竹内街道.磯長谷の王陵を巡る
2010年10月23日(土) つどい275b
近鉄阿倍野橋駅-近鉄喜志駅-六枚橋バス停-孝徳天皇陵-竹内街道歴史資料館-道の駅「近つ飛鳥の里太子」(昼食)-科長神社-小野妹子墓-二子塚古墳-推古天皇陵-葉室歴史公園ー用明天皇陵-叡福寺(聖徳太子墓)-太子前バス停-近鉄喜志駅ー近鉄阿倍野橋駅
六枚橋バス停で下車、整備された竹内街道を歩く。しもの地蔵尊を過ぎしばらくすると、右手道下に大和棟の「大道旧山本家住宅」がある。
この左手が孝徳天皇陵(上ノ山古墳)への入り口となる。
孝徳天皇陵拝所前
墳丘のまわりをめぐる。墳丘径35m、高さ7mの円墳といわれている。実際の高さは7mよりはるかに低いように見える。
竹内街道歴史資料館見学。大道・竹内街道、周辺遺跡の資料とともに、二上山のサヌカイト関連の展示が目立つ。
道の駅「近つ飛鳥の里太子」および周辺で、各自持参の弁当を喫食。
科長神社・小野妹子墓に向かう。
科長神社。元は二上山にあったという。
科長神社鳥居前の石段を登ると、小野妹子墓がある。昔から猪子と呼ばれていた塚が転化してイモコと呼ばれていた。これを大正11年に池坊家元が小野妹子墓として整備したもの。史料的には根拠はない。
科長神社から西に進むと、二子塚が見えてくる。双方墳のように見えるが、長方墳の可能性が高いとのこと。
北丘の石室内に石棺が見える。(南丘にも石室があるが埋まっている)
二子塚から推古天皇陵(山田高塚古墳)に向かう。
孝徳天皇陵に比べるとさすがに大きい。一辺約60mの方墳で竹田皇子と合装。当初の陵(橿原市の植山古墳の可能性が高い)から当地に改葬されたもの。
周囲をまわり、墳丘の状態を観察。三段築成であることが良く分かる。
葉室歴史公園には越前塚古墳(葉室塚古墳)、釜戸塚古墳、石塚古墳などが密集している。とくに越前塚古墳は東西75m、南北55mの長方形墳であり、磯長谷の他の天皇陵を抑えて最大の古墳であり、天皇陵クラスといわれている。中司先生は真の敏達天皇陵ではないかと言われる。ミカンの取り入れの途中をお邪魔して見学した。
用明天皇陵(春日向山古墳)。一辺約60mの方墳。樹木が良く茂り土手も高いので、墳丘の様子はわからない。この陵も磐余から改葬されている。
最後の訪問地の叡福寺(聖徳太子墓)
叡福寺東の太子・和みの広場に移設されている松井塚古墳の横口式石槨。
同じ太子・和みの広場にある聖徳太子墓のレプリカ。
叡福寺にお参りした後、聖徳太子墓(叡福寺北古墳)へ。
径54mの円墳で、太子と太子の母穴穂部間人皇女、妃膳部菩岐々美郎女の合葬墓。
側面に回り、墳丘の状況を観察。周囲にあるのは江戸時代に信者から寄進された結界石。
聖徳太子御廟前にて記念撮影。
太子前バス停。当初予定は上ノ太子駅に向かう予定であったが、バスの時刻の都合で喜志駅に戻った。バス待ちの間に、バス停裏の西方院を参拝された方も。
近鉄阿倍野橋駅にて解散、本日の現地見学も無事終了。