孝謙女帝と藤原仲麻呂
つどい279号
皇學館大学史料編纂所教授 荊木 美行先生
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孝謙女帝と藤原仲麻呂
皇學館大學史料編纂所教授 荊木美行
歴史のイフ
歴史にifは禁物だが、奈良朝政争史の研究を手がけていると、「もし、あのときこうだったら……」ということが頭から離れない。ここで取り上げる孝謙(こうけん)天皇(阿倍内親王)と藤原仲麻呂については、とくにその思いを強くする。もし、神亀(じんき)四年(七二七)に誕生した某王(ぼうおう)(基王(もといおう)とも)がそのまま成長を遂げていたら……。あるいは、天平九年(七三七)に藤原四兄弟(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂)が天然痘に罹病)しなければ……。そうなれば、阿倍内親王の即位もなかっただろうし、藤原仲麻呂の乱だって起きなかったのではあるまいか。
しかし、これはあくまで仮定の話。事実は、そうではなかった。今回の講座では、歴史の偶然に翻弄された二人について振り返ってみたい。
仲麻呂登場まで
孝謙天皇と仲麻呂について語るためには、すこし時間を溯(さかのぼ)って、神亀四年(七二七)の某王の生誕から説き起こす必要があろう。さきにもふれたように、この年閏(うるう)九月に安宿媛(あすかべひめ)(のちの光明皇后)が某王を生んだ。聖武天皇や藤原一族にとっては、待望の男児である。関係者の悦びにははかりしれないものがあった。それは、生後まもないこの皇子を皇太子に立てていることからもよくわかる。『萬葉集』には、「藤(とうの)皇后、天皇に奉(たてまつ)る御歌一首」として、
我が背子(せこ)と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし(一六五八)という安宿媛の歌が載せられているが、このときの悦びを遺憾なくあらわしている。
ところが、世の中はなかなか計算どおりには運ばない。某王は、翌年九月十三日に突然死んでしまう。聖武天皇と安宿媛の悲しみはいうまでもないが、この皇子に多大な期待を寄せていた藤原一族の落胆ぶりは想像に余りある。しかも、このころ、聖武天皇の妃の一人であった県犬養(あがたのいぬかいの)広刀自(ひろとじ)が安積(あさか)親王を出産したことは、皮肉としかいいようがない。
もっとも、この時点では、安宿媛(翌天平元年に立后)がふたたび男児を生む可能性も残されていたし、藤原一族とて、それほど悲観していたわけではあるまい。ただ、楽観的なみかたも、時間の経過とともに、やがては焦りにかわってくる。天平九年(七三七)の二月ごろ、藤原武智麻呂と房前の娘があいついで聖武天皇夫人(ぶにん)となっているが(南夫人・北夫人)、これなどは、光明皇后に男児ができない場合を想定した次善の策である。
ところで、おなじ天平九年(七三七)、思いがけない厄難が藤原一族を直撃する。前年から流行した天然痘が都でも猛威を振い、この年の四月から八月にかけてあっというまに藤原四兄弟が相次いで歿してしまう。
これは、大きな痛手である。藤原一族の屋台骨を背負って立つ四人全員が短期間にこの世を去ったことは、藤原一族の存亡にもかかわる危機であった。実際、翌天平十年(七三八)には、橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣に就任し、ここに諸兄政権が確立する。藤原一族が武智麻呂の長男の豊成(とよなり)や次男の仲麻呂を中心に体勢を立て直すのは、まだ先の話である。
