松尾大社、月読神社から蛇塚、蚕の社へ
2010年1月30日(土) 松尾大社、月読神社から蛇塚、蚕の社へ 小川滋
今月の現地見学は、中司先生以下二十六名参加で、会の初詣を兼ねて松尾大社参詣、その後月読神社、蛇塚、蚕の社を訪れた。
阪急嵐山線松尾駅(10:42)→松尾大社(正式参拝・)→月読神社=バス=帷子ノ辻→蛇塚古墳→蚕の社(木島坐天照御魂神社)=嵐電=四条大宮駅
案内 中司照世先生 (前福井県埋蔵文化財調査センター所長)
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■松尾大社、月読神社から蛇塚、蚕の社へ (会員) 小川 滋
一月の現地見学は、中司先生以下二十六名参加で、会の初詣を兼ねて松尾大社参詣、その後月読神社、蛇塚、蚕の社を訪れた。
九時五十分阪急梅田駅に集合。中司先生作成の見学資料とともに、先回予約していた水谷先生著の『謎の渡来人 秦氏』が配布される。本日は洛西の秦氏関連遺跡を訪ねる旅なので、絶妙のタイミングである。さっそく、行きの電車のなかで見学資料とともに関連部分を一読する。
阪急京都線の特急で出発。天候も良く順調に走っていたが、途中で乗客に急病人が発生したらしく、しばらく停車。このため、桂駅で半数のメンバーが乗り継ぎに失敗するというトラブルがあったが、松尾駅でなんとか全員揃う。但し十八分遅れ。
■松尾大社
赤い大鳥居前で神職さんが待っておられ恐縮する。回廊の前で由緒、社殿等の説明を受けたあと庭園、宝物館の案内をしていただいた。
まず、松尾大社は正式には「まつのおたいしゃ」と読むとのこと。
この地における信仰は、太古の松尾山磐座(いわくら)信仰にさかのぼる。神社としてしては、大宝元年(701年)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営したのが始まりである。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)(太古からの松尾山の神で日枝神社の祭神でもある)と中津島姫命(宗像三神の一神である辺津宮(へつみや)の市杵島姫(いちきしまひめ)の別名)である。
現在の本殿は室町時代の応永4年に建造され、安土桃山時代に改修されたもので、宗像大社・厳島神社と同じ両流造りだが、独特な構造をしている。これを松尾造りと称し、国の重要文化財となっている。後刻の昇殿の際は、回廊の中から両流れの美しい桧皮葺(ひわだぶき)の屋根全体と柱、壁との色合いの調和をじっくりと拝見することができた。
本殿に続く釣殿、中門、回廊は江戸初期の建造である。面白いのは、拝殿側からみると菊のご紋が飾られているが、その上の瓦、また本殿側から見た軒下のところには葵の紋が輝いている。徳川家の権勢が感じられる。
宝物館から亀の井という霊泉にまわる。延命長寿の水だということで、皆で喜んで飲ませていただいた。その後昇殿して、本殿前で祝詞奏上、お祓い、山口会長による玉串奉奠を行う。直会(なおらい)としてお神酒をちょっぴり頂いた後、蓬莱の庭を眺められる脇殿にて新年会が行われた。ここは酒造の神様ゆえ、山口会長の発声により日本酒で乾杯。福引もあり楽しいひと時であった。最後に蓬莱の庭にて鯉に餌を与えたりしながらしばらく時を過ごす。
松尾大社は京都最古の神社とされ、磐坐は平安京ができる前から祭祀の対象となっていました。その後秦氏がスポンサーとなって大宝元年(701)に秦忌寸都理(ハタノイミキトリ)が現在地に社殿を造営したのが始まり。社領をととのえ皇室の崇敬厚く十六菊花紋をいただく格式を備えました。
祭神
大山咋(オオヤマクイ)神(太古からの松尾山の神)
中津島姫命(宗像三神の一神) 別名辺津宮の市杵島姫(イチキシマヒメ)
菊の御紋の上に葵紋
本殿
宗像大社・厳島神社と同じ両流造りであるが
松尾造という独特な構造をしている。国の重要文化財
庭園は昭和の名作庭家重森三玲(しげもりみれい)によって設計されたもので、上古の庭・曲水の庭・蓬莱の庭からなっている。最初に曲水の庭を拝見し、次に上古の庭に行く。ここから四十分も登れば昔の磐座に行けるが、時間もないので、磐座風と称する上古の庭の巨石群と笹を眺めて磐座をしのんだ。宝物館では重要文化財の三体の神像を拝見する。この神像は平安前期の作で、応仁の乱の頃から行方が分からなくなり、明治の廃仏毀釈で神宮寺を壊したときに再発見されたものという。それぞれ大山咋神、市杵島姫命、月読尊(つくよみのみこと)といわれている(根拠はないらしい)。神像の周囲には松尾大社所蔵の古文書が拡大して印刷されている。
■月読神社(つきよみじんじゃ)
松尾大社の後は、徒歩にて400メートル南の月読神社に向かう。松尾大社の境外摂社であるが、延喜式内の古社(名神大社)である。『日本書紀』によれば阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が壱岐で神託を受け天皇に奏上した結果、顕宗天皇3年(487年)に葛野郡歌荒樔田(かどののこおりうたあらすだ)に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請したのが始めという。その後斉衡3年(856年)に現在地に遷座された。
