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考古学からみた3-5世紀の山城

つどい276号
大東市立総合文化センター館長 笠井 敏光先生

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(以下検索用テキスト文 漢字変換のバージョンによっては文字化けする場合があります)

「考古学からみた三~五世紀の山城」
大東市立総合文化センター館長 笠井 敏光

一、 山城地域
 山城地域は、四周を山で囲まれ、河川は北から桂川、東から宇治川、南から木津川が合流し、淀川となって西方の大阪湾に流れ込む。合流地点は、元来、巨椋池(おぐらいけ)であって、これをもって大きくは南北に分かれるが、河川によってさらに四つの地域に区分することができる。つまり、桂川・高野川・鴨川にはさまれた北山城、桂川右岸の西山城、木津川流域の南山城、宇治川以北の東山城である。

二、 大畿内社会ネットワーク
 弥生時代における大和・山城・河内・和泉・摂津を含む地域を大畿内社会と呼び、その内に所在する集落は、広域のネットワークを形成しており、すでに古墳時代に先行する地域性をみることができる。また、集落間は、線および面的な結びつきによって、物資(ハード)・情報(ソフト)・人的(ヒューマン)な流れができている。
 特に注意いただきたいのが、大和の閉鎖性である。大和は周りを山で囲まれ、瀬戸内海につながるには西の河内、北の山城と関係をもたなければ不可能である。大和は、周辺の地域と一体とならなければ、その中心性としての機能を果たすことができない。このことから、私は邪馬台国の所在は「大和」ではなく、「畿内全体」だと考えている。
この大和が北の出入口としているのが山城であり、木津川から淀川を経由して瀬戸内海、そして朝鮮半島につながり、また、琵琶湖から日本海にでるコースも想定できる。このことから北・西への交通上の結節点であるといえる。

三、 前方後円墳の分析
 『前方後円墳集成((1))』をテキストとし、山城の各地域における時期別の系譜を分析することによって三~五世紀の山城について明らかにしたい。
 北山城である嵯峨野地区は、後期になって初めて桂川左岸段丘に五基の前方後円墳が築かれる。太秦古墳群と呼ばれ、秦氏に関わるものとして理解することができる。
 西山城は、山田・樫原、向日、長岡、大山崎の四地区に分かれる。前期前半は向日
地域の元稲荷古墳から築造が開始され、前期後半には山田・樫原地区、中期には長岡地区、後期には山田・樫原、向日地区というように墓域を移動するモデルケースとして都出比呂志(つでひろし)氏による詳細な検討が加えられている。
 南山城は、木津川左岸の八幡、大住・田辺地区、右岸の木津・山城、青谷、城陽地区に分かれる。八幡、大住・田辺地区ともに前期後半に系譜をたどることができる。木津・山城地区は椿井(つばい)大塚山(おおつかやま)古墳から始まる前期前半の系譜を確認でき、青谷地区は後期のみに築造が認められる。城陽地区は、前期後半から後期に至る複数系譜を追うことができ、特に中期の久津川車塚の存在は重要である。
 東山城は、宇治、伏見・深草地区に分かれる。宇治地区は後期に築かれる宇治二子塚古墳の存在が大きい。伏見・深草地区は前期後半に築造される。

四、 若干の考察
①    前期前半の1期に築造された向日地区の元稲荷古墳、木津・山城地区の椿井大塚山古墳の意味は重要で、前方後円墳体制づくりに参画したメンバーであろう。
②    前期後半には、各地区で築造が開始される。八幡、大住・田辺、伏見・深草地区ではこの時期のみの築造である。
③    西山城地域は、時期ごとの「墓域の移動」が認められ、都出比呂志氏によって中央との連動が指摘されている。確かに政権中枢と連動し、墓域を移しているが、このことをもって「河内王朝論」の根拠とはならない。
④    中期の系譜を考察するには、南山城地域がモデルとなり、和田晴吾氏によって分析されている。久津川車塚を中心とするそのモデルは、応神大王の政権を考察するのに重要である。
⑤    後期古墳である宇治地区の宇治二子塚古墳築造の契機は、継体大王の政権と関わるのであろう。

五、 まとめ
 三~五世紀の山城地域を考えるにあたって、二つの視点を提案したい。
 まず、河川ルートについては、大きく大和川ルートと、淀川ルートがある。大和川ルートは大和から西に向かうもので、前期前半と中期に関わる。淀川ルートは大和から北に向かうもので前期後半に関わり、山城地域が重要な役割を果たす。
 もうひとつは、畿内全体を考えるということである。大王墓域の移動によって河内王朝論を唱える説があるが、政治の中枢である宮と死後のモニュメントである古墳を混同してはならない。政権は、宮を中心に、津、鍛冶、須恵器生産、製塩、古墳、玉生産などを畿内各地で機能的に分担配置する。大王墓は、被葬者の出自によって築かれるのではなく、政策的に配置されたもので、河内王朝論は成立しない。畿内全体の中での山城の機能について再考する必要がある。

〔註〕
(1)近藤義郎編『前方後円墳集成』(全六巻)山川出版社、1992~2000年。

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