金峯山寺百日御開帳から宮滝
平城遷都千三百年記念として[百日特別ご開帳]されている吉野金峯山寺蔵王堂・蔵王権現を訪ねました。
蔵王権現を拝観の後山上を散策しながら如意輪寺・後醍醐天皇陵に至りその後は徒歩コースと電車バスコースに別かれて持統天皇ゆかりの宮滝遺跡(吉野離宮)までハイキングを楽しみました。
■日時 12月4日(土)
■行先 吉野方面
金峯山寺蔵王堂(蔵王権現ご開帳)、後醍醐天皇陵、宮滝遺跡、吉野歴史資料館
■集合場所
8時00分 阪急梅田駅神戸線売店前
8時30分 近鉄阿部野橋駅東口改札前
■行程
8時40分 阿部野橋発(吉野行 特急)に乗車 950円+特急券500円(各自購入)
9時56分 近鉄吉野 着
10時05分 吉野山ケーブル 3分 350円
10時30分 蔵王権現拝観 団体900円
11時30分~13時20分
■昼食「やっこ」にて昼食 柿の葉寿司とうどん
■山上見学・如意輪寺・後醍醐天皇陵
【ハイキングコース】
13時10分 後醍醐天皇陵 発
これより宮滝までハイキングコース
1.2km(登り) 稚児松地蔵堂
3.2km(下り) 桜木神社(w.c)
0.8km(平坦) 宮滝遺跡
吉野歴史資料館
【乗り物コース】
13時20分 後醍醐天皇陵 発
(徒歩下り2.5km)
14時08分 近鉄吉野発
14時25分 奈良交通バス大和上市発 360円
14時50分 宮滝着
宮滝遺跡
吉野歴史資料館
【これより共通】
15時44分 宮滝バス停 発 360円
16時08分 大和上市(阿部野橋行特急) 発
17時21分 阿倍野橋 着 950円+特急券500円(各自購入)
■参考図書
蔵王権現入門(総本山金峯山寺発行) 1500円+税
■主催 豊中歴史同好会
近鉄阿倍野駅を8時40分に出発した特急吉野行きはわずか二両連結。禁煙車は一両だけなのでその一両に今日の参加者総勢30名が予約したので席はほぼ満席。9時56分に近鉄吉野駅に到着。
吉野駅駅前からは吉野山ロープウエイに乗り換えます。一度には乗り切れずには二班に分かれて乗車しました。
約3分の空中散歩で山上駅に到着。12月のはじめですが高気圧が張り出して快晴となりそんなに寒くはありません。
土産物屋が並ぶ尾根伝いに延びる参道を辿ると金峯山寺の総門である黒門、続いて銅の鳥居(かねのとりい)をくぐる。銅の鳥居は高さ7.5m、東大寺の大仏さ
んの残りの銅で造られたといわれている。ほどなく尾根道の高台に堂々のたたずまいの金峯山寺の山門が見えてきました。
■金峯山寺・蔵王堂(きんぷせんじ・ざおうどう)
金峯山とは吉野山から山上ケ岳(大峰山)をも含んだ山脈の総称で、万葉集には「御金の岳(みかねのたけ)」の名で登場します。7世紀末に修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が大峰山で感得した蔵王権現(ざおうごんげん)を自ら刻んで祀ったのが金峯山寺の起源といわれています。国宝の蔵王堂は室町時代の再建で、高さ約34m、間口約36m、重層の入母屋造り桧皮葺き、東大寺の大仏殿につぐ大建築です。大屋根を支える68本の柱は自然木をそのまま使用していて梨、つつじという柱もあるそうです。
百日特別ご開帳の最後の週末ということもあって堂内は参拝者で溢れています。金峯山寺総務部長の田中利典氏のお話によればこの百日に十万人の参詣を計画したところ十一月中に達成してしまったそうです。昨年までならこの時期蔵王堂を訪ねるのは精々その十分の一程度だそうです。田中利典氏はTVや雑誌によく出てこられて吉野山の顔となっています。また「豊中歴史同好会」の「つどい会員」でもあります。ただこの日は御自坊での行事のためにお会いすることができませんでした。
本尊は三体の金剛蔵王権現像は秘仏とされています。中央が釈迦如来、向って右が千手観音菩薩。左が弥勒菩薩。中尊は8m近い巨像です。一般の参拝者がお参りする下陣からは前の人と入れ替わって前に進まないと蔵王権現様をよく拝することができません。
■役の行者
