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2010年の考古学界

つどい282号
芦屋市教育委員会 学芸員 森岡秀人先生

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はじめに
芦屋市教育委員会の森岡でございます。この会では発足の頃からおつき合いさせていただき、お世話になっております。本日は、与えられましたテーマ「二〇一〇年の考古学界」についてお話をします。そのベースとなりますのは、去年一年間の私の行脚で目にとまったり、私の関心に応じて抜き出しておいたものや調べたことがら、さらに、近々にレジメを作っている時期に追加いたしましたものであります。
ある程度、時代を追いながら、トピック的なこともはさみつつしゃべります。

前期旧石器の捏造事件から早十年
一番印象に残ったのは、前期旧石器捏造から十年の節目を迎え、事件に関する著作が二冊出版されたことです。ここでお話しされた松藤和人さんの『前期旧石器遺跡 発掘捏造事件』、この会にはきておられないですが、岡村道雄さんの『遺跡はなぜ捏造されたか 旧石器遺跡捏造事件』。岡村さんの本には背景の理解が少し必要です。岡村さんには、旧石器変遷の編年体系がありまして、それを一番熟知していた藤村さんが、隣で発掘する岡村説に一番近い石器の現わし方をしたようです。岡村さん側から見ると、自説の補強にも当たる石器文化との認識でもあったわけですね。怖いのは、自分で一つのストーリーとしっかりした学説をうち立てますと、それと一緒のものや現象が出てきたときには否定できなくなるということを思いました。松藤和人さんは中国とか朝鮮半島の大陸の石器群の観察から、日本の旧石器を見ようとする立場で、このような石器、前期旧石器には違和感をお持ちだったと思います。それから、ヨーロッパの古い石器群に詳しい方は数人の方が、前からおかしいと言っていました。とりわけ竹岡俊樹さんは積極的に否定されていました。ヨーロッパ的な前期旧石器でないことは十分わかっていたと思うのです。そのなかで、日本的な旧石器文化の体系、岡村さんの型式学には合う石器でもあった。そういう点が察せられます。責任の一端はありということも書きながら、なぜそれを藤村さんがやったかということが、白状というところまで行ってないもどかしさがありますね。なぜかというと、藤村さんは指を自分で切ってしまうんです。それを岡村さんは目の当たりにして物が言えなくなったということ。そういうことがあったということは皆さん肝に銘じてほしいと思います。神の手に対する猛省が自分に対する体罰になってしまった結末です。

私自身は、従来、報告書などに一つ二つ見解を書いていたんですが、あれ以来は四つくらい書くようになりました。蓋然性高いことは出来るだけ挙げてしまう。結論を集約せずに、何が一番正しいかを読む方が考えていけるような調査報告書も大事だろうと。報告書なら本当は自己主張した方が良いと思うんですよ。こう考えて、こう掘って、こういう結論の遺跡である。あるいはこういう遺構と考えましたと言えるのですが。やはりその中には、書いた瞬間から誤りが生じることもあります。いろんな誤解も出てきます。だから、許容できる見方は複数あってもはずかしいことではありません。もうひとつは撤回すべき内容に気付いた時は、いち早く文字で行動に移すべきです。つまり、誤りを犯したと考えたら、早く社会に出さないと、独り歩きします。別に古代史や考古学に限らず歴史学を離れてでも、誤りに気付いた時に自分だけで納得してはいけない。読んでいる方々には、かなりの影響力がありますから、早く文字にするということが基本です。

旧石器文化の特徴ある研究
旧石器の研究では、昨年は特に人骨の話題が多かったように思います。
一つは楢崎修一郎さんが「日本の更新世人骨の現状と課題」『古代文化』六二―三で、日本列島の旧石器人骨を全部洗いなおしたんです。本土遺跡十二遺跡、琉球諸島十一遺跡を全部再検証して、表を作られて、更新世に本当に遡れるかを見たんです。更新世というのは旧石器の時代ですから、土器を持たない文化の人骨がいかに洗いだせるかということです。その結果、年代の安定した人骨リストが明快に出ました。本土側では静岡県の浜北人のみが確実に旧石器に遡れますけれども、他はだめだろうと。琉球諸島では山下町第一洞穴、あるいは港川人を含めた六遺跡しか該当しません。日本列島で七遺跡しかない。教科書に出てきます三ケ日原人とか、当然否定されているものがたくさんあります。
それともう一つの問題提起にも関心が寄せられました。沖縄県の石垣島の白保竿根田原洞穴で、約二万年遡る旧石器人骨が初めて見つかっているんです。その研究状況が『考古学研究』に報告されています。ここではきわめて重要なことが提言されています。今は人骨というのは普通に土器や石器と同じ扱いにはなっていないことが主張されています。つまり遺失物法の扱いになっていることも一つの要因で、人骨が出土した遺跡が壊されてきているんです。なぜかというと土器を伴っていないから、通常の埋蔵文化財としての認識が低い。更新世人骨は土器文化を持たないから、それはあたりまえですよね。だから、遺物が無いからとりあえず遺跡ではないという議論は本当はおかしいんですけど、実際に起こっているんです。人間がいたことを一番証明しているのは遺物ではなく人骨のはずですけど。こういう遺跡として認められていない現状が石垣島の中にある。これは遺跡の保護上、非常に大きな問題です。
人骨そのものの年代が科学的保証をもって割り出される必要が出てきます。

