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『三国志』烏丸・鮮卑、東夷伝の国々の位置と面積

つどい273号 会員 草川英昭

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■『三国志』烏丸・鮮卑、東夷伝の国々の位置と面積
                (会員) 草川 英昭

はじめに
 『三国志』魏書の烏丸・鮮卑伝、東夷伝の諸国条を読み、そこに書かれた里程の内、地図上に適用出来るところを記入していくと、これらの国々を地図上に当てはめて行くことが出来た。
 このとき、これら諸国の記載について、以下の様に理解して求めたものである。

烏丸・鮮卑伝 
 鮮卑  「鮮卑も亦、東胡の余り也。別れて鮮卑山に保つ。因りて(国)号とす。其の言語・習俗烏丸と同じ」とされ、「其の地、遼(水)に接し、西域に達す」とある。その周囲の国と地勢・面積は次の通りである。
 「東に扶余を卻(しり)ぞけ、西に烏孫を撃つ 南に漢邊を鈔(かすめ)とり、北は丁令を拒む。
 匈奴の故地を悉く拠る。東西、萬二千余里で南北、七千余里」とある。
 遼河は河口より一〇〇キロメートルほど東へ中流域をもち、鉄嶺、開原附近では、旧満鉄線に近づいている。
 これらの距離を地図上で測ることが出来る。これらの距離はいずれも一里一〇〇メートルに近い。すなわち、これらの距離は一里一〇〇メートル前後の短里表記なのである。
 また、烏丸・鮮卑、東夷伝諸国については周囲の諸国と其の国の地勢・位置を示しながら、必ず面積を記載している。当然、倭人国も面積が記載されている。ただ、今まではその書かれたいたことが倭人国の面積だと認識されていなかったし、さらに一里のメートル法との換算も誤っていたことが明らかになった。
  備考;烏丸・鮮卑伝に「(東胡は)死者の神霊を赤山(現在の赤峰)に帰して護らしむ。赤山は、遼東の西北数千余里に在り。中国人の死を以て、之の魂神を泰山に帰すが如し」とある。
赤峰は遼東(遼陽か)の西北西約四〇〇キロメートルにある、遺跡の町である。これらの里程も短里表示である。

東夷伝
 扶余  東は?婁、西は鮮卑。長城の北の玄菟を去る千余里に在り。南、高句麗、北に弱水(松花江か)在り。
 その地勢は「山陵、廣澤多し」とあり、また、
 「東夷の域に於いては最も平敞なり」とある。面積は方二千余里とある。これは勿論、短里表記である。
  備考;従来は、扶余の中心地は長春北方七〇キロメートルの農安とされていた。しかし、農安は平原の町で「山陵、廣澤多し」には適さない。山も河もないのである。この地勢は長春東方一五〇キロメートルの吉林附近に適している。著者はかって長春から山を体験するために吉林郊外まで遠足で行ったことがある。扶余の実際の範囲は方三千余里で、吉林を中心とした松花江と牡丹江との流域と考える。ちなみに現在の扶余の町と扶余県は、長春とハルビン(哈爾濱)の中間の松花江の近くにある。しかし、近くに山は見当たらない。扶余から、松花江を上流一〇〇キロメートルほど遡った所に吉林がある。このときの三千余里も短里表示である。
 参考文献;井上秀雄『古代朝鮮』NHKブックス一九七二。ここには扶余を農安中心の国としている。

 高句麗  東は沃沮、西は遼東(遼東の東千余里)、南は楽浪郡、北は扶余。
 地勢は大山多く、谷深く、原澤、良田無しとある。高句麗は扶余の別種、言語・風俗は扶余と同じとある。
 当時の高句麗は廣開土王碑のある集安の北五〇キロメートルの通化を中心とした方二千余里(二〇〇キロメートル四方)の国であったと考えられる。また、扶余の戸数八萬、高句麗は二萬とある。そして三韓の戸数は十二・三萬戸とされている。
 地勢と気候を考慮した人口比からみて、高句麗方二千余里、扶余と三韓のそれぞれ方三千余里とした面積比は妥当であろう。実際には三韓は方三千余里しかないのである。そうして烏丸・鮮卑伝、東夷伝諸国は同じ基準の里程で書かれている。

 東沃沮  大海に濱してあり、西に高句麗の蓋馬大山があり、南は?貊、北は?婁と扶余。
 その地勢は東北に狭く、南西に長し。すなわち、?婁との接点は二〇キロメートルほど、穢貊との境は千里ほどであるとする。この千里余里も、一〇〇キロメートルほどの短里である。

