4・5世紀におけるヤマト政権をめぐって
つどい281号
-南朝冊封体制と倭の五王-
皇學館大学史料編纂所教授 荊木 美行 先生
画面をクリックすると大きくなります
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
(以下検索用テキスト文 お使いの漢字辞書により文字化けすることがあります)
四・五世紀におけるヤマト政権をめぐって
―南朝冊封体制と倭の五王―
皇學館大学史料編纂所教授 荊木 美行
一、四・五世紀の王権
五世紀史における倭の五王
ただいまご紹介にあずかりました皇學館大学の荊木でございます。この豊中歴史同好会では、つい先日二月の例会でお話しさせていただいたばかりですが、こうしてまた講演の機会を与えていただきましたことをうれしく存じます。
本日は、「歴史学からみた四・五世紀における政権交替」というテーマでなにかお話をということでした。この時代の王権に関しては、本会の顧問の塚口義信先生が例会でもたびたび取り上げておられるようなので、二番煎じのようなお話では、皆様も退屈ではないかと思い、あれこれ悩みました。悩んだ揚げ句に、倭の五王について、ちょっと特殊な問題を取り上げることにいたしました。すこし専門的なお話になるかと存じますが、しばらくお付き合いをねがえれば幸いです。
倭の五王というと、もっぱら五王、すなわち讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)がどの天皇にあたるのかという点に関心が集まりますが、ほかにも重要な問題が数多く残されています。倭の五王のことをしるした文献は、中国の歴史書ですから、『古事記』『日本書紀』との整合性を考えるまえに、まず、倭の五王を『宋(そう)書(じょ)』なら『宋書』のなかでどのように位置づけることができるか、考証すべきです。そこで、以下は、倭の五王に関して、基本的なことがらでありながら、従来あまりきちんと実証されていなかったことを取り上げてみたいと思います。こまかい話なのですこし退屈かも知れませんが、五世紀における政権の交替について考える基礎的な作業とお考えいただきたいと思います。
二、「国王」と「王」は同じか?
倭国王と倭王はちがうのか
表Ⅰの「宋と倭の交渉年表」をご覧ください。『宋書』の記載をもとに作成したものです。これによれば、五王のうち、讃はべつとして―あとでお話しするように、讃の封(ふう)冊(さく)記事は存在しません―珍・済・興の三王は倭国王に、武は倭王に封冊されています。
これは、どちらかが誤っているのでしょうか。それとも、中国南朝の冊封体制(さくほうたいせい)では、周辺諸国の首長に与えるために、「王」と「国王」という二つの称号が存在したのでしょうか。
ここにいう「冊封体制」というのは、東アジア諸国の国際秩序を確立・維持するために中国諸王朝が採用した対外政策のことです。具体的には、中国皇帝が周辺諸国の王に役職・爵位を与えて君臣関係を結び、それらの国々を従属的な立場におくシステムのことをいいます。倭国王と倭王のちがいなど、たいした問題ではないように思われるかも知れませんが、じつは冊封体制のなかでは、両者にはかなりの大きな差があります。
この問題にふれた研究は、あることはあります。早稲田大学の東洋史の先生だった栗原朋信(くりはらとものぶ)先生は、例の「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」印の研究のなかで、漢帝国の外蛮夷の朝貢国には「外臣(がいしん)」の国と「不臣(ふしん)」の国とが存在し、前者は「王」の称号を有し、後者は「国王」の称号を有することを指摘し、「委奴国王」の国は漢の不臣の朝貢国であったことを論証しておられます。そして、三世紀になって、邪馬臺国の女王卑弥呼が「親魏倭王(しんぎわおう)」に魏より封冊されたのは、卑弥呼の国が魏の外臣層に編入されたからだと推測しておられるのです。坂元義種(さかもとよしたね)先生は、倭の五王に関する研究のなかで、栗原先生の研究を受けて、独立性の強かった「倭国王」が武の時代に従属性の強い「倭王」にかわろうとしたのだとのべておられます。
眼につく研究は、この二つしかありません。しかも、右の文章を読むかぎりでは、坂元先生は、秦漢帝国の時代を中心として論じられた栗原説を、そのまま南朝の時代に流用しておられるようです。けれども、栗原先生の説を、そのまま南朝冊封体制のなかへもちこむことができるかどうかは、もうすこしきちんと調べなければなりません。南朝冊封体制における「国王」と「王」については、あくまで南朝の史料によって考える必要があると思います。
そこで、以下は、こうした基本的な問題について考察を加えるとともに、それをもとに、「倭国王」と「倭王」という二つの称号のもつ意味を考えてみたいと思います。
南朝諸史はどう表現しているか