縄文・弥生文化の発掘・研究情勢
縄文時代では、京都府の埋蔵文化財研究集会で報告された千葉豊さんの「縄文時代の集落変遷」と向日市の中塚良さん他の「縄文土器の材質的研究」が注目されます。
縄文土器の材質的な研究では、土器の色調、含有鉱物の種類、粒度分析がまとめられています。弥生土器では前からあった視点ですが、縄文土器での堆積学的研究は少なかったんです。角閃石の含有、有無と色調との関係は、中河内に多い角閃石を含む土器がにぶい黄褐色に分類される、というような事象ともよく一致しています。
富山市の小竹貝塚では、前期埋葬人骨が十三体まるまる見つかり、石の斧が副葬されていました。これは縄文前期文化と墓制を考える上に、非常にメルクマールになる発掘成果だと思います。
また滋賀県東近江市で縄文草創期の土偶、かわいらしいビーナス像が出土したことも話題になりました。
弥生文化の方でまず注目すべきことは、大和盆地南部に於ける広大な小区画水田の発見です。おそらく弥生前期から近畿地方には各地域で押し並べてあったと思います。しかし、大阪では三十年前から発見されていたのに、大和では長い間欠落していました。それがここ一、二年の間に出てきました。特に京奈和道の開発に伴って発見された御所市の中西遺跡。森林地帯との接触部分に伐採痕跡の切株があったりして話題になりました。これは非常に注目度の高い遺跡です。なぜかというと、この周辺で出てくる水田には、面積が一万二千平方メートル位ある広大なものが見つかっているんです。これは弥生前期としては、大和最大というだけでなく、近畿地方においても最大クラスです。大阪の志紀遺跡とか神戸の戎町遺跡とか本庄町遺跡等の弥生の前期の水田は発掘面積がずっと狭い。ところが今回、大和南部で、未周知、つまり遺跡として知られていない場所で一万二千平方メートルの小区画水田が下層の縄文晩期突帯文土器や弥生前期の土器を伴って出てきたんです。時期はおそらく弥生前期とみて間違いないと思います。こういう発見はこれまで想像できなかったですね。本来大和にあれだけの弥生遺跡がありますから、考えないといけなかったんですけども、近畿では最も遅れて出てきました。

土器の交流がわかる展示など
それから、土器の展示では、神戸市の埋蔵文化財センターの「王の誕生と前方後円墳」で、初めて神戸市内の古墳出現前後の土器が相当量並びました。動く土器、神戸市内に入ってくる東海地方や山陰地方の土器が特徴のわかるものを中心に出てきました。しかし、やはり神戸の特色としては、四国系の土器、二重口縁の口縁部の立ち上がりに、浅い凹線状のものが三条四条ある阿波の壺形土器。これがたくさん来ておりますね。近畿の中では近いから当然ですけど。土器の勉強をする方は、こういう観点からこうした展覧会を見られて、四国の中のどの地域なのかなど、土器の顔つきを覚えながら勉強されると良いと思います。例えば、淡路タイプの甕形土器は、これは普通胴部に使う叩き成形という技法を口の端のところに使います。こういう所に使うのは珍しいですね。「淡路型」と言いますけれども、和泉地方や紀伊地方、摂津にもあります。変化があるので、編年できます。
また、春成秀爾さん、山本三郎さん等が企画した展覧会で、明石市立文化博物館「明石の弥生人」展というのがありました。図録も良く出来ています。論考がいくつか入ったうえで、明石川の流域の弥生人と言いながら、弥生文化全体の問題点を取り上げています。一つは高地性集落がどのように生まれてくるかということへの、明石川での一つのストーリーを紹介している。それから、環濠集落ですね。実は摂津の西部から向こうに行きますとね、環濠集落はほとんどないんです。岡山県に一、二例ありますけれども、播磨にはゼロですね。新方遺跡や玉津田中遺跡などをかなり取り上げた展示でしたので、ご紹介しました。シンポジウムには、森田克行さんとか藤田三郎さんとか寺前直人さんが加わっています。特にこの寺前さんは、昨年大きな本を大阪大学出版会から出されて、石器文化から見た弥生時代を考察しています。石器の詳細研究から弥生社会に鋭く切り込んだ本は少ないですね。粟田薫さんという人がサヌカイトの石器、武器などを扱った重厚な本を書いています。近年では、この二つぐらいしか近畿地方にはありませんね。

