四世紀末・五世紀初の大和と河内
つどい263号
兵庫県立考古博物館館長 石野 博信先生
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つどい263
■四世紀末・五世紀初の大和と河内
兵庫県立考古博物館館長 石野 博信
はじめに
本日私は「四世紀末・五世紀初の大和と河内」というテーマを選んだ。このテーマには次のような視点がある。
一つには、現在古墳時代中期は四世紀の終わり頃から始まってきているという考え方が中心になってきているが、この四世紀の終わり頃というのは一体どのような時代なのか、またその頃の大和と河内とはどのような関係だったのかということを考えてみたい、ということである。
二つ目には、奈良盆地西部の馬見丘陵や御所(ごせ)市の地域には、四世紀終わり頃の二百メートルを超える巨大古墳でありながら天皇陵に比定されていない古墳が四~五基ある。長い間私はこのことがとても気になっていながら、まだ考えが定まっていない面もあるが、一度皆さんに聞いていただいて、古墳や古墳以外のことなども含めて考えてみたい、ということである。
三つ目には、この当時の時代背景として、緊迫する東アジア情勢があったということがあげられる。
四世紀初めの朝鮮半島では、高句麗が楽浪郡を滅ぼして南下し、百済を圧迫するようになる。この百済と当時の日本とが協力関係を結んだ具体的な史料として、百済王が倭国王に贈ったとされている「七支刀」が天理市の石上(いそのかみ)神宮に伝えられている。
さらに広(こう)開(かい)土(ど)王(おう)碑文に見られるように、西暦三九一年には倭国軍が朝鮮半島に攻め込んだという国際的に緊張した時代であった。
そういう時代の日本列島内の古墳あるいは動きはどうだったのだろうか。
三輪山山麓の桜井市上之庄(かみのしょう)遺跡では、四世紀終わり頃の滑石製品が出土している。五世紀になると古市古墳群の小さな古墳から滑石製の祭祀用具が大量に出土しているが、これと同じようなものが既に四世紀代から三輪山の麓で作られ、祀られていたと思われる。
一方、九州の玄界灘の信仰の島と言われる沖ノ島で、三角縁神獣鏡をはじめ色々なものが見つかっていて、四世紀の終わり頃から数百年に亘ってマツリが行われていたことがわかった。
そうしてそこから出てくるものから考えると、どうみても地元の九州の豪族などのマツリではなくて、国家的なマツリなのだということが言われている。
そういう時期に、一方では大和の三輪山でマツリが行われ、一方では玄界灘の沖ノ島で航海安全を祈るマツリが始まったと考
えられる。
そうして先ほど言ったような国際情勢の中で船を仕立てて半島へ出かけて行くということからすると、沖ノ島でのマツリは単なる航海安全祈願ではなく、実態としては戦勝祈願ではなかったかと思われる。
日本で大きな古墳を造り始めてからたかだか百年しか経っていない、そういう時に朝鮮半島に軍隊を仕立てて出かけて行くという勢いを持ってきた。そういう時期の大和と河内の関係を見ようというのが三つ目の視点である。
では次に具体的に見てみることにしよう。
一、大型古墳の動向
(一)列島規模では
表1に見るように、西暦四〇〇年前後には日本列島各地域に大型古墳が造られている。
別の言い方をすれば、前期古墳時代を、祭祀を中心とした卑弥呼以来の体制で政治が行われた時代とするならば、四世紀末・五世紀初めの古墳時代中期的社会は、緊迫
した国際情勢を背景に軍事力で政治が行われた時代であり、大量の鎧・冑・鉄鏃など、鉄製の武器類が入ってきた段階の社会であったと言えよう。
(二)大和と河内
表2には、畿内各地域別の古墳群が示されている。