はじめに、かんたんに説明しておきますが、南朝とは、一般に宋(そう)・斉(せい)・梁(りょう)・陳(ちん)の四朝を指します。これは、北魏(ほくぎ)など、北朝に対する謂(いい)です。一般に南北朝時代とは、北魏が華北を統一した西暦四三九年から隋が中国を再び統一する五八九年までの約百五十年のあいだ、南北に王朝が並立していた時期を指します。それぞれの王朝については、その歴史を綴った書物が編纂されています。
まず、宋については『宋書』があります。これは、沈約(しんやく)が斉の武帝に命ぜられて編纂した百巻からなる紀伝体(きでんたい)の歴史書です。「夷蛮伝(いばんでん)」の記述のなかに、倭の五王と呼ばれる日本の支配者の朝貢や除正(じょせい)の記載があることはよく知られています。つぎが『南斉書(なんせしょ)』で、これは、宋のあとに興った斉の歴史書です。梁の蕭子顕(しょうしけん)が書いた紀伝体の史書で、全五十九巻からなります。これにつづくのが、『梁書』です。同書は、梁(五〇二~五五七)の歴史を記した歴史書で、全部で五十六巻あります。『宋書』や『南斉書』にくらべると、王朝が滅んでからずいぶんあとになってまとめられたもので、唐の時代の貞観(じょうがん)三年(六二九)に姚思廉(ようしれん)が完成させました。つぎの『陳書』も、やはり、姚思廉が編纂した史書で、貞観十年(六三六)に完成しました。この陳が南朝最後の王朝です。
最後の『南史(なんし)』はちょっと変わっていて、宋・斉・梁・陳四王朝の歴史をしるした通史です。八十巻からなりますが、まとめられたのは唐の顕慶(けんけい)四年(六五九)のことです。
『宋書』倭国伝に「倭国王」と「倭王」の両方の用例がみられることは、さきにものべたとおりですが、南朝の冊封体制を検討するためには、やはり、南朝諸史のなかに記載される「王」と「国王」の用例をすべてピック・アップし、それをもとに、正史ごとの性質や各国の特徴を把握しておく必要があります。
そこで、わたくしは、正史別に本紀と列伝の「王」と「国王」の用例を悉皆(しっかい)調査してみました。本紀は、紀伝体の歴史書で皇帝の事績を一代ごとに年代記風に整理したもので、列伝は、個々の人物や周辺の異民族のことを書いた記録で、南朝諸史では『宋書』『梁書』『南史』に倭に関するまとまった記載が存在します。
本来なら、これらの詳しいデータとその分析結果を紹介すべきですが、あまりに煩瑣になるので、省略します。データの詳細をご覧になりたいかたは、拙著『記紀と古代史料の研究』(国書刊行会、平成二十年二月)に収録した「倭の五王の一考察」という論文をお読みください。本日はその結論だけを紹介しておきますが、南朝諸史の調査の結果、
(一)『宋書』列伝は、「王」と「国王」の称号の使い分けがある、
(二)『南斉書』列伝についても、用例はじゅうぶんではないが、『宋書』と同様の使い分けがある、
(三)『梁書』本紀には、「王」と「国王」の称号の使い分けがあると考えられるが、列伝には、信憑性の乏しい一部の記録をのぞいては、「王」の表記しか存在しない、
などの諸点があきらかになっています。
三、不思議な扶南と芮芮
扶南の称号は特殊か
以上のように、南朝諸史には「王」と「国王」の使い分けがあるようなのですが、そのなかでも、とくに注目すべきことは、倭とともに、芮芮(ぜいぜい)(蠕蠕)・扶(ふ)南(なん)が「王」と「国王」の両方の表記を有していた点です。そこで、倭の五王の考察に入るまえに、この二国について検討しておきたいと思います。
はじめに、扶南ですが、南朝諸史における扶南の「王」と「国王」の用例は、ひじょうに混乱しています。こうした用例の混乱については、
(一)宋・斉・梁を通じて一貫して「王」であった、
(二)ぎゃくに、一貫して「国王」であった、
(三)「国王」から「王」へ、ある時点で称号が変化した、
という三つの考えかたができますが、いずれの見解が妥当でしょうか。
そこで、『宋書』『南斉書』『梁書』の扶南の用例を検討しながら、この点について考えてみましょう。
まず、『宋書』では夷蛮伝に、
①扶南国、太祖十一(四三四)、十二、二十五年、国王持黎跋摩遣使奉献。(扶南国条)
②林邑欲伐交州、借兵於扶南王。扶南不従。(林邑国条)
という二例がみえるだけです。
一般的にいえば、扶南国条にみえる①の用例のほうが信頼できます。しかも、こうした記述は、たとえば、媻皇国条に、「媻皇国、元嘉(げんか)二十六年(四四八)、国王舎利盤羅跋摩遣使献方物四十一種」とあるのをはじめとして、『宋書』夷蛮伝に多く類型がみられるので、扶南も、元嘉年間中(四二二~四五二)に「国王」であったとみて差し支えないでしょう。
なお、その後、①にみえる「扶南国王」とはべつの人物が遣使しており、『南斉書』巻五十八、蛮・東南夷伝の扶南の条には、
③宋末、扶南王姓僑陳如名闍耶跋摩遣商賈至広州。
とありますが、これについては『宋書』には記載がありません。さらに同条には、