なお、この年に、阿倍内親王が立太子(りったいし)したことも、注目される。未婚女性の皇太子は異例であるが、この立太子には、非藤原系の安積親王を牽制する意味があったと考えられる。うかうかしていては、安積親王に皇太子の座を奪われかねないのである。聖武天皇をはじめ、藤原一族の頭には、男児が生まれれば、そちらに乗り換えてもよいという思いがあったのかも知れない。
では、反藤原派のひとびとは、この立太子をどうとらえていたのであろうか。のちのことだが、天平十七年(七四五)、聖武天皇が難波で危篤状態に陥ったとき、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が佐伯全成(さえきまたなり)に謀反を持ちかけている。このとき、奈良麻呂は全成に「陛下の体調はよくなく、ほとんど危篤の状態だが、まだ皇嗣を立てていない」と語ったという。これをみると、当時すでに阿倍内親王が皇太子であったにもかかわらず、反藤原派の人々がそれを認知していなかったことがよくわかる。
孝謙天皇の即位と仲麻呂
天平十二年(七四〇)八月、宇合の子の広嗣(ひろつぐ)が九州で挙兵しているが(いわゆる「藤原広嗣の乱」)、これも、なかなか橘諸兄政権を切り崩せない藤原一族の焦りのあらわれである。しかし、天平十五年(七四三)五月にようやく一つの転機が訪れる。一族のホープ藤原仲麻呂が待望の参議に昇進したのである。しかも、この前後、橘諸兄が恭仁京(くにきょう)経営に失敗し(恭仁京は天平十二年十二月に遷都が決まったが、同十五年には造営が中止された)、大きく後退したことは、藤原一族にとっては追い風であった。
ところで、翌天平十六年(七四四)には、また大きな事件が起きている。この年、難波に行幸する聖武天皇に同行した安積親王が、「脚病(あしのやまい)」によってわずか十七歳で歿したのである。非藤原系の親王が、藤原一族にとっては邪魔な存在だったことはいうまでもないが、そこから、藤原氏による暗殺説が囁かれることになる。確証はないが、あってもおかしくない話である。
安積親王の突然の死によって、聖武天皇は唯一の皇位継承者を失ったが、その後も皇子の生まれる気配はない。天平年間の後半は、聖武天皇も病気がちで、これが跡継ぎに恵まれなかった大きな原因ではないかと推測される。そして、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(七四九、天平二十一年を即位にともない改元)七月二日、ついに天皇は譲位し、阿倍内親王(孝謙天皇)が即位する。まさに苦渋の決断である。なにしろ、未婚の女帝が即位するということは、草壁(くさかべの)皇子→文武(もんむ)天皇→聖武天皇と繋いできた直系相続が孝謙天皇で途絶えることを意味する。それを承知であえて女帝の即位に踏み切ったのだから、この決断は悲痛であった。と同時に、これは、たとえなにがあっても、非藤原系の天皇の即位は認めないという、藤原一族のメッセージでもあった。
栄原永遠男(さかえはらとわお)氏は、阿倍内親王の即位背景には、前年六月、武智麻呂の娘で聖武天皇の妃となっていた藤原南夫人が歿したことがあったと指摘するが、おそらくそのとおりであろう。
