W・ブラムセンの情熱『和洋對歴表』と古代日本
つどい278号 会員 石塚一郎
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■W・ブラムセンの情熱―『和洋對暦表』と古代日本 (会員) 石塚 一郎
明治初期に日本とデンマークに交流があったことを知る人はあまりいないのではなかろうか。ましてや、『三正綜覽』が発行される以前に、日本初の「和洋対暦表」を発表刊行したのが、デンマーク人青年であること知っている人は更に少ないと思われる。
『図書』第七四一号(岩波書店、二〇一〇年)に、コペンハーゲン大学特任研究教授の長島要一氏が、明治初期にわずか十年ほどの日本滞在ながら精力的情熱的に日本研究に取り組み、独創的な仮説を提示したデンマーク靑年がいたことを表題のようなタイトルで紹介しておられるので、その概要を述べよう。
一八六〇年代後半、電信網が世界中に張り巡らされつつあった。大西洋を隔ててヨーロッパとアメリカが海底電信線で結ばれると、次の目標は東アジアとなり、各国が熾烈な競争を繰り広げた。そのただ中にあって、お国柄の中立政策を国際舞台で巧みに利用、見事に勝利を得たのが小国デンマークの起業家ティットゲンで、大北電信会社を一八六九年(明治二)に設立、上海―長崎―ウラジオストック間に海底電信ケーブルを敷設する事業に取りかかった。翌七〇年(明治三)には日本政府との間で約定を締結、七一年(明治四)長崎のベルヴュー・ホテル内に電信局が設置され、翌七二年(明治五)一月一日には極東電信線が正式に全線開業した。
その長崎電信局に、二十歳になったばかりの有能なデンマーク人青年たちが電信士として送られてきた((1))。そのなかの一人にW・ブラムセン(William Bramsen,一八五〇~八一年)がいる。彼は、大北電信会社に電信士として三年勤めた後、日本の電信局を経て、当時三菱会社の五人の重役のひとりであった同じデンマーク人のオットー・クレブス(Otto Krebs,一八三八~一九一三年)に語学の才能を買われて一八七五年(明治八)に高給で郵便汽船三菱会社の社員となる。
長崎で小島たきと結婚したブラムセンは、日本語を流暢に話しただけではなく、日本語の読み書きに加え、古文・漢文までこなした。当時、電信局では、国際電信の利用数はまだ多くなく、忙しくなることはまれだったので、若く有能な若者たちはそれぞれの趣味に没頭する余裕があったのだろう。
当時の日本にあって、ブラムセンほど日本語のできた外国人は稀少な存在だったが、彼がそれほどまでに日本語の習熟に時間を惜しまなかったのは、熱心に日本の古銭を蒐集し、古銭学に夢中になっていたからだった。「和同開珎」以来、日本で鋳造されてきた貨幣をただ集めるだけでは満足せず、その旺盛な探求心を発揮して自分の入手した古銭のすべてを知ろうとしたブラムセンは、日本の度量衡も熟知しようとした。さらに「日本アジア協会」(The Asiatic Society of Japan)の会員として研究の成果を英語で発表する際に、日本語をいかにしてラテン文字で表記するかという問題にも取り組んだ。こうして彼は、日本語、年代学、度量衡、日本語の音訳法の各分野で名をなすようになり、一八八〇年(明治十三)、二十九歳の時に一度に三点の著作を発表した。
そのひとつが『和洋對暦表』と題された著書で、これはまず日本語で一八八〇年一月に、東京の丸家善七から刊行された。
「和同開珎」の「和同」は年号であるが、それは西暦の何年にあたるのか。それは、ブラムセンの『和洋對暦表』が発行されるまで、だれにも正確には答えられなかったのである。この対暦表のおかげで、日本の暦の各月一日が、西洋の暦の何年何月何日にあたるか、容易に調べることができるようになった。
ブラムセンは六四五年(大化元)から記述を開始しているが、それが日本で初めて年号が導入された年だったからであり、一八七三年(明治六)までとしたのは、その年に明治政府により太陽暦のグレゴリオ暦が導入されたからである。