④永明二年(四八四)、闍邪跋摩遣天竺道人釈耶伽仙上表、称扶南国王臣僑陳如闍耶跋摩叩頭啓曰(後略)。
とあって、南斉代になって、①・③のいずれでもない人物が遣使朝貢したことを伝えていますが、これらの史料から、『南斉書』でも両方の称号が並立していたことが判明します。
それゆえ、こうした史料に依拠するかぎりでは、扶南が「王」国が「国王」国かをみきわめることはむつかしいのですが、扶南側が、みずから「扶南国王」と称している点を重視しますと、憍は、元嘉年間以後も、扶南は「国王たること」を認識していたと考えてよいと思います。『南斉書』蛮・東南夷伝の加(か)羅(ら)国(こく)条には、加羅国三韓種也。建元元年(四七九)、国王荷知使来献。詔曰、量広始登遠夷治化。加羅王荷知款関海外、奉贄東遐。可授輔国将軍本国王。
とあって、「国王」の称号を与えられている加羅が詔のなかで「加羅王」と呼ばれている例もあるので、南斉代の扶南も「国王」であったと考えてよいと思います。
ところで、『梁書』巻五十四、諸夷伝下扶南国条には、史料⑤に、
⑤後、王持梨噸跋摩、宋文帝世、奉表献方物。斉永明中、王闍耶跋摩遣使貢献。天監二年(五〇三)、跋摩復遣使送珊瑚仏像并献方物。詔曰、扶南王憍陳如闍耶跋摩介居、世纂南服、厥誠遠著、重訳献躁。宜蒙酬納班以栄号。可安南将軍扶南王。
とあるように、粱代に憍陳如闍耶(邪)跋摩(カウンディンヤ・ジャヤヴァルマン)がふたたび遣使しています。この天監二年の憍陳如闍邪跋摩の遣使朝貢および封冊については、武帝本紀にも、
⑥(天監二年)秋七月、扶南亀茲中天竺国各遣使献方物。
⑦(天監三年〔五〇四〕)五月丁己、以扶南国王憍陳如闍耶跋摩為安南将軍。
と対応する記事があり、列伝に「扶南王」とあるものが「扶南国王」としるされています。しかし、さきにみたように、『梁書』の諸夷伝は、もとは「国王」とあったものを「王」に書き改めた形跡があるので、⑦の用例こそが、宋・南斉両代にわたってきた扶南の称号を正しく表記したものと考えてよいでしょう。
ただ、『南史』の梁武帝本紀の同一箇所では、「(天監三年)五月丁己、以扶南王憍陳如闍耶跋摩為安南将軍」とあり、⑤の詔の最後の「可安南将軍扶南王」という箇所と一致しています。この矛盾は、どのように考えればよいでしょうか。
この点について、わたくしは、天監二年(五〇三)の秋七月に朝貢してきた時点で憍陳如闍邪(耶)跋摩は「扶南国王」であったが、翌三年五月の封冊によって「安南将軍扶南王」となり、以後は、梁代を通じて扶南は「王」の称号を維持しつづけたのではないか、と考えています。梁代にはいると、扶南の遣使朝貢数が高句麗や河南なみに激増しますが、このように、梁代に中国への従属度を強めたことも、「扶南国王」が「扶南王」へと変化した原因の一つだと思われます。
「主」とはなにか
芮芮・蠕蠕(「ぜんぜん」または「ぜいぜい」)は、ともに「柔(じゅう)然(ぜん)」の音訳です。柔然は、四世紀の中頃から六世紀の中頃までモンゴリアを支配した遊牧民族の国家です。南朝の宋代はその極盛期であり、大号「可(か)汗(がん)」を称するとともに、しばしば華北へ侵入していました。華北回復を願う南朝側がこれに目をつけないはずはないのであって、芮芮は、南朝の初期より重視されていました。そのことは、『宋書』索虜伝芮芮条に、「索(さく)虜(りょ)(南朝が北魏を呼ぶときの蔑称)を撃ち、代々仇敵関係にあるので、宋はつねにこれを手なづけてきた」とあることからもあきらかです。
また、『南斉書』芮芮虜・河南鵜羌伝の芮芮虜の条に、
①宋世、昇明二年(四七八)、太祖輔政、遣驍騎将軍王洪軌、使芮芮剋期共伐魏虜。建元元年(四七九)八月、芮芮主発三十万騎南侵。魏虜拒守不敢戦。芮芮主於燕然山下縦猟而帰。(中略)。二年、三年、芮芮主頻遣使貢献貂皮雑物、与上書、欲伐魏虜、(後略)
②(永明元年〔四八三〕)芮芮王求医工等物。(後略)
とあることからもあきらかです。
芮芮と南朝との関係については、あとで詳しくのべるとして、ここでは、芮芮の首長は「芮芮主」「芮芮王」どちらが正しいのか考えておきます。
『南斉書』芮芮虜・河南鵜羌伝の芮芮虜の条には、「芮芮主」と「芮芮王」と二つの表記が存在するのですが、これは、おそらく「芮芮主」のほうが正しいと思われます。なぜならば、北朝の正史である『魏書』が蠕蠕のことをしるした箇所に「蠕蠕主」という表記がみえるからです。また、『宋書』索虜伝芮芮条には「芮芮は勝手に大号を称していた」とあるので、芮芮は、どうもたんなる「王」の称号ではなく、南斉の時代までは「主」であったのでしょう。
では、どうして、芮芮にだけ、「主」という特殊な呼称がもちいられたのでしょうか。
この点についても、あとであらためて考えてみたいと思いますが、ここで注意しておかなければならないのは、『梁書』諸夷伝下や『南史』斉本紀上に「国王」の用例がみられることです。
