『日本書紀』の里程と、難波津―種子(多禰)島間の距離五千余里についての考察
つどい271号 会員 草川英昭
⑪(画面をクリックすると大きくなります)
271⑫
271⑬
271⑭
271⑮
271⑯
271⑰
271⑱
271⑲
■『日本書紀』の里程と、難波津―種子(多禰)島間の距離五千余里についての考察
(会員) 草川 英昭
一.はじめに
「『日本書紀』の里程」でインターネットを検索しても該当する項目では検索できない。
では、『古事記』(以下記と略記)や『日本書紀』(以下紀と略記)には里程はどの様に書かれているだろうか。これらを編集、執筆した天武・持統・元明朝の人達はどの様な里程を用いていたのであろう。
暦や度量衡の基準決定・管理・維持は権威・権力の象徴であるから、中国では王朝が変ると、これらは新しい基準に換えられるが、王朝交替がなかったこともあって、我が国では、中国で使われているものを、そのまま使用する傾向が強かった。
延暦二十三年(八〇四)以降、遣唐使の派遣が中断されると、それ以降、我が国は
中国の正式な冊封制度に組み込まれなくな
った。このため、律令制時に導入したものを改変せずに使い、時代に応じて令外の官を設けるようになる。
暦については推古十二年(六〇四)に暦が使われたとされて以来、貞亨元年(一六八四)、江戸幕府による貞享暦に換えられるまで自前の暦を作ったことがなかった。このために唐の宣明暦を貞観四年(八六二)から貞享二年(一六八五)までの八百二十三年間も使うことになった。
天武四年紀正月条に陰陽寮と、「始めて占星台を興つ」とあるが、天体観測や暦についての計算は出来なかったのではないか。特に太陽についてはほとんど観測しなかったのではないだろうか。安土桃山時代には、夏至や冬至の日が二日もずれていたといわれている。夏至は測定のために立てた棒(周牌と呼ぶ)の影が最も短い日、冬至は影が最も長い日と簡単に求まるのに。春分、秋分の日が判る様に造られたマヤのピラミッドの様なものが、なぜ造られなかったのだろう。
紀年の年代が百済三書を基準にして書かれていることは、応神紀以前の紀年が百済記の年代を干支二運、百二十年繰り下げて用いていることから知ることが出来る。そして、紀年の朔望日が元嘉暦で求められている雄略元年丁酉(四五七)以降の年代は正しいとされているが、継体紀における磐余入国年と任那派兵記事の重複、任那四県割譲交渉期間中の空白、継体没年の移動とこの間の紀年の混乱などから、欽明紀以前の紀年と西暦年との対応には検討の余地があると思われる。
一方、里程の方は『延喜式』によると官道には三十里毎に駅を設置するとされ、その間隔を求めると平均十六キロメートルとなることから、一里約五百三十メートルである。
参考;『角川漢和中辞典』では唐時代は一里五百六十メートル、魏時代は四百三十四メートルとある。
一方、『三国志』の里程については一里が何メートルであるのか。決着が着いていない。これを分類すると、
(一).一里百メートル弱とする短里説。
(二).五百メートル強とする長里説。
(三).魏書烏丸・鮮卑・東夷伝のみ短里とする説。
(四).魏書東夷伝の韓・倭人項のみ短里とする説
と分類出来よう。
では、『記』『紀』編者、すなわち、天武、持統、元明時代には一里はどのくらいの距離だと考えていたのだろうか。
これは『記』『紀』に書かれている里程を挙げ、そのうちの二点間の距離が明確な箇所を探し出し、現在の距離を地図上で求めればよい。
二.『記』『紀』に使用されている'里'
『記』における'里'は次の一例のみである。しかもこれは里程ではなく、里(サト)である。
仁徳記枯野の琴条 (西宮一民『古事記』新潮日本古典集成 一九七九)
その音七つの里(サト)に響(トヨ)みき。
『紀』における里(サト)の例は推古十二年紀正月条、孝徳大化二年紀正月条、孝徳白雉三年紀四月是月条、天武八年紀十月条の四例である。また次のような用例もある。
