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四・五世紀の丹波とヤマト政権

つどい264号
堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口義信 先生

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■四、五世紀の丹波とヤマト政権
        堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口 義信

はじめに
四世紀後半から五世紀前半にかけての時期における丹波の政治集団とヤマト政権(畿内政権)との関わりを明らかにすることが、この講演の目的である。
ところで、一般に丹波国といえば、京都府中部(亀岡市から福知山市にかけての地域)と兵庫県東北部(旧・氷上(ひかみ)郡から多紀(たき)郡にかけての地域)の地域を指しているが、これは和銅六年(七一三)に丹波国が丹後と丹波の二国に分割されてから以後の領域であって、それ以前は丹後国(京都府北部に位置する加佐(かさ)・与佐(よさ)・丹波(たには)・竹野(たかの)・熊野(くまの)の五郡より成る)を含めて、丹波国といっていた。五世紀前半以前における丹波国の中心は丹後半島にあったから、必然的にこの講演の舞台となる地域もそれを含む、令制の丹後国ということになる。

一、四世紀代における丹波の中心勢力とヤマト政権周知のとおり、四世紀代の丹波には、後の三大古墳といわれる蛭えび子す山やま古墳(京都府与よ謝さ郡与謝野町、前方後円墳、墳丘長一四五メートル前後)、網あみ野の銚ちょう子し山やま古墳(同京丹後市網野町、前方後円墳、墳丘長二〇〇メートル前後)、神しん明めい山やま古墳(同京丹後市丹後町、前方後円墳、墳丘長一九〇メートル前後)が相次いで築造されている。これらの古墳の編年については研究者によって若干の違いがあるが、いずれも四世紀代の築造とみる点については、ほぼ共通の認識となっている。
そして、これらの古墳にはいずれも丹後型円筒埴輪(無頸壷形(むけいつぼがた)埴輪)と呼ばれる丹後独特の埴輪が用いられており、これらの古墳の被葬者たちが丹後の広域首長連合の最高首長(以下、大首長と記す)であったらしいこともまた、 共通の認識となりつつある。
では、これらの大首長はヤマト政権とどのような関わりを有していたのであろうか。岸本直文氏の研究(注1)によれば、網野銚子山古墳は奈良県北部に所在する佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(西群)の佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひばすひめ)陵古墳、二〇六メートル前後)や神戸市垂水区に所在する五色塚(ごしきづか)古墳(一九四メートル前後)などの前方後円墳とほぼ同型で、たがいに深い関わりを有しているという。

佐紀陵山古墳は大王墓級の巨大古墳で、四世紀後半におけるヤマト王権の政権担当集団であった佐紀政権の中枢に位置する人物の奥津城と推定され、五色塚古墳は兵庫県下最大の前方後円墳である。ここで注目されるのは、後者の五色塚古墳を盟主墳とする五色塚古墳群が、五世紀代になると古墳の築造を停止してしまうことと、五色塚古墳が香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)によって築かれたとする伝承(『日本書紀』神功皇后摂政元年二月の条)をもっていることである。

「コラム・五色塚古墳」に記したように、なぜこれほどの巨大古墳を築きながら、また台地の東半を将来の墓域として残しておきながら、この古墳群には後続する五世紀代の古墳がないのであろうか。また、この古墳はなぜ香坂王・忍熊王によって築造されたと伝えられているのであろうか。

これらの疑問を解くヒントは、四世紀末に勃発したヤマト政権(畿内政権)の争乱に秘められているように思われる。別に論じたように(注2)、三九一年前後の時期に、九州(特に日向)諸族の支援を得て九州から摂津・大和に進軍してきた品陀和気命(ほむだわけけみこと)の名で語られている政治集団の首長(以下、応神と記す)が、大和北部から山城南部・近江南部・摂津・河内北部を勢力基盤とするところの、四世紀後半にヤマト政権の最高首長権(大王権)を保持していた政治集団(その奥津城は佐紀盾列古墳群の西群)の正統な後継者である忍熊王の名で語られている人物の軍勢と戦い、これを打倒して「河内政権( 河内大王家)」を樹立するという政変が勃発した。新政権の始祖王となったこの人物は、もともと佐紀西群の体制を首長家とともに支えていたのであろうか。 