『梁書』の例は、例外的な表記だと考えられますから、とくに問題とするには足りませんが、『南史』斉本紀上に、「(建元二年〔四八〇〕)九月辛未、蠕蠕国王遣使欲倶攻魏献師子皮袴褶烏程」とあるのは、すこしく注意しておく必要があります。
これは、『南斉書』芮芮虜・河南鵜羌伝に、「(建元)二年、三年、芮芮主頻使貢献貂皮雑物与上書、欲伐魏虜謂上足下。自称吾献師子皮袴褶皮(後略)」とある記述によったものでしょうが、ここに「芮芮主」とあるものが、どうして『南史』では「蠕蠕国王」に書き換えられたのでしょうか。
この点については、いろいろな解釈ができると思いますが、ひとつには、粱代に「国王」に変化したために、『南史』がそれを採ったとみることができます。そうなると、芮芮の称号は、粱代に「主」から「国王」に変化したことになりますから、称号の変化を考えるうえで、とても興味深いものがあります。
四、「国王」国と「王」国のちがい
どの国が何回遣使したか
さて、以上の考察によって、南朝の冊封体制下には、外(げ)蛮(ばん)首長に対する称号としては、「王」と「国王」という二系統の称号のほかに、「主」という呼称が存在することがあきらかになりました。そこで、つぎに、こうした称号をもつ外蛮国の対南朝外交の遣使朝貢や封冊の状況を調査し、はたして南朝に対する従属度に差があるのかどうか検討してみたいと思います。
つぎの表Ⅱは、各国ごとの遣使朝貢回数プラス封冊回数の合計を、南朝各代(ただし、宋のみは宋初、文帝の元嘉年間、宋末の三つに区分した)ごとに示し、さらに、南朝時代を通じての合計を表示したものです。ただし、これは、単純な遣使朝貢と封冊の合計ではなく、いわば、両者をあわせた「関係回数」の合計ともいうべきものです。すなわち、朝貢によっておこなわれたことがみとめられる封冊は一回と数え、また同年に朝貢や封冊が二回あった時にはそのまま二回と数えています。
なお、南朝に通じた国は、四十国以上におよびますが、ここでは、スペースの関係上、三十一国しか掲載していません(省略した国は、そのほとんどが、南朝全時代の関係回数の合計が一回の国です)。
表Ⅱでは、(一)1~8までが「王」の称号を有する国、(二)9~11が特殊性をもっていると考えられる国、(三)12~22が「国王」の称号を有する国、(四)23~31の不明の国、の順に配列していますが、こうした分類がこれまでの考察にもとづくことはいうまでもありません。
つぎに、表Ⅱに示した数値について解説しておくと、まず、合計回数でいえば、「王」国は四十三~五(平均値二十五弱)、「国王」国は一~八(平均値三余)、称号の変化した倭と扶南はそれぞれ十三と十八(平均値十五余)となり、やはり、「王」国が密接に交渉していたことがわかります。
第二に、時期ごとにいうならば、「王」国の値は各時代を通じてほぼコンスタントにあらわれているのが、大きな特徴です。八国のうち、六つの時期区分のすべてに数値のあらわれるものが三国(林(りん)邑(ゆう)・高〔句〕麗・百済)、六時期のうちの五時期まで数値のあらわれる(陳代だけでない)ものが二国(武(ぶ)都(と)〔興〕・河南)とあり、残りの三国(河(か)西(せい)・宕(とう)昌(しょう)・鄧至)も、六時期中三時期に数値があらわれています。
これに対して、「国王」国では六時期中一~二時期にしか数値があらわれていません。倭や扶南は、六時期中五時期に数値があらわれていますから、その回数は、「王」国に準ずるかのようです。
では、これらの数値からは、いったいどのような事実が読み取れるのでしょうか。以下、「王」国・「国王」国・特殊性を有する国、の順で考えていきましょう。
「王」国は中国と関係が深い
「王」国の関係数合計が多いのは、その地理的環境によるところが大きいのであって、「王」国はすべて中国本土周辺に存在しています。そして、それらの国々は、中国側からみても利用価値が大きかったのです。そのことは、これらの国々が、その封冊をうけるにあたって、「王」号のほかに、督(とく)諸(しょ)軍(ぐん)事(じ)や将軍・刺(し)史(し)・牧(ぼく)・公など純中国的な官職まで授けられていることからもうかがうことができます。しかも、驚くべきことには、それらの官職名には実質をともなわないもの(ただし、これは現代のわれわれの解釈であり、当時の中国からみれば、なんらかの実質をもっているものではありますが)さえふくまれています。
たとえば、元嘉十九年(四四二)に封冊された河西王沮渠(そきょ)無諱の称号には、「持節散騎常持都督河涼沙三州諸軍事征西大将軍領護匈奴中郎将西夷校尉涼州刺史河西王」とみえています。この封冊は、対北朝政策の一環と考えられるのですが、この時代には、すでに沮渠氏の河西地方の支配権は失われていました。にもかかわらず、その地域における「都督諸軍事」や「刺史」の称号が無諱に与えられています。そうしたところをみると、宋は、こうした称号を授与することによって、すでに北魏の実質支配下に移った「河西」の潜在的所有権とでもいうべきものを主張していたことがわかるのです。
