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5世紀のヤマト政権と日向

つどい261号

堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口義信先生

つどい261-①
26101
つどい261-②
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つどい261-③
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つどい261-④
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つどい261-⑤
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つどい261-⑥
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つどい261-⑦
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つどい261-⑧
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つどい261-⑨
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つどい261-⑩
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一 日向の範囲
五世紀代における「日向」の読み方は「ひゅうが」ではなく、「ひむか」である。その範囲は令制の日向国だけではなく、薩摩国・大(おお)隅(すみ)国が含まれていた。ちなみに、薩摩国が成立するのは大宝二年(七〇二)前後と考えられ、大隅国は和銅六年(七一三)、日向国の肝坏(きもつき)・贈於(そお)・大隅・姶郊(あいら)の四郡を割いて設置された。 ところで、日向国(宮崎県)は古くは「肥国」の一部であったのではないかとする考えがかなり広く支持されているようである。この考えの根拠は、『古事記』上巻の伊耶那岐(いざなき)・伊耶那美(いざなみ)の国生み神話における次の記事にある。  次に筑紫島(つくしのしま)を生みき。此の島も亦(また)身(み)一つにして面(おも)四つ有り。面毎(ごと)に名有り。故(かれ)、筑紫国を白日別(しらひわけ)と謂(い)ひ、豊国(とよのくに)を豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥国(ひのくに)を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾(くまその)国(くに)を建日別(たけひわけ)と謂ふ。 すなわち、この記事では日向は「建日向」とあるように肥国の一部とされており、一方、熊曽国は熊本県南部・鹿児島県を指していると見られるから、日向とは要するに宮崎県近傍の称に他ならず、この記事は日向がかつてのある時期に肥国の中に含まれていたことを示している、と考えるのである(たとえば西宮秀紀「記紀神話における日向」〈伊藤清司・松前健編『日本の神話3天孫降臨』所収、ぎょうせい、一九八三年〉など)。しかし私は、肥国の名は「建・日向・日豊久士比泥別」ではなく、他の三つの国と同じように、「建日・向日・豊久士比泥別」と区切って読むべきだと考える。つまり建日は熊曽国の建日と同じで、白日(筑紫国)、豊日(豊国)と同じような意味を持った語句であると解釈すべきである。このように見てくると、右の記事の中には日向のことは記されていないと考えるのが妥当である。では、日向は四つの国の中のどこに含まれていたのかというと、それは熊曽国であったと理解するのが自然であろう。 それでは、ここで使われている「日」とは何を表しているのであろうか。これには太陽(日(ひ))を表しているとする説と霊魂(霊(ひ))を表しているとする説とがある。いずれの説が妥当であるか、検討してみよう。 私が注目したいのは、天皇の和風諡号(しごう)の中に含まれている「日」という名辞である。八世紀以前の天皇の中で、和風諡号の中に「日」が見られる天皇は次の五人である。