このようにみてくると、四世紀代の丹後山の大首長たちについても同様の事情を想定することができるのではなかろうか。すなわち、
①網野銚子山古墳が佐紀陵山古墳および五色塚古墳と同型と考えられること(注3)、
②丹後半島の地名を負う竹野媛(たかのひめ)の姉の日葉酢媛(ひばすひめ)の命みことがヤマトの大王(垂仁)の大后(おおきさき)(皇后)となり、死後、佐紀盾列古墳群が所在する「狭木寺間(さきのてらま)陵」(『古事記』垂仁天皇の段)に葬られたと伝えられていること、
③五世紀代になると古墳の規模が縮小すること(五世紀代前半の大首長墳は京丹後市の黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳で、墳丘長一〇〇メートル前後)、などの点からみて、四世紀代の丹波の大首長たちは佐紀政権と極めて親密な関係を有していたが、体制派(忍熊王派)の系列に属していたため、四世紀末の内乱の結果、その勢力が弱体化したことが考えられるのである。

黒部銚子山古墳の被葬者がそれまでの首長系列に属していたかどうかについては不明であるが(注4)、いずれにもせよ、全国的に古墳が巨大化する五世紀代にあって丹後の大首長墳は前代のそれの二分の一の規模となり、丹後政権の独自性を可視的に主張してきた丹後型円筒埴輪もなくなっている。そして黒部銚子山古墳の次の大首長墳はもはや丹後半島にはなく、篠山盆地東部に移っている。篠山市東本荘に所在する雲部(くもべ)車塚古墳(一五八メートル前後)がそれで、しかもこの古墳は畿内型の精美な前方後円墳として知られているのである。こうした情況は、やはり劇的な変化というべきであろう。 

二、 海部直一族の台頭

四世紀末の内乱ののち、丹後半島ではどのような政治集団が台頭してきたのであろうか。
この問題を考える場合に一つの手がかりとなるのが、宮津市の籠 この神社(丹後国一宮)に伝わる、祝(はふり)(神官)の地位の継承次第を記した(注5)縱系図として名高いいわゆる海部(あまべ)氏系図(注6)である。この系図は紙質および筆勢、冒頭に見られる「従、四位下、、、籠名神」の記載から考えて、貞観十三年(八七一)六月より元慶(がんぎょう)元年(八七七)十二月までの間に書写されたものと考定されている(注7)。 

この系図でまず注意されるのは、すでに先学が指摘されているように、健振熊宿禰(たけふるくまのすくね)以前と、次の海部直都比(あまべのあたえとひ)以後とで、記載の体裁に大きな違いがみられることである。都比以下はすべて「児・・・・、児・・・・、児・・・・」という記載様式になっているのに対して、健振熊宿禰以前は「三世孫倭宿禰命」「孫健振熊宿禰」などとあって、何代かが省略されている。これは是澤恭三氏が論ぜられた(注8)ように、他の系図からの援用あるいは省略を意味する「」の記号と関連している。すなわち、都比以下は海部直氏の家伝に依拠して書かれたものだが、それ以前は他氏の伝承に基づいて書か

れたものと考えられる。  こうした性格をもつ海部氏系図であるが、ここで私が最も注目したいのは、海部直氏の事実上の始祖とされている都比の父が、健振熊宿禰であるとされていることである。しかもこの人物には、古くから海部直氏に伝えられてきたとみられる独自の伝承、すなわち「此若狭木津高向宮爾海部直姓定賜弖楯桙賜國造仕奉支、品田天皇御宇」という注記が付けられている。現在の国造制研究の動向からいって、果たしてこの一族が実際に「品田(ほむたの)天皇(応神天皇)」の時代に「海部直姓」を賜り、「国造」に任ぜられたかどうかについては疑わしい点がある。

しかし、ここで重要なのは、海部直氏が自己の歴史上、「品田天皇」の時代をエポックメーキングな時代とみなしていることと、そこに和珥わに(邇)臣のおみ氏の祖先の「健振熊宿禰」の名を持ち出していることである。これらは一体、何を意味しているのであろうか。