なお、これと同様の例として、「過去の栄光」とでも表現すべき称号が授けられていることも、注目されます。高句麗や百済に与えられた「楽浪公(らくろうこう)」という称号がその代表的な例でしょう。この称号によって、かつての漢帝国の栄光を夢みる江南漢人王朝の政治的意識が外夷の国にまでおよんでいたことがうかがえます。
さて、以上のことから、「王」国は、中国南朝に対して、ひじょうに従属性が強かったことがわかるのですが、こうした「王」国の特徴は、おおよそ、
①中国に近い位置にある、
②それゆえに中国に遣使朝貢回数が多い、
③歴史地理的にみて中国側に潜在的な主権の自覚がある、
④封冊においてたんに「何々王」という称号だけの除正にとどまらない、
⑤南北朝の対立下にあって、軍事的に南朝が協力を求めることが可能である、
という五点に整理することができます。そして、ぎゃくにいえば、こうした五つの条件をほぼ満たしていることが「王」国と認められる資格だといえます。
「国王」国は従属性が弱い
では、つぎに、右の①~⑤の五つの条件を、「国王」国の場合にあてはめてみましょう。ただし、その際、多少問題の残る加羅・滑(かつ)両国は、ひとまず除外します。
まず、条件①の「中国に近い位置にある」でみると、これらの国々は、インドネシア諸島およびインド附近に存在しており、こうした遠隔地への往来には船を使わなければなりません。船による往来は、わが国の遣唐使の例をひくまでもなく、気象条件に影響されやすく、回数も、不定期におわってしまう可能性が大きいのです。したがって、当然のことながら、条件②の「中国に遣使朝貢回数が多い」もあてはまらなくなります。
つぎの条件③の「中国側に潜在的な主権の自覚がある」も、「王」国の場合にはあてはまらない場合が多いと思います。そのことを端的に示しているのが、『宋書』夷蛮伝の序文でも中国との歴史的なかかわりについては、いっさいふれられていません。そもそも、条件①のところでもみたように、自然地理的に近くない以上、条件③があてはまらないのも当然といえます。
つぎに、条件④の「封冊においてたんに「何々王」という称号だけの除正にとどまらない」もあてはまりません。たとえば、『宋書』夷蛮伝にみえている媻達・媻皇の封冊がたんなる「国王」のみにとどまったことは、すでにのべたとおりです。
最後の条件⑤の「南北朝の対立下にあって、軍事的に南朝が協力を求めることが可能である」という点も、まったくといってよいほど関係ありません。これらの国々は、むしろ貿易・友誼・仏教的な交流を求めて朝貢していたのです。
ところで、ここで、さきに留保しておいた加羅・滑の二国についても考えておきます。
まず、条件①の中国との距離、②の朝貢回数についていえば、両国は、「王」国に準ずる位置(加羅は朝鮮、滑は西域ですが)にあるといえます。ただ、それにもかかわらず、中国との関係回数はかならずしも多くはないのですが、これは、この両国が「新興国家」であったことに原因があると思われます。
つぎに、条件④「何々王」という称号だけでない」、⑤「軍事的協力」ですが、これらの条件は、両国のあいだで、多少ことなる点があります。
まず加羅ですが、注目されるのは、おなじ「国王」国です。東南アジア・インド諸国は、たんに「何々国王」の封冊しか受けていないのに対して、加羅が、「輔(ほ)国(こく)将軍、本国王」に封冊されている点です。おそらく、「輔国将軍」号が附加されたのは、条件⑤に関して、加羅が、ある程度条件を満たしていたからでしょうが、関係回数の点からいえば、加羅は「国王」国レベルだと評価できます。
では、滑はどうでしょうか。
まず、国王」という称号が与えられた理由は、加羅と同様でしょう。しかし、将軍号が付与されなかったのは、加羅とはぎゃくの理由によるものであって、障碍の多い陸路を通じてくる西域諸国とくらべて、朝鮮半島のほうが、軍事的に重視されていたのは当然です。
ちなみに、条件③「中国側の潜在的主権」についていいますと、この両国に関する一定した評価はきまっていなかったようです。しかし、加羅は、一回の遣使朝貢で「輔国将軍、本国王」を授けられているので、もし、その後もコンスタントに遣使をつづけられていたら、百済や倭のような称号をみとめられたと思われます。また、いっぽうの滑についても、西域諸国は、漢代以来の慣習により「王」と表記されていたと考えられますから、遣使を重ねていれば、やがては「滑王」となったかも知れません。
倭と扶南は中間的存在
つぎに、倭と扶南について、条件①~⑤の五つの条件をあてはめてみます。
まず、条件①の中国との距離については、倭や扶南は、加羅や滑と類似しています。つまり、「王」国と一般的な「国王」国の中間的な地域にあります。表Ⅱにみえるように、条件②の朝貢回数において、やはり中間的になっているのもそのためです。
