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八尾・平野の史跡散策

2010年3月27日(土)

JR八尾駅→環濠→渋川神社→制札場跡→全興寺(駄菓子屋さん博物館)→鏑矢塚→弓代塚→大聖勝軍寺→物部守屋墓→(昼食 ニュー高砂)
→JR八尾駅==JR平野駅→杭全神社→赤留比売命神社→長寶寺→大念仏寺→JR平野駅
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案内 中司照世先生 (前福井県埋蔵文化財調査センター所長)

連日降り続いた雨も我々が見学を予定していたこの日は、やや肌寒さを感じるものの朝から太陽が顔を見せ晴れあがった一日となった。参加者は中司先生を含め二十七名。

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■八尾・平野の史跡散策
                               (会員) 山口 久幸

  三月二十七日(土)
 連日降り続いた雨も我々が見学を予定していたこの日は、やや肌寒さを感じるものの朝から太陽が顔を見せ晴れあがった一日となった。参加者は中司先生を含め二十七名。
JR関西本線八尾駅は、駅前開発が進められている一つ手前の久宝寺駅の新しさに比べ、古い町並みにとけ込んだような木造の駅である。陸橋を渡り駅南口から線路沿いに道をとると、渋川神社の境内からのびる樹齢一千年と伝えられる楠の茂みが道に張り出している。線路北側は旧大和川である長瀬川が流れ、駅付近から北へと方向を変えている。暴れ川であった大和川は、江戸時代に付け替え工事が行われ本流の方向を変えた。これによりこの地でも新田が開発され、年貢米の集積、幕藩の指示を伝える安中新田会所が設けられた。渋川神社の境内東北の角筋向いにあり、会所跡(旧植田家住宅)として一般に公開されている。

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                 JR八尾駅
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                 安中新田会所跡


■渋川神社
 当社はかつて旧大和川の東部安中の地にあったが、天文二年(一五三三年)の大洪水で流失し、元亀三年(一五七二年)に御旅所であった現在地に再建されたと伝える。中司先生より説明があり、飛鳥時代この地は物部氏の本貫地であり、当神社をはじめ近在の多くの神社が物部氏の祖又は系列の祖を祀っている。
当渋川神社は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、饒速日命(にぎはやひのみこと)を主祭神とする。天文二年の洪水では称徳天皇も参詣され勢力を誇っていた龍華寺も破壊され以後廃絶した。その後当神社に神宮寺と称する宮寺が設けられ、神社も神宮寺の社僧により一時期管理された。
神社の南に道を隔てて植松観音堂があり名残を留めている。

 渋川神社の北方八尾庄に矢作(やはぎ)神社が鎮座する。経津主(ふつぬし)命を祭神とし、物部氏系の弓矢の製作に関わる部が.祖神を祀ったものと見られる。境内からは三角縁神獣鏡が出土し、付近の矢作遺跡からは数軒の大型掘立柱建物が発見され、この地の豪族の館跡とも考えられている。一説に八尾の地名はこの地の矢尾から転じたと云われる。

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天忍穂押命、饒速日尊を祭る
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                植松観音堂



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■鏑矢塚・弓代塚
 国道25号に出て南太子堂の交差点に向かう。信号待ちをしていると通りかかった人が次々「何処に行かれるんですか?」と声を掛け道順を教えて呉れる。親しみのある親切な人が多いのに感心する。交差点を過ぎ最初の道を南に入ると直ぐに「鏑矢塚」と記された碑がある。付近一帯は崇仏派の蘇我氏等と廃仏派の物部守屋が戦った地である。崇峻天皇即位前紀七月の条に「軍兵(いくさ)を率(い)て、志紀郡より、渋河の家に至る。大連 親(みずか)ら子弟(やから)と奴軍(やっこいくさ)を率(い)て稲城を築(つ)きて戦ふ。是に 大連 衣摺(きぬずり)の朴(えのき)の枝間(また)に昇りて、臨(のぞ)み射ること雨の如し。       
其の軍(いくさ)、強く盛りにして、家に填(み)ち野に溢(あふ)れたり。皇子等の軍(いくさ)と群臣(まえつきみ)の群(いくさ)と、怯弱(よわく)くして恐怖(おそ)りて、三廻(みたび)却還(しりぞ)く」
と合戦の模様を記している。劣勢の崇仏派の軍を救ったのが迹見赤梼(とみのいちひ)で、樹上の守屋を射落とし戦況を一変させた。後に記念として矢の落ちたところに塚を築き矢を埋めたのが「鏑矢塚」で、弓を放った処に同様に塚を築き弓を埋め「弓代塚」としたと言われる。鏑矢塚の碑の前には、近所の呑み屋の看板が並び何とも様にならない。丁度工事用のトラックが入っており、碑の廻りを割り石で囲い中に玉石を敷いていた。現状では格好がつかぬための整備作業中で、碑のうしろには守屋が登っていた朴の木ならぬ桜が五分咲きであった。鏑矢塚から隣接する龍華中学校の塀に沿い南の道に出ると、民家の切れた細い道の奥まったところに「弓代」の碑が建っている。古い記録には高さ五〇センチメートル、四メートル四方の塚の上に「迹見赤梼発箭地 史跡 弓代」の碑が立つと記されているが、今はその塚は失われている。