まず「若狭木津高向宮」の伝承については、若狭国大飯(おおい)郡に木津郷が存在した。大飯郡は天長二年(八二五)に成立した郡であり、それ以前は遠敷(おにゅう)郡に属していた。庚子かのえね年(文武四年=七〇〇年)四月の藤原宮出土木簡に「若狭国丹生(おにゅうの)小評(こほり)木ツの里」、神亀五年(七二八)九月十五日の平城宮木簡に「若狭国遠敷郡木津郷」とみえている。「若狭国税所今富名領主代々次第」に「木津庄高浜」とあるので、現在の高浜町子生川(こびがわ)下流域一帯に比定し得る(注9)。この附近は古代にあっては塩の生産地帯である。  後述するとおり、応神から始まる河内新政権の時代には若狭・丹後半島・但馬の海人集団が新政権によって掌握されていたと考えられるから、この附近に行宮ないし大王の使者の宿泊施設が設置されていたとしても少しも不思議なことではない。と同時に注意されるのは、すでに指摘されているように(注10)、若狭や丹波に和珥氏の勢力が伸びていたと考えられることである。  してみると、丹波の海部直氏は和珥氏と深い関わりを持ち、この一族を媒介として河内政権と結び付いていたことが推測される。  次に、都比の父とされる健振熊宿禰については、『記』『紀』に、神功・応神方の将軍として活躍し、忍熊王の乱を鎮定したとされていることが注目される。 

このようにみてくると、海部直氏一族は四世紀末の内乱のときに和珥氏とともに応神方を支援していた豪族であって、この内乱を契機として台頭してきたことが推測されるであろう。海部直氏が「健振熊宿禰」を自己の祖先とし、しかもその宿禰が活躍した応神朝に国造として奉仕することになったと伝えている意味は、この点に求められねばならないのではなかろうか。 

三、五世紀の若狭・但馬とヤマト政権
  前章で丹波の海部直氏が河内新政権の成立とともに台頭してきたことを論じたが、実はこれと同じような情況が丹波の隣国でもみられるのである。それは若狭と但馬である。

(一)、若狭について
 表1をご覧いただきたい。これは中司照世氏が作成された若狭における大首長墳の編年表であるが、若狭地方の大首長墳は、五世紀初頭前後に築造された若狭地方最大の前方後円墳である①上之塚(じょうのつか)古墳に始まり、②城山(しろやま)古墳、③西

塚(にしづか)古墳、④中塚(なかつか)古墳へと続いている。このうち①③④は脇袋(わきぶくろ)古墳群のなかに所在する。この古墳群の被葬者集団については、すでに先学の指摘がある。それらによると、古墳群の背後の山が古くから「膳部山(ぜんぶやま)」と呼ばれてきたこと、『先代旧事本紀』巻第十国造本紀に、膳(かしわで)臣氏の祖先の佐白米(さしろめの)命(みこと)の児・荒礪(あらとの)命(みこと)が若狭国造に任じられたとあることなどの理由により、膳臣氏が推測されている。妥当な見解であろう。
 さて、ここで小論にとって重要なのは、若狭地方の大首長墳が五世紀初頭前後の時期から始まっていることである。この時期が河内新政権樹立の時期と一致していることは、単なる偶然ではなかろう。とすると、膳臣氏の前身の一族は四世紀末の内乱において応神方に荷担し、河内新政権の成立とともに若狭地方を押さえた、ということになる。その後、若狭は豊かな海の幸や塩の生産によってヤマト政権の〝御食つ国(みけつくに)〟として発展することとなるが、その契機は河内新政権の成立にあったと考えられるのである。