青銅器などの新出資料を見る
それから新発見では、新潟県の最北端にあります村上市の山元遺跡で筒状銅製品が見つかりました。これは日本の弥生文化の青銅器として最北限です。形状が似ているので、筒状銅製品が古墳時代の筒形銅器の起源ではないかという人がいます。しかし、直径が筒形銅器の二分の一ぐらいしかないのと、東海・関東地方では廻(はざ)間(ま)二式ぐらいで終わってしまい、布留式段階には残りません。筒形銅器とは明らかに年代差がありますから、これがそのまま起源というのは考えにくいです。
銅鐸が遂に愛媛県から出ました。香川県寄りのところですが、この県では初めてです。この銅鐸の系統や型式はいろいろ議論がありますね。私はこれが埋納か破片廃棄かが気になっています。ピットから出ていますから、私自身は破片の銅鐸を埋納したのではなく、切断して埋めたのではないかと考えています。水平にしているのにも意味があると思います。
岡山県の北溝手遺跡から分銅形土製品の祖形というのが出土しました。弥生中期前葉以前、さかのぼると、前期ではないかと確認しているんですが、こういう資料が岡山県で出始めました。分銅形土製品の起源論が比較可能な資料に恵まれた年になりました。

古墳出現期から古墳時代に向けて
豊中歴史同好会の二〇一一年度のテーマは、四、五世紀の古墳を中心として古墳時代のヤマト政権との関係を見るものが多いようです。これらのテーマの一つの足掛かりを得るために、大阪市立大学の岸本直文さんの、前中期の古墳に係わる総括的なわかりやすい論文を御紹介します。
岸本さんは、空から見るような古墳の風景というもの、規格や系統を非常に秩序立てて、また単に古墳だけでなく被葬者も含めて広く整合的に考える方です。今回の論文は、昨年出ました韓国の釜山大学考古學科の創設二十周年記念論文集に載っているものです。かなり慎重な方ですけど、この論文は、ずばりずばりと自説を唱えておりまして、興味深く読みました。今日の古墳関係の議論の中では皆さん異論も多かろうと思います。これが去年韓国の論文集に載ったということが重要です。韓国の考古学者にとって、古墳の大きな流れといったものが岸本説にせよ、理解できるのです。
岸本さんの論文では、王墓クラスの古墳には大きく分けて二つの系列が有ると整序されています。箸墓と桜井茶臼山を最も古い三世紀後半の前方後円墳とし、しかもこの二つは全く違う系列の始まりとしています。箸墓古墳に始まる系列、これを主系列と考えています。ここでは王さまは卑弥呼を想定しますから、女から始まる。しかも、これこそ本当の王で「神聖王」という名前を付けています。女性から始まって、女→女→男と、男になるのは三代目になるということまで論文には書いてあります。三代目は言うまでもなく崇神ですね。だからこの系列を見ると行燈山古墳は三期目に書いてあります。従来いう崇神陵古墳(行燈山古墳)は埋葬者には疑義があるといわれる人が多い中、行燈山は崇神で断定出来るという主張です。その後に宝来山、五社神と続いて行って奈良盆地北部の方の古墳に移ります。その後、仲津山からは百舌鳥・古市の系列に変わっていく。主系列は神聖王ですから、まさに三代目以降は、男王の系統、しかもそれが大和南部から北部に移り、更に大和から河内へ移行する。こういう大きな流れがあります。一方、桜井茶臼山古墳に始まる系列は副とし、「執政王」と呼んでいます。大和でその系列に乗っかっているのが、私なんかまだまだ違和感があってなかなか承服できないところがあるんですが、桜井茶臼山と同様な墳丘施設を持ちしかも副葬品目に共通性のあるメスリ山、その後に渋谷向山、佐紀陵山こういう系列をずっと北に上がる方向で考える。津堂城山からは河内に動き、先般私も立ち入りました、誉田御廟山(応神陵)につながる。
この論文の基礎となる論証は、すでに『ヒストリア』(大阪歴史学会)なんかで詳説しておられるので、皆さんがこの論文だけ見られても、この二つの系譜について理解しにくいかもしれません。
この論文では、また、岸本さんの実年代論がかなり明確に出されています。舶載鏡を古・中・新の三段階に分ける。舶載品段階と倭製品段階に少し空白期間を設けて、倭製段階は結果的に、鏡の欠乏から始まるという考えです。要は中国からの鏡が途絶すると倭製鏡が出てくるわけで、三角縁の場合も舶載鏡の新段階が入らなくなると、倭製鏡が登場して、以後舶載鏡は無いという論調であります。岸本さんによる古墳の編年は、箸墓が舶載鏡古段階の三世紀中頃、西殿塚古墳を舶載鏡が途絶する二九〇年代からの晋の八王の乱の頃とし、台与(トヨ・イヨ)の墓とみています。
関川尚功さんは、この八王の乱以降が庄内式土器の生まれる時期といわれる。ということは、近畿の弥生土器は二百九十年前後まで残っているということです。亡くなられた佐原真さんの編年観もこのあたりです。九州では、安本美典さんなんかが、やはり古墳の出現は四世紀中ごろに近い、前方後円墳の出現は日本の一般的な考古学者の年代より百年は新しいはずだと言っています。今でも百年隔たりの論争は残っているのですね。この中で、岸本論文では、西殿塚はイヨの墓と断定します。箸墓が卑弥呼で、西殿塚がイヨの墓とみるのは一案ですが、箸墓の被葬者なんか今でも四説あります。箸墓の年代をずっと下げてきてイヨの墓という人がいますね。箸墓を崇神だと書いてある論文も見たことがあります。まだまだ、決着はみていないんです。
特にこの系譜で重要なのは、西殿塚と桜井茶臼山、行燈山とメスリ山という風に二系統がタッグを組んで日本の王権が誕生しているということなんです。皆さん聞かれて、それは面白いという方と、いやいやそれはとんでもなく筋違いだといわれる方がおられると思います。この論文はそういう意味でぜひ読んでいただきたい。