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      鏑矢塚             弓代塚

■椋樹山 大聖勝軍寺
 国道25号に戻ると、道路の向かいに大聖勝軍寺がある。聖徳太子が戦勝を祈願し、戦後守屋の本拠地に寺を建立した。叡福寺が「上の太子」、野中寺が「中の太子」、と呼ばれるのに対し「下の太子」と呼ばれる。寺伝によると推古天皇より寺号を賜い、天平勝宝八年(七五六年)には「大聖勝軍鎮護国家寺」の称号と勅願寺に選ばれた。伽藍も宝積院(渋河寺)、龍華院(龍華寺)、日羅院(日羅寺)等多数の僧坊を持つ大寺院であった。
 山門の手前に小さな池があり、傍らに「守屋池」と記されている。射落とされた守屋の首を秦河勝がこの池で洗い、太子に見せたと伝える。境内に入ると右手に椋の大木があり、根元の裂けたところに石像の聖徳太子が身を潜めている。戦いの最中戦況が不利になったとき椋の木の根元が割れ、聖徳太子はその中に入り難を遁れたと言う故事による。
 正面の太子堂には太子像を囲んで四天王像が安置されている筈であるが、盗難予防の為背後の収納館に納められている。予め電話をしておいたので扉を開けて頂く。
靴を脱ぎ室内に入ると、仏壇にガラスケースに入った四天王像が安置されている。身の丈は五〇センチメートル位だろうか。弓矢を持った四天王像として名高く持国天は蘇我馬子、多聞天は秦河勝、広目天は迹見赤梼、増長天は小野妹子を表していると伝えられる。寺伝では製作年代は推古天皇の時代とするが、法隆寺のものとやや異なり 時代は後と見られ、製作時には彩色が施されていたと言う。

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           大聖勝軍寺 門前にて

(昼食)

■物部守屋墓
 大聖勝軍寺の東にあり 国道25号に南面している。元は小さな塚状の丘の上に一本の松があったと伝えられるが、明治の初めに墓標を建て表に「物部守屋大連墳」と刻まれた。昭和一二年の守屋一三五〇年には、『日本書紀』の一節を刻んだ碑が建てられたとされるが施錠され、玉垣が巡らされているので近づけない。
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管理人の寄り道
管理人はこの次の週に諏訪守屋山の東を巻いて高遠に抜ける峠道で「物部守屋神社」に遭遇しました
普段は人影がない山深い神社ですがこのときはちょうど二年に一度のお祭りで神主さんが祝詞を奏上しお神輿が出発するところでした
写真のネクタイ正装は氏子代表の方、ほとんどが守屋さんでした
守屋は滅びましたが一族が日本各地で栄えています
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JR八尾→JR平野

■平野郷と環濠
 大聖勝軍寺の近くで昼食を済ませ、午後は平野に戻る。この地では摂津太夫と呼ばれる和気清麻呂が河内川(現平野川)の氾濫を止め様と治水を図ったが果たせなかった。その後坂上田村麻呂の子 広野麻呂が杭全荘を賜り所領としたことから、広野が平野に転じたと言われる。以後この地は坂上氏本家が総領となり、坂上七家と呼ばれる末家の後裔が治めることとなった。十一世紀には国の直接関与を受けないことを計り、南北朝から戦国時代には攝津、河内、和泉の国の交通の要衝である当地はしばしば戦禍にあったことから、在地の人々は外部勢力の侵入を排除しようと郷の周囲に環濠を掘り、土塁を築いて自治都市を造りあげた。しかし豊臣秀吉が天下を統一し大阪城を築くと、秀吉は町造りに平野の商人を大阪に移住させ、同時に多くの環濠を埋めた。杭全神社の北東では境内に沿って環濠の面影を今に残している。この環濠の東を平野川が流れており、この川を境に摂津国に対し川向こうは河内国となる。
平野は戦国時代環濠と土塀で自衛し、町民の自治都市として栄えた町並みは戦火にあわず江戸時代の雰囲気を残している

