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考古学からみた3-5世紀の近江

つどい277号
元福井県埋蔵文化財調査センター所長 中司照世 先生

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考古学から見た三~五世紀の近江
元福井県埋蔵文化財センター所長 中司 照世

はじめに 
 本誌第二六〇号でも述べたが、筆者は以前から近畿を初めとする各地の主要古墳で、既報告の内容に問題のある例が少なくないと指摘してきた〔中司照世二〇〇九「五世紀のヤマト政権とコシ」『つどい』第二六〇号〕。なぜなら、その地の政治的動向を探るさい、基礎資料の正否は論旨を左右するきわめて重要な要素であり、解釈の如何によっては全く異なる結論へ至ることにもなるからである。 

一.再検討を要する近江の首長墳
今回対象とする近江(図2)でも、継続して調査を実施してきたが、その中で再検討が必要ないくつかの例を確認した。そうして、過誤が小さくないと思えるものについては、必要に応じて随時言及した。
たとえば、従来前期古墳とみなされていた長浜市上坂(こうさか)茶臼山古墳や中期初頭の古墳とみなされていた高島市田中王塚古墳について、埴輪(編年Ⅳ期、図1)等からみても、ともに中期後半に属すことを指摘した。いうまでもなく、この二基は継体関連地域に所在する顕著な存在の首長墳であり、ならば伝承ともまさに整合しているかの現象が存在することになるわけである(中司照世一九九三「日本海中部の古墳文化」『新版古代の日本』第七巻 中部)。

そのほか今回の要旨に関連するものを挙げると、長浜市越前塚(こしまえづか)三九号墳、安土町瓢箪山古墳、草津市北谷一一号墳、野洲市大塚山古墳・円山古墳などの再検討が不可欠な例がある(注一)。
越前塚三九号墳(図3)は、平地に立地する前方後円墳(墳丘推定長約三五メートル)である。周溝出土品への須恵器の混在を根拠にして、後期古墳と報告されている。けれども、墳形、陪冢かと思える小型円墳(六七号墳)が隣接するが、あたかもそれを避けるかのように幅を狭めて掘削された周溝の形状など、相互の位置関係、出土土器類への古式土師器の併存、などの諸条件から勘案すると、むしろ前期に属す蓋然性が高く、須恵器は後の流入と判断すべきと思える。
また、安土瓢箪山古墳は丘陵端に立地し、近江の代表的な前期前方後円墳として学界でも広く知られている。しかし、当初の墳丘規模の報告値(長さ約五三五尺、換算値一六二メートル)については、丘陵全体の長さである可能性が高い。近年では、一三四メートルとする説が主張されており、また、一三〇数メートルとみなす研究者が多いといわれる〔用田政晴二〇〇七『琵琶湖をめぐる古墳と古墳群』〕。ただ、これまでの筆者の複数回に及ぶ実査、略測では、いずれも一四一メートルを前後する計測値をえており、なお若干の懸念が残る。  

次に、北谷一一号・野洲大塚山・円山の各古墳は、全て円墳と報告されている。
北谷一一号墳(図3)は丘陵上に立地する。筆者らは、地形測量図からみて、報告とは異なりむしろ前方後円墳(墳丘復原長約一〇五メートル、注二)ではないかと考えた〔中司照世・川西宏幸一九八〇「北谷一一号墳の研究」『考古学雑誌』第六六巻第二号〕。ところが、こうした新たな見解に対して、調査当事者の観察所見や葺石・埴輪の散布範囲が円形に限定されるとして、やはり円墳説こそ正鵠を射ているとする反論〔用田政晴一九九〇「三つの古墳の墳形と規模」『(滋賀県文化財保護協会)紀要』第三号。後、用田前掲書に収録〕が出された。
もちろん、古墳が消滅している現在、直接の調査当事者の観察結果は、尊重されるべきである。それでも、盟主墳の墳丘等に
関しては、調査時期の新旧を問わず、各地で混乱した報告例が錯綜していることは、以前から繰り返し指摘しているとおりである。そもそも観察所見自体が、調査者の知見に左右されるものに過ぎない面もあって、根拠としては必ずしも万全とはいいがたい。また、葺石は、墳丘の上段など一部分に葺かれるか、その逆に墳丘外周にまで敷設された例も散見される。すなわち、仮に調査で正確な個別実態が把握されていたとしても、これまた墳形特定の根拠として十分ではない。詳述する余地がないが、その他円墳説を補強するために指摘された点についても、わが国の古墳の実状や調査担当者の西田弘氏から頂戴した関係資料から判断しても傍証となりえていない。

