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四、五世紀の丹波とヤマト政権

つどい264号
講師 堺女子短期大学名誉教授 名誉学長 塚口義信 先生

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四、五世紀の丹波とヤマト政権

講師 堺女子短期大学名誉教授 名誉学長 塚口義信

はじめに
四世紀後半から五世紀前半にかけての時期における丹波の政治集団とヤマト政権(畿内政権)との関わりを明らかにすることが、この講演の目的である。

ところで、一般に丹波国といえば、京都府中部(亀岡市から福知山市にかけての地域)と兵庫県東北部(旧・氷上(ひかみ)郡から多紀(たき)郡にかけての地域)の地域を指しているが、これは和銅六年(七一三)に丹波国が丹後と丹波の二国に分割されてから以後の領域であって、それ以前は丹後国(京都府北部に位置する加佐(かさ)・与佐(よさ)・丹波(たには)・竹野(たかの)・熊野(くまの)の五郡より成る)を含めて、丹波国といっていた。五世紀前半以前における丹波国の中心は丹後半島にあったから、必然的にこの講演の舞台となる地域もそれを含む、令制の丹後国ということになる。

一、四世紀代における丹波の中心勢力とヤマト政権周知のとおり、四世紀代の丹波には、後の三大古墳といわれる蛭子山(えびすやま)古墳(京都府与謝郡与謝野町、前方後円墳、墳丘長一四五メートル前後)、網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳(同京丹後市網野町、前方後円墳、墳丘長二〇〇メートル前後)、神明山(しんめいやま)古墳(同京丹後市丹後町、前方後円墳、墳丘長一九〇メートル前後)が相次いで築造されている。これらの古墳の編年については研究者によって若干の違いがあるが、いずれも四世紀代の築造とみる点については、ほぼ共通の認識となっている。
そして、これらの古墳にはいずれも丹後型円筒埴輪(無頸壷形(むけいつぼがた)埴輪)と呼ばれる丹後独特の埴輪が用いられており、これらの古墳の被葬者たちが丹後の広域首長連合の最高首長(以下、大首長と記す)であったらしいこともまた、 共通の認識となりつつある。
では、これらの大首長はヤマト政権とどのような関わりを有していたのであろうか。岸本直文氏の研究(注)によれば、網野銚子山古墳は奈良県北部に所在する佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(西群)の佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひばすひめ)陵古墳、二〇六メートル前後)や神戸市垂水区に所在する五色塚(ごしきづか)古墳(一九四メートル前後)などの前方後円墳とほぼ同型で、たがいに深い関わりを有しているという。

佐紀陵山古墳は大王墓級の巨大古墳で、四世紀後半におけるヤマト王権の政権担当集団であった佐紀政権の中枢に位置する人物の奥津城と推定され、五色塚古墳は兵庫県下最大の前方後円墳である。ここで注目されるのは、後者の五色塚古墳を盟主墳とする五色塚古墳群が、五世紀代になると古墳の築造を停止してしまうことと、五色塚古墳が香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)によって築かれたとする伝承(『日本書紀』神功皇后摂政元年二月の条)をもっていることである。

「コラム・五色塚古墳」に記したように、なぜこれほどの巨大古墳を築きながら、また台地の東半を将来の墓域として残しておきながら、この古墳群には後続する五世紀代の古墳がないのであろうか。また、この古墳はなぜ香坂王・忍熊王によって築造されたと伝えられているのであろうか。

これらの疑問を解くヒントは、四世紀末に勃発したヤマト政権(畿内政権)の争乱に秘められているように思われる。別に論じたように(注)、三九一年前後の時期に、九州(特に日向)諸族の支援を得て九州から摂津・大和に進軍してきた品陀和気命(ほむだわけけみこと)の名で語られている政治集団の首長(以下、応神と記す)が、大和北部から山城南部・近江南部・摂津・河内北部を勢力基盤とするところの、四世紀後半にヤマト政権の最高首長権(大王権)を保持していた政治集団(その奥津城は佐紀盾列古墳群の西群)の正統な後継者である忍熊王の名で語られている人物の軍勢と戦い、これを打倒して「河内政権( 河内大王家)」を樹立するという政変が勃発した。新政権の始祖王となったこの人物は、もともと佐紀西群の体制を首長家とともに支えていたのであろうか。 

このようにみてくると、四世紀代の丹後山の大首長たちについても同様の事情を想定することができるのではなかろうか。すなわち、
①網野銚子山古墳が佐紀陵山古墳および五色塚古墳と同型と考えられること(注)、
②丹後半島の地名を負う竹 野媛 (たかのひめ)の姉の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)がヤマトの大王(垂仁)の大后(おおきさき)(皇后)となり、死後、佐紀盾列古墳群が所在する「狭木寺間(さ きのてらま)陵」(『古事記』垂仁天皇の段)に葬られたと伝えられていること、
③五世紀代になると古墳の規模が縮小すること(五世紀代前半の大首長墳は京丹後市の黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳で、墳丘長一〇〇メートル前後)、などの点からみて、四世紀代の丹波の大首長たちは佐紀政権と極めて親密な関係を有していたが、体制派(忍熊王派)の系列に属していたため、四世紀末の内乱の結果、その勢力が弱体化したことが考えられるのである。