孝徳白雉五年紀二月条
遣唐使として「二船に分かれ乗らしむ。留連ふこと数月、新羅道を取りて、莱州(山東省)に泊れり。遂に京 (長安)に至りて天子に観え奉る。是に東宮監門郭丈挙、悉に日本国の地里及び国の初めの神の名を問う。」
この里は地理の理にあたる。里程ではない。
『紀』における'里'で里程を表わすもの。七例。
(一).崇神六十五年紀七月条
任那国、蘇那曷叱知を遣して朝貢らしむ。任那は筑紫を去ること二千余里。北、海を阻てて鶏林(新羅)の西南にあり。
参考;九州(福岡)と朝鮮半島(釜山)の間の地図上の距離は二百二十キロメートル。このときの一里は百十メートル。そして、これは『三国志』魏書東夷伝倭人条の狗邪韓国と末廬国間の島伝い距離の三千余里の変形である。
(二).雄略九年紀五月条
天皇、大連に勅して曰はく、「大将軍紀小弓宿禰、龍のごとく驤り虎のごとく視て、旁く八維を眺る。逆節を掩ひ討ちて四海を折衝く。然して則ち身万里に労きて、命三韓に墜ぬ。
これは移動した距離が大きいこと比喩的に表現したもので、判定に用いられない。
(三).敏達二年紀七月条
越海の岸にして、(吉備海部直)難波と高麗の使等と相議りて、送使難波の船の人大嶋首磐日・狭丘首間狭を以て、高麗の使の船に乗らしめ、高麗の二人を以て、送使の船に乗らしむ。如此互に乗らしめて、奸の志に備ふ。
倶時に発船して、数里許りに至る。送使難波、乃ち波浪に恐畏りて、高麗の二人を執へて、海に擲げ入れる。
五・六百メートルなのか、二・三キロメートルの沖で投擲したのか、判定できない。
(四).舒明九年紀是年条
妻…夫に謂りて曰く、「汝が祖等、蒼海を渡り、萬里を跨びて、水表の政を平げて…」。
遠征した距離が大きいの意味で、判定に用いられない。
(五).斉明五年紀七月条
伊吉連博徳書に曰はく、同天皇の世に、小錦下坂合部石布連・大仙下津守吉祥連等が二船、呉唐の路に…。韓智興が傔人西漢大麻呂、枉げて我が客を讒す。…智興を三千里の外に流す。
参考;唐の流刑。死罪に次いで重い刑と有る。唐における里であるから、一里五百四十メートル。
(六).天武元年紀七月十三日条
大友皇子及び群臣等、共に橋の西に営りて、大きに陣を成せり。その後見えず。旗織(方偏)野を蔽し、埃塵天に連なる。鉦鼓の声、数十里に聞こゆ。
これは『後漢書』光武帝紀の「旗幟野ヲ蔽ヒ、埃塵天ニ連ナル。鉦鼓ノ声、数百里ニ聞コユ」からとるとある。
実数でないかもしれないが、考え方によると実体に即しているともとれる。このときには一里百メートルで、五・六キロメートルの範囲に陣を敷いていることになる。当時の動員できる人数としては、この程度であろう。
一里五百メートルだと三十キロメートルの布陣となり、動員された兵力は十万人以上となろう。
(七).天武十年紀八月条
丙戌に、多禰国に遣しし使人等、多禰島の図を貢れり。其の国の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。種子島、難波津間、直線距離で約六百二十キロメートル 一里は百二十メートルくらい。この天武十年紀八月条の項目は、天武八年紀十一月条の、己亥に、大乙下倭馬飼部造連を大使とし、小乙下上寸主光父を小使として、多禰島に遣わす。を受けている。そうして、いわば、天武朝が公式に種子島、難波津間が五千余里だとしたのである。
三.『紀』における種子島・南西諸島の認識
種子島を含む南西諸島に関する記載は推古二十四年から始まる。
(一).推古二十四年紀三月条、五月条、七月条
三月、掖玖人三口、帰化けり。夏五月、夜勾人七口、来けり。秋七月に、亦掖玖人二十口来けり。後先、併せて三十人。皆朴井に安置らしむ。未だ還るに及ばずして皆死せぬ。
(二).推古二十八年紀八月条
掖玖人二口、伊豆島に流れ来れり。
(三).舒明三年紀二月条
掖玖人帰化り。
(四).孝徳白雉五年紀四月条
