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スサノオの神話―八岐大蛇と草薙剣―

つどい267号
皇學館大学史料編纂所教授 荊木 美行(いばらきよしゆき)先生

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■スサノオの神話―八岐大蛇と草薙剣―

皇學館大学史料編纂所教授 荊木 美行(いばらきよしゆき)

日本神話とはなにか
 ただいまご紹介にあずかりました荊木です。久しぶりに豊中歴史同好会の皆様がたの前でお話しできることをうれしく存じます。
 ここで取り上げているスサノオノミコト((1))は、日本神話に登場する有名な神ですが、スサノオノミコトの話にはいるまえに、日本神話のあらましについてお話ししておきたいと思います。
 わたくしたちが日本神話という場合、まず頭に思いうかべるのは、『古事記』や『日本書紀』のそれです。
 周知のように、『古事記』では上巻を神代とし、『日本書紀』では巻一・二をそれにあてて、神々の物語をしるしています。『古事記』と『日本書紀』では、登場する神々や神話の展開に異なるところがあります。しかし、天地の創成から説き起こし、イザナギ・イザナミ二神による国生み、アマテラスオオミカミの誕生、オオクニヌシノミコトの国譲りを経て、ホノニニギノミコトの降臨、ヒコホホデミノミコト(神武天皇)の生誕、と展開する話の大筋は一致しています。
 記紀神話は、時間的な経過を追って話が展開され、ストーリー性をもっているのが、大きな特色です。記紀の神話が「歴史神話」「古史神話」と呼ばれる理由も、そこにあります。しかも、記紀に登場する神々は、系譜上、神武天皇の祖先ですから、その意味で、この物語は、天皇が日本を統治することの正統性を語った、きわめて政治的色彩の濃い神話であるといえるのです。
 記紀神話の成立は古く、その原型となる旧辞はすでに六世紀後半にはまとめられていたようですが、『日本書紀』が本文につづけて引用する「一書に曰はく」のような、別系統の所伝が、はやくから存在しました。
 いったい、神話や伝承は、長い年月を経るあいだに、新しい要素が加えられたり、語り継ぐものによって、改変されていく性格のものです。ですから、異なる、複数の神話が存在するのは、むしろ、当然のことです。『日本書紀』の編者が多くの異説を掲げているのは、古伝を尊重する、編者の学問的な態度のあらわれだといえます。追ってお話しすることですが、この異説の存在が、神話がどのようにして形成されていったのかを探る、大きな手がかりとなります。

