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天之日矛(天日槍)伝説と海人集団

つどい269号
-発掘成果に反映される記紀神話-
元読売新聞編集委員・坪井 恒彦先生

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■天之日矛(天日槍)伝説と海人集団
――発掘成果に反映される記紀神話
                元読売新聞編集委員・坪井 恒彦

一、はじめに
 中世から但馬国一宮とされる出石(いずし)神社(兵庫県豊岡市出石町)は、『延喜式』に「伊豆志坐神社八座(並に名神大社)」と記載があり、八種神宝八座(伊豆志の八前大神)を祀る。『古事記』や『日本書紀』垂仁条には、天之日矛(天日槍=ヒボコ)が「(新羅から)持ち渡り来(こ)し物(将(も)て来たる宝物)」として八種の神宝を「但馬国に蔵(をさ)めた」とある記述と符合する。境内は、但馬の中央部を日本海に向かって北流する円山川の支流、出石川水系の谷あいに位置する。豊岡盆地の東南部にはこのような円山川に向かって西に開いた谷筋がいくつか認められ、出石神社の谷筋を背後にいただく神体山・此(この)隅(すみ)山(やま)北側の比較的大きな谷部、袴狭(はかざ)川(出石川の支流)沿いに、袴狭遺跡群が展開する。

 一九七六年以来の発掘調査で、荒木地区や内田地区などから八世紀前半~九世紀前半の建物遺構周辺から木製品一万五千点以上が出土、うち四割以上が人形、馬形などの木製祭祀具という特殊な遺跡であることが判明した。さらに、それより前の弥生時代後
期~古墳時代前期の水田とそれに伴う井堰・溝周辺からも、「琴板(打楽器)」(長さ五四センチメートル、幅一三センチメートル、高さ九センチメートルの箱形木製品)の一部とみられる木板など、特異な遺物が出土している。琴板の表面には、サケやシュモクザメ、カツオなど海洋性の魚類などを詳細に描写した線刻絵画などが確認されている。そんな中で、一九八九年、四世紀初めの水田に伴う溝跡から発掘されたのが、「十五隻の船団を描いた線刻画木製品」である。

木製品は、長さ一九七センチメートル、幅一六センチメートル、厚さ二センチメートルの杉の板材で、何かの装飾板に使われていたらしい。十五隻は、長さ一〇八センチメートルにわたって描かれ、大型船(全長三七センチメートル)を囲むように中小の十四隻(同九センチメートル~一三センチメートル)が一団となって左方向に航行している。いずれも丸太材を刳り抜いた船底に舷側板を継ぎ足して背を高くし、船首に波除け板を付けた準構造船を表現しており、外洋を航行するため安定性を高めた様子がうかがえる。古代史の故門脇禎二氏は「大陸(朝鮮半島)から渡来した集団の船団をイメージさせ、とくに大型船を中心に航行する姿は戦闘隊形、あるいは海人集団の階層をうかがわせ、何か記念すべき航海を描いたものと考えられる」と述べておられた。

二、「ヒボコ」像の性格
ヒボコ伝説の中心部に当たる地での発掘成果であり、この門脇氏の視点に立つまでもなく、両者の強い関連が気になる。よく知られているように新羅の国主(王)の子・ヒボコの渡来を、『古事記』は、応神天皇条に入れてはいるが、それは昔のこととして語られており、『日本書紀』垂仁天皇三年三月の記述が具体的な時期の目安になる。その時期を、崇神天皇を実質上の初代とするヤマト政権の初期とすれば、四世紀初めごろになる。しかし、同じ垂仁天皇八十八年七月には、天皇がヒボコの曽孫・清彦に例の神宝を見せるように望む記述があり、それに従えば、三世紀以前にさかのぼる。いずれにしても、『記紀』や『播磨国風土記』にも登場するヒボコは、特定の人物を記述しているのではなく、古墳時代より以前に朝鮮半島から渡来した集団(製鉄の技術を持つグループを含む)を象徴的に表現しているとするのが、現在の専門家の一般的な見方とみてよいだろう。

