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五世紀のヤマト王権と上毛野―太田天神山古墳を中心に―

つどい266号
近つ飛鳥博物館館長 白石太一郎先生

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■五世紀のヤマト王権と上毛野
―太田天神山古墳を中心に―
近つ飛鳥博物館館長 白石太一郎

はじめに
 群馬県太田市内ヶ島に所在する太田天神山古墳は、墳長二一○メートルの巨大な前方後円墳であり、中部地方以東の東日本では最大規模の古墳である。日本列島で営まれた大規模な古墳はほとんど前方後円墳であるが、太田天神山古墳も前方後円墳で、墳丘規模による順位では第二六位に位置づけられる。ただしこれは、古墳時代初頭の三世紀中葉すぎから後期末葉の六世紀末から七世紀初頭頃までの三百数十年間に営まれたすべての前方後円墳の中での順位である。この古墳が営まれた五世紀前半頃の同じ世代の倭国王や倭国の有力首長たちの古墳の中では、おそらく五本の指の中に入る大規模なものであったことは疑いなかろう。
 上(かみつ)毛(け)野(ぬ)と呼ばれていたこの地に、なぜこの時期に、このような巨大な古墳が営まれたのか。この古墳は日本の古代史の中でどのように位置づけられるのか。またこの古墳の存在から、当時の畿内の王権と東国の政治勢力の関係はどのように考えられるのか。こういったさまざまな問題について、最近の古墳研究の成果を踏まえて考えてみることにしたい。

一、太田天神山古墳の造営年代について
 太田天神山古墳が造営されたのは、列島各地で古墳の墳丘規模が最も大型化する古墳時代中期であることは、早くから指摘されてきた通りである。その実年代(暦年代)については、五世紀中ごろとする研究者が今も多い。ただ古墳時代中期の暦年代観は、
最近大きく修正されつつある。それは古墳時代中期でもその第二段階になって日本列島で生産が始まる須恵器の出現時期が、年輪年代法など自然科学的年代決定法の進展などもあって、著しく遡上したためである。かつては五世紀中葉と考えられてきた須恵器の初現の年代が四世紀の第4四半期に遡ることは、疑えなくなってきている。
 太田天神山古墳の造営年代を考える最も有効な材料は、その墳丘や濠の外堤上に立て並べられた円筒埴輪である。それは円筒埴輪の変遷を五期に区分したうちの第Ⅲ期のもので、畿内の古墳では大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(現応神天皇陵)や同堺市の大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)など第Ⅳ期の埴輪を伴う古墳よりは型式学的には古い。ただ、円筒埴輪編年の第Ⅲ期と第Ⅳ期は、須恵器生産開始の影響により埴輪があな窯で焼成されるようになった段階のものをⅣ期に区分しているもので、地域によってはⅢ期といっても先進地域のⅣ期並行期に降るものも当然存在する。
 須恵器編年との関連でいえば、Ⅲ期の埴輪をもつ大阪府堺市上石津ミサンザイ古墳(現履中天皇陵)がTG二三二型式(四世紀の第4四半期~五世紀初頭)、Ⅳ期でも古い段階の埴輪をもつ誉田御廟山古墳がTK七三型式~TK二一六型式(五世紀の第1四半期)、それに続く大仙陵古墳がTK二一六型式~ON四六型式(五世紀第2四半期)に並行すると考えられる。
 関東地方で埴輪のあな窯焼成が始まる時期は正確にはわからないが、太田天神山古墳の埴輪は、その形態的特徴などからも、降っても誉田御廟山古墳の段階、すなわち五世紀の第1四半期のものと想定できよう。中期前半の大阪府藤井寺市津堂城山古墳の時期から盛んに用いられる大型の水鳥埴輪が太田天神山古墳にもみられることも、この想定を裏付けるものであろう。

