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藤原京から平城京へ

つどい278号
大阪大学准教授 市大樹 先生

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一 歴代遷宮からの脱却

 「宮」(ミヤ)は、建物を示す「屋」(ヤ)に尊敬を表す接頭語の「御」(ミ)が付いたもので、「天子の居住する建物」を意味する。「都・京」(ミヤコ)は、この「ヤ」に場所を示す「処」(コ)が加わったもので、宮のある一定の地域を指す。この点を踏まえた上で、藤原遷都以前の状況を二段階に分けて簡単に整理しておこう。

 第一段階は、大王・天皇の代ごとに宮を遷す歴代遷宮の時代(三世紀中葉~六世紀末)である。「○○宮に坐して天下治らしめしき」など、歴代天皇(大王)の治世は宮号によって表現される特徴があった。『記』『紀』によれば、宮の大半は大和に営まれていた。この歴代遷宮の時代は古墳時代に相当し、五世紀には河内の古市、和泉の百舌鳥に超巨大古墳が多数造営された。しかし五世紀においても、宮は基本的に大和にあったのである。

歴代遷宮は中国・朝鮮ではみられず、日本独特の現象であったらしい。①父子別居の慣行、②天皇の死穢の忌避、③掘立柱建物の耐用年数、④即位式との関連など、いくつかの理由付けがなされているが、いまだ定説と呼べるものはない。脇本遺跡(桜井市)で泊瀬朝倉宮(雄略)の一部とみられる遺構が検出されているが、大王宮の実態はほとんどわかっていない。一方、古墳時代の豪族居館(首長居館とも)の調査事例が増しつつある。三ツ寺Ⅰ遺跡(群馬県)では、周濠・柵列によって方形の区画を設け、その内部を柵列などで区画し、主屋である大型建物、水に関連する祭祀施設、従者の住居、工房施設などを設けていた。大王宮についても、こうしたものをイメージしても、あまり大きな誤りはなかろう。 第二段階は、飛鳥時代(七世紀)である。宮が大和の各地を転々とする状況を脱し、飛鳥の地に集中する。孝徳朝の難波宮、天智朝の大津宮といった例外もあるが、大局的には飛鳥とその周辺地に営まれるようになる。飛鳥寺の南に位置する伝承板蓋宮跡の発掘調査が進み、大きく四時期分の遺構が明らかになってきた。下層のⅠ期が飛鳥岡本宮(六三〇~六三六)、中層のⅡ期が飛鳥板蓋宮(六四三~六四五・六五五)、上層のⅢ―A期が後飛鳥岡本宮(六五六~六六七)、Ⅲ―B期が飛鳥浄御原宮(六七二~六九四)である。

 このうち、天武・持統天皇が営んだ飛鳥浄御原宮は、内裏的な性格をもつ内郭、大極殿の置かれたエビノコ郭、これらを取り囲む外郭から構成された(図1)。外郭域は、内郭の南側(東南郭の西側)に朝庭が広がり、西北部に苑池が置かれたが、それ以外は基本的に官衙域であった。ただし、飛鳥寺の北西に位置する石神遺跡をはじめ、官衙は外郭域で完結しなかった。また、東宮的な性格をもつ嶋宮も、飛鳥浄御原宮の南東に立地しており、藤原宮以後のように宮内に取り込まれてはいなかった。飛鳥とその周辺地に宮が継続的に営まれるようになるものの、宮を構成する諸施設は各所に分散しているのが実状だった。

ともあれ、飛鳥とその周辺には、さまざまな施設が設けられ、多くの人々が集まるなど、徐々に都市的な状況を呈するようになったことは否定しがたい。しかし、藤原京以後の京とは違って、京内と京外の区別は不明瞭であった。また、飛鳥自体、平地としては南北一・六キロメートル、東西〇・八キロメートルほどの狭小な空間にすぎない。この時期は日本律令国家の建設が本格化する時期で、それにふさわしい京を建設しようとすると、新たな場所を求めざるを得ない。こうして、藤原宮・京の建設へと進んでいくのである。