大型建物群域の祭祀土坑の意図は
去年も話題になりました纒向遺跡。今回は大型建物の南で新しい土坑が見つかりました。ここでたくさんの桃の種、祭祀用具、銅鐸の破片が出て大きなニュースとなりました。注目される一つは、その銅鐸の破片ですね。銅鐸の破片というのはだいたい庄内式の古いところから新しいところまでに九割が入ってくるものなんです。時期的限定の上に銅鐸というのは壊れているんではなく、壊しているんです。壊している時期のものは、近畿では全部で四十一例出ております。四十例が近畿式銅鐸で一例だけが三遠式銅鐸です。三遠式銅鐸は早く無くなりますから、三遠式銅鐸の埋納が終わった時期から壊し始めた、壊す対象に三遠式は既に無かったんだというのが私の説です。もうひとつは、近畿式を選んで壊している。時期的に言えば、破鏡や小形?製鏡などたくさん銅鏡が入ってくる時期ですから、近畿式銅鐸を壊す祭祀、あるいは銅鐸を壊す廃棄行為が一斉に始まっている。そういう風に考えることもできる。そういうものを含む土抗が今回見つかっていることが、重要ではないかと思います。もうひとつ、庄内三式の土器が多かったのは事実でありますから、もし建物と同一時期であれば、建物の廃絶祭祀の可能性はないか。もっと言えば、建物の移動に伴う祭祀とすることもあり得るだろうと。
問題点を一つ言いますと、まだ考古学者の多くが総ての土器を見ていないということがあります。この土器を多くの人が客観的に全部見ておりません。今現在考えているのは、庄内式土器研究会を後継して活動を開始している古墳出現期土器研究会が集団で見るということ。ご依頼して、桜井市の教育委員会にこの土器の全貌を出していただいて、どの建物が一番新しく残っているのか、布留式は本当に無いのかということを突き止める必要があると思います。橋本輝彦さんのこの建物への評価を大事にしたいと思うんですが、土器から見た建物の建設年代を物を見ながらできれば共有したい。問題は、布留の時期に建物が残っておれば、それこそ歴史的に継続する意味を考えねばなりません。布留式に残っている建物であればどこまで。ましてや、須恵器の出てくる溝がありますから、一つ一つ建物の建立時期について、土器から全部確かめなければいけないと思います。私自身はこの建物群が短期間で遷宮的に移動すると想定しているのですが……。