黒部銚子山古墳の被葬者がそれまでの首長系列に属していたかどうかについては不明であるが(注)、いずれにもせよ、全国的に古墳が巨大化する五世紀代にあって丹後の大首長墳は前代のそれの二分の一の規模となり、丹後政権の独自性を可視的に主張してきた丹後型円筒埴輪もなくなっている。そして黒部銚子山古墳の次の大首長墳はもはや丹後半島にはなく、篠山盆地東部に移っている。篠山市東本荘に所在する雲 部(くも べ)車塚古墳(一五八メートル前後)がそれで、しかもこの古墳は畿内型の精美な前方後円墳として知られているのである。こうした情況は、やはり劇的な変化というべきであろう。 

二、 海部直一族の台頭  四世紀末の内乱ののち、丹後半島ではどのような政治集団が台頭してきたのであろうか。

この問題を考える場合に一つの手がかりとなるのが、宮津市の籠(この)神社(丹後国一宮)に伝わる、祝(はふり)(神官)の地位の継承次第を記した(注)縱系図として名高いいわゆる海部(あまべ)氏系図(注)である。この系図は紙質および筆勢、冒頭に見られる「従、四位下、、、籠名神」の記載から考えて、貞観十三年(八七一)六月より元慶(がんぎょう)元年(八七七)十二月までの間に書写されたものと考定されている(注)。 

この系図でまず注意されるのは、すでに先学が指摘されているように、健振熊宿禰(たけふるくまのすくね)以前と、次の海 部直都比(あまべのあたえとひ)以後とで、記載の体裁に大きな違いがみられることである。都比以下はすべて「児・・・・、児・・・・、児・・・・」という記載様式になっているのに対して、健振熊宿禰以前は「三世孫倭宿禰命」「孫健振熊宿禰」などとあって、何代かが省略されている。これは是澤恭三氏が論ぜられた(注)ように、他の系図からの援用あるいは省略を意味する「」の記号と関連している。すなわち、都比以下は海部直氏の家伝に依拠して書かれたものだが、それ以前は他氏の伝承に基づいて書かれたものと考えられる。  こうした性格をもつ海部氏系図であるが、ここで私が最も注目したいのは、海部直氏の事実上の始祖とされている都比の父が、健振熊宿禰であるとされていることである。しかもこの人物には、古くから海部直氏に伝えられてきたとみられる独自の伝承、すなわち「此若狭木津高向宮爾海部直姓定賜弖楯桙賜國造仕奉支、品田天皇御宇」という注記が付けられている。現在の国造制研究の動向からいって、果たしてこの一族が実際に「品田(ほむたの)天皇(応神天皇)」の時代に「海部直姓」を賜り、「国造」に任ぜられたかどうかについては疑わしい点がある。

しかし、ここで重要なのは、海部直氏が自己の歴史上、「品田天皇」の時代をエポックメーキングな時代とみなしていることと、そこに和珥わに(邇)臣のおみ氏の祖先の「健振熊宿禰」の名を持ち出していることである。これらは一体、何を意味しているのであろうか。

まず「若狭木津高向宮」の伝承については、若狭国大飯(おおい)郡に木津郷が存在した。大飯郡は天長二年(八二五)に成立した郡であり、それ以前は遠敷(おにゅう)郡に属していた。庚子かのえね年(文武四年=七〇〇年)四月の藤原宮出土木簡に「若狭国丹生(おにゅうの)小評(こほり)木ツの里」、神亀五年(七二八)九月十五日の平城宮木簡に「若狭国遠敷郡木津郷」とみえている。「若狭国税所今富名領主代々次第」に「木津庄高浜」とあるので、現在の高浜町子生川(こびがわ)下流域一帯に比定し得る(注)。この附近は古代にあっては塩の生産地帯である。  後述するとおり、応神から始まる河内新政権の時代には若狭・丹後半島・但馬の海人集団が新政権によって掌握されていたと考えられるから、この附近に行宮ないし大王の使者の宿泊施設が設置されていたとしても少しも不思議なことではない。と同時に注意されるのは、すでに指摘されているように(注)、若狭や丹波に和珥氏の勢力が伸びていたと考えられることである。  してみると、丹波の海部直氏は和珥氏と深い関わりを持ち、この一族を媒介として河内政権と結び付いていたことが推測される。  次に、都比の父とされる健振熊宿禰については、『記』『紀』に、神功・応神方の将軍として活躍し、忍熊王の乱を鎮定したとされていることが注目される。 

このようにみてくると、海部直氏一族は四世紀末の内乱のときに和珥氏とともに応神方を支援していた豪族であって、この内乱を契機として台頭してきたことが推測されるであろう。海部直氏が「健振熊宿禰」を自己の祖先とし、しかもその宿禰が活躍した応神朝に国造として奉仕することになったと伝えている意味は、この点に求められねばならないのではなかろうか。  三、五世紀の若狭・但馬とヤマト政権  前章で丹波の海部直氏が河内新政権の成立とともに台頭してきたことを論じたが、実はこれと同じような情況が丹波の隣国でもみられるのである。それは若狭と但馬である。

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