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古代日本における聖婚と服属

つどい275号

古代日本における聖婚と服属

-神武伝説・コノハナサクヤビメ神話における成婚伝承の意味すもの-
堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口義信先生

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古代日本における聖婚と服属
-神武伝説・コノハナサクヤビメ神話における成婚伝承の意味すもの-
堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口義信先生
はじめに
 『古事記』(以下『記』と略す)によると、大和を平定して畝火(うねび)の白檮原(かしはらの)宮で即位した神武天皇は、その後、大久米(おほくめの)命の仲立ちによってイスケヨリヒメ(伊須気余理比売)を大后(おほきさき)(皇后)とするが、彼女はじつは、「神の御子」であったという。
すなわち、大久米命が神武にたいしていうには、
 此間(ここ)に媛女(をとめ)あり。こを神の御子と謂(い)ふ。その神の御子と謂(い)ふ所以(ゆゑ)は、三島(みしまの)溝)咋(みぞくひ)の女(むすめ)、名は勢夜陀多良(せやだたら)比売、その容姿(かたち)麗美(うるは)しくありき。故、美和(みわ)の大物主(おほものぬしの)神、見感(みめ)でて、その美人(をとめ)の大便(くそ)まれる時、丹塗矢(にぬりや)に化(な)りて、その大便(くそ)まれる溝(みぞ)より流れ下(くだ)りて、その美人(をとめ)の富登(ほと)を突(つ)きき。ここにその美人(をとめ)驚きて、立ち走りいすすきき。すなはちその矢を将(も)ち来て、床の辺(べ)に置けば、忽(たちま)ちに麗(うるは)しき壮夫(をとこ)に成りて、すなはちその美人(をとめ)を娶(めと)して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすけよりひめのみこと)と謂(い)ひ、亦(また)の名は比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)こはそのほとと云ふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。と謂(い)ふ。故(かれ)、ここをもちて神の御子と謂(い)ふなり。と。

―神武天皇にはすでに阿比良比売(あひらひめ)という妻があり、二人も皇子を儲けていたにもかかわらず、なぜ大物主神の娘を大后として迎える必要があったのか。またこの説話は、どのような史的背景のもとで生まれてきたのか。こうした点を究明するのが、小論の課題とするところである。

一 大物主神系の所伝と事代主神系の所伝
 神武の成婚伝承については、上述した『記』の伝承のほかに、『日本書紀』(以下『紀』と略す)に有力な異伝がある。
(2) 庚(かのえ)申(さるの)年(とし)の秋八(は)月(つき)の癸(みづのとの)丑(うし)の朔戊(つちのえ)辰(たつのひ)に、天皇(すめらみこと)、正妃(むかひめ)を立てむとす。改めて広く華冑(よきやから)(貴族の子孫―塚口の注。以下も同じー)を求めたまふ。時に人有(あ)りて奏(まう)して曰(まう)さく「事代主(ことしろぬしの)神、三嶋溝耳(みしまのみぞくひみみの)神の女(むすめ)玉櫛(たまくし)媛に共(みあひ)して生める児を、号(なづ)けて媛蹈鞴五十鈴(ひめたたらいすず)媛命(みこと)と曰(まう)す。是(これ)、国色(かほ)秀(すぐ)れたる者(ひと)なり」とまうす。天皇悦(よろこ)びたまふ(「神武紀」)。
(3) 又曰(い)はく、事代主神、八尋熊鰐(やひろわに)に化為(な)りて、三嶋の溝(みぞくひ)姫、或(ある)は云(い)はく、玉櫛(たまくし)姫といふに通(かよ)ひたまふ。而(しかう)して児姫(みこひめ)蹈鞴五十鈴姫命を生(う)みたまふ。是(これ)を神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)火火出見(ほほでみの)天皇(すめらみこと)(神武)の后(きさき)とす(「神代紀」上・第八段宝剣出現章の一書の第六)。

(1)と(2)(3)との最も大きな相違点は、前者が皇后の出自を大物主神に求めているのにたいし、後者は事代主神としている点である。いずれがより古い伝承であろうか。まずこの点の考察からはじめよう。
(1)の所伝で見逃すことのできないのは、それが「美和の大物主神」を中心とした伝承であるにもかかわらず、そのなかに、三輪(奈良県桜井市)の地からは遠く離れた摂津の嶋下郡の地名が見いだされることである。「三島の溝咋」がそれであり、この名が摂津の嶋下郡の地名に基づいていることは、同郡に三島鴨神社と溝咋神社が鎮座していたとする『延喜神名式』の記載からして、ほぼ確実である。なぜ大物主神は三島の溝咋の女性を娶(めと)らねばならなかったのか。
 この疑問を解く鍵の一つは、大物主神が丹塗矢と化し、厠(かわや)に入ったセヤダタラヒメの陰部を突いたという神婚伝承のありかたに秘められているように思う。というのは、周知のごとく、この伝承は『釈日本紀』所載「山城国風土記」逸文の「可茂(かも)の社(やしろ)」の条に記されている次の説話と、まったくおなじ類型に属するものであるからである。

……(上略)賀茂建角身(かもたけつのみの)命(みこと)、丹波(たには)の国の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)にみ娶(あ)ひて生(う)みませるみ子、名を玉依日子(たまよりひこ)と曰(い)ひ、次を玉依日売(たまよりひめ)と曰(い)ふ。玉依日売、石川(いしかは)の瀬見(せみ)の小川(をがは)に川遊(かはあそ)びせし時、丹塗矢(にぬりや)、川上(かはかみ)より流れ下(くだ)りき。乃(すなは)ち取(と)りて、床(とこ)の辺(へ)に挿(さ)し置(お)き、遂(つひ)に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。……(中略)……乃(すなは)ち、外祖父(おほぢ)のみ名に因(よ)りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と号(なづ)く。謂(い)はゆる丹塗矢は、乙訓の郡(おとくにのこほり)の社(やしろ)に坐(いま)せる火雷(ほのいかつちの)神(かみ)なり。……(下略)