役の行者は舒明六年(634年)今の奈良県御所市茅原の吉祥草寺で生まれました。正式には「賀茂役君(公)小角(かもえのきみおづぬ)」の名の通り鴨氏につながる一族であったようです。小さい頃から霊感が強く同じ年頃の子供達とは交わらず一人葛城、金剛の山中を駆け巡っていました。その頃飛鳥の元興寺(今の飛鳥寺)の慧灌という僧(625年に来朝した高句麗の僧、後の井上法師)がたまたま現れた汚い小僧をひと目見て、「この子はただものではない」と感じ小角の身を守るために「孔雀明王経」の「孔雀の呪法」を教えました。小角が19歳、生駒山に登ったとき彼ははるか北西の方にかすんで見える山波から不思議な光が放たれているのを見つけました。その光に導かれて淀川を泳いで渡り箕面の山中に入るといつしか不思議な光を発する滝口に立っていました。滝で千日の修行をした小角は斉明天皇元年(655年)22歳の春この箕面の滝で龍樹菩薩の霊験を得ました。小角その後32歳の頃葛城山に篭り、吉野山に連なる大峰山で修行を積み天智10年(671年)38歳にして蔵王権現を感得されたとされています。(異伝あり。略年表参照)
小角が蔵王権現を感得した頃、壬申の乱(672年)を勝ち抜いた大海人皇子は天武朝を開きました。小角は天智天皇七年(668年)に大海人王子に請われて笠置山竹林寺を開いたとされ、その後芳野寺(670)、御室渡寺(671)、葛城・金剛山寺(673)、生駒寺(675) 箕面寺(682)とつぎつぎに開山していきます。この時代、一寺を開山するためには時の権力の援助があってこそであり天武天皇の時代と役小角の活躍した時代はぴたりと合致しています。国号を日本と定め、はじめて天皇と名乗り、律令制度を定め日本の表舞台をつくったのが天武天皇とすれば、役小角は仏教が入る前の祭祀文化(道教?がベース)と百年ほど前に新しく入った仏教が集合した「修験道」を開き明治に至り神仏分離令が発布されるまで千二百年栄えた神仏習合という祭祀の基層文化を作りました。
総勢三十名で記念撮影
蔵王堂を辞して記念撮影のあと寺の前の「やっこ」にて昼食としました。蔵王堂参拝の前にお店に伺って予約しておいたので30名がスムーズにお店に入れました。柿の葉寿司もうどんも美味しい。昼食を予定通りに済ますことができたのでこれで時間内に宮滝までたどり着けそうである。
早々にお店を辞して山に向って吉野山の門前街を抜ける。仏具や薬、など吉野特産のお店もあるのでゆっくりと見物したいところながら顔だけきょろきょろしつつお店の前を素通りして如意輪寺へと向った。
吉野山の町並みを抜ける 如意輪寺山門まであと一息
■如意輪寺
大和国吉野山如意輪寺は、塔尾山椿花院と言う。現在、如意輪堂(本堂)・多宝塔・御霊殿・幽香楼・報国殿・宝蔵・鐘楼・茶所・庫裡等の建造物がある。当山は、延喜年間(西紀901-923)文章博士三好善行の弟で、醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人の草創にかかり、後醍醐天皇吉野に行宮を定め給うや勅願所となった。
元弘三年(1233)専横の北條幕府を倒し、建武中興をなしとげた後醍醐天皇は足利氏との争いのため京都をのがれ、廷元元年吉野へ行幸、以来吉野行宮に過された。当山は叡信特に篤く吉野朝の勅願所となった。延元四年(1339)天皇は病床につかれ「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕に天を望まん」と都をあこがれつつ、ついに崩御された。天皇の御遺骸をそのまま当時の裏山に葬られたのが塔尾陵である。次帝次村上天皇の正平二年十二月二七日(1347)楠木正行公の一族黨143名が四条畷(大阪府)の決戦(足利武将高師直との戦)に臨むに当り、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で、髻を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を残し、最後に、正行公は鏃をもって御堂の扉に
かゑらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとゞむる
