尾張の古代史を探る
つどい267号 会員 古髙邦子
2009年10月22(木)~23日(金)
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■塚口先生と行く
尾張の古代史を探る旅
(会員) 古髙 邦子
十月二十二日(木)
熱田神宮―白鳥古墳―断夫山古墳―高蔵遺跡―高蔵古墳群
晴れ男の塚口義信先生のおかげで今日は快晴!九時前に梅田のバスターミナルに全員(参加人数二〇名、そのうち豊中歴史同好会会員九名)集合。名古屋を目指して名神高速道路をひた走ります。
車中で塚口先生からこの旅行の主なねらいは
一、六世紀前半に即位した継体天皇と尾張
氏との関わりについて探ること。
二、六世紀以前の尾張氏の見えにくい実態
を、熱田神宮の役割やヤマトタケルの伝説あるいは遺跡や遺物から探ること。
三、四世紀末の争乱と尾張氏との関わりについて探ること。
以上の三点にあることを伺いました。
バスで滋賀県を通りながら、「四世紀末の内乱と近江との関わり」について『記紀』の伝承をもとに講義していただきました。
カゴサカ王・オシクマ王(という名で語られている集団)の反乱伝承については、『記紀』は勝利した側からの書物であるため、カゴサカ・オシクマ王が反乱軍と書かれているが、実は、応神天皇(という名で語られている集団)の方が反主流派であり、戦いに敗れたカゴサカ王・オシクマ王の方が主流派であったのではないか。
瀬田まで逃げてきたのは、当時の宮が志(し)賀(が)高(たか)穴(あな)穂(ほの)宮(みや)であったとする伝承と不可分で、オシクマ王がこの付近にも勢力の基盤を置いていたからだと思われる。
このあたりには、四世紀後半の古墳としては滋賀県第三位の膳所茶臼山古墳(墳丘長約一二〇メートルの前方後円墳)がある。
また最近の調査により四世紀後半において最も大きい古墳であることがわかった、彦根市の南部(旧犬上郡北東部)にある荒神山古墳(墳丘長約一二四メートル・後円部径八〇メートル・高さ一六メートル・前方部幅六一メートル・前方部高さ一〇メートル)は佐紀政権時代の犬上君氏関連の墓ではないか…。
文献と考古学の一致をみたこの塚口先生の学説は、論文に書かれる予定のまさにホットな講義です。『日本書紀』の神功皇后紀に載っている犬上君関連の記事についてはねつ造説もあるが、先生は、負けたことを犬上君氏がわざわざねつ造するのでしょうか?というご意見です。
そのほかにも継体天皇の出自や継体天皇を支援した豪族の古墳についてもお話をしていただきました。
先生の講義を夢中で聴いている間に、もう名古屋に着きました。
名古屋では、案内していただく名古屋城管理事務所学芸員の木村有作先生が待っておられました。先生は私と同じ大学の同じ学科の後輩、頼もしいかぎりです。車中では、木村先生から名古屋の名所や遺跡の案内をしていただきました。
まず向かったのが、金山南ビルの中にある名古屋市都市センターの展望台です。ここから見ると、名古屋の地形がよくわかります。これから行く熱田神宮や断(だん)夫(ぷ)山(さん)古墳の位置もつかめました。また古代の地形や町の様子も詳細に説明していただきました。
【熱田神宮】
熱田神宮の主祭神熱田大神は、三種の神器の一つである草(くさ)薙(なぎの)剣(つるぎ)を御(み)霊(たま)代(しろ)として、よらせられる天照大神。相殿神には、素(す)盞(さの)嗚(おの)尊(みこと)、日(やま)本(と)武(たけるの)尊(みこと)、宮(みや)簀(す)媛(ひめの)命(みこと)、建(たけ)稲(いな)種(だねの)命(みこと)が祀られています。
境内のうっそうとした照葉樹林の杜の中を玉砂利を踏みながら歩くと、雑踏がほとんど聞こえず、清閑な空気に包まれて、厳かな気持ちになりました。
熱田神宮のご神体は日本武尊が駿河の国で賊が火を放ったおりに、この剣で草を薙ぎ倒して、難を逃れたということから名づけられた草薙剣。東国平定の帰途、尾張に立ち寄り、尾張の国造の娘と結婚したが、遠征に草薙剣を置いて出征したために敗れたとのこと。後にその剣が熱田神宮に祀られたという伝承はよく知られていますが、しかしその剣を見た人は誰もいないそうです。
本殿へ向かう途中の鳥居の前には、織田信長が桶狭間の大勝のお礼として寄進した信長塀がありました。熱田の地は古来蓬莱島と呼ばれていたそうです。(なるほど蓬左文庫や、近くにあるひつまぶしの蓬莱軒はここから名づけられたのかと納得)、また楊貴妃伝説もあるとのことです。
本殿の中庭では、七五三の子供たちを見かけ現実に引き戻されました。
【白鳥古墳】
熱田神宮のすぐ側にある白鳥古墳は、六世紀築造の前方後円墳。前方部の端が破壊されていて、原形をとどめていませんが、全長約七〇メートル、高さ約七メートルの墳丘が残っています。