 右の説話が鴨(賀茂)氏に関わるものであることは明らかであるが、一方、三島の地には上述したごとく、三島鴨神社が鎮座する。してみると、(1)の丹塗矢伝承は本来、三島の地で語られていた鴨氏系の神婚伝承であったとみるのが妥当である(1)。

 ちなみに、セヤダタラヒメの名前は一般に、「セヤはソヤと同じ。ソヤは金属の矢じりの矢。タタラは『立たれ』の古い名詞形であるから、セヤタタラは『矢を立てられ』である(2)」などと理解されている。しかし、そうではないのではあるまいか。溝咋神社(大阪府茨木市五十鈴町)の南西約二キロメートルの地にある東奈良遺跡から銅鐸・銅戈の鋳型やフイゴの羽口などが出土しており、当地に鋳造関係の技術者集団が居住していたことを示している。そうすると、セヤダタラヒメやホトタタライススキヒメのタ(ダ)タラはやはり、鋳造のさいに用いる蹈鞴(たたら)の意と解すべきで、これらの名は当地に鴨氏系の鋳造技術者集団が居住していたことを暗示する。

 それはともかく、以上のごとく『記』の伝承の基層部が本来鴨氏の伝承であったとすると、皇后の父を事代主神とする(2)(3)の伝承のほうが、より原形に近いと言えるのではあるまいか。なぜなら、鴨(○)都波八重事代主神社(大和国葛上郡)、高市御県坐鴨(○)事代主神社(同高市郡)といったように「鴨」と「事代主神」とは密接不可分の関係にあるが、一方、三輪関係の所伝がいっさい出てこない、明らかに三島の鴨氏に関わる伝承と推定される(2)(3)にもまた、事代主神が分かち難い存在として登場しているからである。おそらく『記』の所伝の伝承者は、鴨氏の丹塗矢型神婚伝承に三輪関係の伝承を接合させることによって、皇后の父を事代主神から大物主神に改変したのであろう(3)。

 なお、『紀』の所伝では事代主神が丹塗矢ではなく、「八尋熊鰐(やひろわにわに)」となって三嶋溝?姫のもとに通っているが、これは冒頭に「又曰(い)はく」とあるように、『紀』の編述者が異伝を採録したからである。すなわち、ひとくちに鴨氏関係の所伝と言っても、そこにはいくつかの異伝が存在していたのであり、『紀』の編述者はそのうちの一本を「神代紀」上に収録したのである。そしてこの異伝は神武の祖母(豊玉姫)の「本(もと)つ国(くに)の形(かたち)」(自分の国での姿)が「八尋和邇(やひろわに)」(『記』)、「八尋大熊鰐(やひろのわに)」(「神代紀」下・第七段海宮遊幸章の一書の第一、一書の第三)であったとする所伝と共通していることからみて、おそらくこうした系統の所伝の影響を受けて改変したものと推測される。したがって鴨氏の伝承としては丹塗矢型伝承のほうが古く、「八尋熊鰐」のそれは二次的に発生した可能性が大きいと考えられる。
 『記』の所伝より『紀』のそれのほうが古いと考えられることは、次のことからも言える。すなわち、もし皇后の父が大物主神であるとする所伝のほうが本来的なものであったとすると、それは意富多多泥古(おほたたねこ)が大物主大神を祭る話(『記』崇神天皇の段、後掲史料を参照)と齟齬をきたしてしまうこととなる。『記』によれば、意富多多泥古が大神を祭ることになった理由は、ほかならぬ彼が大神の子孫であったことによる。ところが、皇后の父が大物主大神であったとすると、崇神もまた大神の子孫であったことになる。そうすると、『記』の記事に則して考える限り、崇神みずからか、もしくは崇神の血脈につながる人が大神を祭ればよいのであって、わざわざ意富多多泥古をさがし求める必要もないのである。これは明らかに『記』の自己矛盾である。しかるに、『紀』では皇后の父を事代主神としているから、何の矛盾もない。この点からも、『記』より『紀』のほうが、より古い伝承であったと言うことができる(4)。
 さらに、天皇の出自と陵墓伝承との整合性の問題もある。『紀』によると、神武天皇、綏靖(すいぜい)天皇、安寧(あんねい)天皇、懿徳(いとく)天皇の陵墓はそれぞれ、畝傍(うねびの)山(やまの)東北(うしとらの)陵(みささぎ)、桃花鳥田丘(つきだのをかの)上陵(うへのみささぎ)、畝傍山南御陰井上陵(うねびのやまのみなみのみほとのゐのへのみささぎ)、畝傍山南纖沙谿上陵(うねびのやまのみなみのまなごのたにのかみのみささぎ)と称され、鴨氏が奉斎していた高市御県坐鴨事代主神社(橿原市雲梯(うなて)町(ちょう))が鎮座する畝傍山近傍の地に営まれた、と伝えられている。ところが興味深いことに、これら四人の天皇はいずれも出自のうえで、鴨氏と非常に深い関わりを有しているのである。神武天皇の正妃の媛蹈?五十鈴媛命、綏靖天皇、安寧天皇の母はいずれも事代主神の娘であり、懿徳天皇の母は事代主神の孫である鴨王(かものきみ)の娘と伝えられている。これは決して偶然とは思われない。陵墓地選定の背景にはさまざまな事情が考えられ、簡単には言えないのであるが、被葬者の出自に関わっている場合が少なくない。すなわち、被葬者の本拠地にその奥津城が営まれている場合が少なくないのである。とすると、彼らの陵墓が畝傍山近傍の地に営まれたとするこれらの伝承は、じつは事代主神との関係から生じてきたものではないかと推察される。もちろん、これらはあくまでも一つの伝承であって、歴史的事実とは考えられないが、ともかく彼らの陵墓伝承は事代主神と不可分の関係にあったと考えられるのである。
 一方、事代主神との関係を一切伝えない『記』にあっても、彼ら四人の陵墓の所在地は『紀』のそれとほぼ同じで、畝傍山近傍の地に営まれたと伝えられている。『記』では神武天皇の嫡后の父や綏靖天皇の祖父を大物主神とし、安寧天皇、懿徳天皇の母を師木(しき)県份份主(あがたぬし)の出身としているのであるが、なぜ三輪山や師木(磯城)の地から遠く離れた畝傍山近傍の地に彼らの陵墓が営まれたとされているのであろうか。大物主神や師木県主が畝傍山近傍の地と深い関わりをもっているのなら理解できるのだが、そうした証跡はほとんど知られていないので、『記』の陵墓伝承は不可解というほかない。
このようにみてくると、事代主神との関係を語る『紀』の所伝のほうが本来的なものであり、『記』の所伝は『紀』のそれを改変したものではないかと考えざるを得ないことになる。
ただし、『記』の所伝が改変されたものであると言っても、皇后の父を大物主神であると主張するだけの根拠はあったと考えられる。『記』の所伝は綏靖、安寧、懿徳の各天皇が師木県主の祖先の娘を娶ったと伝えられていることからみて、師木県主系統の伝承であったと推測されるが、この一族の本拠地は三輪山の近傍に存在した。したがって大物主神をもち出す根拠はあったのである(5)。そしてこの伝承は神武による磯城地方の制圧やニギハヤヒノミコト(のちの物部氏)の服属と不可分であって、ある時期に起こった歴史的事実を背景として形成されてきたものであると私は考えている(6)が、ここでは深入りは避けておきたい。
では、『記』の神武天皇とイスケヨリヒメの成婚伝承にはいつたい、どのような意味が込められているのであろうか。

