尼崎・伊丹方面の遺跡を巡る
7月23日(土)
9:30 阪急梅田駅 神戸線売店前 集合
9:44 JR大阪駅発 宝塚線三田行き == 9:56 JR塚口着
塚口駅--伊佐具神社--伊居太神社・同古墳--近松記念館(入場料200円)・広済寺
-昼食--岡院の石棺--御園古墳
JR塚口駅 == 猪名寺駅
猪名寺駅--南清水古墳--大塚山公園(園田大塚山古墳跡)--御願塚古墳--
阪急稲野駅 == 阪急伊丹駅
伊丹駅--有岡城址
JR伊丹駅=大阪駅
案内
中司照世先生 (前福井県埋蔵文化財調査センター所長) 有岡城=金谷氏(会員)
暑い盛りの現地見学会ですが、21名が参加されました。
つどい284号 会員 金谷健一
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JR塚口駅
古民家レストラン ひろ田
伊佐具神社 尼崎市内唯一の延喜式内社
由緒
後醍醐天皇に助力した赤松円心の墓とされる五輪塔
尼崎市教育委員会の案内(左) 五輪塔謂われ(右)
小墾田宮跡石碑
玉葉雑二 善信法師
おはただの板の橋のと絶だえしを
ふみなおしても
渡る君かな
伊居太(イコタ)神社
神社由緒
社地は前方後円式古墳とされるが、過去にトレンチを入れるも古墳を示す出土物が無く、古墳であるかどうかは疑問(中司先生)
近松記念館
晩年尼崎広済寺の復興を図る
近松語り部会 門田典子さん
門左衛門の使った机
広済寺
近松門左衛門墓所
廃仏毀釈
明治維新の廃仏毀釈により広済寺と須佐男神社に別れ寺領も格段に小さくなった。
さきに訪ねた伊佐具神社を含め明治政府の廃仏毀釈政策の徹底さが伺われる。
久々知須佐男神社
広済寺に隣接している
祭神
須佐男神は淀川右岸丘陵端部に広範に分布する(管理人)
多田源氏(武士)発祥の謂われを語る
久々知兵助
岡院(ごいん)の石棺
御園古墳
三菱電機伊丹製作所の太陽電池壁面
三菱電機の敷地に隣接している
このあとJR塚口駅に戻り、JRにて次の猪名寺駅まで移動
南清水古墳
後円部の須佐男神社
五輪塔(室町期?)が集められている
園田大塚山古墳跡
新幹線直下に位置する
木棺を粘土槨で埋めた縦穴式前方後円墳
御願塚古墳
二重の周濠をもつ帆立貝式古墳
本日はじめて出会った古墳らしい古墳であった。
墳頂部の南神社
帆立貝式後方部
阪急伊丹線猪名野駅から阪急伊丹駅に向かう
阪急伊丹駅
大溝
有岡城跡
石塔などを再利用した本丸石積み
■阪神間の主要古墳編年表
管理人の蘊蓄
大阪湾の古代海岸線ラインを現在の標高10mとした場合下図の濃いグリーン部まで大阪湾が深く侵入していたと推測できます。
西宮あたりから高槻市にかけて古代の海岸線沿いに素盞嗚社が点々と分布しているのがわかります。
四月から順延されていた猪名川流域の古墳・遺跡を廻る現地見学が七月二十三日におこなわれた。当日の予想最高気温は三十二度。猛暑のなか、中司先生以下二十一名が元気にJR塚口駅をスタートした。
伊佐具神社
『延喜式』「神名帳」に載る川辺郡上坂部村の同名社に比定される神社で、伊狭城入彦尊を主神とする。摂津国皇別の氏族から久々智・坂(酒)合部連両氏の産土神社と考えられる。
伊(い)居(こ)太(た)神社・伊居太古墳
この神社は明治以前には「春日神社」と呼ばれていた。この辺りが広く藤原(橘)氏の荘園であったことによる。そのためか、角川書店・平凡社の地名辞典にも、平成十九年の尼崎市制九○周年記念に発刊された『尼崎の歴史』にも伊居太神社は掲載されていない。
池田市にも同名社があって「式内社」と称しているが、この神社は国人、池田氏の台頭に伴って池田氏が「秦の上社」に神社名を冠したもので「イケダ神社」と呼ばれている。「神名帳」によれば同社は河辺郡に鎮座すべきであって、池田市は豊嶋郡であって細川神社が式内社として鎮座している。
式内社「伊居太神社」の所在地比定については、塚口の池田山古墳に神祠があったとか、河辺郡の小坂田村(昭和十八年飛行場拡張のため、全村が強制立ち退き解村)に在ったとか云われているが、角川書店・平凡社の地名辞典は小坂田村説を採っている。
伊居太古墳は黄土色粘土で固められ、前方部西南方に白馬塚・サムライ塚と呼ばれる陪塚があったと云う。『尼崎市史』によると五世紀末の前方後円墳で、全長九二メートル。最近の後円部・周濠と推定される部分の数度の調査でも古墳にかかる遺物は検出されていないとある。
広済寺・近松記念館
広済寺は村上天皇の天徳三年(九五九)領主、多田源氏満仲が妙見大菩薩像を勧請した事を以って開基としたと云われている。
