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勝福寺古墳加茂遺跡を訪ねる

2010年7月24日(土) 

10:00阪急川西能勢口駅--勝福寺古墳--栄根寺廃寺遺跡史跡公園--(昼食)--加茂遺跡(川西文化財資料館--鴨神社)--川西能勢口駅

協力 川西市教育委員会・川西市文化財資料館・川西市文化財ボランティアガイドの会
関連資料
つどい246五世紀のヤマト政権と北摂津(大阪大学 福永伸哉先生)

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川西能勢口駅にて川西市の講習を受けガイドのライセンスを持っておられる「川西市文化財ボランティアガイドの会」6名が待ち受けてくださった。

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本日の見学ポイント
Photo

駅より北方へ勝福寺古墳へ向う
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015s
L=40mの前方後円墳
・後円部第一横穴石室(写真)
・後円部第二横穴石室
・前方部北棺
・前方部南棺
四ヵ所の埋葬施設(埋葬主体)を持っている
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後円部第一横穴石室
037s
猪名川流域の古墳(出典つどい246)
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勝福寺古墳は豊富な副葬品を持つ
(川西市文化財資料館にて展示)
160s
画文帯神獣鏡
同型鏡(江田船山古墳/熊本)から出土。平西将軍に授けられたという(中司照世先生)
168s
関東に多く関西では出土例が稀な六鈴鏡
167s
底部の処理に尾張系の特徴を持つ円筒埴輪
189s
大陸製とされる(中司照世先生)金製耳輪、銀製クチナシ玉
162s

161s
駅前にもどり
101s 099s
栄根寺廃寺遺跡史跡公園
074s
奈良時代創建とされる
062s
須弥壇跡
060s
ナイチンゲール像
082s 083s
記念撮影
080s
川西能勢口駅にもどる
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駅前で昼食休憩をとり生気をとりもどして加茂遺跡に向う
阪急とJRの連絡橋から加茂遺跡(前方丘陵部)が望める
102s
加茂遺跡
濠の一部となっている最明寺川を渡ると丘陵となる
106s 107s
標高約40mの台地(伊丹段丘)に旧石器時代から平安時代までの遺物が出土する複合遺跡である
108s 113s
弥生中期には東西800m南北400m畿内有数の大集落であった
109s

115s 114s
川西市文化財資料館
加茂遺跡の敷地の一角に設けられている
117s

125s

126s
最明寺川を北限として環濠が巡らされている
核心部(現在は鴨神社)に大型建物の遺構が発見された
130
防御柵と環濠ジオラマ
123s 192s
リアルな展示だ
119s
縄文時代後期 石冠
134s 133s
縄文土器
176s
弥生栄根銅鐸      素焼き円筒埴輪(小戸遺跡)
150s 155s
丸木舟(栄根遺跡)
177s

弥生中期 石器
140s
弥生 土器
149s
勾玉(栄根遺跡)
182s
加茂遺跡は弥生時代中期に最盛期を迎える
131s 132s 139s 143s 153s 
環濠の姿を留める地形
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鴨神社は丘陵北東端に位置する
203s

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祓い所結界
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古式鳥居結界
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本殿裏の加茂遺跡中心部遺構発掘場所
227s

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北端部 より東(五月山/池田)方面

川西市教育委員会岡野慶隆氏著『加茂遺跡』より
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これで本日の見学は終了しました
川西市教育委員会、文化財資料館、なかでも川西市文化財ボランティアガイドの会の皆様
暑い中熱心に案内いただきまして誠にありがとうございました。

大阪大学・デジタル勝福寺古墳

■勝福寺古墳から加茂遺跡へ
(会員) 阪口 孝男
七月度の現地見学会は、北摂・川西市の数ある史跡の内、阪急・川西能勢口駅周辺の遺跡を訪ねましたので、ご報告致しましょう。

 会員の皆々様にはタイトルの「勝福寺古墳」と聞かれて直ぐ思い出されたことと思います。
平成十八年四月十二日の豊中歴史同好会の例会で、大阪大学・福永伸哉教授から「五世紀のヤマト政権と北摂(副題・猪名川流域の古墳時代史と「政権交代論」)」(『つどい』第二四六号に掲載)の講義がありましたし、続いて平成二十一年一月十日の豊中市文化財講演会「豊中歴史同好会設立二十周年記念シンポジウム」の基調講演「五世紀のヤマト政権と北摂」(『つどい』第二五六号に掲載)で、再び同教授から北摂地域の古墳時代の様相に関連して、勝福寺古墳の時代背景についても伺う機会を得た経緯があるだけに、今回の見学会では、参加者の関心が特に高かった様に思います。