野洲大塚山古墳は平地に立地し、周濠を巡らす。造出部の中央に、この箇所を二分割する形で縦方向の溝が設置された、造出付円墳(墳丘長六五メートル)と報告されている。
*管理人追記 現地見学会より
Photo はたしてそうであれば、異例の形状を呈する墳形となる。しかしながら、他の帆立貝形からみても、向かって右側こそ短小な前方部であり、その左側に同じ長さの造出部を付設した帆立貝形前方後円墳とみなすのが自然である。双方出土の埴輪の種別の差異も、その事実を示唆する。

他方、円山古墳は丘陵上に立地する。保存整備事業の当初計画では、北東面の前方部とその右側に北面の小型造出部を付設した帆立貝形前方後円墳(墳丘略測長約四二メートル)と認識されている。にもかかわらず、その後解釈が円墳に変更されている。今日でも、未整備状態の前方部周辺はそのまま旧状をとどめ、当否の再検討が可能であるが、やはり「当初計画図」の理解(注三)の方が正鵠を射ていると考える。
*管理人追記 丸山古墳・現地見学会より
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二.既往の古墳研究の問題点

実は筆者は、こうした古墳研究の混乱は、わが国の古代の政治・文化の中心地であり、研究を主導している面が大きい近畿地方の、古墳に関する様々な点での誤解に基づいているのではないか、という危惧を抱いている。
たとえば、古墳立地の時期的な変遷については、前期には丘陵端部に造営され、やがて中期には平地に降下し造営されるかにみなされている感がある。しかし、早く田中新史氏が指摘したことであるが、ごく初期の前方後方(円)墳は、主に平地の湖や河川に隣接する臨水域とも言いうる岸辺での造営例が多い。やがて前期から中期にかけては丘陵先端部から丘陵のより高所へと、さらに続く中期から後期にかけては、谷間などの平地から谷奥の山麓部などへと、それぞれ造営地が推移するのが、全国的にも普遍的な現象といえよう。

また、異例の形状を呈する古墳が存在するとみなして、特別な名で呼び分けた例も散見される。その一つで、真の継体陵とみなされている大阪府高槻市今城塚古墳を典型例とした「剣菱形前方後円墳」については、近年の調査により想定が否定された。そのほかにも、いくつかの特別な呼称例も存在する(注四)。ただ、留意すべきは、国内の古墳の大半は丘陵上に造営されているのであるから、むしろ整った形状を呈する方が少ない。つまり、あえて特別に呼び分けた呼称例にも疑問が多く、納得するに足る理由を見出せない。

さらに、墳丘の外部設備に関する問題もある。葺石については前述した。一方、段築については、これまで主に被葬者の勢威が顕在した、階層性を表現するものとしての説明がなされてきた。しかし、全国的な検討結果からすれば、むしろ格式を表現した意義が大きいものと思える。とりわけ、三段築成は大王家関係者ないしは大王家関係者に妃を出し婚姻関係を有するなど、大王家との間に特殊な関係を有する首長の古墳に限定しうると、以前から指摘してきた。
なお、学界では箸墓古墳の出現をもって古墳時代の開始とし、土器編年の庄内式期を弥生時代末期とする説もあるが、その立場はとらない。すなわち、この時期の近江において検出例が多く、一部で前方後方形周溝墓と呼ばれている墳丘はいずれも前方後方墳であり、併行期以後の方形周溝墓と呼ばれている墳丘も全て方墳であるとみなしている。付随して、墳丘の高低を問題視する見解もあるが、これも首肯しがたい。