八俣の大蛇退治伝承
 記紀によれば、高天原を追放されたスサノオノミコトは根の国に向かいますが、天から出雲の地に降り立ちます。ここから、一転して舞台が出雲に移るので、以後の八俣の大蛇退治やオオクニヌシノミコトの物語を「出雲神話」と呼ぶことがあります。
まず、『日本書紀』巻第一、神代上、第八段の本文によって、その内容を確認しておきます((2))。 さて、素戔嗚(スサノオ)尊は、天から出雲国の斐伊川の川上に降り着かれた。そのとき、川上で泣き声が聞こえた。そこで、声のするほうをたずね探していくと、一組の老夫婦がいて、あいだに一人の少女を坐らせて撫(な)でながら哭いていた。素戔嗚尊が、「おまえたちは誰か。どうしてこのように泣いているのか」とたずねると、「わたくしは国神(くにつかみ)で脚摩乳(アシナヅチ)といい、わが妻は手摩乳(テナヅチ)といいます。この娘は、わたくしたちの子で奇稲田姫(クシイナダヒメ)といいます。泣いているのは、これまで私たちには八人の娘がいましたが、年毎に八岐大蛇(やまたのおろち)に呑まれてしまいました。いままた、この娘が呑まれようとしていますが、逃れる術もありません。それで、悲しんでいるのです」と申し上げた。素戔嗚尊が、「もしそういうことならば、おまえは、娘をわたくしに献上しないか」と仰せられた。〔脚摩乳は〕「仰せのとおりに献上します」と答えた。そこで、素戔嗚尊は、ただちに奇稲田姫を湯津爪櫛(ゆつまくし)に変身させ、御髻(みずら)にお挿しになった。そして、脚摩乳・手摩乳に幾度も繰り返し醸した酒を作らせ、棚を八間作らせ、それぞれ一つづつ酒桶を置いて、酒を満たして待っておられた。時がきて、はたせるかな大蛇(おろち)が現れた。頭と尾はそれぞれ八つあり、眼は赤い酸漿(ほおずき)のようであった。松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷のあいだに這いわたる((3))〔ほどの大きさである〕。酒を飲もうとして、頭を一つづつの酒桶に入れて飲み、酔って眠ってしまった。そこで、素戔嗚尊は帯びていた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、ずたずたにその蛇をお斬りになった。尾を斬ったとき、剣の刃が少し缺(か)けた。そこで、その尾を割いてみてみると、なかに一つの剣があった。これが、いわゆる草薙剣(くさなぎのつるぎ)である〈一書によると、もとの名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という。きっと、大蛇がいるうえに、つねに雲の気配があったため、〔このように〕名づけたのであろう。日本武皇子(ヤマトタケルノミコト)のころになり、名を改めて草(くさ)薙(なぎの)剣(つるぎ)というようになったという〉。素戔嗚尊は、「これは神々しい剣である。わたくしがどうして自分のもとに置いておけようか」と仰せられて、天神(あまつかみ)に献上された。
そうした後に、進みながら結婚の地を探して、出雲の清地(すが)に辿り着かれた。そして、「わたくしの心は清々(すがすが)しい」と仰せられた〈これによって、いまこの地を清(すが)というのだ〉。そこに宮を建てた。ある本にはこうある。そのとき素戔嗚尊は歌を詠んで、
八雲立(やくもた)つ 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 妻ごめに 八重垣(やえがき)作る(つくる) その八重垣(やえがき)ゑ(雲が立ち昇る出雲に幾重もの垣根を、妻を篭らせるために幾重もの垣根を作る。幾重もの垣根よ)と仰せられた。そして夫婦の交わりをして、子の大己貴(オオアナムチ)神を生んだ。そこで、「わが子の宮の長官は、脚摩乳と手摩乳である」と仰せられた。それで、二柱の神に名を授けられ、稲田宮主(イナダノミヤヌシ)神という。こうして、素戔嗚尊は、とうとう根国(ねのくに)へ向かうこととなった。
 以上が、『日本書紀』本文の記載ですが、『古事記』のほうにもこれとよく似た話が載せられていますが、重複が多いので、ここでは省略します。
なお、『古事記』では、大蛇退治のあとに、スサノオノミコトの系譜が長々と続きますが、これは大蛇退治の話には直接関係がないので、これも紹介は控えます。ただ、この系譜のなかで、オオクニヌシノミコトがスサノオノミコトの六世孫としるされていることは重要です。『日本書紀』本文では、オオクニヌシノミコト(オオアナムチノミコト)は、スサノオノミコトとクシイナダヒメのあいだに生まれた子ということになっており、さらに、あとで紹介する一書(一)では五世孫、一書(二)では『古事記』と同じく六世孫としるされています。このように、二人の続柄は本によってまちまちですが、オオクニヌシノミコトにとってスサノオノミコトが祖神であることは、スサノオノミコトの性格を把握するうえで重要な要素です(後述参照)。
神代紀の一書
 さて、『日本書紀』本文を『古事記』と比較すると、細部では異なる点があるものの、両者はひじょうによく似ています。すなわち、高天原から出雲の斐伊川の川上に辿り着いたスサノオノミコトは、アシナヅチ・テナヅチと遭遇し、その娘クシイナダヒメを救うために大蛇を退治します。そうして、大蛇を斬ったときその尾から得た草薙剣をアマテラスオオミカミに献上し、やがて、出雲の清(須賀)に住まいをかまえ、クシイナダヒメと結婚するのですが、こうした筋立ては記紀ともにほぼおなじです。このとき、スサノオノミコトが詠んだ「八雲立(やくもた)つ 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 妻(つま)ごめに 八重垣(やえがき)作(つく)る その八重垣(やえがき)ゑ」という有名な歌謡は、『古事記』にも出てきます。
 『古事記』や『日本書紀』本文の伝える物語は、スサノオノミコトによる八俣の大蛇退治伝承の、完成されたかたちとみることが可能ですが、この話ははじめからこのような整った物語ではなかったと考えられています。なぜなら、『日本書紀』のこの段が引く一書には、いささか異なる伝承が記載されているからです。
そこで、それら異伝について検討したいと思いますが、そのまえに『日本書紀』の一書とはなにか、詳しく説明しておきます。
 『日本書紀』が本文につづけて引用する一書は、さきにも書いたとおり、別系統の所伝です。『日本書紀』神代上下は十一段から構成され、巻第一は、天地開闢から出雲神話までを扱った第一~八段を、巻第二は、葦原中国の平定・天孫降臨から神武天皇の誕生までを扱った第九~十一段を、それぞれ収録しています。いま、段落ごとに、そこに引かれる一書の数を示すと、第一段が六、第二段が二、第三段が一、第四段が十、第五段十一、第六段三、第七段三、第八段六、第九段八、第十段四、第十一段四、となります。少ないところでは一つだけですが、多いところでは十一も引用されていますが、『日本書紀』が編纂されたころには、ずいぶんたくさんあったのでしょう。こうした異伝を原文に忠実に引用してくれていることは、伝承の成立過程をうかがううえで貴重です。なぜなら、異なる所伝を比較することによって、話が整えられていくプロセスがある程度わかるからです。
ちなみに、一書は、もとは本文に対する註であったと考えられています。つまり、『日本書紀』が出来た当時は、巻第三以降の註と同様、二行に小書されていたのです。現存する四天王寺本『日本書紀』や三嶋本『日本書紀』がこれを割註のかたちに作るのは、古体を伝えたものです。しかし、いつのころからか、本文と同じ大きさの字で一字下げの体裁で写すことが一般化し、卜部系『日本書紀』の写本は、すべてこの体裁をとっています。
ついでにのべておきますと、『日本書紀』の本文は、同書の編纂の際に、一書の記載を総合して、あらたにまとめられたもので、一書と同列に論ずべきものではありません。この点については、西川順土「日本書紀巻一巻二の「云云」の用例をめぐって」(『皇学館大学紀要』九輯、昭和四十六年、のち西川氏『記紀・神道論攷』〈皇學館大学出版部、平成二十一年三月〉所収)に詳しい考察がありますから、いちどご覧ください。