とはいえ、三十二歳の阿倍内親王にとって、玉座(ぎょくざ)は重責である。はたして、これに耐えうるかどうかが心配なのだが、新天皇を全面的にサポートしたのが、光明皇太后(こうたいごう)であった。皇太后でありながら、聖武太上天皇を差し置いて政治に介入していくのは異例だが、その背景には、体力的な衰えが著しく、加えて仏教に没頭している聖武太上天皇を頼りにできないという事情があったのであろう。皇太后はそれまであった皇后宮職(こうごうぐうしき)を改組して紫微中台(しびちゅうだい)を設置し、その地位や権限を強化し、孝謙天皇を支えていくための官司とした。そして、その長官(紫微令)に仲麻呂を命じている。仲麻呂は、孝謙天皇の即位と同時に、大納言に就任しているが(同時に、橘奈良麻呂も参議に任じられていることも見逃せない)、これは参議から中納言を飛び越しての異例の昇進で、皇太后がいかに甥にあたる仲麻呂を恃(たの)みとしていたかがわかる。ちなみに、仲麻呂は、このころ、中衛府(ちゅうえふ)の大将も兼任している。中衛府は、神亀五年(七二八)に某王の親衛のためにおかれた役所である。
橘諸兄の失脚
話は前後するが、女帝誕生の前年、天平二十年(七四八)四月には、元正太上天皇が崩御している。太上天皇は、諸兄が後ろ盾と恃む存在であったから、橘諸兄政権にとっては大きな打撃であったことは想像に
かたくない。それでも、このあとは天平勝宝四歳(七五二)に大仏開眼供養があるなど、そちらに精力が注がれたせいか、大きな摩擦は生じなかった。そのバランスが、一気に崩れるのは、天平勝宝七歳(七五五)である。この年の十一月、橘諸兄が、従者佐味(さみの)宮守(みやもり)によって密告されたのである。このときは、聖武太上天皇が密告を握り潰したため、大事には至らなかったが、あとになってこれを聞いた橘諸兄は、翌天平勝宝八歳(七五六)二月に左大臣を辞職する。
ここからの展開が目まぐるしい。橘諸兄辞職の三カ月後には、聖武太上天皇が崩御。遺詔(いしょう)により、道祖王(ふなどおう)を皇太子に立てられた。孝謙天皇の即位を決断した時点で、その後の皇位をだれが嗣(つ)ぐのかは、避けて通れない課題であったが、聖武太上天皇は、生前には自身の意向は漏らさず、遺言というかたちで発表したのである。道祖王が皇太子にえらばれた理由は定かではないが、彼は天武(てんむ)天皇第七皇子の新田部(にいたべの)親王の子であり、数ある天武天皇系皇子のなかで、唯一藤原一族の血を引いていたこと(母が鎌足の女の五百重娘(いおえのいらつめ))が決め手になったのであろう。
ところが、この遺言は一年もたたないあいだに反故にされてしまう。あけて天平勝宝九歳(七五七)三月、素行不良を指摘された道祖王は廃太子となり、かわって四月には大炊王(おおいおう)が立太子する。大炊王は、おなじ天武天皇皇子でも舎人(とねりの)親王の子で、藤原一族とはまったく繋がりがない。にもかかわらず、彼が皇太子になったのは、仲麻呂の思惑がはたらいている。じつは、この大炊王、夭逝した仲麻呂の長男真従(まより)の妻であった粟田諸姉(あわたのもろあね)を妻に迎えており、しかも、以前から仲麻呂の邸宅(田村第(たむらだい))に住んでいた。なんのことはない、仲麻呂は、自身の言いなりになる皇族を皇太子に据えたのである。
橘奈良麻呂の変
これが、反藤原派の皇族・貴族たちの反感を買わないはずがない。しかも、この年六月の人事異動では、反仲麻呂派の橘奈良麻呂や大伴古麻呂(おおとものこまろ)たちが軒並み降格・左遷されたのだから、このままで済むはずがなかった。
七月二日に発覚したクーデター(いわゆる「橘奈良麻呂の変」)は、起こるべくして起こったといえよう。これより先の六月二十八日、山背王(やましろおう)が密告してきた。奈良麻呂が兵器を用意し、田村宮を包囲する陰謀を企てており、大伴古麻呂もそれに加担しているというのだ。おなじ六月中には、巨勢堺麻呂(こせのさかいまろ)も、答本(とうほん)忠節(ちゅうせつ)に聞いた話として、大伴古麻呂が小野東人(おののあずまんど)に謀反に加わる意思の有無を確認したことを報告している。