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光明皇后と長屋王

つどい280号
堺女子短期大学准教授 水谷千秋 先生

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(以下検索用テキスト文)

光明皇后と長屋王
堺女子短期大学准教授 水谷千秋


奈良時代の皇位継承は、一貫して聖武天皇をめぐって行われてきたといえよう。天武から持統を経て、孫の文武、その母の元明、その娘の元正へと受け継がれてきた皇位は、本来は直系である天武―草壁皇子―文武から聖武へと継承されるべきものであった。しかし草壁と文武の二十代での夭折によって、持統と元明・元正という三人の女帝が中継ぎ的な即位をすることとなった。息子を亡くした持統は孫の文武の成人までの中継ぎ、同じく息子の文武を亡くした元明もまた、孫の聖武までの中継ぎとして即位し、間に聖武の叔母の元正も立った。こうしてまさに満を持して即位したのが聖武天皇であった。しかし聖武譲位後の皇位継承はさらに混迷を極めた。奈良時代後期の政治史の背後には、すべて聖武の後継者問題が横たわっている。

聖武天皇には全部で五人の后妃がいた。このうち子どもを産んだのが、のちに光明皇后(光明子)となる安宿媛(あすかひめ)と、県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)の二人である。光明子は阿倍内親王(孝謙天皇=称徳天皇)と基王(某王ともいわれる)を産んだ(後述するように基王は生後約一年で没した)。県犬養広刀自は、井上内親王、安積(あさか)親王(十七歳で病死)、不破内親王の三人を産んだ。合わせて男子二人、女子三人だが、女子は三人とも長く生きたのに対して、男子で成人した者はいなかった。これが聖武の後継者問題の要因である。

こうした中で、立場は異なるけれども存在感を増してきた二人の人物がいた。光明皇后と長屋王である。光明皇后は藤原不比等の娘で、聖武の妻。長屋王は高市皇子(天武天皇の長男)の長男であった。光明皇后は臣下の出で、長屋王も直系の出自ではないから、二人は本来であれば皇位継承の資格に問題があるのだが、聖武の皇子女が乏しい中で注目されるようになり、一時は即位の可能性すら浮上したのであった。ただ明暗が分かれたのは、長屋王は聖武の地位を脅かす者として警戒され、謀反の疑いをかけられ殺害されたことである。その分かれ道はどこにあったのだろうか。


養老四年(七二〇)十月、『日本書紀』が完成したその年、藤原不比等が亡くなった。六十二歳であった。このとき不比等に正一位太政大臣追贈の詔を伝える使者として派遣されたのが、当時大納言の長屋王だった。その四年後、彼は左大臣となって不比等亡き後の廟堂を担う立場についた。いわゆる長屋王政権の誕生である。
不比等の死から七年後の神亀四年(七二七)閏九月、光明子が待望の男子基王を出産した。十一月、この子は産まれて三カ月で皇太子となる。これまで最年少の皇太子といえば、十五歳の軽皇子(文武天皇)の例しかなかったから、まさに前代未聞のことだった。藤原氏にとってみれば自氏の血をひく皇子ゆえ、将来の即位に期待をかけるのは当然ではあるが、どうしてここまで急ぐ必要があったのか。それはこのころ、もうひとりの聖武の后妃が身ごもっていたからである。基王の産まれた翌年、県犬養広刀自が安積親王を出産した。将来ライバルとなることが予測される安積親王との間に最初から差をつけるべく、基王は立太子することになったのだろう。
しかし寄せられた過大な期待に応えられず、基王は生後一年足らずで神亀五年(七二八)九月に病没する。光明子の悲しみは如何ばかりだったろうか。一方で、安積親王が何月に産まれたか史料がないのでわからないが、基王が亡くなったその年のうちに産まれたことは間違いない。順調に出産しすくすくと成長していく安積親王に、光明子は複雑な思いを抱いていたことだったろう。


左大臣長屋王が謀反の疑いで邸宅を官軍に囲まれ自殺したのは、基王の死の翌年、二月の事である。のちに冤罪であることが発覚するが、左大臣正二位長屋王、私(ひそ)かに左道を学びて国家を傾けむとす。 との密告を受け、式部卿藤原宇合(うまかい)らの率いる六衛府の軍が彼の邸宅を取り囲んだのである。長屋王とともに自殺した妻の吉備内親王は、草壁皇子の娘で元正太上天皇の妹、聖武天皇にとっては叔母である。天武と持統の子であった草壁皇子には、元明天皇との間に三人の子がいて、それが文武天皇、元正天皇、吉備内親王であった。姉元正が生涯結婚をせず女帝として即位したのに対し、吉備内親王は長屋王と結婚し、葛木王・膳夫王と二人の男子も授かった。思えば対照的な生き方をすることになった姉妹だが、最後に吉備内親王は夫・息子ともに悲劇的な最期を遂げた。元正にとってはただ一人の姉妹である。事件後すぐ、勅が下り、吉備内親王に罪無し。例に准へて送り葬るべし。とされた。この勅を発したのは聖武だが、元正の意向を慮ってのことではなかったかと、想像する。長屋王が謀反の疑いをかけられたのは、基王が亡くなった今、彼の即位を推進しようとする勢力が勃興することを恐れてのことであろう。画策したのは夙に推測されているように、藤原四子に違いない。不比等の遺児である武智(むち)麻呂・房前(ふささき)・宇合・麻呂、この四子が長屋王の失脚の首謀者であろう。