 『日本書紀』の異伝
 さて、以上のことを念頭において、大蛇退治に関する一書の記載をみていきましょう。
 『日本書紀』のこの段には、六つの所伝が掲げられています。このうち、一書(五)は、スサノオノミコトの身体から船や宮殿などを造る木材が生じたことをのべる独自の内容で、一書(一)~(四)とはいささか異なっています。また、一書(六)は、『古事記』のオオクニヌシノミコトとスクナヒコノミコトの話に近いもので、便宜的にこの段に掲げられていますが、そこには大蛇退治の話はありません。そこで、ひとまずこれらは除くとして、残る四つの所伝について分析したいのですが、その内容にはかなりの出入りがあります。たとえば、一書(二)は、
このとき、素戔嗚(スサノオ)尊は、安藝国の可愛之川(えのかわ)の川上に降り着かれた。そこには神がいた。名を脚摩手摩(アシナヅテナヅ)といい、その妻の名を稲田宮主簀狭之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)という。この神は身籠っていたが、夫婦ともに心配そうで、素戔嗚尊に、「わたくしたちが生んだ子は多いのですが、生むたびに八岐大蛇(やまたのおろち)がやってきて呑んでしまい、一人も生き残っていません。いまわたくしたちは生もうとしていますが、おそらくはまた〔八岐大蛇に〕呑まれてしまうでしょう。それで悲しんでいるのです」と申し上げた。素戔嗚尊はそこで教えて、「おまえたちは多くの果実を使って
酒を甕(かめ)八つ分醸(かも)しなさい。〔それを使って〕わたくしが、おまえたちのために蛇を殺そう」と仰せられた。二神は、教えにしたがって酒を用意した。出産のときになって、はたせるかな大蛇が戸口にあらわれ、子を呑もうとした。素戔嗚尊は蛇(おろち)に勅して、「あなたは畏れ多い神です。饗応しないわけにはまいりません」と仰せられて、八つの甕の酒を口ごとに注がれた。その蛇は、酒を飲んで眠ってしまった。素戔嗚尊は、剣を抜いてお斬りになった。尾を斬るとき、剣の刃が少し缺(か)けた。切り裂いてみてみると、剣が尾のなかにあった。これを草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。これは今、尾張国の吾湯市村(あゆ
ちのむら)にある。すなわち熱田祝部(あつたのはふり)が奉斎している神が、これである。その大蛇を斬った剣を蛇之麁正(おろちのあらまさ)という。これは今石上(いそのかみ)にある。この後、稲田宮主簀狭之八箇耳が生んだ子の真髪触奇稲田媛(マカミフルクシイナダヒメ)を、出雲国の簸之川(ひのかわ)の川上に移し住まわせて養育した。その後、素戔嗚尊が〔この奇稲田媛を〕妃とし、お生みになった子の六世孫を大己貴(オオアナムチ)命という。
 というものです。つづく一書(三)は、一書(二)にくらべると簡略ですが、それでも、スサノオノミコトが計略を巡らしてクシイナダヒメを救済する話の展開は一致しています。ただ、最初にあげた『日本書紀』本文や『古事記』の記事と比較すると、(二)・(三)ともに草薙剣の奉献のことや「八雲立つ……」の歌謡の要素が欠けていますし、(三)に至っては、スサノオノミコトが降臨した場所や清(須賀)での造宮の話も出てきません((二)は、降臨地をしるしてはいますが、「安藝国の可愛之川」とあって、他とは異なりますし、クシイナダヒメが住んだ場所も清ではなく、「簸之川の川上」となっています)。こうしたところから、草薙剣の奉献や歌謡といった要素は、はじめからスサノオノミコトの大蛇退治の物語に備わっていたわけではないことが判断するのです。
なお、これとはぎゃくに、一書(四)のように、草薙剣の奉献の話はあるものの、クシイナダヒメの救出という大蛇退治の大前提が欠落している所伝もあります。ただし、この所伝は、スサノオノミコトが、子のイタケルノカミを率いて新羅国(しらきのくに)に降り着き、曾尸茂梨(そしもり)という場所に降臨した話が中心であり、大蛇退治にはいちおう言及するものの、やはり、一書(一)~(三)とは趣きの異なる一書です。