平野古図(出典 平野郷小史 杭全神社刊)
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平野環濠跡
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■杭全(クマタ)神社

 坂上田村麻呂の孫 当道が貞観四年(八六二年)に氏神として素盞鳴尊を勧請し、祇園社を創建したのが始まりとされる。神社所蔵の「平野郷社縁起」に「山城国愛宕郡八坂郷祇園の牛頭天王これなり」とある。十二世紀に入り熊野信仰が流行すると、熊野大権現を勧請し以後権現社と呼ばれるようになった。明治になって杭全神社と名を改めた。境内に田村堂と呼ばれる社殿がある。元は弘法大師を祀る大師堂であったが、明治の神仏分離のときに郷内長宝寺に安置されていた坂上田村麻呂の像と交換され、今は坂上氏の祖と末家の祖先が祀られている。毎年五月には坂上七家が参列し田村祭を行っている。
 社務所に並んで奥に連歌所が建つ。連歌のための建物としては唯一のもので、現在の連歌所は宝永五年に再建されたものと言う。

 大阪には読み難い地名が幾つかある。杭全の地名もその一つであろう。絵馬堂の隅に古びた切り抜きの印刷物が貼られており、杭全の地名の由来についておよそ次のように記されている。かつて大和川はこの付近まで来ると、幾つもの支流に分かれその様はあたかも杭を並べたようであった。その川の分かれるところを俣と呼んだ。杭俣と呼ばれたが後に俣よりも全の文字を当てる方が良いとのことで杭全と記すようになった。                                                        

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平安期の初め坂上田村麻呂(756-811)の子広野麿が杭全の地を領して以来、子孫が宮座をつくり明治維新まで続いた。

坂上田村麻呂を描いた扁額
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 杭全神社の参道から25号を横切り長い平野の商店街を歩く。スーパー、コンビニ等のような今時の店は見当たらずタイムスリップしたような昔風の店が軒をつらねる。商店街の中ほどに平野の紹介で良く放映される全興寺がある。地獄堂が境内にあり閻魔様が中央で睨んでいて銅鑼を叩くと地獄への様子が画面に映し出される。境内には他に「駄菓子屋さん博物館」「平野の音博物館」などがある。平野の街中には一五の「おもしろ博物館」があると云われる。商店街の東外れに平野公園があり、公園内西南隅に赤留比売神社が鎮座する。
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駄菓子屋さん博物館
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■赤留比売(あかるひめ)神社

 延書式式内社で元は住吉大社の末社の一つであった。環濠集落内の背戸口町にあったが、明治三十年に当地に移された。坂上氏が渡来系氏族であることから、当神社の祭神と結びつける考えもある。
応永年間に僧 覚証が雨乞いのため法華経三十巻を奉読し霊験を得たので以後三十部神社とも呼ばれ、転じて三十歩神社となったと云われる。また境内が三〇歩の広さであったことに由来すると云う説もある。大正二年に天満宮、琴平社を併合し,杭全神社の境外末社となった。神社の背後が高くなっており、かつての土塁でその先の松山池は環濠の名残と伝えられる。
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■王舎山長寶寺長生院

 坂上田村麻呂の娘春子が開基とされる尼寺である。桓武天皇妃であった春子は天皇の崩御により剃髪し、慈心大姉としてこの寺で十一面観音像を祀った。後に後醍醐天皇が都から吉野に向かう途次、当寺を仮御所としたことにより王舎山の山号を賜ったと言われる。多くの堂宇は失われているが、一郭に坂上氏の屋敷があったとされ坂上氏の氏寺である。
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■大念仏寺
 融通念仏宗の総本山で良忍上人(聖応大師)を開基とする。一一二七年四天王寺で良忍上人が聖徳太子より夢の中でお告げを受け、鳥羽上皇の勅願を受けて平野の地に道場を開いたのが始まりとされる。本堂は
東西約五十メートル、南北約四十メートル の大きさで大阪府下最大の木造建築と云われる。「万部おねり」と境内の「お化け博物館」は有名である。


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 当初はそれ程の距離は無いと思っていたが、彼方此方立寄ったので結果的にかなりの距離を歩いたようである。皆様ご苦労様でした。中司先生にはいつもレジュメの作成から見学当日には説明とお世話をかけます。有難う御座います。

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