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古墳時代の他界観とその系譜

つどい274号
同志社大学教授 辰已和弘 先生

①(画面をクリックすると大きくなります)
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一、はじめに
「わたしたちの魂の来し方、また行く先はどこか。ひとびとの脳裏に去来する永遠のテーマである。われわれ考古学者は研究を進める過程で、祖先たちの数知れない墓を発掘してきた。先人が生と死をいかに認識し、体に宿る魂のゆくえをどのように思考してきたかという問いかけが、まず研究の基本になければならない。(中略)巨大な墳丘や豪華な副葬品を納める葬送習俗をもつ古墳文化の研究にあってはなおさらである。」   上記の文章は、二〇〇七年九月発行の『つどい』第二三五号に寄せた、拙文「古墳の思想」の冒頭である。この講演をさせていただいたのは同年六月九日のことだった。その前半では、何処にあるとも知れない他界へ死者を導く乗り物として、もっとも足の長い乗り物と観念された船の「かたち」について論じ、「舟葬しゅうそう」観念の存在を指摘した。
本日は、それ以降の三年間に、あらたに学界に提示された「舟葬」を裏付ける考古資料を紹介しつつ、古墳文化の基層にある他界観へのまなざしを深めてゆきたい。

二、遡る「舟葬」の事例
  私は一九九二年に上梓した『埴輪と絵画の古代学』(白水社)以降、船形木棺(埼玉さきたま稲荷山古墳・静岡県若にゃく王子おうじ古墳群・千葉県大寺山洞穴など)、船形埴輪(三重県宝塚一号墳など)、船形屍 し床しょう(熊本県石貫穴観音横穴群など)、埴輪船画(奈良県東殿塚古墳)、船の古墳壁画(福岡県五郎山古墳・珍敷塚(めずらしづか)古墳・鳥船塚古墳など)等々、古墳という葬送の装置に顕現する「船」の「かたち」を「史料」とすべく、かつて小林行雄氏らによって強く否定された「舟葬」観が指摘されることを論じ続けてきた。 

昨年一月には、名古屋市北区の平手町遺跡の方形周溝墓から、弥生時代中期後半に遡る遺存状況の良好な丸木舟形木棺が発掘され、従来は弥生後期中葉を確実な年代的上限としてきた丸木舟形木棺の使用時期をはるかに遡らせることになった。全長が二・八メートル、最大幅約一メートル、鋭く尖った舳先と箱形の艫、丸みをもった横断面、間違いなく丸木舟の形状である。木棺には蓋と人骨の一部が遺存していた。   平手町遺跡の船形木棺はその後、現地から取り上げられて保存処理が施され、七月一七日から名古屋市博物館に常設展示されることになった。ぜひご覧いただきたい。

平手町遺跡は、著名な西志賀遺跡の東北に隣接し、その墓域空間とみられる遺跡である。弥生時代の地域社会にあって上位階層の墓である方形周溝墓の棺が、たまたま手近にあった丸木舟を転用したというものではないことは当然であり、なによりそれがヒノキ材で作られていたということは、木棺を丸木舟形に製作したことを確実とする。なぜなら縄文時代以来、ヒノキ材で作られた丸木舟は皆無にちかいからである。  さらに弥生時代木棺遺構を渉猟すると、福岡県粕屋町の江辻遺跡(弥生早期)から三基の船形木棺と推定される埋葬遺構が検出されていることが明らかになった。江辻遺跡は半島からの渡来集団か、それに続く世代が経営した集落遺跡で、その墓域からみつかった四一基の墓坑群の調査成果である。そこで検出された丸木舟形の木棺は、その背後にある他界観の系譜を、おぼろげながらうかがわせる。

三、さらなる「舟葬」資料の出現

今年五月、京都府精華町の鞍岡山三号墳(前期末~中期初頭)から、船を線刻した円筒埴輪の出土が報じられた。そこには東殿塚古墳(前期)の埴輪船画と同様、船上にさまざまな貴人を象徴する器財とおぼしい「かたち」が描かれていた。船は波除板なみよけいた(竪板)を取り付けた外洋を航行できる準構造船である。船上の器財のなかに、同時期の宝塚一号墳出土の船形埴輪の船上に立てられた、いわゆる「石見型いわみがた」と呼称される「かたち」もみえる。
今夏、私はこの「石見型」が、儀仗の場に臨む貴人が杖とした、装飾をふんだんに施した装具を被せた矛に始原することを論じた論文「門 かどに立つ杖」を発表した。古代葛城氏の祭儀場であった極楽寺ヒビキ遺跡の門前に立つ大柱遺構について論じたものである。
  宝塚一号墳の船形埴輪と、鞍岡山三号墳の埴輪船画。同時期に、異なった表現手法を採る船の「かたち」が古墳空間に置かれていた。丸木舟形木棺を埋葬施設とした若王子一二号墳も、同時期の古墳である。死者を他界へ導く船がさまざまな手法で表現される事実に改めて目を向けなければならない。
  六世紀の北部九州を中心に、横穴式石室や横穴の壁面を飾る壁画にも船が描かれる一方で、奈良県藤ノ木古墳の石棺には、船上に鳥を乗せる多数の船を飾る金銅製冠が副葬されていた。また、藤ノ木古墳の西九キロばかりにある、大阪府高井田横穴群「人物の窟」では、まさに船に乗り他界へ向かう人物を描いた線刻画が同時代に描かれていた。
  埼玉県坂戸市の大河原一号墳(径二〇メートルの円墳、六世紀初頭)から、鋭く尖った舳先と箱形をした艫をもつ、丸木舟の形状をした木棺を粘土で包んだ埋葬遺構の検出が報道されたのも、今年二月のことだった。
  わたしたちは古墳時代を通して創出される、古墳にかかわるさまざまな考古資料について、より包括的な理解に努めるべきである。 

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