 ?婁  「扶余の東北千余里にあり」とある。現在のウラジオストクか、興凱湖の南、ウスリースクの当りの地に中心域をもっていたのであろうか。あるいはウスリー江流域であろうか。吉林の東四〇〇キロメートル、牡丹江からなら二〇〇キロメートルくらいとなる。沿海州に在ったことは確かである。豆満江で北沃沮と接していたと考えられる。「その北、極める所を知らず」とある。人は扶余、高句麗と似ているが、言語は同じではないとされている。

 ?・(貊)  東は大海、西は朝鮮(中国人が東の植民地に付けた呼び名、朝が早い地方という意味であろう)。
 すなわち、帯方郡や楽浪郡が朝鮮である。楽浪郡で朝、日の出とともに狼煙を上げると、中国本土には日の出前にその連絡が届くのを、中国人は知っていたのであろう。
 「北は高句麗・沃沮と接し、南は辰韓と接すとある。東は大海に窮し、今朝鮮の東は皆其の地なり」とある。
楽浪・帯方の太白山脈の東側は?・(貊)なのである。

 韓  「韓は帯方の南に在り。東西海を以て限りと為し、南倭と接す」とある。韓の南は海ではなく、倭である。方四千余里とある。西海岸の木浦から東海岸の蔚山の線より南は倭であった可能性が高い。
 魏使は帯方郡を出て船で狗邪韓国(倭地である)に来たのではない。韓国を歩いて調査しながら(乍まち南し、乍まち東す)南に行ったり東へ行ったりを繰り返して倭地の狗邪韓国に来たのである。
 その結果が、韓国の面積を方四千余里としてしまったのであろう。韓国は実際には方三千余里しかない。
 船で海沿いに来たならば、この様な誤りをしなかったのではないだろうか。
 魏使は三韓の国名を全て挙げ、人口まで記している。さらに馬韓と辰韓とは歴史、言語も異なるとある。
 郡より邪馬台国までの陸行一ヶ月の大半は、韓国で費やしたのである。

 倭人  帯方郡から卑弥呼の邪馬台国までの距離は萬二千余里、日程数は水行十日陸行一ヶ月である。
  これを確認しておく。そうして陸行一ヶ月の二十日以上は韓国で費やしている。また、水行二十日の投馬国は、伊都国から日程距離である。そうして魏使は四千余里南(奄美大島であろう)の侏儒国まで行ったのである。
 だから四千余里と距離が判ったのである。
 この様にすると倭人国の位置づけと地勢・面積は次の様になる。

東は海を渡る千余里倭種の国、西は「会稽東治の東」の会稽郡、南は四千余里で侏儒国、北は大海と韓国を経て帯方郡
地勢と面積  離れてたり、連なったりした、海中中洲の上の国で、南北に島があり、倭人国を一周(周旋)すると五千余里である。これが倭人国の面積である。これは『三国志』呉書諸葛格伝にある丹楊郡の面積とほぼ、同じ面積で、「周旋数千里」とかかれた丹楊郡の面積も短里表示である。そうして、倭人条には九州のことしか書かれていない。九州一周の距離が五千余里であることは、『紀』の編者を含めた天武、持統、元明朝の人々は知っていたことは既に述べた。
 魏使は東の倭種の国には足を入れていない。これらの国々は魏に朝貢していないからである。
 このことは天武、持統、元明時代の紀の編者も理解していた。また彼らは卑弥呼が天皇家の人物ではないことを知っていたのである。
 また、東南には船行一年で裸国、黒歯国があると倭人から聴いた。
 東夷伝の三韓条、倭人条は魏使の出張報告書を元に書かれている。魏晋朝は短里表記だったのである。
 烏丸・鮮卑伝、東夷伝諸国の里程は地図上で距離が求められるもの、ほとんどが短里表記である。このため、三国志本文にも随所に短里表記の里程がある。
 この様に書くと、隋書?国伝の「東西五ヶ月、南北三ヶ月」の意味も判る。
 当時の倭王は韓国(新羅と百済)も支配していると主張していた。
 隋書にかかれた東西五ヶ月は裸国、黒歯国への片道の日程(ここでは三国志倭人条の様に半年単位の年数でなく、月数で書かれている)南北三ヶ月は韓国から侏儒国までの日程であろう。三ヶ月は高句麗(元の帯方郡)から三韓を通り、筑紫までが水行一ヶ月と陸行二十日。そうして、北九州から南の投馬国までが二十日、これに奄美(侏儒国)までの日程を加えたものが三ヶ月になるからである。
 新羅や百済が倭国を大国と認めていることを、隋は認識していたのである。
 隋書、旧唐書には日本書紀の記載と一致しないとこがある。これらは今後の問題であろう。

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