(二)、但馬について
 但馬地方の大首長墳は五世紀初頭前後に築造されたと考えられる、兵庫県下第四位、この地方最大の池田古墳(朝来(あさご)市和田山(わだやま)町平野、前方後円墳、一四一メートル前後)に始まる。この古墳には畿内的要素が濃厚にみられ(注11)、古市・百舌鳥古墳群を築いた河内政権と緊密な関係にあったことが推察される。してみると、この古墳の被葬者が台頭してきた背景にもまた、丹波の海部直氏や若狭の膳臣氏らと同様の事情、すなわち四世紀末の内乱で勝利した応神および河内新政権との関わりが想定される。おそらくこの古墳の被葬者は、応神の母系に関わる天之日矛(あめのひぼこ)系渡来者集団(注12)と極めて親密な関係を持ち、かつ四世紀末の内乱時に応神を支持した、在地の広域首長連合の大首長であろう。それは、海部直や丹波国造と擬制的同族関係によって結ばれていた但馬国造(注13)の前身の一族であった可能性が大きい。ただし、それが後代の何氏であるのかについては、今後の研究に俟ちたい(注14)。
 ところで、但馬には袴狭(はかまざ)遺跡(出石町)出土の線刻画木製品(弥生時代後期~古墳時代前期)が示しているように、海人集団が存在した(注15)。この点は日本海に面している丹後や若狭・敦賀についても同様である。他地域との交易においてこれらの海人集団が果たした役割はすこぶる重要で、地域の大首長はこれらを掌握することによって、大首長としての存立基盤を築いていたと考えられる。こうした性格をもつ丹後、但馬の大首長と河内新政権との間に交わされた従属的な同盟ないし連合関係の成立は、後者による前者の地位の保障を示していると同時に、当時における海上交通の幹線の一つであった日本海ルートが河内新政権によって掌握されたことを意味している。四世紀末に成立した河内新政権(注16)がすばやく日本海側の海人集団を擁する地域の大首長を傘下に入れたり、中央豪族を派遣して海人集団を統轄したりしているのも、こうした目論見があったからに他ならないであろう。

四、 丹後の政治集団と佐紀政権の成立
 上述したように、丹後の政治集団は佐紀政権と極めて親密な関係を有していた。そしてこの関係は、網野銚子山古墳が佐紀陵山古墳とほとんど変わらない規模をもっていたり、丹波の女性がヤマト政権の最高首長のオホキサキ(大后、のちの皇后)になったという伝承を『記』『紀』に残していることからみて、単なる「連合関係」という言葉ではすまされないような親密な関係にあったように思われる。おそらく丹後の政治集団は、佐紀政権の一翼を担う有力な政治勢力として存在していたであろう。では、こうした両者の関係はどのようにして形成されたのか。
 ここで私が注目したいのは、三六九年に倭、すなわちヤマト政権を中心とした倭国連合体と百済との間に、軍事同盟ともいうべき誓盟が成立したことである(注17)。この誓盟は、高句麗の南下政策に対して倭の軍事力に期待した百済の要請に倭が応じたものであり、以後の緊密な倭・済関係の出発点となった。なお、このときに成立した軍事同盟を記念して百済王から倭王へ送られたのが、「□泰和四年」(三六九年、泰和は太和で東晋の年号)の銘をもつ石上神宮所蔵の七支刀であったと考えられる。
 ところが、軍事同盟が成立したこの前後の頃に、ヤマト政権では佐紀の地域を中心に佐紀陵山古墳・宝来山(ほうおうらいさん)古墳(垂仁陵古墳、二二七メートル前後)・佐紀石塚山古墳(成務(せいむ)陵古墳、二一八メートル前後)・五社神(ごさし)古墳(神功陵古墳、二七五メートル前後)などの大王墓級の巨大前方後円墳がつぎつぎと築造され、一方、丹後の地域には蛭子山古墳や網野銚子山古墳・神明山古墳などのこれらに準ずるような規模の巨大古墳が相次いで築造されている。このように両者がともに時期を同じくして築造されていることは決して偶然ではなく、佐紀政権の成立に朝鮮半島問題と丹後の政治集団が深く関わっていることを示しているであろう。
 では、ここから何を推測することができるであろうか。一つめは、朝鮮半島問題が契機となって、三輪政権から佐紀政権への政権交替が行われたのではないかということである。この推測が当たっているとすれば、四世紀の第Ⅲ四半期におけるヤマト政権(畿内連合政権)の内部には、朝鮮諸国に対する外交政策をめぐって、対立する二つのグループが存在していたことが考えられる。