このとき、忠節は豊成にこのことを伝えたのだが、豊成は「大納言(仲麻呂)はまだ若いので、自分が陰謀者に教戒を加えて仲麻呂を殺さないように言い含めよう」と答えたという。ここから判断すると、あるいは、豊成も仲麻呂打倒のクーデターに加担していたのではあるまいか。直後の九日には豊成の息子の乙縄(おとただ)が逮捕され、十二日には豊成もその縁座によって大宰員外帥(だざいのいんがいそち)に左降されているが(病と称して赴任はせず)、これは露骨な「豊成外し」である。そして、それは、おそらく弟仲麻呂の意向によるものであろう。仲麻呂は、凡庸であるにもかかわらず、武智麻呂の長男というだけで自分より上位にいた豊成をこころよく思っていなかったのである。
七月二日になって、孝謙天皇・光明皇太后は相次いで関係者の自重をうながす詔を出すが、この日の夕方になって、こんどは
上道斐太都(かみつみちのひだつ)が仲麻呂に密告してきた。これによれば、今日の未(ひつじ)時(どき)(午後二時ごろ)、小野東人から大炊王・仲麻呂の暗殺計画を打ち明けられたという。メンバーは、黄文王(きぶみおう)・安宿王(あすかべおう)(いずれも長屋王の子)・橘奈良麻呂・大伴古麻呂で、ほかにも大勢同調者がいるという。これを聞いた仲麻呂は、先手を打って平城宮の諸門を警固し、高麗福信(こまのふくしん)を派遣して全員を逮捕する。
翌日から取り調べがはじまるが、『続日本紀』には、小野東人・安宿王・奈良麻呂・佐伯全成の自白が詳しく載せられている。これをみると、未遂におわったクーデターではあるが、ずいぶんまえから計画されていたものであることがわかる。とくに、全成の自白によれば、天平十七年(七三五)・天平勝宝元年(七四九)・天平勝宝八歳(七五六)、と三度も奈良麻呂から誘われたというから、火種は以前から燻(くすぶ)っていたことになる。ちなみに、全成は、誘いを断ったにもかかわらず捕縛され、尋問のあとみずから首をくくった。みずから責任を感じるところがあったのであろうが、事件への関与の程度を考えれば気の毒な結末である。
仲麻呂の専権、そして没落
さて、こうして反対派勢力の一掃に成功した仲麻呂は、八月十八日に「天平宝字(てんぴょうほうじ)」と改元して人心を刷新する。そして、翌年八月一日にはついに孝謙天皇が譲位し、大炊王(淳仁(じゅんにん)天皇)が即位。おなじく二十五日には、仲麻呂は大保(たいほ)(右大臣)に任じられ、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜い、鋳銭(ちゅうせん)・出挙と家印の使用を許された。強大な権力を握った仲麻呂のまえに、もはや立ち向かう敵はいなかった。
権力の座についた仲麻呂は、つぎつぎとあたらしい政策を打ち出していく。人気取りもあるのだろうが、民衆救済政策にはとくに力をいれた。前後するが、天平勝宝九歳(七五七)四月に大炊王が立太子した歳には、十八歳以上を中男(ちゅうなん)、二十二歳以上を正丁(せいてい)と改めている。さらに、天平宝字二年(七五八)正月には、京畿内・七道に問(も)民(み)苦使(くし)を派遣し、民衆の状況を視察させているし、同年七月には六十歳以上を老丁(ろうてい)、六十五歳以上を耆(き)老(ろう)に改定したが、これは天平勝宝九歳(七五七)四月の措置と連動している。さらに、天平宝字三年(七五九)五月には、諸国に常平倉(じょうへいそう)を置き、中央に左右平準署(さうへいじゅんしょ)を設けてこれを掌握させている。