三.近江における主要古墳

 ところで、実は、近江の古墳時代に関しては、ここ一年ばかりの間にめざましい研究の進展があった。こうした新見解が正しいなら、当地方全域における首長層の動静に係わる解釈が、きわめて容易になろう。
結論から述べると、これまで近江における古墳時代の政治状況については、種々な解釈が見られた。だが、多くのほかの地方と同様に、早い段階で広域の政治圏が形成されており、一系列からなる歴代の大首長の系譜が辿れる可能性がきわめて濃厚になった。そうであれば、今後はさらに関連資料の収集を図り、細部に亘る一層精緻な検討を行う段階に到ったといえる。以下、まずこの点から説明したい。

さて、その一つは、今回のテーマから多少逸脱するが、従来五世紀後半とされてきた大型前方後円墳(墳丘長九〇メートル)である野洲市林ノ腰古墳の造営時期を、埴輪の再検討から六世紀前半に改め、『日本書紀』において韓半島への派遣や活躍が伝えられている近江毛野臣の墓ではないかとする辻川哲朗氏の新説〔辻川二〇一〇「近江・林ノ腰古墳の再検討」『同志社大学考古学研究会五〇周年記念論集』〕である。

本古墳は、平地に立地し周濠を巡らす。墳丘は、削平のため段築の有無こそ不明であるが、周濠も二重であって、造出・葺石・埴輪を備えるなど、後期としても異例の傑出した様相を呈している。諸設備を兼備するなど陵墓に近似するその様は、『日本書紀』上において、その動静が特記されている大豪族が被葬者ではないかとする想定と整合している感が強く、注目すべき見解といえよう(注五)。

 今一つは、当地における古墳分布の集中域からは離れているが、彦根市荒神山古墳(同一二四メートル)と大津市膳所茶臼山古墳(同一二〇メートル)の、ともに丘陵上に点在する二基の大型前方後円墳に関する新展開である。前者については、犬上郡に所在することなどから、犬上君に関連する古墳ではないかという想定を以前述べた。同様な意見は滋賀県内の二、三の研究者によっても指摘されている。 
両古墳は、近江でも稀な三段築成であり、また現状からみる限り、後続する同様な首長墳の存在を確認しえない(注六)、という共通の特徴が窺える。その他の諸条件を含めて検討すれば、塚口義信氏が説く四世紀末の香坂王・忍熊王の反乱〔塚口義信一九九三「佐紀盾列古墳群とその被葬者たち」『ヤマト王権の謎をとく』〕に関連する存在の蓋然性が濃厚と考えざるをえない。ともあれ、こうした点については、いずれ改めて同氏が論究されるであろうから、ここでは触れるに止める。

 ところで、以前から筆者は、各地における首長墳の検討の結果、前・中期では墳丘長(径)六三、四メートル以上の規模を誇る盟主墳こそ、律令制下の国域など、広域にわたる政治圏を統括した大首長墳とみなしうると指摘してきた。同時に、単に墳丘規模のみならず、畿外では類例の少ない段築・葺石・埴輪という外部設備の整備の度合いも、それに該当するか否かの判断の重要な要素になる。つまり、各地方における歴代大首長墳の抽出には、墳丘に関してある基準以上の規模と外部設備の存在が重要な判断材料といえる。いいかえれば、該当域におけるそれぞれの世代ごとで、大王陵に最も近似する大型古墳はどれかという問いでもある。 
そこで、以下当地において、大首長墳に相当する顕著な存在の古墳に関して、その当否について順次簡略に論究する(図4)。ただ、紙幅の関係上、前述の規模を凌駕し外部諸設備を兼備するなど、大首長墳として異議をさし挟む余地の少ない例については、当面対象から割愛したい。