七月二四日、快晴、気温・最高三五・七度の猛暑の中、集合場所である阪急・川西能勢口駅前に出向くと、今日、遺跡で解説をお願いしている川西市文化財ボランティアガイドの会の七名の方々が、既にお揃いのため、私の到着を出迎えて頂いた様な格好となり、聊か恐縮しながら集合の輪の中に入りましたが、そこには何時ものように和やかな雰囲気が漂う中、予定通り午前一〇時、山口会長以下参加者二一名は、駅前を出発して最初の目的地である勝福寺古墳に向いました。

一 勝福寺古墳
勝福寺古墳は、川西市火打二丁目の勝福寺の裏山にあります。六世紀前葉に築造された、全長約四〇メートルの前方後円墳とのことですが、墳丘は荒れた感じで外観から、その墳形を確認するのは困難でした。

昭和四(一九二九)年、木村次雄の「摂津の鈴鏡出土の古墳」『考古学雑誌』第一九巻第一一号で初めて前方後円墳と紹介されたそうですが、昭和一〇(一九三五)年、梅原末治「摂津火打村勝福寺古墳」『近畿地方古墳墓の調査一』では、時期を異にする円墳二基が連接したものと報告されて以降、長い間、円墳として定着して来たとのことです。
今日(こんにち)、前方後円墳と確定する迄に曲折があったという話も理解出来るところです。
勝福寺古墳の発掘と墳形の変遷
この古墳発掘の端緒は、明治二四(一八九一)年、壁土用の土採りに依って偶然、全長九メートル、幅二・三メートルの右片袖式の横穴式石室(現在、第一石室と呼称)が発見されたことによるもので、画文帯同向式神獣鏡・六鈴鏡・銀象嵌竜文刀・金製耳環・碧玉製管玉・須恵器等々の豊富で質の高い副葬品を出土し、考古学界では古くから知られた存在だった様です。
その後、昭和八(一九三三)年に墳丘南側から五獣鏡・鹿角製刀装具の付いた刀片が出土し、現在、前方部北棺と呼ばれる埋葬施設の存在が推定されています。
昭和四六(一九七一)年に市教委による発掘調査が行われた際には、木棺の周囲を粘土で固めた埋葬施設(現在、前方部南棺と呼称)が確認され、内部から金環・銀製梔子玉・刀子・鉄鏃等が埋葬時の状態で出土したことから、前方部には二基の主体部があることが判りました。
平成一三(二〇〇一)年から同一六(二〇〇四)年に亘る大阪大学考古学研究室と川西市教育委員会による発掘調査によって、始めてクビレ部の幅が広い前方後円墳であることが確定したとのことです。
平成一六年には、第一石室の入り口付近で第二石室の存在が確認されているので、後円部にも主体部を二基持ち、併せて四基の主体部を有する古墳であることになります。
?その他、二〇〇一年から二〇〇四年の合同調査によって新たに判った事実?
(a)後円部の斜面にテラスが存在し、後円部が二段築成であること。
(b)後円部のテラスには埴輪列が存在していたこと。
(c)表面に連続するヨコハケを持つ円筒埴輪が発見され、この埴輪は六世紀前葉にしばしば認められる尾張系のタイプであり、同時期に登場する継体大王との関連から、勝福寺古墳の被葬者は、継体支援勢力の一角を占めた猪名川流域の有力首長という評価が生まれたこと。
(d)平成一五 (二〇〇三)年の調査で勝福寺古墳の後円墳部第一石室の羨道に階段状の石組の構造が明らかになり、石段の上から玄門の床面までの高低差は概ね八〇センチメートルあり、極めて珍しい例とされています。
(e) 平成一六(二〇〇四)年の調査で第一石室の入口外側で、別の石室(第二石室と呼称)が見つかった事は先述の通りですが、この石室は入口を西に向けた奥壁幅約一・三メートル規模の横穴式石室で、上部は明治時代の土採りで破壊されていました。
この石室の築造時期は勝福寺古墳築造から凡そ一世代後の頃のものと推定され、勝福寺古墳の次世代の子孫か、子孫を自称する人物に築かれたものと考えられている様です。
二〇〇五年三月二日の朝日新聞によると、川西市教育委員会は、勝福寺古墳の出土品の中から「金象嵌」を施した破片が見つかったと発表しています。
その前年、明治時代に出土した円頭柄頭大刀の破片三個(三~九ミリメートル)を奈良大学に分析を依頼したところ、太さ〇・四ミリメートルの金の線が鉄の地に一~六本打ち付けてあり、打ち込まれた金の純度は九〇%以上で大刀の柄頭の全面に整った文様が施されていたと考えられていることです。
また、古墳から出土した「金象嵌」大刀は全国で八例しかなく、然も未だにこの古墳から出土した金象嵌の金の純度を超えるものはないと云う話でした。
市教委によると、一九二九年発行の『考古学雑誌』に同古墳から出土した「円頭大刀柄頭」の図面が掲載され「金象嵌」の記載があるそうですが、現在は行方不明となっていて、今回の破片は恐らくこの柄頭から剥離散逸した可能性が高いそうです。
?勝福寺古墳の被葬者像?
この様に金・銀を象嵌した二振り大刀が副葬されていた勝福寺古墳の被葬者像が改めて気になる処です。
大阪大学・福永伸哉教授は、先の講演で六世紀前葉に登場した継体大王を支援する勢力の墳墓として、この地に築造されたものと考えるのが最も妥当だと述べられています。今回見学会に同行された中司先生は、石室の開く方向から物部氏と関係の近い人物、また、前方部南棺の被葬者は出土品の状況から渡来系の人物若しくは朝鮮に渡って戦った人物の可能性もある、との説明をされました。
以上の様な内容の現地説明を受けた後、第一石室内部の見学を済ませてから、墳頂に登り前方部の埋葬施設とされる場所の確認を終えて勝福寺古墳をあとにしました。

