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弥生社会の変革と高地性集落を巡る諸問題

つどい272号
芦屋市教育委員会 学芸員 森岡 秀人先生

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弥生社会の変革と高地性集落を巡る諸問題
芦屋市教育委員会 学芸員 森岡 秀人

高地性集落の調査・研究は、弥生社会の研究全体とともに、今や転機を迎えている。パラダイムの転換といってしまえば簡単であるが、これまでの多くの発掘調査成果・研究業績を無にし、振り出しに戻るのは生産的とはいえない。今の高地性集落の研究では以下の問題がある。
高地性集落を弥生時代・弥生文化の枠組にのみ固執して、高地性集落の問題を矮小化し、研究の柔軟性を失わせていること、従来の立地論や定義に関する論議が全国レベルの共通項で推し進められ、地域ごとの個性豊かな取り組みや視点が等閑視されている。また、前期古墳時代と関係が深い集落論、集団論が重要な視点であるにもかかわらず、古墳時代の研究者は高地性集落に対しての関心が概して薄い。

弥生社会研究の進展と「高地性集落」
高地性集落という学術用語自体が既に一定の定義を持っており、北関東の研究者に対し初めて説明に使用した際、高地性集落は西日本の話で北関東に通用するのか、というようなアレルギー的反応があった。「高地性集落」という用語が、考古学研究を進める上で阻害要因にもなっているとの見方もある。
高地性遺跡から想起される従来のストーリーは、倭国乱 石鏃・石剣などの武器の発達や防御施設の盛行 高地性集落のありかた、というように相互に関連付けられていた。また、中国の文献は「二世紀後半に倭国大乱」と記述しており、従来の弥生時代の年代観では、倭国大乱と高地性集落を含む考古学事象は符合するストーリーであった。
私は一九六九年以来、四十年あまり高地性遺跡の研究に携わっており、二百箇所以上の現地踏査、発掘の現場調査や遺物の採集にかかわってきたが、この間、弥生時代の年代観や弥生研究自体も大きく変わってきた。
その第一は実年代論争の進展で、年輪年代測定法やAMS法を用いた炭素年代法などが登場し、考古年代観がどんどん遡り、高地性集落の発現や消滅の年代観が急激に変わってきた。倭国大乱を二世紀後半とする中国史書の記述に対し、科学的年代観による見直しで、会下山遺跡の存続時期も紀元前二世紀から紀元一世紀というように、従来の弥生の年代観からみると大幅に繰り上るとみられ、高地性遺跡の年代や性格をどのように考えるのかというような問題が生じている(図1)。
また、弥生時代の拠点集落論、単位集団論、共同体論、墓制問題、国家成立時期の問題など弥生社会に関係する用語・テーマも見直されてきている。家族墓論は九州大学を中心とした歯冠計測分析法、DNAの研究、骨考古学の進展により埋葬している人の性別、年齢、血縁関係も克明に判明してきたことから、被葬者の家族関係への見直しも行われている。
日本列島にはそれぞれ地域性があり、高地性集落の出現や消滅にも大きな地域格差がみられ、列島各地の社会進化も並行的ではない。高地性集落の研究は、全国レベルですべてを共通項で比較することも必要だが、弥生時代には日本列島に均質で同程度の社会や文化があったわけではなく、個別地域を重視して高地性集落を再点検することが大切だと考えている。

発掘された高地性遺跡の諸相
列島各地で発掘された高地性遺跡の発掘状況から、最新のいろいろな情報が読み取れる。
【交易・交流】
高地性遺跡から出土する土器や青銅器などから物の交流・交易を見ると、土器では遺跡内で作られたもの、至近の低所で作られたもの、二十~三十キロメートル離れたところから搬入された土器もあり、多様な物の動きが見られる。一方、二百キロメートル、三百キロメートルなど遠隔地から物が入ってくるマーケット機能を持った高地性集落が目につくようになってくる。生産地からかなり離れたところに、銅鏡や鉄器が地域を限れば最初に入ってくるのが高地性集落であるというような事例も多くあり、高地性集落がその地域の核と思われるような遺跡例も増えてきた。
一九九〇年前後から環濠をもった大規模な高地性集落の発掘が急増する。これらの遺跡からはリアルタイムで初期の倭製銅鏡や中国鏡片が出たりする。また、朱の精製土器や石杵の出土も多く、長さ二〇センチメートルの大型鉄素材なども出土している。平地の中継集落を介在しない直接的な交易状況が窺える。例を挙げれば、表山遺跡(播磨東部)から九州系の小形?製鏡が出土、青谷遺跡(神戸市西区)では近畿生産とみている初期の小形?製鏡が出土、古曽部・芝谷遺跡(高槻市)からは、瀬戸内・近江の土器や大阪で類例の少ない分銅形土製品が出土、城山遺跡(芦屋市)ではⅣ期末の近江産の受口状口縁甕が最西端として出土している。開放的空間の中で広域の人々が往来して、新しい文物の交易を行っているようで、高地性集落は戦争目的だけではなく、新しいポジィティブな機能のある所として、人がリアルタイムの交流・交易の拠点として利用したような気配がある。

