泉南歴史探訪-淡輪の古墳群を訪ねる-
2009年11月28日(土)
泉南歴史探訪-淡輪の古墳群を訪ねる- 今中典男
つどい265-④
つどい265-⑤
つどい265-⑥
つどい265-⑦
(検索用テキスト文)
■泉南歴史探訪
―淡輪の古墳群を訪ねるー
(会員) 今中 典男
十一月二十八日、題記の見学会が開催された。本来は十月に開催の予定であったが、桜井茶臼山古墳の現地説明会が開催される事となり、急遽振替られた。
最終集合地の南海電鉄難波駅に中司照世先生以下三十名が集まった。
天候は晴れ、気温も寒くは無く快適である。当会の見学会が泉南地域へ行くのは久し振りとの事で、私としても泉佐野より南への見学会は初めてで、わくわくしている。
約五十分で樽井駅に到着、駅前の商店街を過ぎて紀州街道(孝子越街道)へ出た。江戸から明治時代と思われる古民家が点在している。
山之井遺跡
約一〇分程度で山之(やまの)井(い)遺跡の石碑に着い
た。『日本書紀』の神武天皇即位前紀の記述
によれば、神武天皇が河内の孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦と戦ったとき、兄の五瀬(いつせの)命(みこと)が矢傷を負い、茅(ち)淳(ぬ)の山城(やまきの)水門(みなと)(亦の名は山(やまの)井(いの)水門(みなと))に至った時、「敵に報いることなく死ぬことは残念極まりない」と雄々しく叫んだので、後世の人々はこの地を「雄(おの)水門(みなと)」と呼ぶようになった。『古事記』には「紀国の男之水門」との記述があり、当時はこの付近が紀伊と和泉の境であったのではと云われる。
男神社
南海電鉄の踏切りを越えた処に天神の森があり、男(おの)神社(じんじゃ)(浜の宮)が鎮座している。
南方約一キロメートルに本社があり(今回は行かず)社伝では貞観元年(八五九年)遷座したと伝える。延喜式には男神社二座とある。
祭神は彦五瀬命、神日本磐余彦尊命、天児屋根命、熊野速玉命である。
昼食のため箱作駅へ移動、駅前の「かんてき屋利右ェ衛門」で食事をした。
三十名が一堂に会して食事を出来る場所を探して頂いた幹事さんに感謝。
淡輪古墳群
和泉山脈西麓の緩斜面にあり、前方後円墳二、帆立貝形古墳一、円墳八で構成、五世紀に突如として出現し、短期間のうちに終焉をむかえた。『日本書紀』の記述、埴輪の様式の特徴から、紀氏との関係が深いと考えられている。
淡輪ニサンザイ古墳
淡輪駅の背面に全景が見られる。東側の後円部を取り巻く様に七基(現存は六基)の陪塚が認められる。墳丘は三段に築かれ、全長一七〇メートル、後円部直約一一〇メートル、高さ十三メートル、前方部幅一二〇メートル、高さ一二メートルを測る。
葺石・埴輪が確認されているが主体部、副葬品は不明。五世紀中葉の築造と推定さ
れる。
宮内庁は垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)宇度墓として管理しているが、時代が合わない。陪塚の付近から周濠を半周して鳥居のある拝所まで来たが、コンクリートの柵が老朽化しており少し侘しい。
西小山古墳
国道二六号へ出て西へ一〇分程度の道路脇にある。墳丘は道路と同じ高さで、標識が無ければ気付かない。
昭和五年、末永雅雄らが発掘、昭和五五年、大阪府教育委員会により墳丘の発掘調査が行われた。径五〇メートル、高さ五メートルで造出しがある。葺石と埴輪があり、埴輪には叩き目などの須恵器の技法が顕著である。割石小口積の竪穴石室があり、人骨は無かったが、副葬品の、短甲二、眉庇付冑、頸鎧、肩鎧、挂甲の小札や刀、鉾、鉄鏃など、武器が多く出土した。五世紀中葉の築造と考えられる。
西陵古墳
西小山古墳から西方の田園の向こうに全貌が見える。畦道を通って前方部の角の土橋を渡れば墳丘に入れる。通路は適当に整備されており、歩行に困難はない。墳頂部の雑木は刈取ってあり、見通しはよい。
所々に大小の礫がゴロゴロしている。葺石が崩れたものだ。埴輪も確認されている。
三段築成で全長約二一〇メートル、後円部径約一一五メートル、高さ一八メートル、
前方部幅約一〇〇メートル高さ一四メートルで、五世紀前葉ないし中葉の築造と推定される。かつて墳頂部に凝灰石製の長持形石棺が露出していたが、大正一〇年、史跡指定時に埋め戻された。以降、発掘調査は行われていないので詳細は不明である。
『日本書紀』雄略天皇九年三月の条に、雄略天皇の命により朝鮮半島で新羅を攻める際、病没した紀小弓宿斑が「田身輪邑」に葬られたとあることから紀小弓の墓と伝えられている。
船守神社
西陵古墳を後にし、淡輪の集落へ入って行くと楠の巨木がある。樹齢八〇〇年、幹周り六、四メートルを測る。社殿は奥にあり、本殿は三間社流造、屋根は檜皮葺で、重要文化財に指定されています。
豊臣秀頼の命により、片桐且元が造営した桃山式の建築様式を伝えています。
祭神
紀船守
藤原仲麻呂の乱に功あり、正三位、
大納言まで進んだ。延暦十一年(七九二)、六二歳で薨じた。延喜十一年(九一一)醍醐天皇の勅令により創建された。
紀小弓宿斑(前出)
五十瓊敷入彦命
垂仁天皇の第二皇子で四世紀頃の方
です。河内の国に派遣され、高石池、
茅渟池を造った。茅渟の菟砥川の川上宮(阪南市)で剣一千口を作り、石上神宮に納めた。
以上で本日の見学は終りましたが、ご案内頂いた中司先生、設営して頂いた幹事さんに御礼申し上げます。