近松記念館では語り部の女性から近松門左衛門(一六五三~一七二四)に就いて、門左衛門の生地は越前とするのが定説であること、浄瑠璃・歌舞伎の戯作者で「曽根崎心中」などについて詳しくお話を聞くことが出来た。
語り部さんのお話には無かったが、この寺が「近松寺」と呼ばれるようになったのは、門左衛門の歿後、門左衛門と交わりの深かった大坂の商人で尼崎屋吉左衛門がその遺骸を引き取って当寺に葬ったことによると云う。門左衛門の墓石は国指定の史跡となっている。
大阪谷町の法妙寺にも門左衛門の墓がある。
岡(ご)院(いん)の石棺(蓋)
この石棺の蓋は旧岡院村の用水路に架けられていて硯橋と呼ばれていた。一九二×八一センチメートルで厚三○センチメートル、内側が硯石のように浅く削られている。
長持形石棺の蓋とは顕著な違いがみられるが、家形に近い。消滅した付近の古墳からの出土品と考えられるが、形状などから七世紀以後とも考えられる。なお岡院の地名の由来を尼崎市教委に問い合わせたが不明とのこと。
御園古墳
猪名川沿いに広がっていた橘(藤原)の御園が橘を略して御園と呼ばれる地名になったと考えられて、ゴエンとも判読できない事はない。
古墳は全長約六○メートル、高さ約三メートルで、五世紀後半の築造。前方部から六世紀中頃に追葬されたと見られる箱形石棺が出土している。この石棺の出土と共に多量の鏡・剣・玉類の出土があったと伝えられるが、現存するのは直刀二口と須恵器が数点だけである。
南清水古墳
東西に全長約四六メートル、帆立貝形の二段築成の前方後円墳で、後円部径約四○メートル、高さ約三メートル、散布していた出土品から中期古墳と推定される。墳丘上には須佐男神社が鎮座している。
園田大塚山古墳
天狗塚とも呼ばれる伊丹段丘最南端に位置する前方後円古墳。六世紀前半とみられ主軸を南北に墳丘は全て盛土である。後円部径約一八メートル、前方部巾約一六メートル、馬蹄形の濠を廻らす。主体部は高野槙を包む粘土槨であるが、その他にも後円部に竪穴式土壙が検出されて、壙の中央部に木棺を置き周壁との間に木炭を詰めた木炭槨と呼ばれるものである。
出土品は巫女が用いたとも考えられる五鈴鏡、玉類、鉄刀、鉄鋸、鉄斧、馬具、農工具、須恵器、土師器、埴輪などがある。昭和十二年の小林行雄博士の調査記録も残る。
御(ご)願(が)塚(づか)古墳
伊丹段丘の南端に位置する帆立貝形前方後円墳で、周辺に満塚、掛塚、温塚、破塚が在ったとされて「五ケ塚」と呼ぶ。
全長五二メートル、西向きの前方部と造り出しを備えている。後円部径三九メートル、高さ七メートル、前方部一三メートル、巾一九メートル、一部で二重の周濠が確認されている。出土品は五世紀後半の円筒埴輪、家形埴輪などの破片と、土師器、須恵器が少し見られる。
有岡城址
池田家の家臣であった「荒木村重」は下克上の波に乗り、摂津守として中世史に六年その名を留めたが信長に背き、戦国大名になり損ねたうえ、家臣・一族を見捨てて逃げたとして卑怯者の汚名を着せられた武将である。
村重は天正六年(一五七八)の夏頃から、信長が上月城に籠る山中鹿之助を見殺しにした事など家臣に対する処遇と、これから先の夢の大きさを秤にかけて遂に本願寺と毛利方に起請文を送ったのであろう。
『武功夜話』には村重の言として次の言葉が見られる。
「其元等の諌言至極に候、悉く存知候。さりながら某つらつら思うに、信長諸国を取り、剩え仏意に背き、処方地を焼き払い幾多の僧、法師を殺す最悪の所業浅間敷候。狼藉の敵信長、弥陀の利剣をもって誅殺あるべき、我たとえ天涯一人になるも信長の行路見定めん」とある。
おわりに
無事全行程を終えることが出来た。古くは「為奈川」と呼ばれた川の流域の古墳・遺跡廻りであったが田能遺跡の弥生人の人骨を見ることが出来なかったのが心残りでもあった。北摂の地から北へ、荒木村重の生れた篠山をさらに北上すれば弥生の道は容易に太邇波の赤坂今井や大風呂南墳丘墓にたどり着くことが出来る。
猪名川流域の竪穴式石槨の石材には石英斑岩が使われているが、消滅した伊丹市の上臈塚古墳だけが、二上山の火山岩や、結晶片岩が使われている事について同じ猪名川流域の中で、何故遠くから石材を運んだのか、極めて異質な事だと奈良拓弥さんは語る(『日本考古学』第二十九号)。
暑さのなか同行頂きました中司先生本当にご苦労様でした。会員の皆様お疲れさまでした。
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