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熊野・伊勢の古代を探る①

10月15日(金)
梅田8:30-谷瀬吊橋-十津川歴史民族資料館-十津川温泉(昼食)-玉置神社-(熊野本宮大社)-勝浦

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梅田を定刻の8:30に出たバスは途中近鉄御所駅で塚口先生や数名の参加者を加えて一路国道168号を熊野へ向った。奈良地方は前夜相当の雨が降ったということであったが五条を抜けるころには陽が射しはじめ、霧に隠れていた金剛の山並みがうっすらと見えてきた。

途中「谷瀬の吊橋」で休憩をし、十津川温泉で昼食をとる。

■谷瀬の吊橋
長さ297m 現在日本第二位
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■玉置神社
玉置神社へは熊野川の川筋を離れ標高1050mの玉置山頂上付近まで山道を登らねばならない。十津川温泉で大型バスから小型バスに乗り換えて玉置山に登る。
ところが玉置山への道が道路工事で通行制限をしていて通行が可能になるまで途中で待たされてしまった。
玉置神社では正式参拝をお願いしていたが帰りも通行に時間制限があるということで、独特な太鼓のリズムに乗った小此木神官の祝詞奏上を聞くことができなかった。
玉置山はかつて修験道場として栄えた。神仏混交により神社だけでなく多くの寺院が立ち並んでいたが、明治の徹底した廃仏毀釈で寺院は全て打ち壊され現在は玉置神社だけが残る。

玉置神社は修験者を配下とする門跡の崇敬篤く玉置神社の社務所には玉座が設けられている。建物の襖は相応の大きな桧から削りだした一枚板を10年間寝かし、良品を選んで都の一流絵師が絵をつけて製作するという時間と手間のかかった工芸品である。

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■十津川民族歴史資料館
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■玉置神社と修験道

平安末期から幕末までの社会で、修験者(山伏)は特異なものであった。
有髪で額に兜巾(トキン)をいただき、鈴懸(スズカケ)の衣を着、法螺(ホラ)をたずさえ、錫杖(シャクジョウ)を持して、諸国の霊山に登るのだが、諸国のうちとりわけ吉野の金峯山寺が根本道場だった。吉野群山のうちのひとつの玉置山三所権現は当然かれらの根城のひとつで、十津川郷が中世以来、都の政治情勢にあかるかったのは、玉置山に出入りする修験者によるものだったかと思われる。
本来、修験道という山岳信仰は、太古の信仰に源流があるであろう。奈良朝のころその教祖的存在だった役ノ小角にしても原始信仰のほかに多少の仏教的知識と雑密的な呪法を持っていた。それが平安朝期になって天台宗と真言宗の両派を吸収していくのだが、組織としては天台宗は聖護院門跡、真言宗は醍醐の三宝院門跡がそれぞれを統轄した。
門跡とは僧形の宮廷人(親王・公卿)だから、山伏(修験者)はいわばそういう人々の野にある家来といっていい。この系列の情報の一巣窟だった玉置山が、その影響下の十津川郷のひとびとにどういう傾向の問題意識を与えたかは、充分に想像がつく。

司馬遼太郎『街道をゆく』より

■修験道のルーツ
ブログ管理人(豊中小角)は「役の小角」の経歴と時代背景を紹介し、修験行者のアイテムと行法について説明させていただいた。

役行者事跡年表(表をクリックしてください)
役行者は葛城、吉野、熊野、箕面を中心に活動してしていた
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豊中歴史同好会例会会場から望む箕面山系(右の山並み)
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聖徳太子の頃唐王朝が中国を再統一(618)すると高句麗と百済は同盟を結び新羅を侵す。新羅は唐と連合して中国文明を受け入れ唐の年号や衣冠制を導入し、

660 百済を滅ぼす
663 白村江の戦いで倭が敗れる
668 高句麗を滅ぼし韓半島を統一する

半島の政治状況の混乱により百済、高句麗からの大量の亡命者が列島にわたってきた。彼らは支配者階級であり制度、学問、技術、芸術文化をも運んできた。

なかでも
668 新羅が韓半島を統一
672 壬申の乱・天武朝成立
という新しい政権の誕生は「倭」が「日本」に生まれ変わる画期となった

新羅が高句麗の影響から脱して国名を「新羅」としたのは6世紀初期の頃。6世紀半ば真興王の時代に迦耶(任那)を統合した。真興王は半島南部の波斯(ハシ)山に碑を建てた。波斯とはペルシャのことである。
そして後の新羅軍のベースになる「花郎(カロウ)」という組織制度を制定した。

1.君には忠をつくし
2.親には考をつくし
3.友に交わるは信あるべし
4.戦に臨んでは退くべからず
5.殺生には時を撰ぶことあれ

新羅の精神を象徴する「花郎」集団は貴族や王族の師弟で構成され、山野で軍事教練に励むと同時に神仙庵で修行し、ミトラ神という拝火教の神とイメージが重複する西方的な弥勒仏を崇拝した。

そしてちょうどその頃列島では
671  吉野で神仙行を修した役小角(役行者)が蔵王権現を感得
681  天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令

ここに至り
政治制度としての 「律令」 
大衆信仰文化の  「修験道」
という現代に至る日本の基層文化が出揃うことになった

修験道の祖とされる役の行者は活躍したのは天武天皇の時代である。韓半島が新羅によって統一されると倭は直ちに遣使を送り、以後779年まで24回に及ぶ遣新羅使を派遣した。
この新羅の奉じるミトラ神(マイトレーヤ・弥勒仏)のルーツを探るとペルシャから原始キリスト教やユダヤ教に遡ることができ、神道祭祀や修験道の行法成立に、ユーラシアを経由して古代イスラエルの祭祀様式が伝えられた可能性があります。

修験行者の兜巾はユダヤ教徒のヒラクリティとよく似ている。
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神輿の原型かも知れないケムルビと嘆きの壁
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道路工事による道路規制により時間を費やし、「熊野本宮大社」と明治の熊野川の氾濫によって社が流されるまで本宮が置かれていた「大斎原」の見学はあきらめてバスは玉置山を駆け下ると一路新宮へと向った。

新宮では「御船祭」の市民イベントで賑わっていた
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= この項続く=

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