論文などにうかがえる研究の進展
大阪大学の考古学研究室の二十周年記念論文集『待兼山考古学論叢』のⅡにおいて、福永伸哉さんが方格規矩鏡と内行花文鏡を巧みに整理され、方格規矩鏡は九州の主流鏡で、近畿ではこの鏡はきわめて貧困である。近畿では基本は内行花文鏡重視の伝統があり、時間差以上に根深い選択があることを論証された。桜井茶臼山なんかは?製内行花文鏡を配布する主謀者が被葬者ではないかという興味深い提言をされています。まだ仮説的ではありますが、小形?製鏡のありようなども加味すべき好論です。
同じ論文集で、大阪府教育委員会にお勤めの三好玄さんが、布留式土器を大きく二系列に分けまして、吉備地方に流行しておりました横ミガキ技法、これを積極的に取り入れて布留式の小型精製の土器群全体に採用したグループⅠと横ミガキをあたかも拒否するまたは省略するという形でやらないグループⅡの二つに分類して、分布の有意性を調べております。従来もこの差は認識されていたのですが、三好さんの論文では、地域ごとに、あるいは時期ごとにこれがどう推移していくかを整理し、いろんな器種で木津川水系・大和川水系・佐紀地域などの多くの遺跡で比較したんですね。その結果、一目瞭然に地域性が出てきたのです。大きくは淀川水系と大和川水系の差になって出てきましたね。お師匠さんの福永さんは、種別ごとの銅鏡の入り方とか前期古墳の差から、大和に入るルートのうち、淀川水系・木津川水系の重視を常日頃主張されておりますけれども、それを土器の技法の面から補強する論文となりました。 
それから、九州地方と近畿地方の土器編年の併行関係を比較検討した論文が出ました。十年ほど前ですと、柳田康雄さんと私とで、日本考古学協会の橿原で開催された奈良県の大会で、近畿地方の後期初頭というのは九州の本当に後期初頭なのかどうかという議論があったのです。中期と後期の境というのは、現状では年代的にずれがあるかどうかということは解決しておりません。この論文は、福岡市教育委員会の久住猛雄さんが書かれたもので、各研究者の意見なんかを踏まえながら、近畿地方の代表様式の第Ⅴ様式・庄内式・布留式といった編年と、九州地方の須(す)玖(ぐ)Ⅱ式、高(たか)三(みず)瀦(ま)、下(しも)大(おお)隅(くま)、西(にし)新(じん)といった型式がどういう位置関係にあるかということを提示したものです。研究史を踏まえつつ整合性をとろうとしているものです。九州地方では須玖Ⅱ式を二つに分けて、更に須玖Ⅱ式の新相を二つに分ける。高三瀦も三つに分ける。下大隈も二つに分けるというように、昔の森貞次郎さんの土器編年が全部細分されているというのが、昨今の情勢であります。これはおそらく古墳成立のころを比較する場合、重要になってこようかと考えます。

