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信太森神社と弥生文化博物館特別展

■11月27日(土) つどい276
   9時00分    集合 阪急梅田駅神戸線側売店前
  9時14分  JR大阪駅発 関空快速に乗車
                   鳳駅で普通に乗り換え北信太駅下車  450円

北信太駅--信太森神社(楠葉稲荷神社)--貝吹山古墳--北信太駅
北信太駅=信太山駅  120円
 13時20分  弥生文化博物館入り口前集合
信太山駅=JR大阪駅  540円
博物館入館料 一般600円  65歳以上 400円

大阪府立弥生文化博物館の特別展
邪馬台国と九州
九州国立博物館とタイアップして開催されているもので、北部九州の出土品も多く展示されています。
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信太森神社(楠葉稲荷神社)Sonoda

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約千年余り前、大阪市阿倍野の里に安倍保名が住んでいた。
父は豪族であったが人にだまされ所領を没収されたので、保名は家の再興を願い信太森葛葉稲荷に日参していた。
ある日のこと数人の狩人に追われた一匹の白狐を助けた。そのとき、保名は手きずを受けその場に倒れた。
白狐は葛の葉という女性に化け、保名を介抱して家まで送りとどけた。それから数日後葛の葉は保名を見舞い、やがて互いの心が通じ合い、妻になり童子丸という子供をもうけた。
その子が五歳のとき、その正体がわかり一首を障子に書き残して信太の森へ帰ったと言い伝えられる。
この命婦に身を変えて保名を助けた白狐をおまつりしているのがこの神社で保名との子供童子丸が後の安倍清明である。
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信太貝吹山古墳
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信太貝吹山古墳(つどい276号より)
 次の目的地、信太貝吹山古墳へは、住宅街を歩いて約十五分で到着。レジュメを手元に、中司先生から解説を受けた。
信太貝吹山古墳は、隣接地に家が建つ時、市の教育委員会が発掘調査をしている。周濠がめぐっていて、葺石の一段上のテラスに円筒埴輪が並んでいるのがわかった。五世紀中葉以降のⅣ期の埴輪で、五世紀後半の古墳であることが確定している。かつて、滑石製(かっせきせい)槽(ふね)が出土している。普通の古墳にはこういうものは殆ど納めてなく、大王など畿内を中心とした主要豪族だけが、滑石で作った槽や多量の勾玉や刀子など、いろんなものを納めている。奈良や大阪など、主に畿内周辺部の風習だそうだ。
 周辺のほかの古墳を見てみると、カニヤ塚古墳は現在墳丘はないが、マンション建設に伴う発掘で、遺構の一部が確認されている。葺石や沢山の埴輪が出ている。調査の結果、周濠が円形に曲がらないので、帆立貝形と推定されている。
 自衛隊駐屯地の中にある鍋塚古墳は円墳ではなく、墳丘の北裾にチョット出っ張ったところがあり、前方部が確認できる。
 鍋塚古墳から南東に行ったところに、阪本町という地名がある。その阪本町に玉塚古墳がある。これは幾分小さい古墳であるが、前方部がはっきり残っている。阪本というのは、紀氏の枝分かれの坂本氏の居住地で、この辺りは殆ど紀氏一族が支配していたと考えられる。
市街地東方の丘陵全域を信太山というが、この辺りに分布する古墳を信太千塚という言い方をしている。千はないが、百基余りとか。大和・摂津・山城・播磨の各地方やその他の地方と比較しても、和泉国は百舌鳥古墳群などを除けば、古墳の基数が少ないそうだ。
 全国的にみると、古墳は63メートル以上の規模でないと、一国程度を支配した大首長(いわば現在の県知事)のお墓とは言えないと話された。編年図をみても分かるとおり、和泉にも大規模な古墳がある。一番大きいのが岸和田市にある摩湯山(200m)・久米田貝吹山(130m)、和泉市の黄金塚(94m)、次が五世紀に入って岸和田市の風吹山(71m)、岬町の西陵(さいりょう)(210m)・淡輪ニサンザイ(175m)、次いで信太貝吹山(62m)・鍋塚(70m)・玉塚(53m)の各古墳。