つぎに、条件③「中国側の潜在的主権」はあてはまりません。インドシナ半島を南から西へと回る位置にある扶南と、朝鮮半島と海を隔てて位置する倭の二国に対し、中国が潜在的主権を主張することは、まず考えられません。
また、条件④の「「何々王」という称号だけでない」という点についても、両者の差異はあるけれども、ほぼ中間的形式をとっていたといえるのではないでしょうか。なぜなら、扶南にしても倭にしても、最終的には、それぞれ「安(あん)南(なん)将軍、扶南王」「使(し)持(じ)節(せつ)、都(と)督(とく)倭・新羅・任那・加羅・秦(しん)韓(かん)・慕(ぼ)韓(かん)六国諸軍事、安東将軍、倭王」に封冊されているからです。
さらに、条件⑤の「軍事的協力」ですが、扶南は、林邑の交州侵入を牽制するために、また、倭は、ときとして北魏へ通じる高句麗への牽制のために、それぞれ南朝の「遠交近攻」策に利用されていたと考えられます。したがって、倭と扶南は、やはり、「王」国と「国王」国の中間的(倭はやや「王」国に近いといえますが)状況にあったと考えられるのです。
蠕蠕の特殊な立場
まえにお話ししましたように、芮芮の首長の称号は、おそくとも南斉までは「主」という特殊なものでした。これは、「皇帝」、または「可汗」を呼びかえて称したものだと考えられます。このことは、北魏の皇帝を「索虜主」とか「魏主」と呼んだのとおなじで、芮芮は、中国南朝の冊封体制において、「外夷」、すなわち、中国皇帝の徳を慕ってくる異民族としてのあつかいをうけていなかったのです。
表Ⅱに示したように、十六回におよぶ芮芮と南朝の関係回数の中味は、すべて遣使朝貢であり、封冊がまったくありません。宋の元嘉年間から梁代にかけて、コンスタントに朝貢をつづけていた芮芮に対して、南朝がなんの封冊もおこなわなかったことは、きわめて異例です。政治情勢的にみて、「王」国にまさるとも劣らぬ重要性をもつ芮芮がなんの封冊をもうけていないということは、きわめて不思議なことですが、これは、結局のところ、宋・南斉時代の芮芮が外夷第一の強国であったことに原因があるのでしょう。
『南斉書』芮芮虜・河南鵜羌伝芮芮条にみえる芮芮からの書状には、南斉皇帝を「足下」いい、自分のことを「吾」と書いていたとあったといいますが、これによれば、芮芮は、みずからを南斉以上に強大だと考えていたのであり、南斉側も、あえてそれを否定しなかったのでしょう。
このようにみていくと、宋から南斉にかけての南斉・芮芮が北魏と対抗していたこの時代は、一種の三朝鼎立状態にあったといえます。あるいは、後世の北宋・遼(りょう)・西(せい)夏(か)の関係に近いかも知れません。芮芮の「主」という称号は、そうした当時の政治情勢に支えられた称号であったとみてよいでしょう。
ただ、こうした状態は、四八〇年代に芮芮が丁零に圧迫されたために、やがては破綻します。さきに、芮芮の称号が、粱代に、「主」から「国王」に変化したとみるべき徴証のあることにふれましたが、こうした芮芮の弱体化を考慮すれば、それも頷けることなのです。
五、「倭国王」から「倭王」へ
称号は変化する
さて、これまでの考察によって、「王」と「国王」を比較した場合、いろいろな点で、「王」が「国王」よりも従属度が高いことが判明したのですが、これによって、冒頭に紹介した栗原先生の説が南朝冊封体制にもあてはまることが証明されました。しかも、「国王」の称号は、けっして固定的なものではなく、従属度の変化に応じて、倭や扶南のように、「王」の称号へと変化することもあったのです。
そこで、つぎに、こうした事実をもとに、「倭国王」から「倭王」への称号の変化について考えてみましょう。
はじめに、『宋書』の対倭関係の記事をかかげておきます。
①讃死弟珍立、遣使貢献。自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。(倭国伝)
②(元嘉十五年〔四三八〕四月)己巳、以倭国王珍為安東将軍。(文帝本紀、①と同じ)
③(元嘉)二十年(四四三)、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。(倭国伝)
④(元嘉)二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故。並除所上二十三人軍郡。(倭国伝)
⑤(元嘉二十八年〔四五一〕)秋七月甲辰、安東将軍倭王倭済進号安東大将軍。(文帝本紀)
⑥ 済死、世子興遣使貢献、世祖大明六年(四六二)、詔曰、倭王世子興(中略)可安東将軍倭国王。(倭国伝)
⑦(大明六年三月)壬寅、以倭国王世子興為安東将軍。(孝武帝本紀、⑥と同じ)
このなかで、まず問題となるのは、④の元嘉二十八年(四五一)の済に対する授爵が「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東(大)将軍、倭王」なのか、それとも「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東(大)将軍、倭国王」なのかという点です。