二 神武天皇の大和平定と大物主神
右の疑問を解く手がかりは、ほかならぬ大物主神の性格自体にあると考えられる。「神代紀」では大物主神は大己貴(おほなむちの)命(みこと)の別名とされているが、いうまでもなくこのような所伝はのちの時代に成立したものであって、本来、大物主神は出雲とはなんのゆかりもない神であった。
大物主神の性格をもっともよく表しているのは、「崇神記・紀」の伝承である。
この天皇の御世(みよ)に、份病(えやみ)多(さは)に起こり人民(たみ)死にて尽(つ)きむとしき。ここに天皇愁(うれ)ひ歎(なげ)きたまひて神牀(かむどこ)に坐(ま)しし夜、大)物主(おほものぬしの)大神、御夢(みいめ)に顕(あら)はれて曰(の)りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)をもちて、我が御(み)前(まへ)を祭らしめたまはば、神の気(け)起こらず、国安らかに平らぎなむ」とのりたまひき。ここをもちて駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(かふち)の美努(みのの)村にその人を見得(みえ)て貢進(たてまつ)りき。ここに天皇、「汝(な)は誰(た)が子ぞ」と問ひたまへば、答へて曰(まを)ししく、「僕(あ)は大物主大(の)神、陶津耳(すゑつみみの)命の女、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶して生める子、名は櫛御方(くしみかたの)命の子、飯肩巣見(いひかたすみの)命の子、建甕槌(たけみかづちの)命の子、僕(あれ)意富多多泥古ぞ。」と白しき。ここに天皇大(いた)く歓(よろこ)びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民(たみ)栄えなむ。」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古命(の)をもちて神主(かむぬし)として、御諸(みもろ)山に意)富美和(おほみわ)の大神の前を拝(いつ)き祭りたまひき。また伊迦賀色許男命(の)に仰(おふ)せて、天の八十毘羅訶(あめのやそびらか)を作り、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)の社(やしろ)を定め奉(まつ)りたまひき。また宇陀(うだ)の墨坂(すみさかさかの)神に赤色の楯(たて)矛(ほこ)を祭り、また大坂神(の)に墨(くろ)色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉に遺(のこ)し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りたまひき。これによりて份病(えやみ)の気(け)悉に息(や)みて、国家(あめのした)安らかに平らぎき(「崇神記」による)。