この中で本日の話題の中心となる地域は、奈良盆地の北部の佐紀古墳群、同じく西部の馬見古墳群、河内平野では古市古墳群・百舌鳥(もず)古墳群のある地域である。
(三)大和の大型古墳
①オオヤマトと佐紀
奈良盆地の古墳群の中で、四世紀後半以前のものは東南部のオオヤマト古墳集団である。
次に大王墓が造られたのは佐紀古墳群であるが、この古墳群は東西二つのグループに別れている。
西群の五社神(ごさし)・石塚山・みささぎやま陵山の各古墳は四世紀後半代の全長二百メートル級古墳であり、東群のヒシアゲ・コナベ・ウワナベの各古墳は五世紀前半代の全長二百メートル級古墳というように、西と東とで時期別にきっちり分かれて造られている。
ということは、佐紀東群の古墳が造られた段階では古市・百舌鳥でも並行して同時期の大型古墳が造られているから、大和から河内への政権交代と言うことを考える場合、大和の佐紀丘陵で引き続き五世紀前半の巨大古墳が造られた理由は何かということが問題になる。
今から七、八年前のことになるが、橿原考古学研究所附属博物館で「政権交替」と銘打って特別展を催されたことがあったが、この時は大和から河内への政権交代ではなくて、奈良盆地の中での政権交代、つまりオオヤマトの地域から佐紀の地域へ初期の大王墓が動いたのは何事か?というのがテーマだったようだ。
初期の古墳がオオヤマトから佐紀古墳群へ移動したのは、単に墓地が移っただけで、政権交代では無いと言われていた時期に、橿原考古学研究所附属博物館が、政権交代があったとはっきり打出したのだが、この問題はその後も賛否両論が続いていると思う。
この政権交代が本当にあったのかどうかの検証は、古墳の形や副葬品・埴輪の調査等から進めて行くと思うが、塚口義信氏がよく言われている様に、日本書紀の神功皇后摂政元年二月の条にある、神功皇后とほむたわけ品陀和気(応神天皇)に対するおしくま忍熊皇子、かごさか?坂皇子の反乱伝承等を繋いで考えて行けば、オオヤマトから佐紀古墳群への政権交代はあったかも知れない。
そういう状況がオオヤマトと佐紀古墳群の西群、佐紀古墳群の西群と東群の間に起こって来ている可能性はあると思われる。
②うまみ馬見丘陵
奈良盆地西部の馬見丘陵で最大の規模を誇る巣山(すやま)古墳は国の特別史跡に指定されている。今から四、五年前のことになるが、この古墳で史跡整備のための発掘調査が行われた際、古墳前方部西側のほぼ中央部で、墳丘から周濠に張り出す島状遺構が現れた。これは先端部分に石を立てているという遺構で、埋葬施設では無く、祭祀遺跡と考えられる。
図1は巣山古墳、図2はその張り出し部分(島状遺構)を示す。
私が、最初この島状遺構を見た時に、三重県伊賀市で発掘された四世紀後半の城(じょう)之(の)越(こし)遺跡の大溝祭祀遺構との類似性を強く感じた。(図3)
この城之越遺跡の大溝遺構の石張りや突端部、また、石を立てた石組の雰囲気が、巣山古墳の周壕から現れた島状遺構のそれと酷似している。
こうした状況を考えると、単独で建物と共に祭祀を行う場所を造った庭を、お墓の中に移し込んだのが巣山古墳の島状遺構ではないか思われる。
それから、この巣山古墳の島状の出っ張りの外側に、径が一・五メートル位の瓢箪形の石組が出て来たが、現在のところ他には類例が見つからないので、その正体はわからない。
ただ、関連がないとは思うが、似ているといえば、島根県江津(ごうつ)市にある弥生時代終り頃のならはま波来浜遺跡などに、四隅突出型墳丘墓の外側に丸い石積みの施設を幾つも持つものがある。しかし、年代も地域も違うので直接の関係は認め難い。
いずれにせよ、四世紀末の葛城地域の大豪族が、伊賀の地域のいつき齋の庭のマツリと同じ様なマツリをしていた状況が確認出来た。
