏は膳氏の下でこうした実務を担ったのであろう。
しかも彼らは高島にも出入りしていた。
高島郡の鴨遺跡(高島市高島町大字鴨)では、「遠敷郡 遠敷郷 小丹里 秦人足嶋庸米六斗」と記された木簡が発見されている。これは、若狭国遠敷郡遠敷郷の秦人足嶋なる人物が租税として納入する「庸米六斗」に、荷札として付けられた木簡に間違いないだろう。それがどういうわけか、途中の高島郡で発見されているのである。この米が、若狭から高島に運ばれ、そこからおそらく水路で畿内へ運ばれたことがこの木簡から察せられるのだ。

六 むすび
以上、四、五世紀の渡来人の実態について、文献と考古学の二方面から迫ったが、まとまりのない内容に終始してしまった。それでも従来考えられていたより早い時期から渡来人が倭国内に多く定着し、政権にさまざまな影響を与えたことが推測できた。とりわけ秦氏の役割は今後もさらに追究していく価値はありそうだ。

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