吐火羅国の男二人・女二人、舎衛の女一人風に被ひて日向に流れ来たれり。
吐火羅国と舎衛については諸説があるとされる。
(五).天武六年二月是の月条
多禰島人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗給ふ。
(六).天武八年十一月条
大乙下倭馬飼部造連を大使とし、小乙下上寸主光父を小使として、多禰島に遣す。
これが天武十年紀八月に戻ってくる。そうして、種子島、難波津間が五千余里であることが認められることになった。ここで倭馬飼部造連を含めた天武朝の人々は、『三国志』魏書東夷伝倭人条に書かれた倭人国周旋五千余里が九州一周の距離であること認識したはずである。
(七).天武十年紀八月条
多禰島に遣しし使人等、多禰島の図を貢れり。其の国の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。
種子島、難波津間の距離を地図上で測ると直線距離で約六百二十キロメートルである。ここから、一里は約百二十メートルであることが判る。この検討は後述する。
(八).天武十一年七月条
多禰人・掖玖人・阿麻弥人に禄を賜ふ。各差有り。
(九).持統九年紀三月条
務廣貳文忌寸博勢・進廣参下訳語諸田等を多禰に遣して、蛮の所居を求めしむ。
(二)の記載から、南西諸島から難波津に向かうとき、方向を間違うと(難破したのかも知れない)、黒潮に流され、伊豆諸島の方向に行くことが判る。伊豆諸島は船行一年の距離ではないが、一年かければ行ける裸国、黒歯国があると、倭国の人が魏使に話したのであろうか。「洛陽の紙價を高まらしむ(洛陽紙價貴)」の文選'海の賦'にも裸国、黒歯国が書かれている。古田武彦『邪馬壱国の論理』朝日新聞社 一九七一
参考;インターネットでも「文選、海の賦」で検索すると、読むことが出来る。また、 中島千秋『文選』(賦編)上 明治書院 一九九八でも観ることができる。
『紀』の里程で二点間の距離を求められるのは、任那、筑紫間の二千余里と、種子島、難波津間の五千余里の二例であり、いずれも『三国志』魏書東夷伝倭人条に基づくもので、一里は約百十メートルである。
四.多禰島と難波津の距離五千余里はどの様にして求められたのだろうか
多禰島から難波津までの距離はどうやって判ったのか。当時の天皇家には測量をする技術がないことは容易に想像できる。しかし、現在、地図上で求めると種子島から難波津までの二つの道順は、瀬戸内ルートでも、四国南岸ルートでも六百二十キロメートルと求められ、一里が約百二十メートルと、崇神六十五年紀七月条の、筑紫、任那間の距離と同じ尺度で記されていることが判る。
参考;たまたま『文選』賦編、蜀都賦を観て、蜀都(成都)、交趾郡(昆明であろう)間が五千余里と書かれているのを知った。
成都、昆明間は六百二十キロメートル、一里約百二十メートルである。中島千秋『文選』賦編上蜀都、昆明間の五千余里は、種子島、難波津間と同じ六百二十キロメートルと、地図上でも同じ距離と求まる。
『三国志』に一里百メートル程度で書かれた距離が結構ある。特に魏書烏丸・鮮卑伝、東夷伝ではほとんど一里百メートル前後の里程のものであるとできることは改めて説明したい。
種子島に比べて伊豆の島(伊豆大島か)は推古二十八年紀八月条以降、流刑の地としての記載が何回かはあるが、里程については、いずれの場合にも記載がなく、伊豆大島までの行程も書かれていない。
種子島の場合はどの様にして里程が出たのであろうか。それは『三国志』魏書東夷伝倭人条にある、九州一周の距離、五千余里から出したのであろう。種子島から九州を一周するのと、種子島から難波津へ来るのと同じ距離だと出来るからではなかろうか。それは航海の日数や、種子島の人達の経験から求められたのを、天武八年十一月に種子島に派遣された倭馬飼部造連らの報告から、十年八月に、正式に追認したのであろう。
その記載が天武十年紀八月条の記載である。