③葛城
奈良盆地の南端に、四世紀後半の二百メートル級のむろみややま室宮山古墳がある。
この古墳は葛城地域最大の古墳で、その被葬者は葛城氏の初代とされている葛(かつら)城(ぎの)襲(そ)津(つ)彦(ひこ)であろうと言われている。
『日本書紀』によると、葛城襲津彦は大和の王の命令を受けて朝鮮半島に渡って武勲をたて、半島の新しい技術を持った人達を集団で連れ帰って葛城地域の各地に住まわせたというようなことが書かれている((1))。
近年、橿原考古学研究所で行われた御所市の南郷遺跡群一帯の発掘で、祭祀遺跡を始め、大量の韓式土器などが出土し、これ等の遺跡は渡来系工人の集落遺跡である事がはっきりし、『日本書紀』の記述が真実であることが裏付けられる事になった。
それまでは『日本書紀』の記述についてひとつの疑問があった。
それは、大王の命によって朝鮮半島に渡った葛城襲津彦が、新しい技術を持った渡来人集団を連れて帰ったが、それらの技術集団を大王に献上せずに、勝手に自分の本願地に住まわせる事ができたのだろうか、という疑問であった。
しかし、上述のようなことが明らかになってきたことから、当時の大王の権力はその程度のものであったか、もしくは葛城襲津彦の力はそれくらい強かった、と言う風に考えざるを得ないというようなことが、判って来たということになる。
日本書紀の記述からも考古学的事実からも 大王と同じくらいの二百メートル級の墓を造る人物というのは、大王に匹敵するだけの力を持っていたということが、このことからも言えるのではないかと思われる。そうして、そういう古墳の一つが室宮山古墳であろうと思われる。
(四)河内の大型古墳
つどうしろやま津堂城山古墳は古市古墳群の中で一番古
いとされている二百メートル超の古墳で、図4はその測量図である。
この古墳は大王墓に比定されていない。すなわち、四世紀の後半に造られた古市古墳群の中で最も古く最も大きいこの古墳を造った豪族は、後に大王に比定されるような人物ではない人物であったことになる。
津堂城山古墳の周壕には、約一〇メートル四方の島状遺構がある。
馬見丘陵の巣山古墳で島状遺構が出た時
には、津堂城山古墳の島状遺構と良く似ていると言われたが、同じ様な時期の大和と河内に、同じ様な島状遺構が造られ、同じように水鳥が配置されている。
巣山古墳の島状遺構には水鳥だけでなく、家形埴輪や色々な埴輪があったので、両者には若干の違いはあるが、四世紀末の河内と大和の、大王墓には比定されていないが大王に匹敵する力を持った豪族の墓の濠の
中に、石張りの島が造られて、何らかの儀礼・祭祀が行われていたと言う、共通性が考えられる。
この様な観点から、大和の古墳と河内の初期の古墳との間に共通性と共に違いもあり、大和政権と河内政権の関係について一体説と交代説がある。
私はこの時期の事は余りきっちりした研究をしていないが、印象としては、『日本書紀』に言われている様に、この時代の都の多くが大和の桜井周辺にある事から、墓だけが河内に造られたのであり、大和政権が河内に進出して改革をしたと考えており、河内政権と言われるものは無いという立場を採っている。
しかし、この問題はまだまだ決着をしていない。
二、導水施設とかこいがた囲形埴輪
考古学では、墓でも居館でもない、用途が明確でない遺跡が発掘されると、よく祭祀遺跡であろうとされるが、そのようなものの中に導水施設と呼ばれるものと、古墳から出てくる囲形埴輪と呼ばれるものがある。
(一)導水施設
東大阪市の西ノ辻遺跡には池状施設を連接した導水施設がある。水源地から木樋を伝い、途中数カ所の連なった五世紀初頭の石張りの長方形の池を通って流れるようになっている。それぞれの池の場所では何らかの儀礼が行われていたと考えられている。