広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)(安閑)橘豊日(たちばなのとよひ)(用明)息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)(舒明)天萬豊日(あめよろずとよひ)(孝徳)天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)(皇極・斉明) かつて薗田香融氏は、舒明天皇の和風諡号について、足日は「日(ひ)足(た)らす」(養育する)という動詞が名詞化されたものであって、息長足日広額天皇とは「息長氏が養育したてまつった額の広い(聡明な)天皇」という意味であろうと考えられた(「皇祖大兄御名入部について」三品彰英編『日本書紀研究』第三册、所収、塙書房、一九六八年)。この説はその後、かなり多くの支持を得て今日に至っているが、私はこの説を採らない。なぜなら、舒明天皇の和風諡号はあくまでも「足日」であって、日足ではないからである。では足日とは何かというと、それは他の四人の天皇の和風諡号に見られる「金日」「豊日」「重日」と同じような意味を持つ、一種の称辞ではないかと考える。とすれば、次に述べるように、「日」は霊(ひ)ではなく、太陽の意味であろう。 『隋書』倭国伝の開皇二十年(六〇〇)の条に「倭王は天を以て兄と為(な)し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聽き跏(か)趺(ふ)して坐(ざ)し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、云う我が弟に委(ゆだ)ねんと」という記事がある。これにより、当時の日本には倭王を「天」と「日」(太陽)の兄弟とする独特の王権思想が存在していたことが知られる。してみると、欽明(天國排開廣庭(あめくにおしひらきひろには))、斉明(天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ))、孝徳(天萬豊日(あめよろずとよひ))、天智(天命開別(あめみことひらかすわけ))、天武(天渟中原瀛眞人(あまのぬなはらおきのまひと))の和風諡号に見える「天」は文字通り天の意味であるから、「日」は太陽を示していると理解されねばならないであろう。 二 西都原古墳群の被葬者集団と大王家 日向の主な古墳群は、現在の宮崎県の東部中央附近に集中している。柳沢一男氏の研究(「南九州における古墳の出現と展開」第六回九州前方後円墳研究会大会事務局編『前方後円墳築造周縁域における古墳時代社会の多様性』所収、二〇〇三年)によれば、日向の首長墓は四世紀末から五世紀初頭前後の時期に、大淀川流域に営まれた生目(いきめ)古墳群から一ツ瀬川流域に営まれた西(さい)都(と)原(ばる)古墳群へと移動する。そしてこの時期の日向には、柄鏡式の前方後円墳が流行するが、その形式は日向独特のものであって、畿内のそれとは異なり、前方部が異様に長いという特徴がある。この柄鏡式古墳の意味するところについては、後に改めて取り上げてみたい。さて、五世紀代に日向の広域首長連合の最高首長の座を獲得した西都原古墳群の盟主墳は、五世紀前半に築造された女狭穂塚古墳と男狭穂塚古墳である。前者は墳丘長一七六・三メートルの九州最大の前方後円墳であり、後者は墳丘長一五四・六メートルを測る日本最大の帆立貝形(式)古墳である。ところが、これらの古墳は畿内の巨大前方後円墳と築造規格の上で、極めて密接な関係にあることが指摘されている。すなわち前者は百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ(履中陵)古墳および仲津山古墳と、また後者は古市古墳群の誉(こん)田(だ)御(ご)廟(びょう)山(やま)(応神陵)古墳とそれぞれ深い関わりを有していることが指摘されている。のみならず、女狭穂塚古墳およびその系列の一六九号墳・一七一号墳や、男狭穂塚古墳およびその系列の一七〇号墳などの埴輪は、五世紀前半に畿内中枢から西都原の地に直接派遣されてきた埴輪工人集団によって製作された可能性が大きいという(犬木努「西都原古墳群の埴輪」『博物館だより』一〇四、大阪大谷大学博物館、二〇〇八年)。