そしてこの対立は、倭・済軍事同盟の成立を契機として積極的に朝鮮半島に乗り出し、鉄や大陸系の新しい文物の一元的な獲得を目指すグループの勝利に帰したのではなかろうか。これが佐紀政権誕生のいきさつであると、私はかねてより推察している。
 二つめは、その佐紀政権が朝鮮半島へ行くときのルートとして最も重視したのが、天然の良港(潟湖)をもつ丹後半島であったということである(注18)。したがって佐紀政権は、成立当初から丹後の政治集団と深い関わりがあり、両者は依存し合う関係にあったといってよいであろう。
 丹後半島から朝鮮半島へ行くルートは、河内新政権の時代になっても勿論よく利用されていた。しかし、河内新政権が最も重視していたのはこのルートではなく、瀬戸内海ルートであったと考えられる。五世紀代になると、大阪府の百舌鳥古墳群をはじめ、兵庫県の壇場山(だんじょうざん)古墳(姫路市、五世紀代では県下第一位の前方後円墳、一四一メートル前後)や岡山県の造山古墳(岡山市、県下第一位で全国第四位の前方後円墳、三六〇メートル前後)・作山古墳(総社市、県下第二位で全国第八位の前方後円墳、二八六メートル前後)、宮崎県の女狹穂塚古墳(西都市、九州最大の前方後円墳、一七六メートル前後)・男狹穂塚古墳(同上、全国最大の帆立貝形(式)古墳、一五五メートル前後)などの巨大な古墳が続々と築造されるが、これらはいずれも瀬戸内海ルートと深い関わりをもっている。河内新政権がこのルートをいかに重視していたかが知られるであろう。
 これを要するに、佐紀政権が日本海ルートを重視して丹後の政治集団と深い関わりを有していたのに対して、河内新政権は瀬戸内海ルートを重視してその沿岸諸地域の政治集団と深い関わりを有していたのである(注19)。ここに両者の政権の支持基盤の違いを容易に見て取ることができるであろう。

むすびにかえて
 以上、四世紀後半から五世紀前半にかけての時期における丹波、若狭、但馬の首長層の動向を概観してきたが、そこにみられる首長層の盛衰は四世紀末の内乱に起因するヤマト王権の政権担当集団の交替と深く関わっていた。在地における大古墳およびその

被葬者たる首長層の在り方を畿内政権との関わりで捉えようとする試みは従来からある(注20)が、「ヤマト政権内の派閥抗争と政権交替」との関わりで考察している論考はあまり見当たらない。そこでこのたび、古くからこうした視点に基づく研究を提唱してきた者の一人として、丹波およびその周辺地域を対象に自分の考えをまとめてみた次第である。果たしてこのような考え方が成り立つかどうか、ご批正を賜ることができれば幸甚である。