大和(奈良市紀寺)ではきでら紀寺遺跡で同様な五世紀初頭の石張の池を連ねたような施設が出土している。出土当初は豪族居館の石垣かと思われていたが、その後調査が進んで小さい池が連続したものだということがわかった。
これを更に大規模にしたものが葛城地域にある。御所市なんごうおおひがし南郷大東遺跡である。幅五~六メートル、深さ一・二~一・三メートル程の谷川を石積みによって堰き止め、堰から下流の施設までずっと木樋によって水を送っている。施設は中央の木樋を覆うように建物があり更にその周囲は柵で囲まれている。ここで儀礼が行われたと考える理由は、溝から琴・木刀・サルノコシカケ(霊(れい)芝(し)。鏡の図柄に霊芝を捧げる羽人がある)・桃の種(桃は色々なマツリに登場する食物)・大量の焼けた木片等が出土したからである。図5はその施設で行われた儀礼のイメージである。
焼けた木片は、まきむく纒向遺跡でも祭祀用具を納めた穴の中から大量に出土する。東大寺で行われるいわゆる「お水取り」では、大きな松明が振られるが、その際には周囲に大量の焼けた木片がまき散らされる。その焼けた木片の形は、まさに纒向の出土品とそっくりである。このことから導水施設での儀礼も、かがり火を焚いた夜祭りであったと考えられる。
古代のマツリというものは、夜のマツリが圧倒的に多かったのではないだろうか((2))。
このように導水施設を用いる同様の儀礼が大和でも河内でも行われていたのである。
南郷大東遺跡からは大量の馬の歯が出土した(丁寧に埋葬されたものではなく、バラバラの状態で)、牛・犬・猪の骨もある。
奈良県天理市のいそのかみ石上神宮の傍の布留(ふる)遺跡でも、四~五世紀の木刀や大量の馬の骨が出土している。このことは、雨乞いなど生け贄を捧げるお祭りが行われていたことを示していると考えられる。
現在知られている最古の導水施設は纒向遺跡(二世紀末~四世紀半ば)から出土し三世紀後半のものである。それが五世紀初頭には先に挙げた施設のように大規模になって石張りの池を伴うようになる。清い水を用いる儀礼は更に後の時代にも続いた。明日香村のさかふねいし酒船石の周辺から、飛鳥時代の大規模な水祭りの施設が発掘されている。
このような導水施設が見出されるのは今のところ畿内が中心だが、今後調査が進めば、各地で見出されるであろうと思われる。
さて、南郷大東遺跡には不思議なものがある。それは、導水施設のすぐ近くの溝に、建物の屋根材が落ち込んでいるところがあり、人の寄生虫卵が一立方センチメートルあたり二千~三千個という高密度で屋根材に付着して発見されたことである。
同様な寄生虫卵の集中は、纒向遺跡の導水施設にも見出されている。この寄生虫卵の密度は、分析したかねはら金原まさあき正明氏(奈良教育大学)によると、いわゆる昔の「ポッタントイレ」の糞尿と同様なのである。この纒向遺跡での寄生虫卵の発見をきっかけにして、「日本トイレ学会」が発足し、現在も活動を続けている。
どうして導水施設のすぐ脇にこのような場所があるのか。導水施設は儀礼の施設ではなくて、水洗トイレだったというのか。土壌を分析して寄生虫卵の集積を発見した金原氏は、花粉分析の専門家なのだが、トイレでいいではないかという。
『古事記』にあるスサノオの乱暴狼藉の中に、「クソまり散らし・馬の逆剥ぎ」などという話がある。そこで私は、古墳時代には「クソ撒き儀礼があったのだ」などと言ったりしているが、私はやはり、清い水を用いる儀礼のための施設であり、その後スサノオ的な儀礼があったと考えている。
(二)囲形埴輪