長屋王の変の半年後の八月、聖武天皇が五位以上の貴族と諸司の長官を内裏に召し入れ、詔を下した。それは即位以来六年間、空席としてきた皇后の座に光明子を当てるという内容であった。
かいつまんで要約すると、まず自分は即位して六年になり、この間に皇太子を立てた。よってその母である藤原夫人(光明子)を皇后と定めた。というのも、そもそも天皇は独りで天下を治めるべきではなく、必ず「尻(しり)辺(へ)の政事」(背後からの後見)があるべきであり、これを行なう皇后がいないのは決してよくないからである。ただ皇后を定めるのにこれだけの年月がかかったのは、重大な天下の事をたやすく行ってはならないとの思いから、六年間慎重に試し、選んできたからである。このように詔をするのは、始め光明子と婚姻した時に、我が王祖母(おおみおや)である元明天皇が、「女と言えば皆同じようなものと思って私がこの結婚を勧めるのではない。この娘の父である大臣藤原不比等は、天皇である我が朝廷を補佐し、夜も朝も休むことなく浄き明き心を以って仕えてきた。これを見ているので、不比等のその喜ばしいこと、勤勉なことを忘れることは絶対にできない。我が子、我が王よ、過ちなく罪なくあらば、不比等の娘である光明子を捨ててはいけませぬぞ。忘れてはいけませぬぞ」そうおっしゃった言葉に従って、こうして六年間試み使ってきた光明子に皇后の位を授ける。これは我が御世ばかりではない。仁徳天皇の御世、葛城襲津彦の娘、磐之媛(いわのひめ)が皇后となって天下を共に納められた先例もあるのだ。今になって行われる珍しい新しい政治ではないのである。
聖武が言及している先例というのは、臣下の人間が皇后になるということである。当時の皇后という地位は、皇族女性が選ばれるものであり、時にはそれは天皇になる可能性さえ含む地位であった。直近では、持統や推古がこれにあたる。これに対し聖武は、かつて葛城氏の磐之媛が仁徳天皇の皇后になった例を挙げる。しかし仁徳朝といえば聖武朝から二百数十年前も前のことである。逆にいえば、以後は長く臣下出身の皇后はなかったのだ。それでもあえて光明子が皇后に選ばれた理由は、皇太子の生母であることである。しかし皇太子は既に前年に亡くなっているから、この理由は説得力がない。そこで聖武が長々と持ち出すのが、今は亡き元明太上天皇の言葉である。藤原不比等の忠節と功績を讃え、その娘の光明子を決して他の后妃と等しなみに扱わぬように、という元明の遺言のような言葉である。
ここまで言われると逆になぜ六年もかかったのか、という疑問が出てこよう。これに対して聖武は、とひと(田舎の人或いは外国の人、の意)の間でも自分の宅(家・財産)を授ける人を選ぶのに十日二十日とかけて慎重に選ぶのだから、重大な天下の事をたやすく決めることはできないのだ、というが、辻褄の合わない感は否めない。少なくとも言えるのは、光明立后は長屋王の変を経て初めて可能になったことであろうということである。それまでから光明子は聖武の妻であった。しかし臣下出身の后妃が就任する「夫人」という立場と事実上皇族並みに扱われる「皇后」とでは大きな差異がある。自身が皇族の長屋王が左大臣を務める体制では、光明立后は実現しえなかったであろう。せっかく皇太子を産んだ光明子だったが、残念ながら早世してしまった。まだこのとき彼女は二十八歳であるから、妊娠出産の望みは十分あった。しかし先に県犬養広刀自が産んだ安積親王がいる。弟であっても、光明子の産んだ男子こそが嫡子である、ということを正当化するためには彼女が立后する必要があったに違いない。藤原四子の意図はおそらくそうしたところにあったのではないだろうか。その後、結局光明子は妊娠することはなく、孝謙天皇が即位する。その後継をめぐってさらに皇位継承は混乱を極めることになる。藤原仲麻呂と道鏡は、いずれも臣下でありながら皇族に准じた地位を目指し、事実そうした地位に一時的ではあれ即くことに成功したようである。そのさきがけがいわば光明皇后であった。本人の意思がどこにあったのかは明確でないけれども、臣下の人間が皇位にきわめて近いところまで到達したという点で、彼女は仲麻呂と道鏡の先駆者である。

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