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天理北部の遺跡を訪ねる

3月26日(土)
天理市の和爾氏・物部氏に関連する遺跡を訪ねました

trainJR大阪駅9:19 発→(大和路快速 賀茂行)→JR奈良駅10:15発→(桜井行)→ 櫟本(いちのもと)駅 10:27着

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shoeJR櫟本駅--櫟本大塚古墳--柿本寺跡・歌塚--和爾下神社同古墳--赤土山古墳--岩屋大塚古墳--白川ダム(昼食riceball)--ウワナリ古墳--石上大塚古墳--別所大塚古墳--山辺御県坐神社--別所カンス塚古墳--近鉄天理駅

下記地図の中央を左右(東西)に横切るのが名阪国道
名阪国道に平行して谷筋を流れる高瀬川の北側に和爾氏、南側に物部氏が蟠踞していた。この付近は南北に走る山之辺の道と東西に延びる柘植山道(現名阪国道)が交わる拠点であった。
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3月下旬とはいえ朝は氷点下近くまでに冷え込み寒い一日でしたが22名が参加しました

資料提供と現地案内は中司照世先生 (前福井県埋蔵文化財調査センター所長)

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JR櫟本駅
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駅から東に向って歩き始めると、左手に櫟本墓山古墳が見えてきた

櫟本墓山
(いちのもとはかやま)古墳 前方後円墳 L=64m 後円径=22m 前方幅=24m
名前の通り古墳全体が共同墓地として使われている
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これから向う東大寺山古墳群
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東大寺古墳群の一角を占める和爾下神社古墳は和爾下神社の社地となっている
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和爾下神社古墳 前方後円墳 L=104m
032s
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歌塚・柿本寺跡
037s

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047s
和爾下神社本殿(S13年国宝建造物に指定、現在は重要文化財)
後円部に鎮座し、桃山時代の建築様式を伝えている
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祭神
新撰姓氏録考証 天帯彦国押人命、日本帯彦国押人命二坐なり
明治初年記録 天帯彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、若宮難波根子武振熊命
新撰姓氏録によれば
「櫟井臣、和爾部同祖、彦姥津命(孝昭天皇皇子天足彦国押人命の後なり。)
柿本朝臣、天足彦国押人命の後なり。和爾部、天足彦国押人命三世彦国葺命の後なり。」とある。

健振熊宿禰は、『記』『紀』に、神功・応神方の将軍として活躍し、忍熊王の乱を鎮定したとされている。丹後国一宮籠神社に伝わる、祝(はふり)(神官)の地位の継承次第を記した国宝海部(あまべ)氏系図では健振熊宿禰は海部氏の祖とある。海部直氏一族は四世紀末の内乱(忍熊王の乱)のときに和珥氏とともに応神方を支援していた豪族であって、この内乱を契機として台頭してきたことが推測される。
→"つどい264"号塚口義信先生「四五世紀の丹波とヤマト政権」8頁を参照ください

時代が下り祭神は下記のように改められた。 
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東大寺山古墳(L=140m)  4世紀中葉から後半の築造   
和爾下神社古墳(L=104m) 4世紀後半から5世紀初頭の築造とされるが
和爾下神社古墳は4世紀後半の築造と考えられる(中司照世先生)

和爾下神社古墳から東へ住宅街をぬけると赤土山古墳に至る
赤土山古墳
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前方部から後円部へ
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前方部から後円部へ・後方はシャープ社
0823s
祭祀遺構
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0935s