蓄積ある陵墓公開運動を追って
第三回目となる陵墓の立ち入りは、河内大塚山古墳を対象におこなわれました。雄略天皇陵ではないかということも言われている問題の古墳なんです。十六学協会の立ち入りには、私も行きました。ここには丹下城という中世のお城がありまして、だから、入った第一印象は、墳丘に城砦の畝(うね)状(じょう)竪(たて)堀(ぼり)のような遺構があるなと思いました。
それともう一つ、前方部が削平されているか、あるいは前方部が本当に盛られていないほど扁平でありました。前方部未完成説というのがありますね。それと、あと、周濠をずうっと見ていきますと、なんとなくぎこちない場所が何ヶ所かにありまして、古墳自体が、実際に完成度がどうなのかということと、その築造時期や改変の時期が問題になってきます。
それと、私が入った時の印象では、埴輪が一点も無かった。大変規模が大きいのに破片もない。ということは、やはり、六世紀の初頭より以降、中ごろに近い年代を与えても良いのかなと思いました。
もうひとつは、石室らしいものが存在したようです。後円部に大きな石が有るのですね。天井石に近いようなもの。それは横穴式石室の存在を思わせますから、この古墳は、少なくとも雄略陵と呼んでいるような時期のものには合致しないだろうと。
見瀬丸山とか、大和の大型前方後円墳というのは新しいものがありますからね。河内でも見瀬丸山まで下るかどうかは別にしまして、それぐらいまで下げて、古市古墳群の中で、下限を示す古墳として大型古墳がなお築かれていると見る方がいいんじゃないかというのが私の正直な考えです。これは入ったから抱けた印象で、結論はまだまだわからないんですけれど、この古墳を五世紀と見るよりも、六世紀と見る方がいいであろうということが根拠をもって分かります。百聞は一見にしかずです。
それから、陵墓とも関連することですが、古墳のレーザー測量というのがかなり進んできまして、関西大学で開催された日本文化財科学会の発表で、計測三次元測量の非常に細密なデータが発表されました。大阪の御廟山古墳、それと佐紀盾列古墳群のほうでもコナベ古墳をやっています。これは、何万点という数多い地点の正確な測量が出来るんですよね。樹木のあるなしで私たちは航空測量の時に大変苦しむんですけど、そういう樹木とか存在してでも、データの点数は、膨大な数を得ることができるようになりました。その結果、はっきり言うと、陵墓図は非常に粗いということがわかったんですね。もし陵墓を全部レーザー測量しますと、大変費用はかかるんですが、宮内庁書陵部の陵墓図より非常に詳しい図面が出来上がることになり、墳形・構造研究は格段に進みます。造出し部分も非常に精度よく出ております。大型古墳の実情がもっとも詳しくわかるやり方が、定着してくる見通しが出てきたということであります。

話題の遺跡や古墳の調査成果
中西遺跡の近くの秋津遺跡。埴輪を連想した人が多いと思いますね。それから葛城氏との関係を彷彿とさせるので、そういうことに気を回された方もおられると思います。発掘したのは、まだほんの六分の一ぐらいですか。だから、全面発掘を加えれば、少なくとも東西にはもっと広がる。評価はまだなかなかできない。とてつもない面積となります。三段階変遷とか現地説明会資料では書かれていますけど、まだまだ評価はむずかしい。こういうものが大和盆地の南の方の沖積地で出始めたということ、中西遺跡の水田と並んで、大和盆地はまだまだわからないことが多い。また、今後この建物群の性格づけが論議を呼ぶことになるかと思います。
篠山市の雲部車塚古墳は、明治時代に村人たちによって発掘された資料が、現在の学問的水準でもって再分析されて、特に京都大学考古学研究室の方々がもう一度遺物を再整理して、兵庫県立考古博物館から体系的な大きな本を作られ紀要に出ました。
最近、この雲部車塚以外にも、紫金山とか東大寺山とか、前期、中期に係わる重要な発掘報告書が、この数年で十冊ぐらい出ているんですね。そういうのを含めますと、前・中期の古墳の詳細な手がかりが増えてくると思います。
芦屋の打出小槌古墳では、初めて後円部の発掘調査が行われました。この古墳は熊本県や福岡県の装飾古墳と同じ顔料を使った緑彩色埴輪、九州に多い巴形の透かし孔を持った靫(ゆぎ)形埴輪が出ています。そうしますと、この古墳は、九州との関係が異常に深いことが知られます。『日本書紀』の雄略紀九年条に凡河内香(かた)賜(ぶ)という人物が出てまいります。この人物は沖ノ島に係わりがあって、神祭りのため九州にも出向くような、采女とともに大和王権がとり行う海上祭祀にたずさわるような人で、海人とも関係がある可能性があります。私はこの人物を被葬者として考えています。
百舌鳥・古市古墳群が去年世界遺産暫定一覧表登録になりました。まだ困難なことがいっぱいありますね。ご存じのように、世界遺産というのは、信憑性が問われている。もうひとつは公開性ですね。ところが、百舌鳥・古市古墳群の大王陵、超大型前方後円墳はどっちもだめなんです。陵墓ですから、公開に踏み切る点では難しい。信憑性は、例えば誉田御廟山は本当に応神なのかどうか、日本人ですら結論的なことは出ていない。大山古墳も被葬者や時期など問題です。誉田御廟山は、今回立ち入ることによって、古墳が五世紀の初頭に近いということはほぼ確定的にいえそうになりましたから、応神の活動期よりちょっと古くなってきました。四世紀末でも良いという人もいますから、築造年代は四世紀末~五世紀前半の幅が存在します。しかし、信憑性からいうと、やっぱり百パーセント分かっているエジプトとか中国とかの王墓や皇帝陵、そういう世界文化遺産のレベルとは全然対比できない。それから史跡指定によって、先に国内法に基づく一定のレールがあるかどうか。それが出来ない陵墓というのは、前方後円墳の墳丘を中心に全部宮内庁管理になっていますね。外堤、その外回りが史跡になっている。こういう状態の古墳が多く、追い込まれています。堺市とか藤井寺市、羽曳野市が頑張ってやっていますけど、やはり、文化庁と宮内庁との提携、歩み寄りがかなり重要と思います。現状を評価をすれば、なかなかハードルが高いと思われます。

