三角縁神獣鏡と邪馬台国論
─桜井茶臼山古墳の調査成果に寄せて─
大阪大学教授 福永伸哉 先生
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三角縁神獣鏡と邪馬台国論
─桜井茶臼山古墳の調査成果に寄せて─
大阪大学教授 福永伸哉
一 新しい発見
二〇一〇年一月、奈良県桜井茶臼山古墳の再発掘調査において三百片以上の銅鏡片が出土し、これまでに知られていた資料を合わせて、鏡の面数が少なくとも八一面にのぼることが公表された。橿原考古学研究所からの発表ではさほど強調されなかったが、その中に正始元年鏡を含む二六面以上の三角縁神獣鏡が含まれていることは重要であると考える。
よく知られているように三角縁神獣鏡には魏の景初三年(二三九)、正始元年(二四〇)の紀年銘を持ったものもがあり、「魏志倭人伝」に魏皇帝が邪馬台国女王卑弥呼に与えたと記す「銅鏡百枚」の有力候補として早くから認識されてきた。そして、三角縁神獣鏡の分布が大和盆地を中心として畿内地域にもっとも厚いことから、いわゆる「邪馬台国畿内説」の根拠資料としても重要視されている。
桜井茶臼山古墳では、一九四九年の発掘調査によって少なくとも一〇面分の三角縁神獣鏡の破片が知られていたが、今回の再調査によって本来その二倍以上の副葬があったことがわかったことになる。初期大和政権の中枢地で、古墳前期の大王墓級の前方後円墳にこれだけの三角縁神獣鏡が副葬されていたことは、政権と三角縁神獣鏡のつながりをつよく示唆しているといえる。そして、三角縁神獣鏡が「銅鏡百枚」にあたるなら、この大和の地で邪馬台国から大和政権への連続的な発展が無理なく説明できることになるのである。桜井茶臼山古墳の新しい成果は正始元年鏡などの三角縁神獣鏡を介して邪馬台国論にも大いに関連を有しているのである。
二 三角縁神獣鏡製作地論争
しかし、三角縁神獣鏡については、それが日本列島で作られたのではないかとする根強い反論があるのも事実である。舶載鏡説に対する根本的な疑義は、そもそも大陸からいまだに一枚も出土していない三角縁神獣鏡を中国製とみるのは不適当だという点から出発している。初期の「日本製説」は、弥生時代にすばらしい銅鐸などを残した列島在来の工人がその後三角縁神獣鏡を製作したというものであった。ただ、三角縁神獣鏡には長文の銘文を持つ例が多い。倭の工人が古墳時代にそうした銘文を使いこなしたと考えるのはやはり無理がある。その後、一九八〇年代に王仲殊氏によって唱えられた「日本製説」は、魏と対立関係にあった華南の呉の工人が日本列島に渡来して大和政権の求めに応じて三角縁神獣鏡を製作したとすることで銘文の問題をクリアする。さらに、三世紀の中国南北での銅鏡のスタイルの違いなども加味して論理を補強し、「呉の渡来工人製作説」として現在の「日本製説」の中心的な主張となっている。ほかにも、作りが粗い大量生産品である、枚数が多すぎて単なる葬具である、副葬時に足元や棺外に置かれているものがあるので二級品の扱いではないか、などのやや主観的とも思える理由をあげて「日本製説」を唱える向きもある。
三 実物観察による魏鏡説
私は三角縁神獣鏡そのものの特徴から製作工人の系譜をたどれるのではないかと考え、すでにさまざまなところで立場を述べてきた。製作技術上の特徴である長方形鈕孔、デザイン上の特徴である外周突線、銘文にみられる特異な語句などを追求することにより、結論的にはその製作工人は三世紀の魏領域に求めるほかはないとの理解に至っている。
長方形鈕孔は鏡の鈕に設けられた紐通しの孔が長方形を呈するという特徴である。三角縁神獣鏡のほとんどにみられる特徴であるが、ほかの中国鏡では魏の紀年銘鏡(表)を含めて魏の領域で出土する三世紀の製品に特有に認められるのみである。王仲殊氏が想定した呉の工人においては円形ないし半円形の鈕孔が一般的であり、三角縁神獣鏡とは明確な違いを見せている。
外周突線は三帯の文様を施した外区の最外周に一条の突線を加えるもので、三角縁神獣鏡の約半数に認められる。大陸での類例はやはり少ないが、魏の領域である河北省、北京市、遼寧省、朝鮮半島北部などに分布がみられる。