導水施設を埴輪で表したと考えられのが、囲形埴輪である。図6は八尾市のしおんじやま心合寺山古墳から出土した囲型埴輪で、いわば導水施設のミニチュアであり、床部には導水管が表現されている。周囲の垣根の先端はギザギザになっている。伊勢神宮の玉垣のように先端が三角形をしている垣根を表しているのだろう。
藤井寺市狼塚古墳から出土した囲形埴輪には、中央に粘土で作った木樋形がある。
囲形埴輪は古墳の墳丘裾などから出土するので、古墳で行われた葬送儀礼に導水施設を使うようなものがあったのか、被葬者が生前に行った祭祀の中にあったことを表すのか。
紀寺遺跡や南郷大東遺跡の附近は、朝鮮半島からの渡来人の住む地域で、朝鮮半島がそのルーツである四世紀後半~五世紀初頭の大壁建物(丸柱を透き間なく立て並べ、表面を土で塗り固めて壁とする)が鉄滓(金くそ)と共に出土する。ここに住んだ渡来人は、葛城襲津彦が朝鮮半島から連れてきたという渡来人であろうか。導水施設で行われる祀りもルーツは朝鮮半島なのか。
三 祭殿と高倉群と長江
(一)祭殿
仁徳天皇の皇后のいわのひめ磐之媛は葛城襲津彦の娘だが、大層な妬きもちやきだった。自分の留守中に仁徳が浮気したことを知って激怒し、淀川を遡って平城山(ならやま)まで帰ってきて、「自分が見たいのは葛城の高宮の我が家のあたりだ」と言って、二度と仁徳の宮に帰らなかったと言われている。高宮というが、葛城に本当に高い建物があったのだろうか((3))。
南郷大東遺跡の南隣りの御所市ごくらくじ極楽寺に極楽寺ヒビキ遺跡がある。そこは、独立丘陵の先端を一〇〇メートル四方程削平して石垣を造り、柵で囲んで、内部に祭殿と考えられる大型建物一棟(これが葛城の高宮かもしれない)と小型の建物二棟を設けている。大型建物の柱は厚さ一五センチメートル・幅四〇センチメートルの板柱で柱穴の深さは一・二~一・三メートルであった。
同様の板柱建物は奈良市でも発見されている。板柱は通常の丸太の柱に比べ横木を支える部分が狭いという欠点があるのに、なぜわざわざ採用したのであろうか。柱に楯を描いた埴輪(柱に楯を立てかけていることを表しているのだろう)が大阪府八尾市みその美園古墳から出土しているが、楯を立てかけるにしても、丸柱でも一向に差し支えないはずである。
(二)高倉群
和歌山市鳴滝に面積六〇~八〇平方メー
トルの大型の高床建物が七棟出土している。五世紀前半の倉庫群と思われる。大阪の法円坂からは、五世紀後半の大型倉庫が十六棟出土している((4))。
清寧天皇即位前紀には、雄略天皇が薨じたときに、母のきびのわかひめ吉備稚姫の「天皇になろうと思えば、大蔵を取れ」という示唆に従って星川皇子が大蔵を占領して、そこに立てこもっているところを、おおとものむろやのおおむらじ大伴室屋大連が取り囲んで火を付け、焼き殺したと記されている。吉備稚姫はきびのかみつみちのおみ吉備上道臣たさ田狭の妻であったが、田狭がその美貌を自慢するのを聞いた雄略が、田狭を朝鮮半島に派遣し、その留守中に自分の女御(みめ)にしたと言われている。
五世紀段階では、大王家はもちろん、トップクラスの豪族達も税に当たるような物資を集めて倉庫に保管していたものと考えられる。
(三)葛城長江
葛城襲津彦は葛城氏の始祖とされる人物で四世紀末のひとである。『古事記』孝元天皇の段では、葛城のながえのそつびこ長江曾都毘古と記されている。