0946s

096s

1017s
白川ダムにて昼食
108s 106s
名阪国道を跨ぐ高架橋よりの眺望。谷沿いに柘植山道(現名阪国道)が東西に伸び左(北)が和爾氏、右(南)が物部氏
右手ビニル温室のあたりがこれから向う物部氏のうわなり古墳石上大塚古墳この谷筋からよく見える位置に造られている
岩屋大塚古墳(中央建物右) L=76m 前方後円墳 横穴式石室
1965年名阪国道建設により後円部が削られている
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109s
ウワナリ古墳(L=110m)
148s 150s
後円部の南側に開口する両袖式横穴石室
石室底部は下の写真からもう少し掘り下げられるであろう。後円部の後方の方向に石室が開口しているのは物部氏特有の特徴である(中司先生)
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前方部北側(二段築成) 物部氏本拠地の天理方面からでも柘植山道側からでも眺められるよう丘陵の形状を生かして造られている。
1182s
石上大塚(いそのかみおおつか)古墳 L=107m うわなり古墳の西側に並んで築造されている。石室を有する後期古墳では県下でも最大級。
南側後円部の破壊された横穴式石室
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別所大塚古墳
167s

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山邊御縣座(やまべのみあがたにいます)神社
1741s
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別所カンス塚古墳

阿蘇ピンク石石棺が出土した
→参考 大王のひつぎ航海実験
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天理市の街並みを抜け近鉄天理駅に到着
186s P1230s

■まとめ

表2の編年について、中司照世先生 (前福井県埋蔵文化財センター所長)は古墳前期において古墳は海岸、川辺から山筋に向って順次築造され最後に谷筋に下る、とされる。中司説では赤土山古墳より平地に近い和爾下神社古墳が古くなる。
つどい277号4頁 既往の古墳研究の問題点
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■物部氏古墳対比

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天理市北部の遺跡を訪ねる
(会員) 山口 久幸


三月二十六日朝から晴れてはいるが、寒風吹き荒ぶ中での現地見学となった。参加者は二十二名で寒さのためか予想より少ない。
 JR櫟本(いちのもと)駅で降りて、墳丘上に墓石の連なる櫟本墓山古墳を道路から眺めつつ国道奈良天理線を渡り、和邇下(わにした)神社の鳥居をくぐる。神社に向かう参道の左側木立の中に歌塚が見える。柿本氏の出である歌聖と呼ばれた人麻呂の

遺髪を納めた塚で、古から歌道に親しむ人々の参詣が絶えなかったと伝えられる。塚に建つ歌塚の碑は、この地にあった柿本寺の僧等により享保十七年(一七三二年)に建立されたと伝えられている。墳丘上に鎮座する和邇下神社の石段の手前に碑があり、皇太子当時の武烈天皇に殺された平群臣鮪(しび)を悲しむ影媛を歌った「影媛あわれ」の長歌が刻されていた。
 当神社について延喜式神名帳に「和邇下神社二座」とあり、一座は上治(はる)道(みち)天王と呼ばれ当地櫟本に、一座は下治道天王と称し平野部の横田村(現横田町宇治道)に在ると記されている。祭神について本来はこの地を支配した豪族和邇氏の祖神を祀ったとみられる。

和邇下神社古墳
 全長一〇五メートル、後円部径六〇メートル、前方部幅四五メートルの前方後円墳で、後円部頂上に神社が建ち墳形は改変されている。後円部の高さが一〇メートルあるのに対し前方部の高さは七メートルと低く、築造年代は四世紀中ごろから末にかけとみられている。
 山麓の古墳から小山の裾を東の丘陵へと更に登る。この小山は、中平□□年(一八
四~一八九年)の記銘鉄刀が出土した東大寺山古墳に続くものである。

赤土山古墳
 墳丘とその周辺は整備され、墳頂まで石段が設けられ墳頂から南を見ると展望が開けている。
後円部の東南側造出し部には石礫が敷かれ円筒埴輪列、家形埴輪、水鳥が配され、その下には囲い形埴輪が置かれている。この地を支配した和邇氏の首長居館を表現したものであろうか。赤土山古墳は東大寺山古墳群に属し、東大寺山を背に南側の丘陵端
に位置する。全長一〇六メートルの二段築成の前方後円墳であり、前方部の裾に円墳があったと云われる。当墳の被葬者について一部に、南の平野部を支配した物部氏の墳墓とする見解もある。
 シャープ(株)の社宅群を抜け、岩屋大塚古墳の手前を左折し、雑木林の細い道を登り白川運動公園に入り昼食を摂る。食後西名阪自動車道上に架かる白川大橋を渡り南
の別所町に入る。白川大橋からは東に岩屋大塚古墳が見下ろせる。古墳の周囲は整地され橋上から見ると墳形が良く判る。