一方、『古事記』『日本書紀』によると、応神・仁徳両天皇は日向出身の女性を娶ったと伝えられている。特に仁徳と日向之諸県(がたの)君(ひむかのもろがたのきみ)牛諸(うしもろ)の女(むすめ)髪長比売との間に生まれた皇子女たちは、五世紀前半のヤマト政権(畿内政権)内で、かなりの勢力を有していたように記されている。してみると、女狭穂塚・男狭穂塚両古墳の在り方は『記』『紀』の伝承と符合し、五世紀代前半における日向の政治集団が畿内の大王家の姻族として極めて強大な勢力を有していたことは、ほぼ確実と見られるのである。 三 〝日下(くさか)王家〟の形成と没落いま仮に、仁徳から出た日向系の王族たちを、彼らの宮が営まれていたと伝えられる日下の地名にちなんで〝日下王家〟と呼ぶことにしよう。日下宮があったと考えられる場所は生駒山の西麓、石切神社の近くの東大阪市日下町・善根寺町附近である。当時は海岸線がこの辺りまで来ており、交通の要衝であったと考えられる。次に、「くさか」になぜ「日下」という漢字を当てているのか、この点については幾つかの説があるが、私は日向系の王族が太陽信仰を有していたことと不可分であると考えている。すなわち、彼らの故郷の「日向」の地名と同様に、「日下」もまた太陽信仰に由来していることが推測されるのである。さて、〝日下王家〟に関わる話が、『記』『紀』の安康・雄略天皇の条に伝えられている。いま『記』によってその概要を示すと、以下のようである。 安康天皇は、同母弟の大長谷王(おおはつせのみこ)(のちの雄略天皇)のために、坂本臣(さかもとのおみ)らの祖先の根臣(ねのおみ)を天皇の叔父に当たる大日下王(おおくさかのみこ)のところにお遣わしになって、「あなたの妹の若日下王(わかくさかのみこ)を大長谷王と結婚させたいと思うから、妹を差し出しなさい」と伝えさせた。すると、大日下王は四度も拝むという丁重な礼を尽くして、「もしかしたら、このような勅命もあるかもしれないと存じましたので、妹を外にも出さないで大事にしておりました。まことに恐れ多いことです。勅命に従って妹を差し上げましょう」と申し上げた。けれども、ただ言葉だけで承諾の返事を奏上することは無礼であると思って、すぐに妹からの贈物として、押木(おしき)の玉縵(たまかずら)という冠を根臣に持たせて献上した。ところが根臣はその贈物の玉縵を横取りして、大日下王のことを僞って告げ口して、「大日下王は勅命を受けないで、『私の妹は同族の者の下敷きなどになるものか』と申して、大刀の柄を握ってお怒りになりました」と奏上した。そこで天皇はひどくお恨みになって、大日下王を殺してしまい、その王の正妻の長田大郎女(ながたのおおいらつめ)を奪ってきて、皇后になさった。 押木の玉縵というのは、木の枝の形をした立(たち)飾(かざり)をつけ、玉をはめ込んだ金や金銅製の冠のことで、やや時代は下るが奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳から出土したような立派な冠が想像される。それはともかく、その後、若日下王はどうなったのか。安康記には記述がないが、次の雄略記には若日下王ではなく、若日下部王(わかくさかべのみこ)の名で再び登場する。それによると、雄略が日下宮にいる若日下部王のもとに結納品を持って妻問いに訪れたが、「日に背(そむ)きて幸行(いでま)しし事、甚(いと)恐(かしこ)し。故(かれ)、己(おの)れ直(ただ)に参(まゐ)上(のぼ)りて仕(つか)へ奉(まつ)らむ。」と言われたという記事がある。なぜ日を背にすることが不吉なのだろうか。神武記で手に傷を負った五瀬命が「吾(あ)は日(ひ)の神(かみ)の御子(みこ)と為(し)て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤(いや)しき奴(やつこ)が痛手(いたで)を負ひぬ。」と述べたことと、全く反対のことが記されているのである。それはともかく、結局、若日下部王は雄略の大后になる。しかし二人の間に子供はできなかったと伝えられている。さて、大日下王が安康天皇によって殺害されたことを知った当時七歳の目弱(まよわの)王(みこ)は、父の仇の安康天皇を殺し、都夫良意富美(つぶらおおみ)の家に逃げ込んでしまう。これを聞いた安康の弟の大長谷王は大いに怒り、軍勢を集めて都夫良意富美の家を包囲する。このとき都夫良意富美は大長谷王に、次のように言ったという。 