松尾大社と違い、人影もなく、神さびた感じでこれもまた結構だった。境内には神功皇后が筑紫で応神天皇を産む際に腹をなでて安産したと伝える月延石(つきのべのいし)もある。
■蛇塚
当初は阪急で嵐山まで出、嵐電で帷子の辻(かたびらのつじ)に行く予定だったが、松尾大社の神職さんの情報に従い、バスで直行するように変更した。帷子の辻駅前から細い路地を抜け、松竹京都撮影所の裏門の前を通って更に何回か曲がると目の前に岩山のようなものが見えてくる。これが蛇塚である。
桂川左岸の嵯峨野地区には六世紀から七世紀初めの秦氏関連と思われる古墳が並んでいる。平野に近いほうが古く、段の山、天塚(あまづか)、清水山、片平大塚(かたひらおおつか)ときて六世紀後葉の蛇塚となる。その後は甲塚(かぶとづか)、双ケ岡(ならびがおか)一ノ丘、円山と続いていく。
蛇塚は全長75メートルの前方後円墳とのことである。しかし、今は石室の巨石だけしか残っていない(見学資料中の昭和十三年の測量図を見ると、あぜ道が前方後円墳の形になっている)。まさに京都の石舞台という感じである。周囲は細い道路に囲まれ、すぐその外に民家がぎっしりと並んでいる。柵に鍵がかかっていたが、中に入れるはずだという中司先生の一言で、会長が近所の家に鍵を借りにいかれた。しかし帰ってこられる前に目の前のお宅の奥さんが、声が聞こえたのでと言って鍵をもってこられたので、記帳して開けていただく。
中に入ってみると、外から見た印象の何倍も巨大な石室であった。石室の幅は飛鳥の石舞台よりも広い4メートル弱、高さは5メートル強、玄室プラス羨道の長さが18メートル弱というもので、これが二段積みの巨石でできている。体感では石舞台より大きく感じた。説明板によれば、床面積は三重県の高倉山、バス旅行で訪ねた岡山のこうもり塚、石舞台の各古墳に次ぐ全国第四位の広さということである。
蛇塚古墳
■蚕の社(かいこのやしろ)(木島坐天照御魂神社)
帷子の辻に戻り、嵐電で蚕の社に向かう。ここは木嶋坐天照御魂神社(このしまにいますあまてるみたまじんじゃ)という式内社であるが、東本殿の蚕養(こかい)神社の方が名が通っており、蚕の社と呼ばれている。嵐電の駅名も蚕の社だし、駅の横に有る鳥居や石の塔にも大きく蚕養神社と書いてある。
本殿の西の鬱蒼とした林の中には元糺(もとただす)の池があり、三柱鳥居が立っている。三柱鳥居とは柱が三本で三正面、上からの形は三角形という珍しいものである。三角形の中心にあたるところに御幣が立ててある。この鳥居は京都御所内厳島神社の唐破風(からはふ)鳥居、北野天満宮内伴氏社(ともうじしゃ)の伴氏鳥居(蓮弁形台座など)と並んで京都三(珍)鳥居と言われている。
三柱鳥居のいわれは諸説あるようだが、神社入り口の由緒書によると、
「三柱鳥居 全国唯一の鳥居である 鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿祭神の神座であり宇宙の中心を表し四方より拝することが出来るよう建立されている
創立年月は不詳であるが現在の鳥居は享保年間(約三百年前)に修復されたものである
一説には景教(キリスト教の一派ネストル教 約一三〇〇年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと云われている」と記されていた。
秦氏がもたらした景教(アッシリア東方基督教会)の影響を受けたという説もある三角鳥居。そうであればキリストの三位一体を表わす
ここでは全国唯一と書いてあるが、当日野田さんが桜井市三輪と長崎にもあると指摘されたように、ほかにもあるようである。インターネットで調べた限りでは蚕の社を入れて七か所は現存するとある。
元々京都でのみそぎはここで行われていたが、嵯峨天皇の御世に下賀茂に遷されたので、元祖という意味で元糺の池と呼ばれているとのこと。山口会長が以前来られた時は水があったというが、現在は残念ながら湧水が枯れて、池の跡だけ残っている。十年ほど前の下水工事以来水が枯れるようになり、五年ほど前には氏子さんたちで湧水を復活させる会を結成されたようだが、成功しなかった模様。残念なことである。しかし、蚕の社駅のポスターでは満々と水を湛えていた。
十六時前に蚕の社駅で解散となった。本日は天候にも恵まれ有意義な一日を過ごすことができた。
現地での案内とともに詳細な図表を新たに作成頂いた中司先生に感謝いたします。会食準備、福引等含め、本日の現地見学の準備をしていただいた幹事の皆様、また小稿の作成に協力をいただいた野田さんありがとうございました。
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管理人の寄り道(2006.6.3)
松尾大社には社殿の背後の松尾山に7年前まで禁足地だった磐坐があります。
松尾大社の磐坐登山口
磐坐結界
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