〔注〕
(1) 岸本直文「前方後円墳築造規格の系列」(『考古学研究』三九―二、考古学研究会、一九九二年)。ただし、これより以前に網野銚子山古墳の墳丘形態が佐紀陵山古墳や五色塚古墳と類似していることを、三浦到氏が指摘されていることを附記しておく。同「墳丘形態から見た巨大古墳に関する一考察」(『考古学と技術』所収、同志社大学考古学シリーズⅣ、一九八八年)。
(2) 塚口「「三輪の王者」から「佐紀の王者」へ」(原田伴彦・作道洋太郎編『関西の風土と歴史』所収、山川出版社、一九八四年)「四世紀後半おける王権の所在」(末永雅雄先生米寿記念会編『末永先生米壽記念 獻呈論文集』坤、所収、奈良明新社、一九八五年)、「佐紀盾列古墳群とその被葬者たち」(『ヤマト王権の謎をとく』所収、学生社、一九九三年)、「佐紀盾列古墳群の謎を探る」(『日本古代史〔王権〕の最前線』、新人物往来社、一九九七年)、「四、五世紀の犖城南部における首長系列の交替」(『東アジアの古代文化』一三七号、大和書房、二〇〇九年)、「百済王家の内紛とヤマト政権」(『堺女子短期大学紀要』第四十四号、愛泉学会、二〇〇九年)など。
   なお、近年における四世紀末の内乱と河内政権に関する研究動向については、以下の論考を参照されたい。
石部正志「河内王統と大古墳」(前之園亮一・武光誠編『古代天皇家のすべて』所収、新人物往来社、一九八八年)、直木孝次郎「河内政権の成立」(新修大阪市史編纂委員会編『新修大阪市史』第一巻〈第四章第一節〉、所収、大阪市、一九八八年)、同「応神天皇と忍熊王の乱」(『日本古代王朝と内乱』所収、学生社、一九八九年)、荊木美行「『日本書紀』とその世界」(燃焼社、一九九四年)、星野良作「三つの始祖伝説―神武・崇神・応神天皇」(『日本古代史〔神話・伝説〕の最前線』所収、新人物往来社、一九九六年)、小泉俊夫『宇陀の古代史考』(一九九七年)、吉田晶『倭王権の時代』(新日本出版社、一九九八年)、寺澤薫『王権誕生』(日本の歴史第02巻、講談社、二〇〇〇年)、中村修「ホムタ・オシクマ戦争」(横田健一編『日本書紀研究』

第二十三册、所収、塙書房、二〇〇〇年)、同『乙訓の原像』(ビレッジプレス、二〇〇四年)、井上薫「倭の五王と河内王朝政権論」(泉大津市史編さん委員会編『泉大津市史』第一巻上・本文編〈古代編第一章第三節〉泉大津市、二〇〇四年)、溝口睦子『アマテラスの誕生』(岩波書店、二〇〇九年)ほか。(3) 最近の奥村淸一郎氏の研究(「網野銚子山古墳の前方部」『京都考古』第九八号、京都考古刊行会、二〇〇八年)によると、網野銚子山古墳の前方部は箸中山古墳(箸墓古墳、奈良県桜井市、二七五メートル前後)のように撥形に開き、五色塚古墳のそれとは形状が異なるのではないかという。氏の論考を読む限り、たしかにそのようにみる余地はある。ただ、発掘調査によって確認されているわけではないし、私には佐紀陵山古墳や五色塚古墳と極めて近い形のようにもみえるので、小論では一応岸本直文氏の見解に従っておきたいと思う。なお、念のためにいうが、仮に網野銚子山古墳が佐紀陵山古墳と同型ではなかったとしても、以下の本文に述べる他の論拠により、小論の結論は十分成り立ち得ると考えている。
(4) 黒部銚子山古墳(A)は神明山古墳(B)と相似形である可能性がある(奥村淸一郎「丹後半島の大型前方後円墳」『京都府埋蔵文化財論集』2、一九九一年)こと、ともに竹(たけ)野(の)川(がわ)流域に所在していること、Bに後続する大首長墳がAであること、などからみると、AはBと同系列に属する首長の奥津城であった可能性がある。