『古事記』によると、伝説の概略は、新羅の沼のほとりで太陽の光によって生まれた赤玉から変身した美女と結婚したヒボコが、祖国に戻ってしまった妻を追って難波に着いた。しかし、ヤマト入りを拒否されて但馬に入り、土地の女と結婚し、タジマモリに至る子孫をもうけたとする。『紀』では渡来したヒボコは、「播磨の宍粟邑(しさわのむら)、淡路島の出浅邑(いでさのむら)のどちらに住んでもよい」という天皇の詔に反して淀川沿いから近江国吾(あ)名(なの)邑(むら)に入り、若狭を経て但馬に居を定める。そのヒボコがもたらした先の「八種の神宝(伊豆志の八前大神)」を、『記』は、①珠二貫(つら)(玉津宝)②浪振る比(ひ)礼(れ)③浪切る比礼④風振る比礼⑤風切る比礼⑥奥(おき)津(つ)鏡(かがみ)⑦辺(へ)津(つ)鏡(かがみ)とする。

領巾、肩巾とも書く「比礼」とは、呪力を持つ女性(女司祭者)が首にかける長い布で、魚の鰭(ひれ)に通じ、浪や風をコントコールしうる航海者、海人集団にとっては、重要な意味を持つ呪具である。『記』はさらに、女司祭者の具体的な営みとして「伊豆志大神の娘・伊豆志袁(を)登(と)売(め)」を登場させ、その母が伊豆志河の中洲に生える一(ひと)節(よ)竹(だけ)で編み目の粗い籠(呪具)を編み、呪詛を仕掛けるなど古代祭祀の様子を具体的に記録する。袴狭川沿岸から出土した多彩な祭祀具とのつながりをうかがわせ、とくに海洋性の多彩な魚を表現した琴板などは、彼女らのような海人集団の女司祭者たちを連想させる。

また、「奥津鏡」と「辺津鏡」も、『万葉集』(巻二―二二〇)の柿本人麻呂の歌に「時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波さわく いさなとり」とあるように、海の沖と岸の風や波を支配する霊力を持つ神宝であり、比礼と同じく航海の災厄を除く呪具とみられる。この名前で呼ばれ、実在する鏡が京都府宮津市の籠(この)神社に所蔵される「海(あま)部(べの)直(あたい)伝世鏡 息(おき)津(つ)鏡(かがみ)・辺(へ)津(つ)鏡(かがみ)」である。このうち、息津鏡は後漢前半(一世紀)の「長宜子孫内行花文鏡」(直径一七・五センチメートル)、辺津鏡は前漢晩期(紀元前後)の「内行花文昭明鏡」(直径九・五センチメートル)という。千田稔氏は、ヒボコがもたらした「奥津鏡」「辺津鏡」が籠神社所蔵の二面の鏡と同じ宗教的機能を、同じ時期ぐらいに果たしたとすれば、ヒボコの伝来は一世紀以降という想定も成り立つとして、「アメノヒボコ」の名前で呼ばれる集団の渡来年代に踏み込んだ見方をされている。

三、海人(あま)集団の実像
海人は元来、海洋を生活の舞台として、漁撈や航海を生業とする集団で、邪馬台国時代の「倭の水人」の習俗として『魏志』倭人伝に、「好んで沈没して魚(ぎょ)蛤(こう)を捕う。文身はまたもって大魚水禽を厭(いと)わしめしも、後に些かもって飾りとなすなり」などとある。ところが、『日本書紀』履中天皇元年四月条や『肥前国風土記』などから後の海人集団は海産物の貢納や航海技術によって朝廷に奉仕し、安曇氏らに率いられていたことがわかる。さらに、広開土王碑文や『筑前国風土記』などから、四世紀後半以降、朝鮮半島との関係において、新羅侵攻などに組織的に参加するようになったことがうかがえる。