まず湖西では、大津市和邇大塚山(墳丘長七二メートル)・兜稲荷(同九二メートル)・木ノ岡本塚(同七三メートル)・木ノ岡茶臼山(同八四メートル)、高島市田中王塚(同約七〇メートル)のいずれも丘陵上に立地する五基の大型前方後円墳(一部帆立貝形を含む)が対象になろう。
和邇大塚山・木ノ岡茶臼山の両古墳には埴輪の、兜稲荷古墳には葺石・埴輪の、それぞれ存在が確認されていない。また、木ノ岡本塚古墳は、段築・葺石・埴輪を完備する帆立貝形前方後円墳といわれている。陵墓参考地でもあり、詳細は不明な点が多いが、むしろ大型円墳ではないかと思えるふしがある。
一方、田中王塚古墳については、冒頭でも触れた。同様に段築・葺石・埴輪を完備する帆立貝形前方後円墳とされている。継体関連のシンポジウムや本誌第二五四号〔中司照世二〇〇九「五世紀のヤマト政権と若狭」『つどい』第二五四号〕などでも述べたが、現状の外形は二段築成を呈するけれども、下段の墳丘高の方が上段より大きい点は異例である。後に掘削された墳丘に外接する溝があること、短い前方部も後に付設されたものとする伝えがあることなどを勘案すると、さらに疑念が深まる。
すなわち、本来の墳丘は三段築成であって、最下段の外縁は新たに外周に溝が掘削されるさい、現在見るような形に削られたのではないかという疑問である。仮に原形が三段築成なら、想定される最下段墳丘上面の平坦部は、そのまま前方部上面には連続しない。ならば、前方部は後の付設という伝承とも合致することになり、円墳である可能性が強まることになろう。 

 次に、湖南や湖東では、東近江市天乞山(辺長六五メートル)・布施山頂(墳丘略測長約八五メートル)の両大型古墳などが対象になろう。 
前者は平地に立地し、周濠を巡らす方墳である。外部諸設備を完備するほか、墳丘基部から双方に突出する形の小型の造出を有している。けれども、大首長墳としては階層的に下位ともいいうる方形を呈する点に懸念が残り、即大首長墳とするには躊躇せざるをえない。
一方後者は、その名のとおり布施山の山頂に立地する前方後円墳である。埴輪の存在が報告されているが、後世の砦構築により墳丘の改変が激しく、その実態にはなお未詳な点が多い。 

 さらに、湖北では、長浜市姫塚(同七二~八〇メートル)・西野山(同七〇メートル)の両大型古墳が対象になろう。
姫塚古墳は平地に立地し、周濠を巡らす前方後方墳である。墳丘は、後方部のみ二段築成で、葺石も備える。埴輪は存在しない。立地や墳形を重視すれば、湖北で最古クラスの埴輪(Ⅱ期)を備える前期前方後円墳の長浜市若宮古墳より、先行する所属時期である可能性が大きい。けれども、なお資料不足で当否の特定が困難である。 
また、西野山古墳は、丘陵上に立地する前方後円墳である。近江では珍しく、両くびれ部へ造出が付設されている。後円部下にも遺構の付設が確認できるが、局部的な存在であることから、段築ではなく基台(壇)部かと思える。

 以上、列挙した主要古墳では、大部分がそのまま即大首長墳と特定するには問題がある。それでも、大型で外部設備を備えることは看過しがたく、今後のさらなる関連資料の収集と検証が望まれる。なお、はたして大首長墳ではないと判明しても、一郡ないしは数郡程度を統括し、大小の首長の中間に位置する、中首長ともいうべき被葬者の古墳である蓋然性が残る点は留意すべきである。
 こうしてみると、ここまで大首長墳の蓋然性が濃厚として個別の説明を省いてきた例もあるが、近江八幡市雪野山(墳丘長七〇メートル)、安土瓢箪山、北谷一一号・草津市地山(同九一メートル)、栗東市大塚越(同七五メートル)・椿山(同九八メートル)、竜王町雨宮(同八二メートル)、野洲大塚山、上坂茶臼山の各前方後円墳が、五世紀以前の歴代大首長墳の候補となろう。そうであれば、これら大首長墳の過半は、野洲川流域に集中していることになる。
なお、雪野山古墳では埴輪の、安土瓢箪山古墳では段築・埴輪の、それぞれ存在が確認しえない。にもかかわらず、大首長墳の候補には含めておきたい。なぜなら、畿外のごく初期の古墳に関しては、たとえ大首長墳と目すのが穏当な場合でも、往々にして外部設備の一部を欠く例が散見されるからである。