この伝承は河内の陶邑で須恵器生産が開始された五世紀以降の時代に成立したものと考えられる(7)が、ここで重要なのは、大物主神とともに宇陀(うだ)の墨坂神と大坂神(大坂山口神社、奈良県香芝市穴虫(あなむし)と逢坂(おおさか)に鎮座)が祭られていることである。墨坂・大坂はそれぞれ大和から東方・西方に行く場合の要路の境界点に当たり、いわばこの両地の域内が大和のクニの範囲である。「我は是(これ)倭国の域(さかひ)の内(うち)に所居(を)る神、名を大物主神と為(い)ふ」(「崇神紀」七年二月丁丑朔辛卯の条)とある「倭国の域の内」や、「此(こ)の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭(やまと)成(な)す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久(この神酒は私の神酒ではない。倭の国を造成された大物主神がお作りになった神酒である。幾世までも久しく栄えよ栄えよ)」(同八年十二月丙申朔乙卯の条の歌謡)の「倭」も、おそらくこの境域内を指しているものと考えられる。
してみると、大物主神とは大和のクニに君臨した地主神(守護神)であり、まさしく「倭成す 大物主」であったと言ってよい。「雄略紀」七年七月甲戌朔丙子の条に「朕(われ)、三諸(みもろの)岳(をか)の神の形(かたち)を見むと欲(おも)ふ。或(ある)いは云(い)はく、此(こ)の山の神をば大物主神と為(い)ふといふ。或いは云はく、菟田(うだ)の墨坂(すみさかの)神(かみ)なりといふ」とあり、墨坂神は大物主神と同一視されているが、これも以上のような事情によるであろう。
流行病の原因を大物主神の意志によるものとする「崇神記・紀」の伝承の意味については、後世、官祭として行われていた鎮花祭が参考となる。鎮花祭は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市三輪に鎮座)と「大神之麁御霊(あらみたま)(荒御魂)」を祭る狭井(さい)神社(大神神社境内に鎮座)の祭りであるが、季春の三月、花の飛散するとき、疫神が四方に分散し、疫病を起こすによって、これを鎮遏(ちんあつ)するために行う祭祀であるという(『令集解』『令義解』)。
そうだとすると、疫病が起こったので大物主神を祭ったとする上掲の説話がこの祭りと無関係であるとはとうてい考えられず、おそらくそれは本来、この鎮花祭の起源説話として語られていたものに相違ない(8)。この祭りは神祭料の比較からも知られるように、狭井神社がその主体をなしていたと考えられるが、この社名を聞いてただちに想起されるのは、次に掲げる狭井河の起源説話である。

その河(かは)を佐韋(さゐ)河(がは)と謂(い)ふ由(ゆゑ)は、その河の辺(へ)に山由理(やまゆり)草多(さは)にありき。故(かれ)、その山由理草の名を取りて、佐韋河と号(なづ)けき。山由理草の本(もと)の名は佐韋と云(い)ひき(「神武記」)。
 説話の史実性については定かでないが、狭井が山百合(やまゆり)に結びつけられている点は注目に値する。というのは、山百合の根は薬物であるから、疫病鎮遏の神たる狭井神の性格を、この説話はもののみごとに語っているからである。
 このようにみてくると、狭井神の鎮座する狭井河のほとりに家があったと伝えられるイスケヨリヒメが、大和のクニの守護神たる大物主神を奉斎する三輪山の巫女の象徴化された存在であったことは、もはや明らかである。してみれば、このことと神武が大和平定の立役者であったこととは決して無関係ではなく、古代人の心意に則して言うならば、神武はこの女性と「一宿御寝(ひとよみね)」(聖婚)することによって、はじめて真の意味における大和のクニの支配者になりえたと認識されていたのであろう。神武が大和平定の主人公であったことと、イスケヨリヒメが大和のクニの守護神たる大物主神の娘であったこととは、決して偶然ではないのである。神武の皇后選定伝承に大物主神が登場しなければならなかったのは、おそらく以上のような理由によるであろう。この点、『記』は『紀』にくらべ、天皇による国土統治の正当性を証明するための、より高度な政治理念によって貫かれていると言える。だが、私は少々、結論を急ぎすぎたようだ。大物主神の娘を娶ることがなぜ大和平定事業の総仕上げになるのかという点について、すこしも説明を加えていないからである。