このような組織的な海人集団が考古学的な調査成果と関係づけられる例として、袴狭遺跡群出土の線刻画のほか、岐阜県大垣市の荒尾南遺跡から発掘された三世紀ごろの祭祀壺(高さ一七センチメートル)の線刻画がある。大型船に八十二本の櫂が並ぶ場面が描写されている。そこには組織的に体系づけられた漕ぎ手の存在が想定される。『日本書紀』の応神天皇二十二年条と仁徳天皇即位前紀に「淡路の(御原の)海人八十(人)」の水手(かこ)が登場し、森浩一氏は両者の符合に注目される。また、海人集団を支配し、後に「海人部伴造」となった安曇氏の発祥地は、今の福岡県糟屋郡新宮町とされるが、歴史上に現れるのは、『日本書紀』応神天皇三年条である。安曇氏が主な拠点とした安曇江荘、新羅江荘は、難波津を囲む現在の大阪市域に比定され、後述のヒボコと難波との関係につながる可能性もある。

ヒボコ伝説の日本古代史上への位置づけについては、塚口義信氏の「天之日矛伝説と〝河内新政権〟の成立」をはじめとして、すでに多くの優れた論考が発表されている。塚口氏は、ヒボコ伝説を「矛を日神(太陽神)信仰に関わる宗教祭儀の呪具とする集団が朝鮮半島から日本へ、長期間、継続的に渡来した伝承をのちに一つに収斂したのでは」と推察される。さらに「〝河内大王家〟が成立時に日矛系の鎮魂儀礼を受容したのは日矛系の一族が応神天皇の母系親族であったことに基因する」と積極的に持論を展開されている。

『古事記』は、ヒボコの妻が小舟に乗って着いた難波で、阿加流比売命として「比(ひ)売(め)碁(ご)曾(そ)の社」に祀られるとする(ただし、その祭神は、『延喜式』では『記』が大国主命の娘とする下照比売と思われる)。一方の『日本書紀』は、「比売語曽社」をヒボコとは関係なく、大加羅(大伽耶)の王子・都(つ)怒(ぬ)我(が)阿(あ)羅(ら)斯(し)等(と)の伝承として登場させる。阿羅斯等の元を去った女は豊後国国東郡(姫島)の比売語曽社と難波の比売語曽社の二か所で神となり、祀られる。ここにもヒボコ、あるいは彼に象徴される朝鮮半島と日本列島の間を往来した集団が、長期間、継続的に渡来した伝承が幾重にも重層している様相がうかがえる。『古事記』が記紀神話の中では異質なヒボコ伝説を重視する背景には、その子孫の一人(タジマモリの姪)に応神天皇を産んだ神功皇后の母である葛城之高額比売がおり、応神に渡来系の血が流れていることを明示するためと見る研究者もいる。

四、考古学的な視点
ヒボコが将来した神宝の種類は、『古事記』と『日本書紀』で少し異なる。『紀』に目立つのは、「出石の小刀」や「出石の矛」などの鉄製品だ。小刀・刀子は、森浩一氏によると異性から贈られる呪的な力を凝集した特別な製品であり、古墳に副葬される刀子にも、そういう神秘性が込められているという。しかも、刀子を神秘的に扱う例は元来、新羅や加羅の古墳に特徴的に見られるそうだ。刀子や矛などの鉄製品の神秘性は、さらに突き詰めれば鉄器文化への憧憬につながるではないか。そんな鉄器文化を裏付ける発掘成果が、袴狭遺跡群とは出石神社を挟んで南側に位置する入(いる)佐(さ)山(やま)3号墳(四世紀後半)で確認された。

様々な鉄製品とともに古墳の副葬品としては他に例のない「砂鉄」が出土したのだ。
大型方墳(長辺三六メートル、短辺二三メートル)の3号墳や前方後円墳(墳丘長四五メートル)の1号墳から構成される入佐山古墳群は、町中心部を西方眼下に見下ろす、通称入佐山の丘陵尾根上に営まれている。うち、問題の3号墳は、墓壙内に長さ四・八メートルの木棺を組んでいた。その棺内から破砕副葬された後漢の「君宜高官」銘の方銘四獣鏡、国産の四獣鏡、鉄剣、鉄鏃、鉄斧、直刀などとともに被葬者の頭部に約一五〇グラムの砂鉄が納められていた。二〇〇九年夏、古代鍛冶研究者の科学分析で、この砂鉄が「不純物の少ない高品質の浜砂鉄で、採取地は日本海沿岸地域が有力」というデータが示された。
砂鉄を原料とする製鉄の日本列島における確実な起源は、現在、六世紀前半までしか溯れない。しかし、近年、広島県三原市の小(こ)丸(まる)遺跡などで三世紀から四世紀に製鉄遺跡が存在しえたという報告が出されている。さらに三世紀以降の急激な鉄器の普及をめぐって、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたとする通説では説明しきれないケースもある。但馬に隣接する丹後の遠(えん)所(じょ)遺跡(京都府京丹後市、六世紀後半)ですでに、多数の製鉄・鍛冶炉から構成される〝コンビナート〟が存在したことから、入佐山3号墳の四世紀後半から五世紀代には製鉄が始まっていたとの見方も有力だ。これらの製鉄技術を朝鮮半島からもたらす役割の主要な部分を担ったのもヒボコを始祖とする集団ではなかったか。