と辞世の歌を残して四條畷に向ったが衆寡敵せず弟正時と共に最期をとげた。現在の如意輪堂は慶安三年(江戸時代)の再建で当時の扉は現在宝物殿に保存されている。
■D 後醍醐天皇陵(ごだいごてんのうりょう)
如意輪寺の裏山にある。直径約27mの小さな円墳で、普通は南を正面に築くが、京都の方向にあたる北が正面。芭蕉の句に、帰郷の悲願を果たせなかった無念がしのばれる。
如意輪寺
如意輪寺で小休止とし、後醍醐天皇陵に参り、希望者は宝物殿で辞せの句を見学して正行公を偲んだ。
如意輪寺からは二班にわかれて宮滝遺跡に向った。ひとつは如意輪寺から近鉄吉野駅に下り電車・バスと乗り継いで宮滝に向うグループで、5名の方がこちらに向われた。残りの25名は南に向かい尾根を越えて喜佐谷と呼ばれる万葉からの古道を宮滝まで辿る。
尾根の頂上にある稚児松地蔵堂までは斜面の南面が開けているので、蔵王堂の甍や遠くは二上、葛城、金剛と続く稜線がよく見える展望コースである。さほどの急坂もなく斜面をゆるやかに登っていく杣道はまだ紅葉の名残もあって秋と冬の境目を感じさせてくれる。
健脚組は山越えで宮滝に向い 電車組は近鉄吉野駅に下った
金峯山寺遠望
秋のなごり
稚児松地蔵堂を過ぎると景色は一変し松と桧というような針葉樹が主体の谷筋となり一気に高度を下げ始めた。ところどころ岩肌がむき出しの斜面が湿気を帯
び、注意して足を運ばないと滑りそうなところは慎重に通過していく。やがて右手から象の小川(喜佐谷川)が合流してくるところで杣道は終わり平坦な舗装道路となっ
た。のどかな喜佐谷の集落を過ぎると谷が狭まり象の小川を挟んで右手に桜木神社の赤い社が見えてきた。神社に至るには屋形を載せた橋をわたる。神社の祭神
は大己貴命、少彦名命、天武天皇。大海人皇子(後の天武天皇)が天智天皇の兵に追われてこの地に逃れ、桜の木に身を隠して難をのがれたという伝承がある。
吉野と宮滝を結ぶ万葉の古道・喜佐谷に入る
水量が豊富な時期の高滝
桜木神社
如意輪寺から約5kmの快適なハイキングで宮滝に到着。象の谷が吉野川に流れ落ちるところを夢のわだと呼び『万葉集』にも詠まれるその神秘的な川面の美しさは多くの万葉人の憧れであった。しばしその景観を楽しんだあと吉野川を渡り宮滝遺跡を経て吉野歴史資料館へと向った。資料館では電車組が大和上市からタクシーをとばして先に到着しており全員が揃って資料館を訪問することができた。
■Hきさだに
昔は象谷と書いて「きさだに」と読んでいました。「象」と書いて「きさ」と読むのは万葉の時代からの伝統で、この頃は、象牙の模様からギザギザと曲がりくねった様子を「象」の文字であらわしていた。
■I桜木神社
■F夢のわだ
歩いてきた象(喜佐)谷が吉野川に合流するところが「夢の和田」と呼ばれた名勝である。
宮滝(夢のわだ付近)
宮滝から南方青根ケ峰(858m)
■F宮滝遺跡 吉野歴史資料館
宮滝の集落の旧道と吉野川の間の河岸段丘に広がるのが史跡「宮滝遺跡」。この遺跡は戦前末永雅雄氏によって発掘調査がおこなわれ、戦後国の史跡に指
定された。持統女帝が31回行幸された、といわれる吉野離宮跡。現在吉野町が遺跡の公有化をすすめ、遺跡公園の計画を進めている。
この付近の吉野川の両岸は巨岩でおおわれ、水の流れはエメラルド色。そのすぐれた景観は万葉集など多くの歌人に詠まれている。宮滝の由来は「激つ宮処」だといわれている。
新装なった「吉野歴史資料館」では末永雅雄氏によって発掘された数々の遺物が展示されている。
吉野歴史資料館
吉野川流域には縄文時代からの遺跡が点在する
宮滝の宮
656年斉明天皇が新営し、持統天皇はこの宮に31回も行幸した。聖武天皇が吉野(芳野)離宮を営んだ。
案内いただいた資料館館長池田 淳 氏
一日で吉野山と宮滝遺跡をめぐるという欲張った現地見学会でしたが、天候にも恵まれ予定通りに全員が揃って宮滝からバスに乗り近鉄大和上市駅に到着することができました。
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