二 藤原宮・京の建設

 六七二年の壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は、母である斉明天皇の後飛鳥岡本宮を引き継ぎ、新たに東南郭を設けて、飛鳥浄御原宮として整備した。しかし、その四年後の六七六年、天武は「新城」の建設に乗り出すことになる。『日本書紀』同年是歳条に「まさに新城に都せんとす。しかれども、限内の田園は公私を問わず、皆耕さずして悉く荒れり。しかれば遂に都とせず」とみえる。「新城」は「新しい都城」の意で、後の藤原京に直接つながるとみてよい。この新城造営計画はいったん中断されたが、六八二年に再開され、その翌年には複都構想が浮上し、六八四年には藤原宮の場所も正式に決定された。

 藤原宮・京の発掘調査によって、天武天皇の時代に建設が本格化していたことが判明している。『万葉集』所載の「大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都となしつ」(四二六〇番歌)、「大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都となしつ」(四二六一番歌)は、天武天皇による藤原京の造営を詠ったものとみる見解が有力である。しかし六八六年、天武天皇は藤原宮・京の完成を迎えることなく崩御する。その後継者に目されていた草壁皇子も約二年半後に死没してしまった。

 こうして藤原宮・京の造営はいったん頓挫するが、持統天皇が即位した六九〇年、その建設が再開され、六九四年十二月六日、藤原遷都の日を迎える。新城の建設計画から実に十八年後のことであった。

藤原京は、かつて南北三・二キロメートル、東西二・一キロメートルとされてきたが、一九九六年の土橋遺跡(橿原市)・上ノ庄遺跡(桜井市)の発掘調査によって東西両極の規模が確定し、現在は五・三キロメートル四方とする見解が最有力である(図2)。藤原京の内側には条坊道路が設けられ、碁盤目状の町割がなされた。条坊制の施工された京域と、条里制の施工された京外とでは、それぞれの区画の大きさが異なっており、京内と京外とを目に見える形で区別したのである(ただし実際には、左京の阿倍山田道以南の飛鳥と重なる場所や、東南部で顕著な丘陵地帯などには、条坊制が適用されなかった)。

この藤原京の中央部に設けられたのが、藤原宮である。宮を京の中央部に置くのは、『周礼』の影響による。藤原宮は南北約九二五メートル、東西約九〇七メートルで、前段階の飛鳥浄御原宮と比べて格段に大きい。宮の南北中軸線上には、北側に天皇の居住空間である内裏地区、南側に国家的な政治や儀式・饗宴の場である大極殿・朝堂院地区が配置された。その東西両側には、日常業務をおこなうための官衙地区が展開した。宮全体は内濠・外濠をともなう大垣によって囲まれ、各面に三つの門が取り付いた。また藤原宮では、宮として初めて瓦葺き礎石建物が採用された。瓦を葺いたのは、大極殿・朝堂院地区、大垣・宮城門などで、内裏や官衙地区では伝統的な檜皮葺の掘立柱建物が基本であった。葺かれた瓦は二〇〇万枚以上にものぼり、大和盆地だけでなく、四国など遠隔地からも調達された。このように本格的な中国式都城を目指した藤原宮・京であるが、六九四年の遷都当初において、最も大陸的な香りのするはずの大極殿・朝堂院地区は、実は未完成であった。藤原宮大極殿の完成は六九七年末頃、朝堂の完成は七〇〇年末頃である。この大極殿・朝堂院地区を使って、翌七〇一年正月一日、君臣関係を確認する元日朝賀の儀が盛大に催された。『続日本紀』には、天皇大極殿に御して朝を受けたまふ。其の儀、正門において烏形の幢を樹つ。左は日像・青竜・朱雀の幡、右は月像・玄武・白虎の幡なり。蕃夷の使者は左右に陳列す。文物の儀、是に備れり。と記されている。七〇一年は大宝律令が施行された記念すべき年でもある。「文物の儀、是に備れり」からは、日本律令国家のあるべき形を作り上げた為政者の自負心がよく伝わってくる。

三 藤原京から平城京へ

のすぐあと、約三〇年ぶりの派遣となる遣唐使が任命された。七世紀末頃に「倭」から「日本」へと国号が変更されたが、それを唐に伝えるという目的があったようである。このときの日本は大いなる自信にみなぎっていた。

