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高取町市尾から御所へ

2010年4月24日(土) 
コース
  9時20分 近鉄阿倍野発吉野行き急行に乗車
10時10分  近鉄市尾駅
近鉄市尾駅→市尾墓山古墳→市尾宮塚古墳→(今住)→掖上鑵子塚古墳→日本武尊白鳥陵→孝安天皇玉手丘上陵→吉祥草寺→ 近鉄御所駅

中司照世先生 (前福井県埋蔵文化財調査センター所長)
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■4月24日(土) 現地見学 高取町市尾から玉手へ  (会員) 野村 武司

 暑い日は真夏日に、一日か二日続けば今度は一転して真冬の日々に引き戻されると云う異常気象に悩まされたこの頃だったが、今日はやや冷たいながら良い一日となりそうな予感がする。
近鉄阿倍野橋駅発9時20分吉野行急行に乗車、吉野に程近い市尾(無人)駅に下車。本日の参加者は中司先生を含めて26名。県道120号線五條高取線から北に見える小高い丘、墓山古墳に向かう。.

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                                  近鉄吉野線市尾駅

市尾駅から北に10分くらい歩くと市尾墓山古墳見えてきたIchio009s

■市尾墓山古墳

『日本古墳大辞典』によると「前方後円墳。段丘平坦面に立地し、前方部を北西に向けている。1978年(昭和43年)高取町教育委員会及び橿原考古学研究所によって発掘調査されている。
全長66メートル、後円部径39メートル、前方部幅49メートル、高さ10メートルを測る。墳丘は二段築成(追記:後述のように実際は三段築成)で、左右のくびれ部に造出しを有する。幅約8メートルの堀が巡り、前方部正面から北東部くびれ部にかけて外堤が残る。外堤は本来、墳丘を一巡していたものと考えられ、前方部正面で幅十二メートル、高さ三メートル程を測る。葺石と埴輪があり、外堀内等から円筒・朝顔形円筒・盾形埴輪、きぬがさ形木製品、須恵器有蓋台付子持壺が出土している。内部構造は後円部に営まれた片袖型横穴式石室で南西に開口する。玄室奥壁寄りに凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されていた。石室は9.45メートル、玄室の長さ5.87メートル、幅2.45~2.60メートル、高さ2.90~3.00メートル、羨道の幅1.70~1.82メートル、高さ1.62~1.90メートルを測り、奥壁にも床面から0.8メートルの位置に長さ2.20メートル、幅1.9~2.10メートル、高さ1.90~2.05メートルの羨道が付設されている。
奥壁の羨道は石棺蓋石の搬入用と推定されている。石室内のほぼ全面に赤色顔料の塗布されていたことが確認されている。
石棺は蓋が長さ2.71メートル、幅1.33メートル、高さ0.49メートル、身が長さ2.61メートル、幅1.20~1.27メートル、高さ0.90メートルで、蓋の左右両側には各2個の縄掛突起があり、一方の端面には線刻が認められる。石棺内部は石室内と同様に赤色顔料が塗られていた」(以降の古墳についても、説明のうち「」内は『日本古墳大辞典』から引用)
現況では一見二段としか見えないが、現在見える地表面を掘り下げれば、基段部分約1.6メートルが埋没されているらしい。したがって立派な三段築成である。この古墳は小さいが周濠を有し、格式ある形に造られている。副葬品の種類、数も多く、被葬者は大王に準ずる勢力を持った豪族、首長であったと考えられる。天皇に后・妃を捧げ軍事、経済に亘り惜しみなく支援を行ったので信頼され天皇家に準じて三段築成の許しを受けたかもしれない。築造時期は出土品からみて6世紀中葉に近いとのこと。
これらの事を考えると、継体天皇即位の年に大臣に任命され、安閑天皇に娘紗手姫(さてひめ)、香香有姫(かかりひめ)を妃として奉り、死亡記事が継体天皇23年(529年)に記されている巨勢男人大臣(こせのおひとのおおおみ)が葬られていると考えても良いとの説明であった。

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実際は三段築成で(下層段1.5M程度)は周濠部に隠れていると説明される中司照世先生
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中司先生によると三段築成は天皇家につながる家柄に認められた墓制だという。

『古事記』による巨勢・葛城・波多等の系譜
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記紀皇統譜の比較研究(H22.3.31) 皇學館大學紀要第四十八輯 荊木美行