二 栄根寺廃寺遺跡史跡公園
勝福寺古墳に来た道を其の儘、引き返し、阪急・川西能勢口駅から宝塚に向う線路の北側の坂道を二〇〇メートル程登ると直ぐ右側に整備された広場があります。
 ここにはかつて薬師如来坐像を安置する薬師堂がありましたが阪神大震災で倒壊し、現在は史跡公園として整備されています。
平成一一(一九九九)年の発掘で、土盛りの須弥壇を持つ平安時代後期の仏堂の遺構が検出され話題となりました。
この寺の創建については、栄根寺の本寺である池田市の西光寺に『栄根寺縁起』が伝えられていますが、それによると創建の由来は、聖武天皇が僧行基に命じて薬師堂と薬師如来坐像を造らせたのが起こりで、後に源満仲が祈願所として再興したとされていますが、具体的な事実が判る史料はなく、寺の歴史は明らかでありません。
 このほか、境内には、栄根寺の本寺である池田市の西光寺の住職との縁を持つ幕末の加賀の豪商銭屋五兵衛の顕彰碑もありました。

三 ナイチンゲール像
栄根寺廃寺遺跡史跡公園の隣接した処に、フローレンス・ナイチンゲールの像があることは全く知りませんでした。
この土地の所有者が日本赤十字病院で療養中、白衣の天使の献身的な看護に心を打たれ、一九三六年八月一三日に現在の場所に、建立したものだそうで、ロンドンの聖トーマス病院ナイチンゲール看護学校の入口に立つ像を原型にした、世界に二つしかない像と云われており、毎年五月には生誕祭が行われ、多くの看護学生が訪れるそうです。
栄根寺廃寺遺跡史跡公園の見学を終わって阪急・川西能勢口駅に戻り、昼食のため、一時解散となりました。
昼食を終えて午後一時一五分、再び阪急・川西能勢口駅前に集合し、加茂遺跡を目指し出発しました。
ご案内役の川西市文化財ボランティアガイドの会の伊澤啓子会長に引率され、駅か
らJR・川西駅に通じる連絡高架橋を西に進むと直ぐ、西方への見晴しの好い陸橋の上で次の様な説明が行われました。
☆西方四〇〇メートル先に見えるこんもりと樹木の茂った丘陵が加茂遺跡で、独立丘陵ではなく伊丹丘陵の北東端に位置しているそうです。
☆この辺りのJR・川西池田駅周辺一帯には東西三五〇メートル、南北四〇〇メートルの範囲に、縄文時代晩期から平安・鎌倉時代にいたる栄根遺跡が展開しているそうで、弥生時代中期に栄えた加茂遺跡が縮小衰退した後に拡大、発展したのがこの栄根遺跡だそうです。
☆弥生・古墳時代の川跡から木船や堰が発見されており、その他木製扉・翡翠の勾玉等々珍しい出土品が多いそうです。
中でも日本に三つしかないといわれる、奈良時代の墨壺の一つが、この遺跡から出土していて、栄根寺の造営に使用されたものでないかと考えられています。
ここから更に西に向って進み、無花果畑の続く中、緩やかな坂を登って最明寺川を渡ると加茂遺跡内に入ります。
?加茂遺跡の概要?
加茂遺跡は、川西市南部に位置し、伊丹段丘の北東端にある標高凡そ四〇メートルの洪積台地に、東西八〇〇メートル、南北四〇〇メートルの面積を持つ旧石器・縄文時代から平安時代の集落遺跡です。
明治四四年、台地東側崖下から銅鐸(通称「栄根銅鐸」)が出土していますが、大正四
(一九一五)年、笠井新也が『人類学雑誌』に鴨神社周辺で弥生土器や石器の散布を発表してから、その存在が明らかになった遺跡です。
この遺跡の特徴は、何と云っても①規模が大きいこと②構造が中心域・環壕外北部居住区・環壕外南部居住区・墓地と明確になっていること③極めて防御性の強い集落であることと云えます。
縄文時代後期には既に小さな集落が営まれていたことが、同遺跡西部での遺構・遺物から判っているのだそうです。
弥生時代中期には畿内有数の大集落となり、遺跡東部に竪穴住居の並ぶ居住区が、西部に方形周溝墓・木棺墓の並ぶ墓地、それに数条の環壕が中心域居住区の台地の崖以外の部分を囲む様子が、これまでの調査で明らかになっています。
また、下加茂・栄根・小戸遺跡等の周辺の集落を統括し、この地域の中心的集落として機能していたと考えられ、平成四(一九九二)年の遺跡東部(鴨神社北側)の調査で弥生時代としては大型の掘立柱建物跡やそれを囲む方形区画が見つかり、集落の首長層の住居か、宗教施設か、の可能性が推定されています。