三 成婚伝承の意味するもの
 神武の成婚伝承を考えるに当たって見逃すことのできないのは、その成婚のありかたである。
ここにその伊須気余理比売命(の)の家、狭井(さゐ)河の上(へ)にありき。天皇、その伊須気余理比売の許(もと)に幸行(い)でまして、一宿御寝(ひとよみね)しましき。その河を佐韋河と謂ふ由は、その河の辺に山由理草多にありき。故、その山由理草の名を取りて、佐韋河と号けき。山由理草の本の名は佐韋と云ひき。後にその伊須気余理比売、宮の内に参入(まゐ)りし時、天皇御歌よみしたまひけらく、
葦原の しけしき小屋(をや)に 菅疊(すがたたみ) いや淸(さや)敷きて 我が二人寝し
とよみたまひき。然(しか)して生(あ)れましし御子の名は、日(ひ)子(こ)八(や)井(ゐの)命、次に神八井耳(かむやゐみみの)命、次に神沼河耳(かむぬなかはみみの)命、三柱なり(「神武記」)。
この伝承は古代における婚姻形態のありかたを興味深く語っているが、それはともかく、神の御子と「一宿御寝しましき」(一晩おやすみになった)とは、どのような意味か。ここで、ただちに思い起こされるのは、天孫降臨神話のニニギノミコト(天津日高日子番能邇邇芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと))とカムアタツヒメ(神阿多都(かむあたつ)比売(ひめ)、またの名をコノハナノサクヤビメともいう)の神婚伝承である。
ただ、この神話を分析するに当たって注意しておかねばならないことは、この神話は一方では天皇(『紀』では人間)短命の由来を語る、いわゆる人間の寿命神話ともなっていることである。
この寿命神話が、インドネシアからニューギニアにかけて広く分布するいわゆるバナナ型の「死の起源神話」と同じ類型に属するものであることについては、すでに多くの論考がある。だが、小論では、その点はいっさい問題としない。というのは、この神話は本来、カムアタツヒメの神話とは別個のものであったと考えられるからである。すなわち、別個に存在した二つの神話の主人公の名(前者=コノハナノサクヤビメ、後者=カムアタツヒメ)を「亦(また)の名(な)」で接合することによって、一つの神話に仕上げられているのである。したがって、この神話から天皇(人間)短命の由来譚的要素を取り去った残りの部分が、カムアタツヒメの神話ということになる。
さて、『記』によると、日向の高千穂の峰に天(あま)降(くだ)ったニニギノミコトは、やがて笠沙の岬で美しい乙女に出会い、求婚した。乙女はオホヤマツミの娘でカムアタツヒメといったが、まもなく二人は「一(ひと)宿(よ)婚(みあひ)」して、そこにホデリノミコト(隼人阿多君の祖)・ホスセリノミコト・ホヲリノミコト(またの名をアマツヒコヒコホホデミノミコトという)の三人の子供が生まれたという。カムアタツヒメは『紀』ではアタツヒメ(本文)、トヨアタツヒメ(一書の第六)、アタカ(○)シ(○)ツヒメ(一書の第五)、カムアタカ(○)シ(○)ツヒメ(一書の第二)などと呼ばれているが、アタやカシは隼人の居地として知られる九州南部の地名であるから、要するに、この名は隼人の女性を象徴化した名にほかならない。
ところで、この女性は『紀』一書の第三によると、狭名田(さなだ)(神饌用の稲をつくるための神聖な田)でとれた稲で神酒をつくり、また渟浪田(ぬなた)(水田)でとれた稲で神饌をつくって、新嘗(にいなめ)の祭り(収穫祭)を執り行っていたという。カムアタツヒメは新嘗祭に奉仕する巫女であったとされているわけだが、この点については『紀』一書の第六にも、ニニギノミコトが長屋(ながや)の竹嶋(たけしま)にやってきたとき、彼女は波頭(なみがしら)の上に御殿をたてて機織(はたお)りをしていたといい、新嘗に奉仕する巫女であったことを暗に語っている。アマテラスオホミカミが斎服(いみはた)殿(どの)(神聖な機織の御殿)で神衣(かんみそ)(神の召す衣)を織っていたのも、「新嘗(にひなめ)きこしめす」ときであった。
このような女性の姿を令制の祭儀のなかに求めるとすれば、大嘗祭(新嘗の儀礼と原義的には同じものであって、天皇即位に当たっての最初の新嘗祭をこのように呼んだ)におけるサカツコ(造酒児)がこれに当たるであろう。サカツコは「造酒童女」(『儀式』)とも書かれ、占いによって決定されるユキ・スキ両国にそれぞれ一名ずつ大少領の未婚の娘をもってこれにあてたが、祭りの準備はいっさい、彼女がまず手を下すことからはじめられていた。祭儀のときに用いる白酒(しろき)・黒酒(くろき)の醸造を始め、九月の吉日に行われる斎田の抜穂の儀にさいしても、また京の斎場の地鎮祭のときにも、大嘗宮造営の用材を伐採するときにも、御井を掘るときにも、草を苅るときにも、酒料米を舂くときにも、祭の準備に関わる行事はすべて、まずサカツコが手を下すしきたりになっていた(9)。
しかも、祭儀が行われる卯日の当朝、ユキ・スキ両国の供物(新穀)は斎場から大嘗宮に納められることになっているが、このとき大行列の参列者がすべて徒歩であったにもかかわらず、このサカツコだけは白木の輿(こし)に乗って進発したという。この神供(しんく)供納(きょうのう)(神に品物を献上すること)におけるサカツコのありようは、八幡神入京の時の主神司(かんづかさ(しゅじんし))大神(おほが(おほみわ)の)朝臣(あそみ)田麻呂(たまろ)を従え天皇と同じ紫色の輿に乗って東大寺を拝した、禰宜尼(ねぎに)大神朝臣杜女(もりめ)のありようによく似ている。サカツコもおそらくは杜女と同じように神聖な巫女であって、神霊の依坐(よりまし)として神そのもののように認識されていたのであろう(10)。
サカツコがこのように厚遇されたのは、彼女が、かつてのある時期に行われていた「ヒメ・ヒコ制」(宗教的女君と政治的男君による二重統治制)のヒメの系譜を引いているからに違いない。彼女は本来、ハレ(晴)の世界(聖なる世界)において自国の国魂(国霊)祭祀を主掌する巫女としての立場にある女性であったとみるのが妥当である。サカツコが当郡の大少領の娘で、かつ未婚の者に限られていたのもそのためで、その源流はすくなくとも三世紀代までさかのぼることが可能である。『三国志』魏書東夷伝倭人の条によれば、大乱のなかで共立された卑弥呼は、
鬼道(きどう)を事(こと)とし、能(よ)く衆を惑わす。年已(すで)に長大なるも、夫壻(ふせい)無(な)く、男弟有り、佐(たす)けて国を治(おさ)む。王と為(な)りしより以来、見るある者少なく、婢(ひ)千人を以て自ら侍(じ)せしむ。唯男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え居(きょ)処(しょ)に出入りす。宮室・楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)、厳(おごそ)かに設(もう)け、常に人有り、兵を持して守衛す。
とあるように、俗的な社会とはいっさい遮断(しゃだん)されたところでマツリゴトを行い、宗教的権威でもって君臨したシャーマン的な女王であった。とくにこの場合、「年已に長大なるも、夫壻なく」の記載が注目されるであろう。
 こうした「ヒメ・ヒコ」による二重統治制がなにも邪馬台国時代の倭国だけに限られたものでなかったことは、『記』『紀』『風土記』などをはじめとする古代の文献史料に、各地でしばしば男女二人の首長が存在していたかのように記されていることからしても明らかである(11)。たとえば、「菟狭津媛(うさつひめ)・菟狭津彦(うさつひこ)」(「神武記」)、「阿蘇津媛(あそつひめ)・阿蘇津彦(あそつひこ)」(「景行記」)、「吉備)比売(きびひめ)・吉備比古(きびひこ)」(『播磨国風土記』)などがそれであって(これらのほとんどは単なる伝説にすぎないけれども)、これらはかつて存在した「ヒメ・ヒコ制」の面影をおぼろげながら伝えている。
 サカツコは、かつて霊的能力によって守護神を奉斎し、近親の男王とともに地域的政治集団のマツリゴトを行っていた女性司祭者の流れをくむものと推断してよいであろう。おそらくその系譜は、「女性司祭者→采(うね)女(め)→サカツコ」ということになるのではなかろうか(12)。
 では、こうした性格をもつサカツコが朝廷の祭儀に奉仕する理由はいったい、なんであったか。それは国霊のシンボルともいうべき聖なる「御(お)膳(もの)」(神饌)を天皇に献上するというサカツコの職掌が、なによりも雄弁に物語っている。すなわち、政治史的観点からいうならば、天皇に服属のあかしをたてるためにほかならない。カムアタツヒメ神話のなかで、『紀』(本文)がニニギノミコトとカムアタツヒメの出会いを「国(くに)覓(ま)ぎ」(住むのによい地を求めること)のときであったとし、また、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)が自分の国をニニギノミコトに奉ったとしているのも参考となる。
 しかし、服属のあかしはそれだけではなく、「聖婚」を伴っていたことが、すでに先学によって指摘されている(13)。そうだとすると、ニニギノミコトとカムアタツヒメの「一宿婚(ひとよまぐはい)」は新嘗祭における「聖婚」、すなわち阿多隼人のヤマト王権にたいする服属を神話的に表現したものにほかならないと考えられよう。
 以上の考察にして大過なければ、神武とイスケヨリヒメの一夜婚も新嘗祭における「聖婚」、すなわち「大和の首長」である神武にたいする服属を神話的に表現したものであったと理解される。神武の「大和平定」事業は祭儀を媒介とした「大和の守護神」の奉斎者たるイスケヨリヒメとの「聖婚」によってはじめて、そのすべてが完了したのである。『記』が神武の即位を伝えたのち、イスケヨリヒメを大后とした経緯を長々と語っている理由は、まさしくこの点に求められねばならないであろう。しかし、これ
が史的事実に基づくものではなく、あくまでも観念上の問題であることについては、すでに指摘したとおりである。