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被葬者
通説に従えば被葬者は巨勢男人(コセノオヒト)とされる。巨勢男人は二人の娘を安閑天皇に嫁がせ、また物部アラカヒとともに継体天皇を擁立した。『書記』では継体23年9月(532*)没。
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記紀皇統譜の比較研究(H22.3.31) 皇學館大學紀要第四十八輯 荊木美行
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後方部より前円部へ 後方は飛鳥の山並み
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後円部より前方部。後方は葛城・二上山Ichio_079s

田圃道を引き返し、お隣の天満神社境内にある宮塚古墳に向かう。

■宮塚古墳 奈良県高市郡高取町市尾

「丘陵上に立地する前方後円墳。全長約44メートル(1984年の橿考研発掘調査では全長50メートル)。前方部幅23.5メートル、二段築成の墳丘の後円部には横穴式石室が開口している。玄室内には比較的古い刳抜式家形石棺があり、東北方約250メートルの地点に立地する全長66メートルの市尾墓山古墳とは共通する特徴を持っている。おそらく宮塚、墓山古墳は同一系譜につらなる首長墓であったとみられ、六世紀前半期の前方後円墳の好例(追記:出土品からみると六世紀中葉とする方が良いらしい)。1981年(昭和56年)国指定史跡となる」
被葬者は巨勢男人大臣の子供の巨勢稲持ではないかと推定されるとのこと。

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九州式玄側立柱(袖石)が見られる
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古墳より東側を望む
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県道120号線を吉野方面に少し進み今住方向に転じる。ここから御所市に入る。曽我川の手前で道は三叉に分かれているが、曽我川とJR和歌山線を横断する道はただ一つしかない。道行く人に確かめて進む。県道133号線戸毛久米線を右折、北に向かう。今住では三光丸の本店、工場、倉庫、資料館が並んでいる。最近、大相撲の懸賞を大量に提供しているスポンサーはここだったのだ。特養ホーム国見苑を過ぎて左折、やや北西に進む。所々をガードレールで保護された田圃道を歩く。列がやや長くなっても誰かが待っていてサポートしている。

魔よけ
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市尾の屋並を抜け
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蘇我川を渡る
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今住の屋並
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■掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳 奈良県御所市柏原

「前方後円墳。丘陵端部を切断(丘尾切断式)して築かれ、前方部を南西に向け、全長約150メートル、前方部幅90メートル、後円部径約100メートルを測る。周堀があり、墳丘には葺石のほか円筒埴輪が存在し、水鳥形埴輪をはじめとして多くの形象埴輪が出土している。埋葬施設は前方部に存在が推定されるほか、後円部に竪穴式石室があり、長持形石棺が置かれているという。また盗掘にあっているが、記録によると金銅製?帯金具・鉄地金銅張挂甲小札・小型垂飾金具・琴柱形石製品が出土している。五世紀後半の築造と思われる」
三段築成で、江戸時代には孝安陵、武内宿禰墓、日本武尊陵とさまざまな説が流れていたそうだ。現在の説は、塚口先生は玉手の近くに「玉田」という字名が残っていることから、被葬者は允恭五年(注)に殺害された玉田宿禰と推定しておられる。また、御所市教育委員会の藤田先生は出土品から、安康3年(注)に眉輪王をかくまって殺害された円大臣(つぶらのおおおみ)(玉田宿禰の子供)と推定しておられる。
注:倭の五王の遣使年から、ともに5世紀中葉

室宮山古墳に次ぐ(L=150m)
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被葬者は
玉田宿禰 (塚口義信説)つどい249号 p2
円大臣   (藤田和尊説)つどい248号 p6
ちなみに中司先生は円大臣の立場でした
埋葬部には南無阿弥陀仏の石碑が立っていた
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見学を終え農道脇のJA管理地の横で昼食。その後、日本武尊白鳥陵に向かう。一つの峠を越えて南下、市民グランドを過ぎ白鳥陵に近くなる。

■日本武尊琴弾原白鳥陵 奈良県御所市富田

『日本書紀』によると日本武尊は伊勢国能褒野(のぼの)(三重県鈴鹿市西部から亀山市東部にかけての地)で亡くなった。景行天皇は大いに悲しみ、臣下に命じて能褒野陵(三重県亀山市田村町字女ヶ坂)に葬らせたが、尊は白鳥となって大和を目指して飛び去って、陵の中には衣だけが残されていた。使者を遣わせ白鳥を追い求めた処、大和の琴弾原(ことひきがはら)に留まった。
その所に陵を造ると白鳥は再び飛び立ち河内国古市邑に留まる。またその地に陵を造る。時の人はこの三つの陵を日本武尊白鳥陵と言うようになった。しかし(白鳥は)遂に高く翔んで天に上った。
この古市の陵は大阪羽曳野市軽里にあり、全長189メートル、前方部幅160メートルの中型前方後円墳で、白鳥が羽を曳くが如く丘を飛び去った伝説からこの地を羽曳野と云う様になったという。
ここ琴弾原の白鳥陵は、柵と宮内庁の標識があるのみのつつましいものである。、古墳ではなく自然丘陵の可能性が強いらしい。現地の説明板も教育委員会ではなく、御所市による伝説の説明だけであった。
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           日本武尊琴引原白鳥陵
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白鳥陵を出て県道一一六号線大和高田御所線を北上、孝安天皇陵に向かう。御所実業高校と道を隔てて右手に孝安天皇陵がある。