終末期古墳では奈良県の越塚御門(ごもん)古墳の出現にはびっくりしました。まさに『日本書紀』の記事に合うという形のものが出てまいりました。これについては、宮内庁の見解は全く変わらず、諸学会の意向とは違いをみせます。石材などをどこから運んできたかというようなことが、ひとつの重要な指針になるんじゃないかと思われますね。それから、この石槨の入口の部分の構造がやはり気になりました。もう少し発掘面積がほしいですね。

横穴式石室の型式研究と未解決の争点
『考古学雑誌』掲載の太田宏明さんの論文「考古資料の分類単位と過去の社会組織」は、土器にも石器にも銅鐸にも使える分類単位の基礎は何かということを考察し、横穴式石室にはこのように使えるのではないかということを示した論文です。初心者を含め、考古資料の原点に立ち返る論文ともいえるし、もともとは石室の系統や型式問題をどう料理するかというところに眼目があって、納得させるために前半部分に考古資料の単位・分類についての基礎論を強調して書いたともいえる論文です。
石室については、九州型の石室、畿内型の石室に加え、カルナックのドルメン等も含めて幅広く考察されています。また生物学でよくつかわれる系統樹のやり方で整理がなされており、膨大な資料をベースとしたものであることが分かります。これを整理した系譜では、岩(いわ)橋(せ)型石室は畿内型石室経由ではなく、百済系に直結しているとか、九州系石室も三河への影響と段ノ塚穴型への影響とを個別に見ておることなどが示されております。
さて、白石太一郎さんが「前方後円墳終末の暦年代をめぐって」という論文を書いておられます。これは新納泉さん(岡山大学教授)と論争をしていまして、十一月に出た坪井清足先生の記念論文集に掲載されたものであります。いま横穴式石室で論争しているのは、系譜論と年代論なんですね。大きな考え方の食い違いが有るんです。その結果、被葬者像にも影響が出てまいります。相互検証は大事なんですけど、平林式を設定して、→天王山→石舞台→岩屋山という変遷を示す白石編年に対し、藤ノ木→天王山・牧野→五条野丸山・石舞台。これが新納説なんですね。全然折り合わないんです。石室の構造にそれぞれの主張が有るんですけど。新納さんの研究というのは、一昨年『考古学研究』に出た論文によりますと、吉備の石室を畿内の石室とかなり同化させて考えています。白石さんは系統的に考える。だから前後関係が逆転するところもあるんです。そこに関川尚功さんとか、さらに太田さんの編年で違いがまた出てきますから、横穴式石室の編年はまだまだ難しい。何を絶対的根拠とするのか。
ただ、この白石論文を読んでひとつうなずけたのは、被葬者というのは分解して考えないといけない。被葬者論をやるんであれば、『日本書紀』なんか使って出てくる没年。これはひとつメルクマールになりますけれども、それだけを頼ることはできない相談で、寿陵を考えることも大事です。寿陵の概念を古墳がどこまで容認しているか。それと、改葬というのが有るんですね。横穴式石室ではどうなのか。今回、飛鳥では改修という概念も出てきましたね。だから没年、寿陵、改葬、改修、さらに追葬というのを、巧みに説明し、全部に整合性をとった論文を書かないと、ケチがつきます。まあそういう点で、白石・新納論争と呼んでいるものは決着がまだまだついていないと思いますけど、発火点をなす重要な論文じゃあないかと私は思います。