【高地性遺跡と銅鐸の埋納】
 近畿では、弥生後期の集団の中で、高地性(丘陵性)の遺跡に移った人たちが、Ⅳ期からⅤ期への土器の様式・構造変化のイニシアティブをとったのではないかと考えている。銅鐸や武器形青銅器の移動現象にもその動きがうかがえるのではないかと考えている。西日本の銅鐸の出土には特異な面があり、一般に農耕集落が少ないところに、たくさんの青銅器が埋納されている。徳島県南部や高知県東部、和歌山県中・南部は水田の適地が少ないにもかかわらず銅鐸の出土が多い。六甲山系でも高地性遺跡のある地域に相当数の銅鐸埋納地があり、銅鐸が埋納される場所は遺跡間とか、高地性集落を見上げるところ、あるいはその麓などにある。銅鐸の形式から摂津の中心部もしくは河内で生産されたものが、点在する祭祀地から主に海上ルートで埋納地に運ばれたと考える。祭祀集団とともに移動したかは不明だが、祭祀の場所からは移動していると考えざるを得ない。
 和歌山の場合、県域を北部、中部、南部に分けると、銅鐸の形式が新しいものは南部に偏在している。高地性遺跡の土器様式も、弥生後期では北部より南部の方が新しい。これらは一般的な傾向で、そのまま集落と銅鐸を結びつけるのは危険だが、銅鐸が海上ルートで近畿中心部から紀伊半島に動く可能性があることを土器の様式変化と高地性集落と銅鐸の三者の関係がある程度示している。銅鐸祭祀を受け入れる高地性遺跡ではなく、銅鐸の生産地、祭祀地、埋納地を分解して考え、銅鐸の埋納を担当する高地性遺跡が和歌山県中部・南部にあっただろうと考える。

【高地性遺跡の石鏃、地域ごとの石鏃】
これまで倭国大乱と高地性遺跡が関連付けられ、大地域同士に大きな争乱があったのではないかとか、抗争を示す遺跡は西から東へ動くのではないかと想定されていた。打製石器、鉄鏃、青銅器の分布研究で見て行くと、極めて日常的な武器や埋納された青銅器などにははっきりとした分布圏があり、大型石鏃の分布も近畿でも播磨では尖・平基式、近畿中心部では大きい凸基式が出るといった状況である。松木武彦氏の研究では目立つ大型石鏃を抽出すると、他の地域では形式が全部異なっており、最大クラスの石鏃で見る限り分布が自由には重
ならない。同じ形式の武器類が他の離れた場所で大量に出土することはない。もし遠い地域同士が戦った場合には、違うタイプ、系統の石鏃が一箇所で出土するはずだが、このような例もない。石鏃形式や大型石鏃の出土を見る限り、大地域間での戦争状況とか、実戦があったかどうかということには疑問がある。九州と近畿、瀬戸内と近畿といったような大きな争は、基本的にはなかったのだろう(図2)。

【焼土坑・眺望性のことなど】
高地性遺跡では、焼土坑といわれるものがよく出てくる。実際に土器を焼いた穴は少なくて、狼煙台のようなものと考えていいようなものだが、すべてが狼煙台ともいえない。少なくとも高地性遺跡の立地しているところは、河川交通とか陸海交通の要地で、狼煙で合図するのに都合のよい地点での発掘例が増えているのは事実だが、物作り、生産関係の焼土坑が炉としてもっとあっていいと思う。
最近、高地性遺跡として報告された竹林寺天文台遺跡(岡山県浅口市)は、現代の天文台と遺跡が見事に重っている。ここは見晴らしがいいだけではなく、快晴率が高く空がきれいである。遺跡は海岸部からかなり入った標高三四〇メートルのところで、弥生後期の竪穴住居跡と掘立柱建物の跡がある。ここは可視範囲が広く、四国の北岸の全体が見える。五色台、烏帽子山、金山、城山、丸亀平野、讃岐山脈、紫雲出山、高縄半島など重要な場所が全部見える。中国側の児島、塩飽諸島は見えないが、遠望はよく効く。岡山平野の土器も持ちこまれており、鉄器、投弾石も出ているが、広域的なつながりの中で必要とされた監視所的な施設と考えられる(図3)。

まとめ
多くの高地性遺跡の発掘例を見ると、従来いわれているような倭国大乱に関連付けられるような、実戦の形跡は少なく、むしろ長距離交易品の集散地拠点機能、地方の関門的な場所や眺望の良い立地に設けられ、陸海・河川交通の監視・連絡の拠点となっている機能に留意する必要がある。
また、高地性集落の時期区分論、地域性論などに発想の転換が必要であり、弥生時代や古墳時代という区分だけでは割りきれないことが多い。その意味では高地性集落という術語は、遺跡(実体)と歴史(上位概念)の中間にあるミドルレンジ・セオリーであり、今後とも批判的に検討することが必要である。

(註記)
ミドルレンジ・セオリーについて
 静的な考古資料と動的な人間活動、文化、歴史などを橋渡しする理論。一般理論(ゼネラルセオリー)に対して、中位、中範囲の理論であり、現場の点試料から歴史像構築に向かう道程に共通概念を仮説的に立て、より目的に接近していく方法論であるが、「高地性集落」のようにしばしば結論化に至って、真の歴史に近づけない場合も多い。
 エスノアーケオロジー(民族考古学)が成立する根拠論理として、ルイス・ビンフォードが提唱。
文責 (会員) 松本 淳
(なおこの講演は五月二十一日の会下山遺跡現地見学の後で行われました)

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