また、いっぽうで、東北計略や新羅(しらぎ)征討にも積極的で、天平宝字三年(七五九)六月には、大宰府に行軍式(こうぐんしき)を造らせ、新羅征討を計画し、九月には征討に用いる船五百艘を、北陸・山陰・山陽・南海道に対し三年以内に造らせている。おなじ九月には、坂東八国と越前・能登・越後の諸国の浮浪人(ふろうにん)二千人を雄勝(おかち)の柵戸(きのへ)とし、相模など七国の兵士が所持する武器を雄勝城・桃生(ものう)城に貯えさせたりしている。
天平宝字四年(七六〇)正月、仲麻呂は従一位にのぼり、大師(だいし)(太政大臣)に任じられ、文字通り位(くらい)人(じん)臣(しん)をきわめたが、凋落の兆しはすぐそこまで来ていた。彼の権勢に陰りがみえはじめたのは、この年の六月、光明皇太后が崩じたときのことである。仲麻呂の庇護者であり、淳仁天皇と孝謙太上天皇の調整役をつとめてきた皇太后の崩御は、仲麻呂政権の行く末に不安を感じさせた。
これに危機感をもったのか、仲麻呂は、あらゆる手を打って守りの姿勢にはいる。藤原氏とかかわりの深い近江に計画した保(ほ)良宮(らのみや)の造営を急いだのも、このころである。ところが、その保良宮が、結果的に彼の首を絞めることになったというのだから、歴史は皮肉である。
保良宮で病を得た孝謙太上天皇は、その看病のために道鏡(どうきょう)を宮中に招き入れた。ここで、太上天皇の平癒に力のあった道鏡は、その寵愛を独占する。その親密さは、二人のあいだがただならぬものであったことを疑わせる。『水鏡(みずかがみ)』は、二人が男女の関係にあったことを露骨に書くが、真相は薮の中である。
ただ、天平宝字六年(七六二)五月、淳仁天皇が(おそらくは背後にいる仲麻呂の差し金であろう)道鏡との関係を批判したために、両者の衝突が表面化する。二人は平城京に戻るが、太上天皇は法華寺(ほっけじ)にはいり、淳仁天皇は中宮院(ちゅうぐういん)に留まる。そして、六月には、太上天皇は、国家の大事と賞罰(人事)は自分が掌握し、淳仁天皇は朝廷の日常の祭祀と小事のみを担当せよ、と宣言する。このときの詔に「かくいわれる朕にはあらず」という文言がみえているが、太上天皇にやましいところがなければ、ここまで怒りを露(あらわ)にすることもなかろう。その取り乱しようから察するに、淳仁天皇の非難は、太上天皇の痛いところを衝いていたのかも知れない。
いずれにしても、天皇としての権限を取り上げられた淳仁天皇と、後ろで彼を操っていた仲麻呂は、大きな打撃を蒙った。そこへ、飢饉や物価の高騰が追い打ちをかける。天平宝字四年(七六〇)三月に発行した万年通宝(まんねんつうほう)がこのころようやく出回るようになるが、形も重さもほぼおなじでありながら、和同開珎の十倍に相当するという新銭の登場によって、天平宝字六年(七六二)ごろから物価が急激に上昇する。そのうえ、天候不順による連年の不作から、飢饉や疫病が全国的に流行したのだから、まさに泣き面に蜂である。
じり貧の仲麻呂は、天平宝字八年(七六四)九月に挙兵するが、それは彼の最後のあがきだった。わずかの期間の抵抗もむなしく、捕獲・斬殺されたが、あれほど権勢を誇った人物の最期は、いかにもあっけなかった。淳仁天皇も廃帝となり(孝謙太上天皇が重祚(ちょうそ)。称徳天皇)、淡路に幽閉されたが(のち、天平神護(てんぴょうじんご)元年(七六五)十月、幽閉場所から脱出をはかるも、失敗した直後に死亡)、仲麻呂の傀儡(かいらい)天皇としては当然の運命であった。こうして、一場の幕は降り、舞台の主役は道鏡と称徳天皇に交代する。
【参考文献】
岸俊男『藤原仲麻呂』(吉川弘文館刊、昭和四十四年)
栄原永遠男『天平の時代』(集英社刊、平成三年)
薗田香融「藤原仲麻呂」(薗田著『日本古代の貴族と地方豪族』所収、塙書房刊、平成四年)
栄原永遠男「光明皇后」(門脇禎二他著『知られざる古代の天皇』所収、学生社刊、平成七年)