これまでのべてきたことからもあきらかなように、「国王」の封冊は、たんに「何々国王」にとどまっています。加羅国王荷知(かち)が「輔国将軍、本国王」に封冊された例を考慮にいれても、せいぜい「将軍」号+「国王」号までです。その意味では、「安東将軍倭国王」が「国王」国としての倭が授けられる称号の限界であって、倭が「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東(大)将軍」となるためには、「国王」ではなく、「王」の称号を有する必要がありました。この点から、わたくしは、この元嘉二十八年(四五一)の済は、おそらく「倭王」であったと考えています。
さて、このことを踏まえたうえで、済関係の④・⑤・⑥の史料の関係を解釈すると、つぎのようになるかと思います。
まず、元嘉二十八年に「安東将軍、倭国王」済の遣使があって、済は「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東(大)将軍、倭王」とされた(史料③→④)。そして、すでに「倭王」となっていた(倭)済に対して、おなじ年の秋七月にも将軍号の進号があって、(倭)済は「安東将軍」から「安東大将軍」へと進められたのです(史料④→⑤)。
では、済が「倭王」に封冊されたことと、珍が「自ら使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東(大)将軍、倭国王と称し」たこと(史料①)との矛盾は、いったいどのように理解すればいいのでしょうか。
讃の爵号はどう変わったか
そこで、この問題を考えるために、あらためて、初代の讃から考えてみます。
讃については、
⑧倭国在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年(四二一)、詔曰、倭讃万里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。太祖元嘉二年(四二五)、讃又遣司馬曹達奉表献方物。(倭国伝)二年(四二五)、讃又遣司馬曹達奉表献方物。(倭国伝)
とあって、永初二年と元嘉二年の二回宋に遣使したことはうたがいがない。
さらに、元嘉七年(四三〇)にも、
⑨(元嘉七年春正月)是月、倭国王遣使 方物。
という記事がみえるが、わたくしは、これも讃のことと考えてよいと思います。⑨の「倭国王」を倭の五王以外の六人目の別な王とみる説がありますが、これは成立の余地がありません。もし、これが新王のはじめての遣使ならば、他の例と同様、封冊記事が記録されるのが本紀一般の用例です。これなどは、『宋書』本紀を繙けば、かんたんにわかることですから、研究者の怠慢としかいいようがありません。ですから、元嘉七年の缺名王は、その時点まですでに二度遣使朝貢をおこなっていた讃のことと考えるべきです。
では、讃は、この三回の遣使のあいだに、どのような爵号を得たのでしょうか。坂元先生は、讃は、⑧の永初二年(四二一)の遣使で「安東将軍、倭国王」となったものと考えておられるが、これは、したがうべき見解です。加羅が初遣使(しょけんし)(南斉の建元元年〔四七九〕)で「輔国将軍、本国王」となったことを思うと、すでに漢代や三国魏代、晋代に通じた倭が、宋代初遣使でこれぐらいの爵号を授けられるのは、当然です。
さらに、坂元先生は、讃は遣使をかさねるうちに、史料①のような珍の自称に近い爵号を得たと推定しておられる。もし、そうだとしたら、讃も、最終的には、「倭国王」から「倭王」へとその称号が変化しなければならなかったはずで、わたくしは、おそらく、興をのぞく倭の四人の首長たちは、「安東将軍、倭国王」→「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東(大)将軍、倭王」というパターンで封冊・除正されてきたのだと思います。
さて、以上のように考えると、「倭国王」から「倭王」への称号の変化は、「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」と連動しておこなわれたことがよくわかります。
「使持節都督倭国諸軍事」だけならともかくも、朝鮮半島の百済・新羅・秦(辰)韓・慕(馬)韓という地域での軍事権を獲得し軍事行動を起こす以上は、中国側の(潜在的)主権の発動にあうことはまぬかれません。主権の一部を移譲(いじょう)してもらうためは、「国王」ではなく、「王」国となる必要があったのでしょう。その意味では、「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」は、一部の研究者がいうような「修飾のための称号」などではなく、倭の実質的な軍事権を意味していたといえるのです。