四 神武伝説・カムアタツヒメ神話と大嘗祭
 ここで私がとくに問題としたいのは、ニニギノミコト・カムアタツヒメ神話と神武の成婚伝承との構造上の一致である。いまそれを図で表すと、図1のようになる。
 ここまで一致しているのは、まことに驚くべきことで、これをまったくの偶然とするわけにはゆくまい。もちろん、両者は内容の点では異なっているが、それは素材とした原史料が異なっていたためであって、いわば当然のことである。では、この構造上の一致は、なにを意味しているのか。
 天孫降臨神話や海宮遊幸神話が大嘗祭の由来神話であることは周知のとおりだが(14)、西郷信綱氏によると、神武伝説の核心にも大嘗祭が横たわっており、神武天皇は大嘗祭式のなかから脱化してきた人物であるという。すなわち、神武伝説はいわば天孫降臨神話の焼き直し版であり、「大嘗祭の照射を初代君主の業蹟として歴史化したもの」にすぎないというのである(15)。私は、神武伝説のすべてが大嘗祭から生まれてきたものであるとは考えないのであるが、しかし、伝説のなかに大嘗祭と対応する要素を少なからず見いだしうることは、事実としてこれを承認せざるをえないと思う。
 してみると、神武の成婚伝承とニニギノミコトのそれとは双生児的な存在であって、ともに大嘗祭と深い関わりをもっているのではないかと考えられる。とはいえ、神武の成婚伝承には、それを否定する要素も存する。決定的に厄介なのは大物主神の存在であって、この神は大嘗祭とは、ほとんど無縁な存在なのである。西郷氏がイスケヨリヒメの伝承を取り上げられなかったのも、あるいはこの点を酌んでのことかもしれない。
 だが、皇后の父は本来大物主神ではなく事代主神であったとする私の考証が当を得ているとするならば、それは大嘗祭ときわめて深い関わりをもつ。事代主神は大嘗祭のときに、御歳(みとしの)神・高御魂(たかみむすひの)神・庭高日(にはたかつひの)神・大御食(おほみけの)神・大宮女(おほみやめの)神・阿須波(あすはの)神・波比伎(はひきの)神の七神とともに、斎郡の卜定田(うらへだ)のそばに設けられた斎場と在京の斎場の双方で、たしかに祭られているからである。そればかりではない。宮廷(王権)の守護神ともいうべき御(み)巫(かんなぎ)(宮廷巫女)の祭る宮中西院八神殿の神々のなかにも、事代主神の名が見いだされるのである。
 そうだとすると、上述した神武とニニギノミコトの成婚伝承における構造上の一致は、やはり単なる偶然ではなかったと言える。両者はともに大嘗祭という王権祭式と深い関わりをもつ双生児的な存在であったとみるべきであろう。
 では、それらの伝承の成立はいったい、いつか。神武伝説およびニニギニミコトの天孫降臨神話が大嘗祭と不可分の関係にある以上、それらの成立は大嘗祭が開始された七世紀後半(天武朝もしくは持統朝)とみるのが妥当であるが、もとよりそのすべてが七世紀後半に述作されたわけではなく、その祖型となったものはかなり古くから存在していたと考えられる(16)。
 私は別稿(17)において、葛城南部における古墳のあり方や事代主神の服属神話、神功・応神伝承の分析などに基づき、事代主神を奉斎する大和の鴨集団がヤマト王権に服属した時期は四世紀末前後であったとみられること、そしてそれが四世紀末におけるヤマト政権(畿内政権)の内乱およびその結果としての佐紀政権から河内政権への政権担当集団の交替に伴って生起した出来事の一つであったこと、また神武伝説の〝東遷と大和平定〟の部分にはこのいわゆる四世紀末の内乱時のことがかなり濃厚に投影されていること、などを考証した。この私見に大きな誤りがないとすれば、神武の成婚伝承(神武と事代主神の娘との成婚伝承)の祖型が形成された時期も、神武伝説を構成する他の説話の形成時期と同じように、四世紀末~五世紀前半の時期であったとみるのがもっとも自然である。