信太貝吹山古墳周辺では、その殆どが帆立貝形古墳である。学界では、仁徳陵の横にある古墳(陪冢)が皆帆立貝形であることなどを根拠にして、大王が同じ形の古墳を造るのを規制して許さず、前方部の短い帆立貝形古墳を造らせたというのが通説である。だが、地方にいくとこれと同じパターンが散在しており、墳丘長100m級のいわば県知事クラスの古墳のすぐ横にある古墳もたいてい前方部が短い。本当に大王が規制したのであれば、なぜ県知事クラスではなく、秘書官クラスに当たるものを規制しているのかという疑問が生じる。これは、むしろ有力な豪族の庇護下に入った首長は、規制されて同じ形のものは造れなかったのではないか、と推測すると話が合う。信太貝吹山・カニヤ塚・鍋塚・玉塚、これら全ての古墳が帆立貝形である。つまり考えられるのは、和泉市周辺の豪族が、紀氏などの隣接している、より有力な豪族の庇護下に入った影響ではないか、それで同じ形状の古墳が造れず、前方部が短くなっているのではないか、ということである。

編年図では、地区が異なるためか、丸笠山・鍋塚・玉塚と信太貝吹山・カニヤ塚などの二系列の首長系譜があるように表示されている。だが、分布範囲や基数などから見ておそらくこれは一系列だと思われる。将来もっと詳しく調査が進んだならば、十・二十年以下という、より詳細な年代差が分かるようになり、例えばカニヤ塚の次は信太貝吹山、その次は鍋塚、次は玉塚などというように、正確な系譜がわかるようになるのではないか。全国的にみて、一集団が治める範囲は数キロ四方程度。だからこの地域でも、おなじグループの中で歴代の首長が、ある時は北の地区から、ある時は南の地区から輩出してもいいのではないか、との話であった。
ともあれ、和泉国には古墳は少ないが、この地域にはずいぶんまとまっている。
阪本地区には紀氏の枝分かれの坂本氏、近在の岸和田市加守(かもり)町には同じ紀氏の枝分かれの掃守(かもり)氏(掃守田首(おびと))と、このあたりには紀氏の一族がずいぶんいたようだ。
なお、考古学界全体の傾向だが、前期古墳は前方部が低く、中期古墳になると次第に上がり、後期古墳になると更に高くなるといわれている。だが、実態はそうではなく、後期でも六世紀半ば頃になると再び前方部は低くなり、六世紀中頃の富木車塚(とのきくるまづか)古墳しかり、同時期で前方部上が削平されているといわれているが、信太狐塚古墳しかりである。こうした現象は、他の地方でも同様であって、全国的な傾向といえる。
このように、信太貝吹山古墳を叩き台にして、和泉国とりわけ信太丘陵地域の古代史について熱のこもった解説をいただいた。

曾禰神社
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祭神
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曾禰神社から曽根池上遺跡
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曽根池上遺跡
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トコナンハウス(右図インドネシア)と相似している(管理人)
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稚拙ではあるが「龍」の文様
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邪馬台国 九州展と近畿展
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弥生文化博物館(つどい276号より)
「北信太」駅から再びJRに乗車、一つ南の「信太」駅に移動の後、昼食のためにフリータイムとなる。あらかじめ頂いたMAPで信太駅前から弥生文化博物館周辺で各自昼食をとり、十三時に博物館前に集合する。
博物館では正岡大実(まさおかともみ)学芸員の出迎えを受け、その後約一時間半にわたり詳細な展示の解説をしていただいた。
 テーマは「邪馬台国―九州と近畿―」と大きい。だが、邪馬台国は九州か近畿かという比較対比をするのではなく、九州国立博物館とタイアップして、九州の資料集めは九州国立博物館、近畿地方は弥生文化博物館が担当し、最新の発掘成果に基づいて弥生時代を前・中・後期と大きく三つに区分、弥生中期から古墳時代のはじめにかけての「墓の内容」「生産の内容(鉄・銅他)」「交流の内容(中国・朝鮮)」と三つの側面から見た弥生社会の動向を実際の出土遺物から観ていこうという構成になっている。「邪馬台国」「卑弥呼」の現れる過程を資料の対比を通じて観てほしいと話された。
 214点に及ぶ資料がテーマごとに整理され分かり易く展示されていたが、その内60パーセント強が九州からの出土遺物であり、九州を知るよい機会を与えていただいた。当時の人や物の流れが、九州から近畿へ移り変わるさまが、展示物を通して実感できた。

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 好天に恵まれ、予定通りのスケジュールを無事消化、「鳳」駅十五時五十三分発の「関空快速」で帰途に就いた。

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