なお、『宋書』倭国伝によれば、
⑩興死、弟武立。自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王。(倭国伝)とあって、最後の武も、珍とおなじく(おそらく讃・済もそうしたであろう)、「使持節都督(中略)百済諸軍事(中略)倭国王」を自称しています。
かれが中国南朝冊体制の原則を無視した理由はわかりません。しかし、倭側は、南朝の冊封体制の意義を知ったうえで、あえて「倭国王」を自称したと思われます。倭としては、それだけ、朝鮮半島における軍事的支配権に固執していたのでしょう。
しかし、こうした自称に対し、宋が許したのは、「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」であって、「都督百済諸軍事」・「倭国王」はついにみとめられませんでした。
じつは、倭が、南斉初の建元元年(四七九)より以後、中国との交渉を断っているのも、こうした武の除正と関係があるといわれています。すなわち、四八〇年代以後の倭は、百済と結んで高句麗と戦うどころか、ぎゃくにその百済や新興の新羅と任那加羅の支配をめぐって争うことになるのでして、そうした実際の軍事的行動において、いつまでも中国の権威を嵩に着ることができないということが、ここに至ってようやくわかってきたのでしょう。建元元年以降、中国との国交が杜絶えてしまったのも、倭が、中国の権威に見切りをつけた結果だと考えることができます。
おわりに
さて、これまで、南朝諸史をもとにして、その王と国王の用例の検討→南朝冊封体制の検討→扶南・芮芮・倭のそれぞれの特殊性の問題→「倭国王」と「倭王」、という順で論を進めてきました。ここで、もういちどかんたんに整理しておくと、
(一)興以外四王が、宋代に「安東将軍倭国王」から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東(大)将軍倭王」へと進められた、
(二)その理由は、倭が中国の(潜在的)主権の一部を譲られるために「国王」国から「王」国へとその従属度がかわらなければならなかったという点にもとめられる、
(三)しかし、倭は、こうした中国の処置を望まずも、むしろ、独立性の強い「倭国王」を自称した。このことは、扶南とことなって、倭が強い自立性をもって外交をおこなっていたことを示すもので、それがひいては、南朝との国交断絶の原因にもなった、
などの諸点に尽きます。
なるべく文献史料に忠実に即して論をすすめてきたつもりですが、ここでのべた「王」「国王」の比較を通じて、中国南朝の冊封体制下にあって、倭の五王が、異端かつ独立的な外交を展開していたことを把握することができるのは貴重なことではないか思います。本日ご説明したことによって、いくらかでも、当時の日本の立場を国際的な見地から理解することができたならば、わたくしとしても、たいへんうれしく存じます。
長時間にわたって、ご清聴、ありがとうございました。
【質疑応答】
〔質問1〕表Ⅰに元嘉二年(四二五)に倭王讃が司馬曹達を遣わしたという記事がみえますが、ここにいう「司馬」はなにを意味するのですか?
「司馬」について二つの解釈があります。一つは中国人の人名とみる説です。いま一つは官職名とみる説で、中国の軍官には「司馬」が存在します。讃は講演でもお話ししましたように、安東将軍に任命されたと考えられますから、「司馬曹達」は安東将軍府の属僚としての「司馬」という軍官の曹達という人物と考えるほうがよいと思います。「讃」が中国風の大王名であるとすれば、曹達もまた中国風のネーミングだと考えられます。
〔質問2〕やはり表Ⅰに関する質問ですが、荊木先生のお話では、昇明元年(四七七)の名無しの倭国王は「興」以外には考えられないとのことでしたが、もしそうだとすると、稲荷山古墳の辛亥銘鉄剣の銘文と矛盾します。銘文中のワカタケル大王を雄略天皇すなわち倭王武とみ、辛亥年を西暦四七一年とみると、雄略天皇の前王の安康天皇に比定される興が四七七年に宋に遣使しているのは、ちょっとおかしいのではないでしょうか?
おっしゃるとおりです。昇明元年の遣使が興であることは、『宋書』の記載方法からみて疑いありませんから、「辛亥年」が西暦四七一年だとすると、ワカタケル大王は武ではなく興ということになります。しかし、わたくしは、むしろ、鉄剣銘の辛亥年は、四七一年ではなく、一巡繰り下げた五三一年がよいのではないかと考えています。詳しいことは別の機会に譲りますが、わたくしは、銘文に「在斯鬼宮時」とあるのを「シキの宮に在リシ時」と過去形に理解し、ヲワケの臣は、雄略天皇の時代に杖刀人として奉仕したことを回想しつつ、五三一年に銘文を刻んだのだと考えます。これは、通説とは異なる見解ですが、そう考えるほかな
いと思います。
=end=
この記事へのコメントは終了しました。
コメント