九州から難波津へのルートには二つのルートがある。その一つは瀬戸内海を通るルートで、今一つは次の例で、
神功摂政元年紀二月条に、「武内宿禰に命せて、皇子を懐きて、横に南海より出でて、紀伊水門に泊まらしぬ」とあり、また、応神九年紀四月条に、「武内宿禰…筑紫を避りて、浮海よりして南海より廻りて、紀水門に泊まる」とある。
これらによると四国の南の室戸岬を回っているのかも知れない。すなわち、種子島から難波津に至るルートには、瀬戸内ルートと、足摺・室戸・紀淡海峡ルートがあるが、いずれもほとんど同じ距離である。
伊豆諸島は、『紀』には何回かは登場するが、距離は記されていない。遣唐使の通り道でもある五島列島も書かれていない。五島から九州を時計回りで回ることはないであろう。これらに比して種子島は九州を時計回り、反時計回りのいずれの方法でも廻ることが出来る。すなわち、種子島の人々は、船行で『三国志』魏書東夷伝倭人国条の周旋五千余里を経験していたのであろう。
周旋五千余里は、倭人条の、「倭地を参問すれば…周旋するに五千余里なる可」、の里数であり、それは烏丸・鮮卑、東夷伝の各国条において、東西南北の地理的状況を説明した後に必ず面積を記載するという規則に従って、書かれた倭人国の面積だったのである。この五千余里を、帯方郡から女王国に至る一万二千余里から狗邪韓国までの七千余里を引いた、残りの里程とするのは誤りで、周囲の国々と地勢の後で、しかも周旋とあるから、倭人国を一巡りした面積なのである。
これが地図上の面積でどのくらいの範囲を示すのかは、『三国志』呉書諸葛格伝に書かれている丹楊郡の説明文との比較からも判る。そこには次のように書かれている。
衆議咸、丹楊の地勢を以て険阻なりとす。呉郡、会稽、新都、?陽の四郡と隣接し、周旋数千余里。
とある。丹楊郡は太湖の西で、?陽湖の東、陶磁器の景徳鎮を含む地域であり、その面積は九州とほぼ同じである。奥野正男『邪馬台国はここだ』毎日新聞社 一九八一
すなわち、『三国志』には烏丸・鮮卑、東夷伝以外にも一里が約百メートルで書かれているところが在ることを意味し、倭人条で周旋した倭地には本州や四国は含まれていない。周旋が片道や往復の行程でなく、同じ所を通らず、一巡りして元の位置に戻ることを表わしているのは自明のことである。
これと同じで、倭人国条での読みについて、明かな誤りに「乍南乍東」がある。これは「たちまち南し、たちまち東す」と読む。船で海岸沿いにずうっと南下し、その後、ずうっと東進するのではない。南へ行ったり、東へ行ったりを、繰り返すときの文である。韓国内の陸行は、帯方郡から女王国に至る水行十日陸行一カ月の内の十日以上は使っている。古田武彦『'邪馬台国'はなかった』朝日新聞社 一九七一
参考;『角川漢和中辞典』にも例文と伴に記されている。「乍寒乍熱」。
すなわち、「韓国を経て」は韓国内を歩いて移動した。帯方郡(開城であろう)から江華島へ出て、船で水原あたりまで行き、水原から釜山まで三百キロメートルを陸行したのである。ここから三韓が方四千余里とされたのであろう。実際には、三韓は方三千余里ぐらいの面積しかない。
弁辰の「?廬国は倭と界を接す」とある。極端な場合、西の木浦から東の蔚山を結ぶ線より南岸部は倭ではなかったか。三韓条には「東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す」と書かれているからである。三韓の南は海ではなく、陸続きの倭である。
東夷伝倭人条には「女王国の東、海を渡る千余里、復国有り。皆倭種」の倭種の国のことは書かれていない。
これらの国は魏に朝貢していないからである。だから書く必要がなく、陳寿には興味もないのである。倭種の国が島なのか大陸なのか、そこも周旋できるのかなどは関係がない。従って、倭人条に書かれた三十カ国は、途中の狗邪韓国、対馬国、一大国を除き、狗奴国を含めて、全て九州の中で求めなければならない。