四.大首長登場の伏線

 ところで、話が前後し、時期が少し遡るけれども、ここで野洲川流域の前代の様相にも少し言及しておきたい。
 畿内各地でも近年その散在が報告されるようになったが、特に近江では早くから庄内式期を中心とする前方後方墳が各所の平地で検出されていた。その一部は、野洲・近江八幡・米原・長浜の各市等に亘って所在している。わけても、草津・守山・栗東の各市域に亘る野洲川の西岸域に多く散在している。墳丘規模も一部に四〇メートルを超える例も混在するが、大部分は一〇余メートルから二五メートル前後を測るに過ぎない。
 さらに今少し時期を遡ると、この地域では、弥生時代中期後半に始まり大型建物を擁する環濠集落の栗東市下之郷遺跡や、守山市播磨田東遺跡、後期中ごろの同市伊勢遺跡など、注目をあびた集落の存在が特筆される。
 もちろん、発掘を伴う考古学的な調査による検出例や分布論では、調査箇所の密度や面積など、その精粗如何に左右される面があって、慎重な検討が求められる。それでも、この周辺域における主要遺構検出の頻度は、近江では異色とも言える。ならば、古墳時代の初頭をなす前方後方墳の集中的な分布も、実は弥生時代から続く、野洲川西岸域における集団の勢力の隆盛さを継承している事実を、端的に顕在させたものともいえよう。
 そうした前代から続く歴史的な環境下において、まず大首長墳は湖東に登場し、やがて近江の交通の枢要地域でもある湖南の野洲川流域に遷って、以後順次輩出、造営されたことになろう。つまり、四世紀後葉の北谷一一号墳の出現は、野洲川流域に居住する勢力の再度の興隆の端緒をなすものであろう。
以降、一時期やや距離的に離れた雨宮古墳に遷るが、おおむね野洲川西岸の草津・栗東両市域での変遷が辿れる。そうして五世紀中葉には、同東岸の野洲市域に遷って野洲大塚山古墳が登場し、以降再度一旦上坂茶臼山古墳など遠隔地の湖北に遷りながら、再び戻って六世紀前葉の林ノ腰古墳まで断続的に営まれていることになる。
ただ前記したが、現状では歴代の系譜上の位置づけなどに関して、なお資料が僅少で、細部については未詳な点が多い。より明確にするには一層の資料の収集が不可欠である。