むすびにかえて
 では、ニニギニミコトの成婚伝承の祖型の成立時期については、どうか。最後に、この問題についての私見を述べて、むすびにかえたいと思う。
 溝口睦子氏の研究(18)によると、日本古代の王権神話には、世界観・価値観の全く異なる二つの系統の神話群が存在するという。一つはアマテラスを至高神とするアマテラス系神話群〔古詞群〕で、イザナキ・イザナミ、アマテラス・スサノヲ、オホクニヌシ系の神話がこれに属し、他の一つはタカミムスヒを至高神とするムスヒ系神話群(伴造系王権神話)で、天孫降臨神話とこれに続く神武東征伝説、それに後から付加されたと考えられる国譲り神話などがこれに属しているという。そして、後者の系統の神話(・伝説)群がヤマト王権の神話(・伝説)として定着したのは五世紀初頭のことであったのではないかとしておられる。
 一方、私も、溝口氏とは全く異なる視点から神武伝説に分析を加え、その原形の成立は河内政権の初期、すなわち四世紀末~五世紀前半(その中心の時期は磐余に宮居があった履中朝)の頃であったのではないかとする説を提示している(19)。この私見は、はからずも溝口氏の説と一致し、意を強くしている次第であるが、この結論が当を得ているとするならば、神武の成婚伝承と双生児的な関係にある日向を舞台としたニニギノミコトの成婚伝承もまた、神武の「日(ひ)向(むか)出立・日下(くさか)上陸」の伝承が形成されたのと同じ時期、すなわち四世紀末~五世紀前半の時期に王権神話のなかに取り入れられた蓋然性が高いと考えられる。要するに、日向系神話の王権神話への定着は、河内政権成立後、まもない頃であったということである。とすると、その成婚伝承に見られる阿多隼人の前身の集団の服属もまた大和の鴨集団と同じように、四世紀末前後の時期であった可能性がある。
 そこで注目されるのが、ニニギノミコト・アタツヒメ神話の舞台となっている地域(『記』に「笠沙(かささ)の御前(みさき)」、『紀』神代下・第九段の本文に「吾田の長屋の笠狭の碕(みさき)」ほか(20))に築造されている奥山古墳(鹿児島県南さつま市加世田小湊に所在)である。ただ、現在のところ、加世田平野周辺の地域ではこの古墳一基しか知られておらず、資料としては甚だ不十分である。また今後、新たに古墳が見つかる可能性もある。したがって現状ではあまり断定的なことは言えないのであるが、だからと言って先学の研究にも安んじえないので、あえてこの古墳を資料として用いることとする。
 奥山古墳(21)は直径約一三・五メートルの円墳と推定され、東西二八三センチメートル・南北一二二センチメートル(ただし現状の規模)ほどの墓壙の中に、全長二五九センチメートル・最大幅七二・五センチメートル、長辺内法二〇〇センチメートル・西小口内法六一センチメートル・東小口内法五一センチメートルの箱式石棺が安置されていた。側石は中央部で重ね接ぎし、両小口には二枚の石材を用いていた。遺物は鉄剣・刀子・ガラス小玉・鉄滓・赤色顔料(ベンガラ)、人骨などが出土している。築造年代は前期後葉(四世紀の第Ⅲ四半期前後の時期)と推定される。
 さて、この奥山古墳で注目されるのは、箱式石棺である。調査報告書はその形状と石材(安山岩・凝灰岩・近隣には存在せず長島以北の熊本県天草地域に顕著に分布する石英質の砂岩)からみて、この古墳を築造するに当たって「天草~宇土半島地域の集団が密接に関与していることは」ほぼ確実である、とする所見を示している。また出土した土器(脚付壺)からは、宇土半島基部地域ともっとも深い関連性を見いだせるという。
 そこで、宇土半島基部地域の古墳のあり方を検討してみると、興味深い現象が起こっていることに気付く。古墳の編年については研究者によって違いがあり、なお流動的であると言わざるを得ないが、宇土半島基部地域では、おおよそ四世紀後半ないし末葉前後の時期をもって前方後円墳の築造が行われなくなっているのである(22)。
 とすると、この現象は時期的にみて、ヤマト王権の政権担当集団が佐紀から河内へ交替したことと無関係ではなく、それと連動した現象として捉えることができる。すなわち、宇土半島基部地域の政治集団や奥山古墳を築いた政治集団は、河内政権やそれと深い関わりをもつ西都原古墳群を盟主とした九州の政治勢力によって衰退を余儀なくされた可能性が大きい。
 このようにみてくると、ニニギノミコトの成婚伝承の祖型の成立は四世紀末~五世紀前半前後の時期であったと推定され、神武伝説の祖型が形成されたとみられる時期とほぼ一致する。私には、これは決して単なる偶然の一致とは思えないのであるが、いかがであろうか。諸賢のご批正を乞いたい。また、以上のようにみてくると、ほぼ同じ時期に大嘗祭の前身となった宗教儀礼も新たに成立したことが考えられるが、紙幅の関係もあり、改めて論じたいと思う。