その他の地域動向
古代の研究では、地方行政の研究が最も進んだのは長野県ではないかと思います。長野県は全県あげて、七世紀、八世紀、九世紀前半ぐらいの硯・木簡とか、官衙、寺院、官道、そういったものを全部取り上げまして、総合的なシンポジウムを長野県考古学会主催で開催しております。今回挙げられた資料を見ますと、古代の中心地域というのは、官衙関連が遺構としてブロックをなしますから、ひとつの寺院や役所だけ見ておっても解決がつかない。寺院と道、それにともなう官衙、郡家、郷家、有力集落という、こういったものが遺跡構造全体とどうつながるかという点で議論が進みました。そこに独自の役割を果たす地域構造をもつところと生産物の貢納などに関係を持つ地域構造。それと郡衙の一部を補足する地域構造、そういったものが結び付きあって、信州全体のクニとしての古代地域構造になっているという見通しになっています。こういう研究はやはり先ず国ごとにやらなければならないでしょうね。上野、下野や武蔵はこういう研究をかなりやっています。ところが、私たちのフィールドである摂津地方は遅れています。摂津全域でこういうことを考えた論文は現れておりません。最近、高橋照彦さんが西摂平野のところを古代史の視角から取り上げたのが出ています。私も旧菟原郡周辺を取り上げた経緯がありますが、まだまだ狭いスケールです。
日本考古学協会の兵庫大会では、石棺と『播磨風土記』と銅鏡の膨大な研究発表資料が出ました。石棺ではお膝元の竜山石の石棺がかなり取り上げられていました。銅鏡の方では、近畿から関東へ波及するような銅鏡とか、弥生時代から古墳時代にかけての銅鏡の変化と画期、それから中国大陸での銅鏡生産の動きと日本列島に入ってくる銅鏡との関係性、そういったことや三角縁神獣鏡の問題が討議されたんです。

印象に残った鉄をめぐる展覧会
鉄に関わる展覧会が、昨年は非常に多かったですね。近つ飛鳥博物館では、「鉄とヤマト王権」。天理参考館では「よみがえるヤマトの王墓―東大寺山古墳と謎の鉄刀―」。東大寺山古墳は五十年ぐらい前の発掘調査の成果が今出来上がったんですね。これは金関恕先生をチーフとする報告書の刊行研究会の大きな成果であります。この二つの展覧会は私も同時に見たのですが、大量の鉄器が両方とも展示されて図録も大変よくまとまっていました。
それから、淡路市では、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡という弥生時代後期の遺跡が見つかっていましたが、その鉄器文化・鉄器生産の紹介を北淡の震災の資料館でやっていました。弥生の鉄器作りの水準というものが相当数集められた資料に基づき、図や写真などていねいに展示されていましたね。

最後に
 発掘調査全体の件数が経済不況のあおりもあって減少し、二十年前の平成元年辺りの頃の件数に近づいています。勿論、発掘や文化財に関係する専門職員も減っており、考古学の専攻生がそのまま発掘調査を所管する役所や研究所の課や係に就職する状態はかなり失われてきています。
皆さんが昨年多数お越しになった芦屋の会下山遺跡を国史跡に指定する官報告示が二月七日に出ました。発掘後五十年たってようやく国史跡になったということでございます。これを契機に、自然と触れる山の遺跡の重要性を発信しなければと思います。
レジュメ記載以外で注目した出版物は、同成社から出た『出雲大社の建築考古学』、サンライズ出版淡海文庫の『邪馬台国近江説』と、同じ出版社の『びわこ水中考古学の世界』、吉川弘文館の『日本古代氏族人名辞典』と『事典 人と動物の考古学』などたくさんあります。
また、見逃せない労作として、下垣仁志著『三角縁神獣鏡研究事典』(吉川弘文館)をあげておきます。

二〇一〇年の考古学界は本当に多くの出来事が起きて、私も皆さんも消化不良になるくらいでした。
平城遷都一三〇〇年祭に彩られた一年間でもありました。一九八日間の会期中に三六三万人に上る人々が平城宮跡会場を訪れたということです。予想以上に「せんとくん」もがんばったようです。
歴史というのは、どこかの部分だけを勉強するのはダメなんですね。やはり歴史というのは、過去・現在・未来を通してそれぞれ物事の結合関係を考えないといけません。縄文時代と古墳時代の最新研究を勉強しないと、弥生時代は理解できないんです。縄文時代は旧石器時代と弥生時代を十分勉強しないと理解できないと思います。皆さんは逆に未来というものを考えるから過去を勉強することに傾注する。そして、一番大事なのは現在ですね。現代社会をどう生きていくのか。明日何が起こるか分からないというような時代にくらしているわけですね。そのためには、過去のあらゆることを学んで、私たち個人個人が歴史の推移の通しをコツコツと作り上げなければなりません。ご自分で、次に何が起こるかといった社会の法則や動きを見出すということが大事なのです。私のつたない話は、そのほんとうに何十分の一にしかならないと思いますが、明日を生きる勇気になれば幸いです。どうもご清聴ありがとうございました。

文責(会員)小川 滋

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