神話の源流をもとめて
 ところで、この物語の成立を考えるうえで、もっとも重要なのは、一書のなかでいちばん短い一書(一)です。内容は、つぎのようなものです。
素戔嗚(スサノオ)尊は天から出雲の斐伊川の川上に降り着かれた。そこで、稲田宮主簀狭之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)の娘の稲田姫(イナダヒメ)と申すかたを見初められ、寝所で婚姻をして生んだ子を清(すが)の湯山主三名狭漏彦八嶋篠(ユヤマヌシミナサルヒコヤシマシノ)という。ある本によれば、清(すが)の繋名坂軽彦八嶋手(ユイナサカカルヒコヤシマデ)命という。また別な本には、清(すが)の湯山主三名狭漏彦八嶋野(ユヤマヌシミナサルヒコヤシマシノ)という。この神の五世孫が大国主(オオクニヌシ)神である。

 一見すると、大蛇退治の物語の断片とも受け取れますが、じつは、この所伝が、もっともはやい段階における、スサノオノミコトとクシイナダヒメの物語だったと考えられます。
こう書くと、意外に思われるかたもいらっしゃるでしょう。なにしろ、大蛇退治の要素は、この物語のヤマ場なのですから、それを欠いた右の所伝は物語の体をなしていません。しかし、三品彰英先生などは、一書(一)を「最も初期的な原型」とみておられるのです(「出雲神話異伝考」『三品彰英論文集』〈平凡社、昭和四十六年二月〉所収、二一~二五頁)。三品先生がそのようにお考えになるのは、在地の古伝承をひろく集めた『出雲国風土記』には、スサノオノミコト奉祀の伝承はあるものの、大蛇退治の物語はその片鱗すら見当たらないからです。先生は、大蛇退治の要素が記紀的所伝(・・・・・)であって、現地に密着した風土記的な物語ではないという史料的事実に注目し、一書(一)がスサノオノミコト伝説の「基本的形相」だと判断されたのです。
 なるほど、はやくから内外の神話学者が指摘されているように、スサノオノミコトによる大蛇退治の物語は、ギリシア神話のペルセウス・アンドロメダ型神話の類型に属するもので、外来の伝承が日本に持ち込まれたものだと考えられます。この物語は、ギリシア神話の英雄神ペルセウスが、海の怪獣の人身御供とされたエチオピアの王女アンドロメダを救う話ですが、類話は、東は日本から、西は西アフリカのセネガンヴィア、ヨーロッパのスカンジナヴィア・スコットランドにまで広い範囲に分布しています。
日本周辺では、中国中南部や東南アジアに伝わる話が、記紀の大蛇退治のストーリーと酷似しています。しかも、この地域では怪獣を退治する武器は、金属器、ことに鉄剣となっているところから、ペルセウス・アンドロメダ型神話の流伝は、鉄器文化の波及とかかわりのあることが想定されます。大林太良先生は、紀元前一千年紀ごろ、何回にもわたる西から東への大きな文化の流れによって、東アジア・東南アジアに伝えられ、日本にもややおくれて中国の江南地方から伝えられた、と考えておられます。また、大蛇退治の神剣が「蛇韓鋤剣」(一書(三)参照)とも呼ばれていたことから、あるいは江南から朝鮮半島南部を経由して伝えられたのかも知れない、とも推測しておられます(『日本神話の起源』〈徳間書店、平成二年二月〉一八二頁)。
 このように、大蛇退治伝承が外来の要素だとすると、それが備わらない一書(一)のようなかたちがプロトタイプだったとする説は、説得力があります。三品先生がいわれるように、スサノオノミコトは斐伊川の水霊・地霊的神性であり、それを在地の農耕儀礼の実修者である巫女クシイナダヒメが、神妻として奉祀していたのでしょう。こうした素朴な儀礼神話が、この話の原型なのです。
スサノオノミコトの正体
 そもそも、記紀では、スサノオノミコトは、荒ぶる神として、ずいぶん派手に活躍しますが、『出雲国風土記』では、そうした面影はまったくといっていいほど見当りません。しかも、スサノオノミコト自身は、地名の由来を説く話のなかでわずか四箇所ほど登場するだけで、あとはその御子のことがみえているのです。
 『出雲国風土記』で最高神として描かれるオオクニヌシノミコト(オオアナムチノミコト)が、『日本書紀』本文ではスサノオノミコトの子としるされていることはさきにもふれましたが、『出雲国風土記』では、ほかにスサノオノミコトの御子には、青幡佐久佐日古命(意宇郡大草郷)・都留支日子命(島根郡山口郷)・国忍別命(同郡方結郷)・磐坂日子命(秋鹿郡恵曇郷)・衝矛等乎与留比古命(同郡多々郷)・八野若日女命(神門郡八野郷)・和加須世理比売命(同郡滑狭郷)がいます。これらの神々は、いずれも、各地を国めぐりして、そこに宮居しており、この点から判断すると、風土記のスサノオノミコトは祖神的な存在でしかないのですが、これが本来のスサノオノミコトの姿なのだと思います。
 なお、こんにちに至るまで出雲地方でおこなわれている神代神楽には、大蛇退治をモチーフにしたものがあり、これをみると、出雲にも大蛇退治伝承があったかのようにみえます。しかしながら、神代神楽は、むしろ記紀神話にその題材をもとめているケースが多く、そうした神楽の内容から、出雲にもそうした伝承が伝えられていたとはいえないと思います。