〔注〕
(1)松前健『日本神話99の謎』(二〇二~二〇三ページ、サンポウジャーナル、一九七八年)。
(2)坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』上(日本古典文学大系67、一三一ページの冠注八、岩波書店、一九六七年)。
(3)吉井巌「崇神王朝の始祖伝承とその変遷」(『天皇の系譜と神話二』所収、塙書房、一九七六年)。
(4)塚口義信「神武天皇と大物主神」(上田正昭・門脇禎二・櫻井治男・塚口義信・和田萃編『三輪山の神々』所収、学生社、二〇〇三年)。なお、『記』にはこのような矛盾がほかにもある。たとえば、仲哀天皇は神から教えさとされた新羅国の存在を信じなかった(「仲哀記」)というが、「応神記」では、仲哀の大后の息長帯比売(おきながたらしひめの)命(みこと)(神功皇后)は新羅国王の子・天之日矛(あめのひぼこ)の子孫であるとする。仲哀が自分の嫡妻の母方の故郷である新羅国の存在を知らなかったというのは不可解であり、明らかに両者の伝承は齟齬をきたしている。
(5)塚口義信「神武天皇と大物主神」(前掲)。
(6)塚口義信「神武伝説と物部氏の謎を探る」(『河内どんこう』第二〇巻第四八号、やお文化協会、一九九六年)、同「〝神武東征伝説〟成立の背景」(『東アジアの古代文化』第一二二号、大和書房、二〇〇五年)などを参照。
(7)佐々木幹雄「三輪と陶邑」大神神社史料編纂委員会編修『大神神社史』所収、大神神社社務所、一九七五年)、吉井巌「崇神王朝の始祖伝承とその変遷」(前掲)、直木孝次郎「天香久山と三輪山」(『古代史の窓』所収、学生社、一九八二年)ほか。
(8)西田長男「鎮花祭一斑(上)(中)(下)」(『神道史研究』第十五巻第二号・第三号・第四号、一九六七年)。
(9)西郷信綱「大嘗祭の構造」(『古事記研究』所収、未来社、一九七三年)。
(10)塚口義信「葛城県と蘇我氏(上)(下)」(『続日本紀研究』第二三一号・第二三二号、一九八四年)。
(11)洞富雄「原始斎王から皇后へ」(『天皇不親政の起源』所収、校倉書房、一九七九年)ほか。
(12)采女とサカツコの関係については、岡田精司「大化前代の服属儀礼と新嘗」(『古代王権の祭祀と神話』所収、塙書房、一九七〇年)を参照。
(13)岡田精司「大化前代の服属儀礼と新嘗」(前掲)。
(14)たとえば松前健「日向神話の形成」(『日本神話の形成』所収、塙書房、一九七〇年)を参照。
(15)西郷信綱「神武天皇」(『古事記研究』所収、前掲)、『古事記の世界』(岩波新書、一九六七年)。
(16)塚口義信「『古事記』の三巻区分について」(横田健一編『日本書紀研究』第十二冊所収、塙書房、一九八二年)、同「初期大和政権とオホビコの伝承」(横田健一編『日本書紀研究』第十四冊所収、塙書房、一九八七年)、同「神功皇后」(『ヤマト王権の謎をとく』所収、学生社、一九九三年)などを参照。
(17)塚口義信「四、五世紀の葛城南部における首長系列の交替」(『東アジアの古代文化』一三七号、二〇〇九年)および〔注(6)〕の拙稿を参照。
(18)溝口睦子『王権神話の二元構造』(吉川弘文館、二〇〇〇年)、同『アマテラスの誕生』(岩波新書、二〇〇九年)。
(19)〔注(6)〕および〔注(16)〕の拙稿を参照。
(20)「笠沙の御前」は鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬のことと考えられ、「吾田」は同県西部の古称(薩摩国阿多郡阿多郷)、「長屋」は同県南さつま市の加世田と大浦町の境に位置する長屋山にその名を残している。
(21)以下、橋本達也・藤井大祐・甲斐康大編『薩摩加世田奥山古墳の研究』(鹿児島大学総合研究博物館研究報告No.4、二〇〇九年)による。
(22)宇土市史編纂委員会編『新宇土市史』通史編第一巻、自然・原始古代(高木恭二氏・杉井健氏執筆、宇土市、二〇〇三年)、杉井健「肥後地域における首長墓系譜変動の画期と古墳時代」(第一三回九州前方後円墳研究会鹿児島大会事務局編『九州における首長墓系譜の再検討』所収、二〇一〇年)ほかの論考を参考にした。

〔附記〕
一、本稿は、一九八四年一一月に刊行された『歴史公論』(第一〇巻第一一号)所載の拙稿(「神武天皇とイスケヨリヒメー成婚伝承の意味するものー」)に加筆・修正を行って成稿したものであるが、基本的な考え方は一九八四年当時と少しも変わっていないので、念のため附記しておく。
二、参考文献を収集するに当たって、犬木努氏(大阪大谷大学教授)と宇野愼敏氏(北九州市芸術文化振興財団学芸員)に大変お世話になった。末筆ながら記して、感謝の意を表したい。
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