■孝安天皇玉手丘上陵 奈良県御所市玉手

第六代の天皇。事蹟が不明な、いわゆる缺史八代の一人である。ここも自然丘陵を陵としているようであるが、拝所は素晴らしく立派に造ってある。ここで、記念撮影をする。

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          金比羅神社(御陵の南側)

県道116号線を更に北上、玉手に至る。JR和歌山線を過ぎると玉手の信号があり左折、少し歩けば茅原に至る。Ichio_225s
                役小角たらいの森

笠堂前で北に曲がると、山門に役行者誕生所と大書した吉祥草寺が見えてくる。

■吉祥草寺(茅原山、金剛寿院吉祥草寺) 奈良県御所市茅原

大和盆地の南部、西に金剛・葛城の山並みを間近に望む地にあり、修験道の開祖役行者(小角)の出生地とされ、本寺は小角の創建と伝えられ、一角に産湯の井戸が残されている。
葛城山系は若き日の小角の修行の場であり、主峰葛城山(現在の金剛山)は小角が鬼を使って金峯山(大峯山)との間に石橋をかけさせようとした所でもある。後に葛城山系の峰々には法華経が一品(いちぼん)ずつ埋納され(葛城28宿)、葛城修験の舞台となった。その後当寺は役の行者ゆかりの名刹として隆盛を見せ、平安時代の前期には理源大師聖宝が勅を奉じて当寺を再建したが南北朝時代の貞和5年(1394年)、兵火によって悉く灰燼に帰してしまった。現在の堂宇はすべてこれ以降の再建になるが、広い境内地には古い伽藍が立ち並び、古刹としての風格を伝えている。
本堂は兵火後の応永年間(1394~1428年)の再建と云え、外陣の護摩札に寛文5年(1665年)の墨書きが記され、この頃改築されたことが判る。堂内には不動明王を中心とする五大尊が本尊として祀られ、この他薬師如来立像や地蔵菩薩立像といった平安から鎌倉時代の作とされる木彫像を安置している。隣の開山堂には、等身を超える木造の役行者倚像・前後鬼坐像を祀り、これは恐らく本堂が改築された江戸初期の作と考えられる。この役行者像は顎髭がなく、若き日の役小角の姿を写した珍しい像で、同じく堂内に祀る木造役行者母公坐像も、他に遺品の少ない貴重な作例である(吉祥草寺HP抜粋)。

役の行者生誕地とされる茅原(ちはら)に向う

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                                        茅原・吉祥草寺
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■山伏問答・「修験道の開祖は」
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          腰掛石             産湯の井>

御所(ごせ)の町並みを抜け近鉄御所駅まで歩く
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             衝波除石(T字路のつきあたり)
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                    高札場

本日の現地見学はこれで総て無事に終了したが、最後にちょっとしたハプニングが起こる。最初に寺の門を出たグループは一路JR玉手駅に向かう。玉手駅は寺の正面に位置して居るが、御所方面に向かう電車を目にして、次の電車を待つより歩いて御所駅に向かった方が早いと判断した人たちはグループを募り歩行開始。玉手組は駅到着後時刻表確認し御所駅までの歩きを選択。折から御所市では市会議員選の最中で宣伝カーが走り廻り翌日の投票日の最後の追い上げにかかっていた。そのサポーターに路を尋ねると、どう勘違いされたか廻り道となり、予定にはなかったが鴨都波神社に参拝して御所駅到着。先発組と同じ電車に乗り込むことが出来てホッと一息。
中司先生には今回も現地見学の計画、レジュメ、説明まで本当にお世話になりました。
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08/9南葛城、御所の史跡を訪ねる.

管理人の寄り道
役小角が開祖とされる修験道のルーツはどこにあるのでしょうか

左 山伏の兜巾(ときん)(吉野金峯山寺)
右 ユダヤ教徒のヒラクリティ (撮影 深田剛史氏 2009.12)
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