風土記の重要性
 以上、スサノオノミコトの大蛇退治に関する記紀の所伝を比較しながら、この物語を成立過程について考えてきました。
 これをみれば、出雲神話を考えるには風土記の存在が、いかに重要かがおわかりでしょう。記紀とほぼ同時期に、神話の舞台である出雲地方で集められた伝承が残っていることは、記紀神話を研究するうえで貴重です。『出雲国風土記』には土地の神々のことが記録されていますが、そこには、地方固有の神とその信仰が素朴なかたちであらわれている場合が多く、そうした記述が、神の本質や伝承の原型を考えるうえで重要な鍵となります。これこそが、風土記の持ち味なのです。すでに、多くの神話学者が実践していることではありますが、そうした在地の伝承をも視野にいれて研究を進めていくことが、ほんとうの意味で日本神話の解明につながるのです。
 なお、ここで取り上げたスサノオノミコトの神話については、ほかにも検討すべき点が多々ありますが、それらについてはべつの機会に譲ります。ただ、草薙剣の問題については、べつに考えたことがありますから(拙稿「『尾張国熱田太神宮縁記』と『尾張国風土記』逸文」拙著『風土記研究の諸問題』〈国書刊行会、平成二十一年三月〉所収)、そちらを参照していただければ、幸いです。ご清聴、ありがとうございました。

【補註】
(1)神名については、複数の表記があるので、原則としてカタカナでしるしています。以下も、おなじです。
(2)以下の現代語訳では、『日本書紀』では、小島憲之他校注・訳新編日本古典文学全集2『日本書紀』(小学館、平成六年四月)の掲げる原文・読み下し文をテキストにして、同書の現代語訳などを参考に、筆者が訳したものです。
(3)こうした描写が根拠になって、八つの頭と尾をもつヤマタノオロチについては、多くの渓谷渓流を擁する斐伊川をモチーフにしたものであるという説が生まれています。赤い眼や血がにじんだ腹は、上流域が鉄の産地で川の水が赤く濁ってみえるさまをモデルにしているという解釈です。ただ、斐伊川説以外にも、中国山地の山並みをモデルにしたものであるとか、『古事記』がヤマタノオロチのことを「高志(こし)の八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)」としるすことから、越の豪族が出雲に攻めてくる様子をモチーフにしているとか、いろいろな解釈があります。

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