日本武尊が、熊襲征伐の後、伊吹山の側で病に倒れ、魂が白い鳥となって熱田神宮の側に舞い降りたところが、白鳥御陵になったという伝説がありますが、継体天皇の妃であり、安閑・宣化天皇の母である目子媛の古墳という説もあり、尾張氏に関係する人物が埋葬されているのではないかというお話です。
【断夫山古墳】
断夫山古墳は都会のど真ん中で、大きな道路の側であるにもかかわらず、うっそうとした木々に覆われています。古代熱田台地は「あゆち潟」と呼ばれた入江の東側にありました。この古墳は六世紀初頭の東海地方最大の前方後円墳(墳丘長は約一五〇メートル、高さ約一六メートル)。被葬者は目子媛の父、尾張連草香が有力視されています。二重の堀、三段築成、葺石もあるという、天皇クラスの大きな墓も尾張連草香なら納得できます。今は県の管轄ですが、長い間、熱田神宮によって守られてきました。立ち入り禁止とは書いていないので、中へ入れるかな?という話もでました。
【高蔵遺跡】
高蔵遺跡は明治四〇年代に道路の拡張工事の時に発見された弥生時代の環濠集落ですが、縄文~中世にわたる豊かな内容の遺跡でもあります。円窓付き土器やパレス式土器(弥生時代後期の尾張地方で造られた、赤く彩色された独特の土器。その優美な姿からクレタ文明のパレス式と呼ばれている壺になぞらえて命名)を含む弥生時代の土器、石器や馬の歯、足の骨などが出土しています。
【高蔵古墳群】
高蔵古墳群は、尾張氏の祖先である高(たか)倉(くら)下(じの)命(みこと)をお祀りしている高(たか)座(くら)結(むすび)御(み)子(こ)神社の境内と、その周辺に七基の円墳が残されています。
高蔵一号墳は直径約一八メートル、高さ約二・五メートルの円墳。羨道と二つの玄室を合わせて全長約一〇メートルの横穴式石室は、丸みをおびた河原石で築かれています。
釣り針が出土した話から、すはやり(魚肉を細長く切り塩につけて干したもの)、サメ談義になり、とてもおもしろかったです。
今日のスケジュールは無事終了!今夜宿泊する名古屋ガーデンパレスへ到着。夕食では、おいしいお酒と豪華な会席料理を堪能、至福のときを過ごしました。
十月二十三日(金)
見晴台考古資料館―名古屋市立博物館―名古屋城―大須観音
【名古屋市見晴台考古資料館】
見(み)晴(はらし)台(だい)資料館は、旧石器時代から現代にいたる人々の暮らしの跡が残されている、見晴台遺跡の保存活用を目的としてオープンした資料館です。名古屋市見晴台考古資料館学芸員の伊藤厚史先生に、特別展「名古屋考古学百景」のうち、古代までを中心に解説していただきました。小さな資料館ですが、展示物がたくさんあり、大変充実しています。住居跡観察舎は発掘した竪穴住居の実物大レプリカを展示してあり、住居跡が重なって出土しているようすがよくわかります。屋外へ出ると、真っ青な空に色づき始めた紅葉が映えて、とてもきれいでした。濠再現コーナーは弥生時代の濠跡を再現したもので、道路によって寸断されていた地点の擁壁をかねて復元してあります。
【名古屋市立博物館】
手入れされた庭園が美しい名古屋市立博物館は近代的な建物です。常設展示場は尾張地方の原始から現代までの歴史を自由に見学できるようになっていますが、私たちはいつものように、古代を中心に見学しま
した。特別展は「大須二子山古墳出土展」です。大須二子山古墳(現在は浅田真央さ
んで有名なスケートリングになっている場所)はもう消滅していますが、出土した画文帯仏獣鏡が展示されていました。
昼食は名古屋名物「ひつまぶし」。細かく刻んだウナギの蒲焼きをごはんに乗せて、薬味を添え、三通りの食べ方をしました。
蒲焼きはふんわりと柔らかく、とってもおいしかったです。
【名古屋城】
二の丸から正門へ入りました。菊人形の展示が秋の風情に似合います。天守閣では四方から名古屋の市街が見渡せました。五階の資料館ではあちこちにシンボルの金鯱が展示されていました。加藤清正が、天守閣の石塁の構築を命じられたという清正石は下の四段しか残っていないと、先生に伺いました。ただ横にある天守閣へ登る屋外のエレベーターは、近代的で、やや違和感を覚えました。
【大須観音】
大(おお)須(す)観音の正式の名は「北野山真福寺宝生院」といいますが、「大須の観音さん」と親しみをもって呼ばれています。寺内に、『古事記』の最古写本をはじめとする貴重な本を所蔵する「真福寺文庫」があります。
周辺は浅草に似た雰囲気で、楽しいお店がたくさんあり、お土産に「大須ういろう」を買って帰途につきました。
車中では歴史談義が始まり、「円窓付き土器は何に使用したか」で盛り上がりました。
塚口先生、お世話をしていただいた山口武さん、岩元影子さんありがとうございました。