二、太田天神山古墳とヤマト王権
 古墳時代、特にその前半期は、日本列島各地の首長たちが畿内の大和や河内の大王、
すなわちヤマト王権を盟主とする首長同盟(ヤマト政権と呼ばれる)を形成していた時代と捉えられる。古墳は、このヤマト政権に加わる各地の首長たちが、その政治連合の中での身分秩序に応じて大小さまざまに営んでいたものと考えられる。太田天神山古墳の存在は、五世紀の第1四半期において上毛野の大首長である太田天神山古墳の被葬者が、ヤマト政権、すなわち倭国連合の中でもきわめて重要な位置を占めていた
ことを示すものにほかならない。             
このことをより具体的に物語るのが、太田天神山古墳の長持形石棺である。この古墳では、その後円部の中心的な埋葬施設に用いられていたと考えられる長持形石棺の底石の一部が、くびれ部に近い後円部中腹に転落している。残念ながら棺材の一部が遺存するにすぎないが、『新田金山石棺御尋聞書』なる近世の文書から、その底石の本来の長さが三メートルにも及ぶ、畿内のこの時期の諸古墳の例と比較してもきわめて大型のものであったことがわかる。
 また太田市に西接する伊勢崎市の、太田天神山古墳とほぼ同時期の前方後円墳お富士山古墳(墳丘長一二○メートル)に遺る長持形石棺の形状や製作技法から、天神山古墳やお富士山古墳の長持形石棺が、この時期の畿内の長持形石棺にきわめてよく似たつくりの本格的なものであったことが知られる。この時期の畿内の大型古墳の長持形石棺はいずれも播磨の竜山石製であるが、太田天神山古墳例やお富士山古墳例は上毛野の石材を用いたものである。このことは、東国の上毛野の大首長の葬送に際し、ヤマト王権から大王らの石の棺を作っていた工人がわざわざ派遣され、その棺の製作にあたったことが想定されるのである。このことは、この上毛野の大首長が畿内の大王に服属する地方首長などではなく、まさにその同盟者であったことを何よりも明白に物語るものであろう。
 やはり五世紀でも早い段階の吉備では、日本列島でも第四位の墳丘規模を誇る岡山市造山古墳(墳丘長三六○メートル)が営まれている。この古墳は周濠こそもたないが、墳丘規模が列島第三位である上石津ミサンザイ古墳(墳丘長三六五メートル)とほぼ同形同大である。列島第一位の大仙陵古墳、第二位の誉田御廟山古墳はともに第Ⅳ期の埴輪をもつのに対し、上石津ミサンザイ古墳と造山古墳はともに第Ⅲ期の埴輪をもつから、五世紀の第1四半期の段階では、吉備の造山古墳は畿内の大王墓である上石津ミサンザイ古墳とほぼ同規模の、列島最大の前方後円墳であったことがわかる。
 四世紀でも後半になると朝鮮半島では高句麗が南下し、半島南部の百済や新羅や伽耶諸国は国家存亡の危機を迎える。鉄資源などを朝鮮半島にたよっていた倭国もまたこうした東アジア情勢の大きな変化に直面して、百済などとともに高句麗と戦うことになる。こうした国際情勢の緊迫の中でヤマト王権としては、吉備や上毛野など有力な地域政権の協力は不可欠である。こうしたことから、特にこの時期、有力な地域政権の大首長を優遇しなければならなかった面は否定できないが、この段階の上毛野の大首長が、畿内の大王と同盟関係にあったことは疑えないのである。
なおこの時期、太田天神山古墳の被葬者を盟主とする地域的首長連合の範囲が、上毛野、すなわち後の上野国(現群馬県)のほぼ全範囲に及ぶものであったことは、古墳のあり方からも疑いなかろう。ただ、この古墳に先行する四世紀後半の群馬県高崎市浅間山古墳(墳丘長一七二メートル)や太田市宝泉茶臼山古墳(墳丘長一六五メートル)の時期に、すでに上毛野全体の首長連合が成立していたのか、まだ上毛野の東西に二つの政治的まとまりが形成されていた段階であったのかは、今後のこの地域の古墳研究の進展に待つほかない。

三、東アジアにおける倭国連合の性格
 太田天神山古墳や造山古墳の存在からうかがえる五世紀前半のヤマト王権と有力な地域政権との関係は、この時期の倭国それ自体の性格を考える上にも重要である。両古墳の存在が示すように、古墳時代の日本列島では畿内だけではなく各地に巨大な前方後円墳が営まれるが、こうした状況は東
アジア世界でもきわめて特異である。
 朝鮮半島の新羅でも五世紀には皇南大塚(双円墳、墳丘長一二○メートル)などの大きな王墓が営まれる。ただしこうした大型の古墳はその都の慶州に集中しており、新羅各地に大型古墳がみられるわけではない。これは時期が少し古く遡るが、前漢帝国の皇帝陵のあり方についても指摘できることで、武帝の茂陵をはじめ巨大な方形の墳丘をもつ大型墳墓は、漢長安城の周辺に営まれた皇帝陵に限られるのである。その点、日向、吉備、播磨、丹後、上毛野、常陸、陸奥など、九州南部から東北中部に至る各地に墳丘長一七○メートルを超える巨大古墳が造営された五世紀の日本列島とは大きな相違がある。これはこの時代の倭国が、東アジア世界の中でもきわめて特異な首長連合の体制を形成していたことを物語るものにほかならない。

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