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『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』を語る宴

なかひらまいさんの書かれた
『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』

『日本書記』とは異なる神武建国伝承をあきらかにした
古代史を画期する一書です

伝承を伝えるのは
シベリア抑留から帰還された 小薮繁喜氏
ルバング島から帰還された  小野田寛郎氏

その出版をお手伝いしたメンバーが集って懇親を深めました
051s

参加者は
作者のmai(なかひらまい)さん
和歌山出身の神奈備さん
宝塚のニオブさん
讃岐真言さん
お風呂屋から古代史を語る 縁MADOKAさん
そのほかにも
「名草」の名を後世に残したくて「名草家」に嫁いだという名草真由美さん
フォトエッセ集『日本石巡礼』(日本経済新聞出版社、2008)他著書多数の須田郡司さん
豊中小角

など誠に濃い方が集った宴となりました

縄文後期に海を渡って列島にやってきたとされる「名草」の民たち
名草の民に追われて紀伊半島深部に逃れた八咫烏の一族
初期ヤマト政権の有力氏族として名を残す「紀氏」

一筋縄ではいかないヤマト国創世記を語りつくせぬ一夜でありました


以下、なかはらまいさんのHPから
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この作品は、名草地方(現在の和歌山市と海南市)で語り継がれてきた古代の女王名草戸畔(なぐさとべ)の伝承をもとに構成したものだ。名草戸畔(なぐさとべ)とは、紀国(現在の和歌山県)におよそ二千年前に実在したと思われる女性首長のことだ。

『日本書紀』に、ひと言だけ、神武に殺されたと記されている。土地には、ナグサトベの遺体を、頭、胴体、足の三つに分断し、三つの神社に埋めたという伝説もある。多くの人は、名草戸畔(なぐさとべ)は神武あるいは神武軍によって、遺体を切断されたという。

ところが、わたしが調べていくうちに、一般的に語られていることとは違う伝承を

郷土史家・小薮繁喜氏と

海南市の「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」宮司家出身・小野田寛郎氏から採集した。

わたしは、この二人が見ている古代の風景を描いてみたいと考えた。

二人が語る伝承は、この土地に暮らす人たちの間で語られてきた物語だ。したがって、本書は『日本書紀』にも『魏志倭人伝』にも書かれていない「民 間伝承」が中心になっている。そうした民間伝承は、史実かどうかわからないので受け入れられないという人も多い。なかにはこの本を読んで、「伝承に都合の いい資料ばかりを用意したのではないか」といいだす人もいると思う。しかし、庶民の間でこのような物語が伝わってきたことも、また事実なのだ。

日本では、外国のネイティブ・アメリカンやアボリジニの伝承は文化として評価されるのに、自国の民間伝承や宮司家の「口伝」となると、眉唾扱いさ れてしまうことが多い。なぜなら日本は様々な文化を受け入れて近代化の道を歩んだため、古代の神話や伝承が原型を止めた形で残っているわけではないから だ。後世、土地の人たちや宮司家の妄想によって変形してしまった伝承もある。しかし、たとえ多少変形したとしても、伝承が根強く生き続けてきた背景には、 それなりの理由があるはずだ。

小野田氏によると、小野田家はナグサトベの末裔であるという伝承が内々で伝えられてきたという。

信じる・信じないは別にして、読者の皆さんには、今まで語られることがなかった先住民たちの物語を楽しんでもらいたい。そして、幼い頃からこの伝 承を聞いて育ち、自分自身をナグサトベの子孫と信じてきた小薮氏と小野田氏の心に触れて欲しい。数千年前に生きたナグサトベを遠い祖先と感じる二人の心か らは、人の営みが何千年もの積み重ねの上に成り立っていることを知ることができる。伝承は、すべて史実ではないかもしれないが、わたしたちの心にとって大切なものがたくさん含まれているのだ。

文・なかひら まい(著者)

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