この名前にある「長江」というのは、長い水路を造るような大土木工事を実施できる人という意味である。ところで、私は多数の渡来人技術者を抱えている襲津彦が実際に葛城の長江を造って、葛城地域の大規模開発を行ったのではないかと考えている。図7に点線で示したのは吉野川分水を参考にして想像した長江である。襲津彦の墓と考えられる室宮山古墳の附近で葛城川から分岐して山の中腹をたどるルートである。実際、分岐点の位置の標高が一番高いのである。ところが、ルートの途中には何カ所か谷を渡る必要があり、そのようなことが本当に出来るのかと問われるのだが、五世紀後半の群馬県の三ツ寺遺跡では四〇メートルの堀を木樋で渡っている例があり、襲津彦にとっては十分に可能な工事であると考える。
五世紀は茨田の堤や各地の池など幾つもの大土木工事が行われた世紀なのである。
おわりにー大王居館は機能別の建物群かー
群馬県の三ツ寺遺跡では五世紀後半の例だが、八〇メートル四方の敷地の範囲に種々の建物群がすべて集中していて、豪族居館と考えられている。しかしながら畿内では、五世紀代のものは豪族居館はもちろん大王の宮跡すら発見されていない。
畿内では、先の例で見られるように倉や祭殿と見られる大型建物などが一つの区画内に配置されず、それぞれに独立して存在している。大王家でも、後の時代の宮のように都の中心に集中して建物が存在するようなことはなく、機能別の建物群が広い範囲(例えば、一~二キロメートル)に散在しているのではなかろうか。そうだとすると、既にその一部が発掘されているのに気づいていないのかもしれない。雄略の「は長せ谷の朝倉宮」もそういう意識で広範囲に調査すれば、姿が見えてくるのではなかろうか。
【注】
(1)神功紀五年三月条に「そつひこ襲津彦・・・。すなわ乃ちしらぎ新羅にいた詣りて、たたらのつ蹈鞴津にやど次りて、さわらのさし草羅城をぬ抜きてかへ還る。こ是の時のとりこ俘人ら等は、いま今のくははら桑原・さび佐糜・たかみや高宮・おしぬみ忍海、すべ汎てよつのむら四邑のあやひと漢人ら等がはじめのおや始祖なり。」とある。
佐糜については現在のごせ御所市ひがしさび東佐味・にしさび西佐味に比定し、忍海については現在の葛城市おしみ忍海に比定されている。桑原及び高宮の比定については、人によって意見が分かれているようである。
(2)崇神紀十年条に次のような記述がある。
「是(こ)の後(のち)に、倭迹迹(やまととと)日百襲姫(びももそひめの)命(みこと)、おほものぬし大物主のかみ神のみめ妻と爲(な)る。しか然れども其のかみ神つね常にひる晝は見(み)えずして、夜(よる)のみ來(みた)す。」
「かれ故、ときのひと時人、其のはか墓をなづ號けて、はしのみはか箸墓とい謂ふ。こ是の墓は、ひる日はひと人つく作り、よる夜はかみ神つく作る。」
このように、古代には、日中は人間の時間で、夜は神様の時間というような観念があったように思われる。
(3)仁徳紀三十年九月条に、仁徳天皇の皇后の磐之媛について次のような記述がある。
「すなは即ちならのやま那羅山をこ越えて、葛(かづら)城(き)をみのぞ望みてみうたよみ歌して曰はく、
つぎねふ やましろがは山背河を みや宮のぼ泝り わ我がのぼ泝れば あをに青丹よし なら那羅をす過ぎ をだて小楯 やまと倭をす過ぎ わ我がみ見がほ欲しくに國は 葛(かづら)城(き)たかみや高宮 わぎへ我家のあたり」
(4)豊中歴史同好会の毎月の例会が行われている蛍池駅前のルシオーレビル付近は、蛍池東遺跡とよばれるが、ここからは鳴滝遺跡や法円坂遺跡よりもさらに大きい五世紀の大型建物が発見されていて、最多十~十二棟あった可能性があるとされている。
詳しくは次の資料を参照されたい。
*大阪府文化財調査研究センター 合田幸美「五世紀の大型建物遺構について」『つどい』第一五六号 〇一・五・一
*金光正裕「蛍池東遺跡(1・2)」『宮の前遺跡・蛍池東遺跡・蛍池遺跡・蛍池西遺跡 一九九二・一九九三年度発掘調査報告書』(財)大阪文化財センター 一九九四年
(文 責) 阪口・石塚・野田