日本政府も内務省地理局が、日中欧の三種の暦を対照できる『三正綜覽』という図書を同じ一八八〇年一二月に発行している。日本の部分は西暦紀元前一五八年から、欧州は同二一四年から、中国は同二二六年からを扱っているが、誤りが多く、なかでも最大の誤謬は、グレゴリオ暦を、それが導入された一五八二年以前までさかのぼって対応させていた点である。
それとは対照的に、信頼がおけて簡潔かつ見事に作成されたブラムセンの対暦表は、日本の暦から西暦にと、一方向にしか換算できないという弱点がありながら、充分に使用に耐えるものであった。しかし『三正綜覽』が改良を次々と重ね、その都度正確度を増すにいたって、ブラムセンの『和洋對暦表』は忘れ去られることになる。
『和洋對暦表』発行の翌月、二月十日に、ブラムセンは日本アジア協会でこのテーマの歴史的な講演を行い、同書の英語版が年内に出版されている。英語版は日本語原本より長いが、それは欧米の読者のために、日本の暦法についての概説が加えられているからである。
英語版の序章でブラムセンは、日本では年を表示する方法に四種類あることをまず説明している。(一)天皇の治世、(二)年号、(三)干支、(四)「紀元」、すなわち神武天皇即位の西暦紀元前六六〇年を元年とする年、である。ブラムセンはそれぞれに説明を加え、たとえば太陰暦には二十九日の「小の月」と三十日の「大の月」があること、したがって「閏月」をもうける必要のあることを説き、その原理を、克明かつ執拗に、新月から新月までの期間を太陽暦で換算した二九・五三〇五九二一日を使って解明してみせている。
この概説で特に注目すべき点は、日本人が、中国から暦のシステムを導入する以前に、「一年」をいかに数えていたかという、暦法の根本に関するブラムセンの仮説である。『日本書紀』を読み解く過程で、彼は初代天皇神武から第十六代仁徳までの平均寿命と、一七代履中から三二代崇峻までの平均寿命とが、それぞれ一〇九歳と六一・五歳というように、著しく異なっているのを発見し、疑問に思った。しかし、神話的な存在だから長命だったのだろう、などと考えなかったところが異色で、彼によれば、仁徳天皇の治世(三一三~三九九年)に中国の暦法が導入されたが、それまでの日本人は、昼と夜の長さが同じになる春分と秋分を起点とし、春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ「一年」として数えていたという。まさにそのために、『日本書紀』では仁徳天皇以前の歴代天皇の寿命が二倍になっていたのだと説明している。古代の日本では、天照大神の末裔の国にふさわしく、月ではなく太陽を、時間を計る単位にしていたにちがいない、とブラムセンは確信しているのである。
そして仁徳天皇の在位中に生存していた履中、反正、允恭各天皇の年齢を、自説に基づき割り出している。それによれば、仁徳天皇は、『日本書紀』が伝える一二二歳ではなく半分の六一歳、履中天皇は在位七年ののちに七七歳で亡くなったとされているから、(77―7)x1/2+ 7=四十二歳、同樣に反正天皇は六〇歳ではなく三十六歳半、允恭天皇は八〇歳ではなく六八歳で亡くなった、と結論した。仮説の前提として、日本への中国の暦法導入年を、便宜的に仁徳天皇の崩御の年、三九九年として計算しているのである。
同じ方法を用いてブラムセンは、初代の神武天皇が即位したのは、西暦紀元前六六〇年ではなく、紀元前一三〇年で、即位式は新月の日に行われた、と主張している。
ブラムセンが一八八〇年に出版した三点目の著作は、横浜で発行された『The Coins of Japan,Part I』である。主として銅銭を扱ったこの小冊子の表題が示すように、これは彼の古銭学研究分野での第一弾であった。鉄銭についての論文は世界的権威を誇る『古銭学ジャーナル』に、彼の没後、一八八二年(明治十五)に掲載されている。
ブラムセンは、海事法を学ぶために三菱の命を受け一八八〇年にロンドンに渡ったが、翌年夏、コペンハーゲンの実家に立ち寄った折に腹膜炎を起こし、短期日の内に亡くなる。享年三十一歳、惜しい人物を失ったのだった。
注
(1)長島要一『日本・デンマーク文化交流史一六〇〇―一八七三』(東海大学出版会、二〇〇七年)。