四 川西市文化財資料館
川西市文化財資料館は、市内三八カ所の旧石器・縄文時代から奈良・平安時代の遺跡から出土した遺物が収蔵されている所です。資料館に到着した一行は休む間もなく、望月誠子館員から以下の説明を受けました。
極めて防御性の強い加茂遺跡の象徴とされる遺跡東側崖面付近を舞台に、弥生時代の戦いの様子を再現したジオラマから始まり、続く次の部屋では、遺跡全体のジオラマの前で遺跡の概要、中央域等、主要遺構等の解説を受け、参加者との質疑応答も交わした後、最後に本資料館の北東五〇メー
トル付近で、二〇〇七・二〇〇八年の調査
で弥生時代中期後半の環壕の入口と考えられる遺構が見つかっているので、是非、見学して欲しいとの要望を受けました。
一行は、その後、館内展示物の見学を終
えて次の目的地である鴨神社方面に向いました。
再び、ガイドの会の伊澤啓子会長に引率され、資料館の裏手の道を入り、先程、資料館で説明のあった、環壕入口遺構(現在は埋戻)のところで、その説明を受けました。
この遺構は、次ページ上段の写真の様に、幅約六〇メートルの間隔の中に、七条の環壕を有する多重環壕帯で、環壕の中には一部分途切れたものがあることや、通路の左右に柵列を有すること、更に、環壕に木橋が架かっていた、と推定される等、類例の(発掘図を道路に置いて説明中のガイドの井澤会長)
ない施設で、然も、この入口通路が鴨神社の裏手で発掘された大型掘立柱建物・方形区画のある主要施設に一直線に向っている構図は、極めて興味深く、それぞれに古代へのロマンを馳せながら、鴨神社に向って歩きました。

五 鴨神社
鴨神社は、加茂遺跡の北東に突き出た、標高四五~五〇メートルの台地に鎮座する延喜式の式内社で、御祭神として「別雷命」が祀られていますが、その由来は明らかでないようです。
境内は凡そ四千坪もあり、広大な神域の中にある緑深い森が一行の疲れを癒してく
れます。
『新撰姓氏録』の摂津の国皇別の項には、「鴨君」神別の項には「鴨祝部」の記述もあるそうですから、これらの氏族の祖先は、鴨神社の御祭神との関係があったのでしょうか?
先述の通り、この社殿の裏手からは地方の首長の館跡とも、宗教的な要素の強い施
設とも考えられる遺構が出土していることからも興味の惹かれるところです。
神社本殿で各自、参拝を済ませてから、その主要遺構跡を確認し、更に加茂遺跡の最高地点と云われる場所で、北東の方向に広がる川西市を一望すると共に東側崖下の低地を覗き込んで比高二〇メートルの遺跡の防御状況を体感致しました。
これで今回の現地見学会は、予定通り終了し、炎暑に負けることなく全員無事に阪急・川西能勢口駅に帰着致しました。

終わりに当たり、炎暑の中にも関わらず、
熱心なご説明と道中ご案内を頂いた川西市文化財ボランティアガイドの会の皆様に、深甚なるお礼を申上げると共に各目的地で御説明頂いた会長・伊澤啓子様、副会長・西田?(きよ)至(し)様、井上道博様、川西市文化財資料館・望月誠子様には、本紙上をお借りして御礼申し上げます。

尚、右記事のうち、各遺跡の内容に関しては、川西市教育委員会の岡野慶隆様から御助言を賜りました。ここに記して御礼申し上げます。

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