(5) 義江明子『日本古代系譜様式論』(吉川弘文館、二〇〇〇年)。
(6) 正確には「籠名神社祝部氏係((系))図」(一巻)といい、附属の「海部氏勘(かん)注(ちゅう)系図」一巻とともに国宝に指定されている。
(7) 石村吉甫「籠名神社祝部氏系図」(『歴史地理』六二ー三、一九三三年)、同「本系帳考」(『歴史地理』六四ー一、一九三四年)など。
(8) 是澤恭三「粟鹿大明神元記の研究?」(『日本学士院紀要』二四―三、一九五六年)、なお、後藤四郎「海部に関する若干の考察」(坂本太郎博士古稀記念会編『続日本古代史論集』上巻、吉川弘文館、一九七二年)を参照。
(9) 下中邦彦編『福井県の地名』(『日本歴史地名大系』第一八巻、平凡社、一九八一年)。
(10) 岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』所収、塙書房、一九六六年)、なお、後藤四郎「海部に関する若干の考察」(前掲)、山尾幸久「古代史からみた四世紀代の丹後とヤマト」(『蛭子山古墳の時代』所収、加悦町教育委員会、一九九三年)などを参照。
(11) 瀬戸谷皓『シリーズ但馬Ⅱ 但馬の古代2』(但馬文化協会、二〇〇五年)、和田山町史編纂委員会編『和田山町史』上巻(第二章第四節、田畑基氏執筆、和田山町、二〇〇四年)など。
(12) 塚口「天之日矛伝説と〝河内新政権〟の成立」(横田健一先生米寿記念会編『日本書紀研究』第二十七册、所収、塙書房、二〇〇六年)。
(13) 『先代旧事本紀』巻第五・天孫本紀に「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊…(中略)…六世孫建田背命。神服連。海部直。丹波国造。但馬国造等祖。」(鎌田純一『先代旧事本紀の研究』吉川弘文館、一九七八年、による)とある。
(14) 石原由美子氏はその論考「中世但馬の武士の系譜」(『史跡八木城跡』所収、八鹿町教育委員会、一九九四年)のなかで、但馬の旧国造は日下部(くさかべ)氏や神部(みわべの)直(あたい)氏の前身の一族ではなく、養父(やぶ)郡を本貫とする但馬公氏の前身の一族であった可能性が大きいとする、興味深い見解を示しておられる。ただし、紙幅の関係で、私見は別の機会にゆずりたい。
(15) 詳しくは宮津市史編さん委員会編『宮津市史』通史編上巻(宮津市役所、二〇〇二年)の第三章第二節「古墳文化の発展」(肥後弘幸氏執筆)、同第三章第四節「丹後の氏族と伝承」(磯野浩光氏執筆)、瀬戸谷皓『シリーズ但馬Ⅱ 但馬の古代2』(前掲)などを参照。
(16) 私は、河内新政権の成立は別稿「百済王家の内紛とヤマト政権」(前掲)で考証したように、三九一年前後であった可能性が最も大きいと考えている。
(17) 吉田晶『倭王権の時代』(前掲)、同『七支刀の謎を解く』(新日本出版社、二〇〇一年)などを参照。
(18) 三浦到「丹後の古墳と古代の港」(『考古学と古代史』所収、同志社大学考古学シリーズⅠ、一九八二年)、杉原和雄「丹後地域の古墳の出現と展開」(両丹考古学研究会・但馬考古学研究会編『北近畿の考古学』所収、二〇〇一年)など。
(19) 寺沢薫『王権誕生』(前掲)など。
(20) たとえば、平良泰久「国家形成期の日本海」(『歴史公論』八八号、雄山閣、一九八三年)、谷本進「墳形からみた池田古墳と船宮古墳」(『但馬考古学』第七集、但馬考古学研究会、一九九三年)、宮津市史編さん委員会編『宮津市史』通史編上巻の第三章第二節「古墳文化の発展」(前掲)など。

〔挿図表出典一覧〕
図1 宮津市史編さん委員会編『宮津市史』通史編上巻(前掲)。
図2 同右。
図3 金久与一『古代海部氏の系図〈新版〉』(学生社、一九九九年)。
表1 中司照世「五世紀のヤマト政権と若狭」(『つどい』第二五四号、豊中歴史同好会、二〇〇九年)。
(附記)
一、 一、二〇〇九年七月、田中晋作氏著『筒形銅器と政権交替』(学生社)が刊行された。このなかで田中氏は、ヤマト政権の主導権は「三輪勢力→佐紀勢力→河内勢力」へと移動したが、その主たる原因は緊迫化した朝鮮半島情勢に対応し得るだけの軍事力を有していたかどうかという点にあったとし、これを具体的に論証しておられる。説得力に富む見解であり、私も基本的に賛成である。小論の内容に関係している部分もあるので、氏の論文集『百舌鳥・古市古墳群の研究』(学生社、二〇〇一年)と共に読まれることを望む。
   二、丹後・丹波・但馬の考古資料を実見するに当たって、奥村清一郎氏(京都府立丹後郷土資料館資料課)および谷本進氏(兵庫県養父市教育委員会社会教育課)に大変お世話になった。末筆ながら記して厚く御礼を申し上げたい。

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