鉄器文化を象徴する矛を宗教祭儀の呪具として共有する集団によって形成されたヒボコの渡来伝承をめぐっては黛弘道氏以来、西日本に分布する兵(ひょう)主(ず)(穴師(あなし))神社に結びつける見方もある。兵主神は中国・山東半島地方の神で、金属兵器製作集団の武神「蚩(し)尤(ゆう)」の神格にもつながり、辰韓の鉄で造られた矛「ヒボコ」に象徴される新羅からの技術集団が渡来した際、ともにもたらされたのではないかという。彼らは辰韓を経由した楽浪・帯方郡の遺民だったゆえに、山東地方の兵主神や「蚩尤」の信仰にも通じていたのではないかという解釈だ。確かに、但馬地方に兵主神社が多い事実は、ヒボコと兵主神とのつながりをうかがわせる。そんな但馬の中心部ともみられる袴狭遺跡群の地で、ヒボコの渡来伝承は古代においても語り継がれ、また、兵主神を祀る祭儀のようなものもその地で執行され続けたとは考えられないだろうか。十五隻の船団の装飾板は、そんな集まりの席で絵巻物のように開示され、集団の遠い記憶として確認し合うのに用いられたのかもしれない。

五、終わりに
このような海人集団的な社会で語り継がれたであろう神話(祖先伝承)が考古学の発掘成果と結びつく例として、二〇〇八年に和歌山市・岩(いわ)橋(せ)千(せん)塚(づか)古墳群の大(だい)日(にち)山(やま)35号墳(六世紀前半)出土の武具埴輪「胡(こ)?(ろく)」と紀氏集団のケースを最後に見ておきたい。

この武具は馬に乗った武人がウエストポーチのように腰に装着する短弓用の矢入れで、朝鮮半島から伝わった。埴輪としての出土は全国初である。岩橋千塚古墳群は、海人集団を配下に持つ地元・紀氏集団の首長層の墓域とされ、『日本書紀』の雄略天皇九年三月条には、新羅討伐の大将軍の一人として「紀小弓宿禰」が登場する。この「小弓」という特徴的な名前は、紀氏集団が海人を通じて朝鮮半島からいち早く導入した騎馬用の短弓や胡?を象徴するものではないかとみられる。紀氏集団にとって西暦五〇〇年前後に活躍した紀小弓宿禰は、その後も長く語り継がれるべき、始祖的な英雄であったのはないか。

岩橋千塚古墳群の西方、和歌山市内の中心部寄りに鎮座する日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮は、この紀氏集団が祖神をまつるなど、奉祀していたとされる。『日本書紀』神代上第七段の一書に、スサノオの暴行に怒って天石窟に隠れたアマテラスを招き出すため、石凝姥(いしこりどめ)を工(たくみ)として天(あまの)香(かぐ)山(やま)の金(かね)で日矛を造らせるが、これが「紀伊国の日前神」であるという。ここにも、ヒボコと海人集団、それに朝鮮半島という三者の積極的なつながりがうかがえる。

丹後は、奈良時代に丹波から分割され、それ以前の丹後半島を含む広大な丹波は、木簡や『記紀』などの古い表記から「旦波」だったことがわかる。但馬の「但」もにんべんを取れば「旦」であり、かつての北近畿は、東方の「コシの国」に対し、「タンの国」だった可能性もあるという。海部集団は、中央のヤマト王権をはじめ、紀氏集団やタンの集団にも密接なつながりを持っていたと考えていいのではないか。

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