五.近江における主要首長墳の動静

以上、近江における、四・五世紀の大首長墳ではないかと想定される系譜の概要について述べた。ただし、はたしてそれらが歴代の大首長墳だとしても、大塚越・地山・椿山・雨宮・野洲大塚山の各中期古墳は、通有の大首長墳に相応しい前方後円墳ではなく、前方部の短い帆立貝形前方後円墳に過ぎない。よって、その点異論の生じる余地が残るかも知れない。
こうした帆立貝形古墳の出現に関する意義については、並立する形で造営される大首長墳に対して、大王により規制が加えられたとする説〔小野山節一九七〇「五世紀における古墳の規制」『考古学研究』第一六巻第三号〕がかつて提唱された。この説には、その後顕著な反論をみていない。それでも、各地における首長墳の実態を子細に観察すると、大王陵と同様に畿外の各地でも大首長墳と思える大型前方後円墳には、より小型の帆立貝形前方後円墳があたかも随従するかの形で分布する例が散見される。そのさまは、大王陵を中心とする古墳群のまさに縮小版ともいえる。 
先に、コシに散在する帆立貝形の大首長墳については、その出現契機について論じた〔前掲『つどい』第二六〇号〕。要点の一部を簡略に記すと、中期初めには西日本を中心とするわが国の各地で、臨海性の立地を有する大首長墳が広範に出現しており、その中で帆立貝形を呈する古墳の混在が目立っている。そうした立地の古墳では、装身具や土器などの渡来系の品の出土から、韓半島への軍事渡航に伴う出港地を反映する現象と理解するのが自然である。
ここ近江でも、五世紀初頭の栗東市新開一号墳の副葬品に、装身具や馬具などの渡来品が混在しており、わが国にでも代表的な例として良く知られている。同じく中葉の野洲大塚山古墳でも、装身具に渡来品の混在がある。後期に下るけれども、そうした傾向は円山・野洲市甲山の両古墳という地域の首長層の古墳でも窺える。また、伝・三上山下の古墳出土で、魚佩が付着した獣帯鏡はわけても特筆すべき存在といえよう。
そのほかにも、古い発見ながら未だ十分には学界に周知されていない、近江八幡市上野車塚古墳出土の金銅製帯金具(図5)等も存在する。五世紀の近江における主要渡来品の一例に加えうる事例で、帯金具であるだけに注目に値する。当古墳は、行政上の所在こそ異なるが、広義の野洲古墳群に含めるべき存在である。
すなわち、大首長墳と目されながら帆立貝形を呈する前方後円墳が主に集中する野洲川流域では、渡来系の品の副葬もまた盛況を呈しているわけである。これらは、当時の倭国の韓半島などへの対外交渉に係わる過程で将来された品々であろう。結論を急げば、当地方でも他の地方と同様に、墳形に何らかの形で軍事編成が反映されている可能性が大きいと考えられる。
ならば、帆立貝形前方後円墳の出現は大王に拠る規制の影響を示すものとみるより、むしろ軍事編成など、一層の序列化が不可欠な組織における現実的契機が、墳形に顕在化されることとなったものではないかと思える。具体的にいえば、より有勢な大豪族の膝下に連なることになった証、と推定するのが無理の無い解釈と考える。なお、近江の大首長に係わるそうした関係の成立の対象としては、ヤマト政権中枢のいずれかの有勢豪族などを、蓋然性の高い案としてあげておきたい。

おわりに
 以上、限られた紙数の中ではあるが、五世紀以前の近江の首長層の動向について、ごく簡略に私見を示した。近江全域を対象にするには、当然ながら論究も多岐にわたらざるをえない。しかし、今回は、ごく最近研究上顕著な進展がみられた、大首長墳に係わる政治的な動向を主な対象としたため、言及しえなかった点も少なくない。いずれ稿を改めて論じることで、その欠を補うこととしたい。

最後に、塚口氏の説の四世紀末の反乱に関連する問題では、同氏に教示をえている。末筆ではあるが謝意を表したい。また、この度も紙幅の関係上、報告書類などの基礎的な文献の掲載は省略している。ご了承を賜りたい。

一 参考までに、そのほか大津市坂尻二号墳・西羅一号墳、高島市斉頼塚古墳、長浜市四郷崎一号墳・塩津丸山一号墳などでも、筆者の墳形認識との間に違いがある。自余の各種の遺跡地図上で指摘された例にも異同が少なくないが、割愛したい。
二 なお、この推定復原値は最小の値に過ぎない。各地の尾根を踏査しても意外に自然の改変が稀な実態を考慮すれば、東接し、しかも孤状に巡る溝状地形の溝底を墳丘基底線として、一一〇メートル前後に復原するのがより穏当な規模かも知れない。
三 ただし、当初計画図では、墳丘の外形線が前方部や造出部の頂部平坦面の外縁に沿って描かれており、通例の基底線となっていない。そこで、墳丘長は筆者の略測値を示した。
四 例えば大阪府羽曳野市の安閑天皇陵の「片直角型前方後円墳」、奈良県宇陀市見田・大沢一号墳の「一隅突出型前方後方墳」などの提唱である。
五 はたしてそうであれば、明治三一年に三上山下の古墳から出土したと伝えられ、百済の武寧王陵や群馬県高崎市綿貫観音山古墳の出土鏡と同型である獣帯鏡(金銅製魚佩付着)は、林ノ腰古墳の副葬品である可能性が生じる。
六 荒神山古墳では、南麓に後継の首長墳として塚村古墳の存在を想定する説があるが、賛同し難い。

注) 赤字は管理人が印す

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