『記』『紀』編者を含む天武・持統・元明朝の人々は、邪馬壹国の卑弥呼が天皇家の人物ではなく、邪馬壹国が九州に在ったことを認識していたものと考えられる。しかし、天武の編集方針は、「天皇家の祖先神である天照大神は日本国中の豪族の祖先神でもあり、天皇家がその直系の子孫で、祖先神である天照大神から日本列島の統治を依頼され、遙か昔から統治してきたのだ」と主張するために書かせたのが『記』『紀』である。
この現れが天皇家の伝承には書かれていなかった卑弥呼を、『紀』では神功皇后に仕立て上げたことである。このため、神功は三世紀の人物か、四世紀の人物なのか判らない様な記載となり、さらに卑弥呼と、その宗女だと倭人条に書かれた壹与との区別がなくなる記載になったと考えられる。
『記』『紀』編者は卑弥呼の邪馬壹国が九州に存在したことを認識していた。本州や四国を含んでいては、津軽海峡を通らなければ、魏使は倭人国を周旋できないからである。
この様に考えると倭人条に書かれた、女王国の南四千余里の侏儒国も地図上から探すことが出来る。九州の南四百キロメートルの所には奄美群島が存在する。
かつて西南諸島には、現在考古学上で港川人と呼ばれた背の低い人達がいたとされる。倭人条に書かれたような三・四尺ほどではないが五尺に満たなかったという。
魏使は、奄美まで行って、背の低い人々を観たのだ。だから南、四千余里と判ったのである。
背の高さは意外と変りやすい。日本人の身長は、江戸時代が最も背の低い時期で、男性の平均身長が百五十五センチメートルほど女性は百四十五センチメートルほどとある。幕末開国時の白人から観れば日本は小人国と思われていたのかも知れない。
『三国志』魏書東夷伝倭人条から、倭人国の周囲の国と地勢、面積は、次のように纏められる。
北 海、三千里離れて、韓国を経て帯方郡
南 海、四千余里で侏儒国(奄美諸島)
東 海、千余里で倭種の国 西 海、会稽郡(会稽東治の東)
地勢と面積 或いは連なり、或いは離れた海中の中洲で周旋五千余里
このときの一里は約百メートルである。この倭人国の表に倭種の国が入る余地はない。『紀』の編者もその様に認識して、多禰島、難波津間の距離が五千余里だと判ったのである。
また、この表から魏晋朝の里程問題も決着する。魏晋朝では一里約百メートルであった。なぜなら、魏使張政等は、始めて測った九州(倭人国)、奄美(侏儒国)間の約四百キロメートルを四千余里と報告したのである。
これは魏晋朝では一里を約百メートルとしていたことを示すことに他ならないからである。
四.おわりに
『紀』における里程の記載を調べ、七例の里程記載を摘出した。この内、二点間の距離を地図上に求められるものは崇神六十五年七月条の任那、筑紫間の二千余里と、天武十年八月条の多禰島、難波津間の五千余里の二例であった。これらの距離を地図上で求めると、それぞれ、二百二十キロメートル、六百二十キロメートルで、一里は約百二十メートルである。そうして、この二例は、いずれも『三国志』魏書東夷伝倭人条から導いた値で、多禰島、難波津間の五千余里は、九州周旋の距離と等しいことから求められている。そうして、『三国志』呉書諸葛格伝に記録されている、丹楊郡の説明文「周旋、数千余里」の丹楊郡の面積と九州の「周旋、五千余里」の面積がほぼ等しいことを示した奥野説を紹介した。
ここから、『記』『紀』編者は邪馬壱国が九州にあったことを認識していたことが判った。また、倭人条では、女王国の東、海を渡る千余里、復国有り。皆倭種なり。の本州、四国の国々については、これらの国が魏に朝貢していないため、全く記録していないことが明らかになった。
また、張政らの報告から、魏晋朝では一里を約百メートルの短里で用いていたことが判った。
『三国志』魏書烏丸・鮮卑伝、東夷伝の里程を一里約百十メートルとしたときに描ける各国の配置図については、稿を改めて検討したい。