岩屋大塚古墳
 墳丘上は耕作され原形を留めないが墳長約七六メートル、後円部径約六〇メートル、高さ約六・五メートル、前方部幅約四二メートル、高さ約三メートルの前方後円墳で二段築成となっている。埴輪は無く葺石の存在が認められている。当墳からは土師器、須恵器等が出土したと記されている。
 白川大橋を渡り別所地区の配水施設を曲がると石上(いそのかみ)大塚古墳がある。

石上大塚古墳
 前方部端の道から眺めると空濠を挟んで墳丘が高く見える。地山を利用して築かれたようで一段目が非常に高い。記録では全長一〇七メートル、後円部径六七メートル、高さ一四メートル、前方部幅八二メートル、高さ一四メートルで前方部と後円部が同じ高さである。二段築成であるが規模は大きく埴輪は確認されていない。この地の物部氏の首長墓と見られ、六世紀前半の築造とされる。石室は周囲の石組の下層部が残るのみで天井石は失われている。後で見るウワナリ塚古墳と同様、後円部のうしろに羨道が開く形態である。物部氏の古墳の特徴を表していると云われる。この付近は石上・豊田古墳群を形成し、一〇基程の大型古墳と約二五〇基の小円墳があるとされる。

ウワナリ塚古墳
 石上大塚古墳の山側に並ぶように築かれている。前方後円墳で全長一一五メートル、後円部径六八メートル高さ一六メートル、前方部幅八〇メートル、高さ一四メートルを計るが前方部に八メートル程の方形壇状の平坦部があるとされ、これを含めると一三〇メートル程の大きな墳丘となる。後円部の南向きに僅かに開口する入口から石室に入ると三枚の天井石を持つ両袖式の横穴石室である。玄室長六・八五メートル、高さ三・六メートルと記されているが土で埋もれており床面はまだ下にあるように思われる。

別所(べっしょ)大塚古墳
 丘陵を下った端部に位置する前方後円墳で全長一二五メートル,後円部径八五メートル,前方部幅一〇五メートルの大型古墳である周濠を巡らし葺石と埴輪が存在する。墳丘内に入り横穴式石室の位置を探したが落ち葉と土に覆われ確認できなかった。墳丘は二段築成で六世紀前半から中頃の築造と考えられている。
 当地の古墳の築造順序はウワナリ塚古墳が最も古く、次いで別所大塚古墳、石上大塚古墳が続くと云われている。しかし地形面から見て丘陵の先端部から順に奥へ築かれたと考えると別所大塚古墳、石上大塚古墳、ウワナリ塚古墳の順となる。これらの古墳はいずれも二段築成であるが、その規模において他を圧するものがあり、当時の物部氏の力の強さを見せつけているようである。

更に被葬者に就いては政治の中枢にあった人物と考えてよいのではないだろうか。

山辺(やまのべの)御県座(みあがたにいます)神社
 山辺御県は高市・葛木・十市・志賀・山辺・曾布の六御県のひとつで朝廷の直轄地であった。当社は背後の尾崎山をご神体とすると云う。

別所鑵(かん)子(す)塚(づか)古墳
 丘陵の最先端部に築かれ、全長約五七メートル、後円部径約三一メートル、前方部幅四三・五メートルの二段築成の前方後円墳で六世紀前半の築造とされる。石棺が露出していると云われるが雑木が茂り見ることができなかった。記録によると後円部石棺は阿蘇溶結凝灰岩であるとされる。このことは物部氏と九州の有力豪族との関係又は九州物部氏一族を通じての入手が考えられる。
 以上で本日の見学を終わり、強い風の中急いで近鉄天理駅に向かい西大寺経由で帰途に就いた。
中司先生には寒い中熱心に説明戴き有難うございました。

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