銘文語句の点では、三角縁神獣鏡に記されたきわめて特異な語句である「銅出徐州」「甚獨奇」などを有する中国鏡が、魏の領域でごくわずかに確認されている。「銅出徐州」銘は遼寧省遼陽三道壕壁画墓出土の方格規矩鳥文鏡(図1)にあるが、本鏡は外周突線・長方形鈕孔の特徴を持つ点でも三角縁神獣鏡ときわめて近い関係にある。
また、銘文関係で最重要資料は、河北省易県燕下都で出土した方格規矩鳥文鏡(図2)で、「吾作明鏡甚獨奇保子宜孫富無?」という一四文字の銘文全体が、静岡県松林山古墳出土の三角縁二神二獣鏡と一致する稀有な例である。外周突線はないが、長方形鈕孔を有するほかに、銘文字体も類似点が多く、工人レベルでのつながりさえ想起させる資料である。
三角縁神獣鏡との関係がうかがわれる以上の三特徴は、すべて魏の領域の三世紀の銅鏡生産のなかに存在するものである。景初三年、正始元年いう卑弥呼の朝貢にまつわる紀年銘が含まれる三角縁神獣鏡は、やはり「銅鏡百枚」と関連づけてとらえるのがもっとも妥当であろう。そのうえで、枚数が多いことは数回の朝貢で入手したような状況を想定できるし、中国から出土しないことは、倭人の朝貢に対して特別に作り与えた鏡であったという説明が可能でなかろうか。
四 再び桜井茶臼山古墳出土鏡について
桜井茶臼山古墳で明らかになった鏡群の内容は研究上のさまざまな意義を持っているが、私は大きく三つの特徴に注目してみたい。
まず第一点目は、正始元年三角縁神獣鏡の存在が確認されたことであり、これにより確認される魏の紀年銘鏡としては二九面目の例となった。三次元形状計測によって、わずか数センチメートルの破片から群馬県柴崎蟹沢古墳などで見つかっていた正始元年鏡との「同笵関係」を同定した手法も特筆される。紀年銘三角縁神獣鏡はこれまで畿内地域での確認例がなかった。三角縁神獣鏡が日本で製作されたとの立場をとる研究者のなかでも「景初三年鏡」「正始元年鏡」は魏鏡であり「銅鏡百枚」に含まれることを認める場合が多い。今回の成果により、その一枚がたしかに大和盆地東南部の有力者のもとにあったことが確認されたわけで、邪馬台国と大和政権をつなぐ資料がいっそう充実したと考えられるのである。
第二点目は、八一面以上という鏡の多さである。従来、古墳副葬鏡としては京都府椿井大塚山古墳、奈良県佐味田宝塚古墳の三六面が知られる最大値であったが、これを二倍以上も上回っている。今回の調査成果を受けて、前期の大王墓古墳の実態を示すものではないかという意見もあった。ただ、大王墓クラスの既知の情報として奈良県メスリ山古墳で二〇面近い副葬が推定されているほか、同佐紀陵山古墳では五面が知られているが、桜井茶臼山古墳の八一面以上という数はやはり特異なほど突出しているとみるべきであろう。私は、この多さは次の第三点目の注目点として示すように、茶臼山古墳被葬者の銅鏡を利用した政治活動を反映しているのではないかと考えている。
その第三点目は、茶臼山古墳の鏡種がきわめて多様なことである。三角縁神獣鏡、方格規矩鏡、内行花文鏡、神獣鏡といった基本的な分類で数えても一〇種以上にのぼり、舶載鏡についてはおよそ前期古墳に副葬される鏡種のほとんどを網羅している。
また、特に注目されるのは、中国鏡を模倣した倣製鏡の最古段階のものを一四面(内行花文鏡一〇面、ダ龍鏡四面)も持っていることである。全国的にみても滋賀県雪野山古墳、奈良県新山古墳ぐらいしか類例のない、ごく初期の倣製内行花文鏡とダ龍鏡を多数副葬していることは、茶臼山古墳の被葬者こそがそうした倣製鏡を鋳造して政治的に活用しようとした「張本人」であることをつよく示唆しているように思われる。いいかえれば、茶臼山古墳における多数かつ多彩な鏡群は、大和政権の重要戦略である倣製鏡生産を立ち上げた中枢に位置する人物であればこそ持つことのできたセットであると理解できるのではなかろうか。そして、その鏡群のなかに正始元年鏡を含む二六面の三角縁神獣鏡が含まれていたことは、邪馬台国から大和政権への展開をこの地でたどることの妥当性を示した点で、邪馬台国論にも新たな手がかりを提供するものといえるのである。
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