 粟田真人を筆頭とする遣唐使の一行は、七〇二年六月に筑紫津を発ち、一〇月には唐長安城へ入った。しかし、そこでみたものは、藤原宮・京とはあまりにも異なる唐長安城の姿であった。唐長安城は、京の最北部に宮を構える北闕型の構造をとっており、京の真ん中に宮を置く『周礼』タイプの藤原京とは全然違った形態であった。粟田真人は、七〇三年の元日朝賀の儀に参加し、大明宮にある麟徳殿で則天武后との謁見を果たしたが、とりわけ大明宮の正殿である含元殿の印象は圧倒的なものだった。高さ一〇メートル以上もある塼(レンガ)積みの基壇に、東西約七五メートル、南北約四二メートルの含元殿の本体がそびえ立ち、その両端には楼閣が並びたっていた(図3)。都城のあるべき姿を求めて、藤原宮・京の建設に邁進してきたが、唐長安城の姿を目の当たりにし、大きな衝撃を受けることとなった。

帰国報告をおこなったが、早くもその翌月には、藤原京は未完成のまま、造営工事が打ち切られ、新たな都づくりが模索される。七〇六年二月には、百姓身役に関する格が発布され、平城京造営に向けて労働力を確保するための体制づくりがなされた。七〇七年二月には、五位以上に対して「遷都の事」を議させた。七〇八年二月には平城遷都詔がだされ、三月に造宮省が、九月には造平城京司が任命され、平城宮・京の建設が本格化する。そして七一〇年三月十日、平城遷都の日を迎えることとなるのである。

 ではなぜ、苦心の末築き上げた藤原京を放棄し、新たに平城京をつくらなければならなかったのか。かつて、藤原京が手狭であったためと説明されてきたが、藤原京は五・三キロメートル四方であったことが判明するに及び(実は平城京よりも広い)、こうした見解が成り立たないことは明らかである。また、藤原京は浄御原令制下に形成された都であり、大宝令制下の都としては不都合な点があったため、ともいわれている。たしかに、そうした側面は否定できないが、藤原宮の官衙地区では、大宝令の施行を契機として、建物の配置替えをしており、まったく対応できなかったとも思われない。

 遣唐使の帰国後に藤原京の廃都が決定されていることからみて、唐長安城とのあまりの違いに愕然とした、というのが真相であろう。平城京の建設に際しては、唐長安城を明らかに意識している。北闕型の都城、含元殿を模した大極殿、曲江池を模した京東南部の池……。その最たるものが、平城京の外京を除いた本体部分は、唐長安城を長さ二分の一(面積四分の一)に縮小し、九〇度回転させた形に設計されたものである、という井上和人氏が指摘した事実であろう(図4)。なぜ九〇度回転させたのか。丘陵にかかるという地理的制約もあろうが、より本質的には、朱雀大路を可能なかぎり長く設定して、威厳を保つという視覚的効果をねらった可能性が高い。

 平城京の朱雀大路は、道幅約七二メートルの巨大な道である。平城京の南端にある羅城門から、平城宮の正門である朱雀門まで長さ約三・八キロメートル。その先には、塼積基壇の上に築かれた大極殿がそびえる。朱雀大路は緩やかな登り勾配となっており、羅城門と朱雀門との高低差は約一四メートル、羅城門と大極殿との高低差は約二一メートルある。朱雀大路を北進する者にとって、周辺の視界は徹底的に遮られており、朱雀門とその奥にある大極殿が否応なしに目に飛び込んでくる構造をとっていた。

これに対して、藤原京の朱雀大路は飛鳥川以北のみが造営され、長さは約五〇〇メートルしかなく、羅城門も存在していない。路面幅も約二四メートルで、他の条坊道路と大きな違いがなかった。また藤原京の地形は南が高く北が低くなっており、藤原宮のすぐ南に日高山が立ちはだかる。そのため、朱雀大路は山の上を越えばならず、藤原宮が見下ろされてしまう。また、こうした地形的制約のため、汚水を含む排水が宮内に流入するという欠点も抱えていた。

こうした藤原京の構造的欠陥を克服せんとしたのが、平城京に他ならない。当時の為政者たちにとって、宮・京の建設とは、日本律令国家のあるべき姿を視覚的に訴えかけるものであり、決して妥協することはできなかった。そのため、永代の都となるべく長い年月をかけて建設された藤原京も、遷都からわずか十六年で幕を下ろさなければならなかったのである。

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