会下山遺跡を訪ねる
つどい270 松本 淳
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2010年 5月22日(土) 10:00 阪急芦屋川駅
芦屋川に沿って登る。ロックガーデンへの道をさらに20分 まず 元三条小学校の校舎を利用した埋蔵文化財整理作業所で 会下山遺跡で発掘された品々を見学した。
所狭しと 甕・高杯・壷・鉢などの土器、戦闘と狩猟に使われた石鏃が積み上げられている中に 漢式三翼鏃という当時の舶来新式武器があった。これが関係者を驚かせる第一の発見であった。
弥生時代の高地性集落からは 大乱の巷を逃れた避難民の姿を考えていたが、これは高度な軍事能力を持った戦闘的集団の集まりと改めなければならない。
遺跡への登り口はこの裏から始まる。この看板が目印だ。柵で囲ってあるが押せば扉は開く。
胸突きの坂道を登ること10分、住居跡と囲った台地につく。写真の正面が登ってきたところ、C住居跡。手前がE住居跡とある。
ここで一息入れながら ご案内の森岡 秀人先生からの解説を聞く。
E住居跡空少し上に F住居跡とあり ここが首領(リーダー)の館と推定されている。
敷地がすこし広くて 他の住居が見渡せる。
阪神間が広く見渡せる台地に立った。泉南の海、生駒のやまなみ、樹を払えば西は淡路島まで見晴らせる。
S地区祭祀場跡とされている。
当時ならもっと遠方まで目が届くだろうか、旗を振ったり 煙火を焚いたりしてどんな情報を交換していたのだろうかと想像する。
また瀬戸内海両岸の高地に点在する部族たちとも 意外に早いスピードで 意思と情報を伝達していたのではあるまいか。
このポイントを北から見たら 広場といえる大きさではない。
鉄鍛冶で焼けた土の層がある。米食をしていたという説もある。蛸壷も見つかった。
水を東の高座川から運び、田畑を麓に確保し、海岸まで魚介の収穫にでかける、そして 標高200mの地点に住いを持つ必然性は何だったのか、そして 100年あまりの後に邪馬台国の時代につながっていくのである。
倉庫跡に復元した建物。
倉庫跡の東に 土器などが半ば埋まった形で 触覚でも楽しめる模型の公園を拵えているが、いくつも叩き割られていた。
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