先日あなたさまが妻問いなさった私の娘、韓比売はおそばにお仕えいたしましょう。それに五か所の屯宅(みやけ)を添えて献上いたしましょう〔いわゆる五村の屯宅というのは、今の葛城の五村の苑人のことである〕。 しかし結局、都夫良意富美は目弱王のために最後まで戦い、自刃して目弱王と共に果てたという。都夫良意富美は葛城南部の地域に盤踞した玉田宿禰系葛城氏の族長で、『日本書紀』には円大臣とある。この伝承は、玉田宿禰系葛城氏の滅亡を語る話である同時に、大王家の直轄領である「葛城の県(あがた)」の成立を語る話でもあるが、この伝承から、当時、葛城集団と日向の集団が極めて親密な関係にあったことが知られる。おそらくこうした親密な関係は、襲(日向)との関わりを示す名を持つ葛城襲津彦と諸県君との関係に由来するものであろう。なお、この話は、同様の内容の話が『日本書紀』にも記されているので、両書の共通の史料であった帝紀もしくは旧辞に既に存在していたものと考えられる。では、この話は帝紀と旧辞のいずれに存在していたのであろうか。従来、このような「物語的な記事」は旧辞に記されていたと考える研究者が少なくなかったが、それは誤りである。なぜなら、次のような史料が存在しているからである。それは『日本書紀私記』の本文の傍らに引用されている、帝紀の一本と思われる「帝王紀」である。そしてその「帝王紀」には上代特殊仮名遣の対象となるものが十六例あるが、すべて正しく用いられており、それが『記』『紀』以前の成立であることはほぼ確実である。ここで重要なのは、その中に、「日下宮」や安康紀に現れる大日下王の従者の「比加々(ひかか)」(『紀』では難波吉師(なにわのきし)日香蚊(ひかか))の文字が見えることである。したがって、大日下王の殺害から都夫良意富美の滅亡に至るこれらの話は、旧辞ではなく、帝紀に記されていたと考えねばならないのである。では、これらの話は一体、いつ頃の出来事を語っているのであろうか。『宋書』によれば、大明四年(四六〇)に済(允恭)が没し、世子興(安康)が宋に遣使貢献しているので、〝日下王家〟の没落はおおよそ五世紀の第Ⅲ四半期頃であったと考えられる。とすると、『記』『紀』に語られている〝日下王家〟の動向は西都原古墳群の考古学的知見と奇しくも一致する。『記』『紀』の物語の骨格は史実に基づいていると見て大過ないであろう。 四 日向の諸県集団強大化の契機 日向の諸県集団が大王家の姻族として強大な勢力を持つ契機となったものは一体、何であったのか。 ここで注目されるのは、西都原古墳群をはじめとする日向全域の古墳が五世紀初頭前後から爆発的に増加するとともに、その規模も巨大化することである。こうした現象は西日本の他の地域においても見られ、四世紀末ないし五世紀初頭から急に出現あるいは巨大化する古墳群が少なからず存在する。また、それとは逆に、急速に衰退する古墳群もある。特にこうした現象は佐紀盾列古墳群西群の政治集団が基盤としていた木津川・淀川水系や葛城南部・河内南部の地域において著しい。 私はこうした現象が生起した理由を佐紀西群の政治集団の内部分裂に起因する争乱(「四世紀末の内乱」)と〝河内新政権〟の成立、より具体的には佐紀西群の政治集団の内部にいた神功・応神の名で語られている勢力が日向や吉備・河内・葛城等の諸集団の支援を得て、王権の正統な後継者である忍熊王の名で語られている勢力と戦い、これを打倒して、いわゆる河内大王家を誕生させることとなった政変に求めている。 では、佐紀西群の政治集団はなぜ内部分裂を起こすことになったのか。その原因は百済王家の内紛に関わる外交問題にあったと考えられる。 四世紀前半、遼西・遼東地域を中心に勢力を拡大した鮮卑族に大敗を喫した高句麗は、これにより南下政策を開始し、新羅や百済を圧迫した。これに対し新羅は従属的な立場をとるが、国家形成を進めていた百済はこれに対抗、両者は激しい攻防戦を繰り返した。こうした高句麗の南下政策や対新羅関係に苦しんだ百済は、やがて三六七年(丁卯)ヤマト政権と軍事同盟ともいうべき盟約を交わすことになる。百済では三八五年に即位した辰斯王が、六年後の三九一年に殺害され、甥の阿花王が即位する。おそらく当時、百済王家の内部には阿花王派と辰斯王派が存在し、後者が三八五年に力によって「太子」の阿花を退け、辰斯王を即位せしめたが、この両派の対立はその後もなお続き、辰斯王の高句麗への降伏(三九一年、『広開土王碑』による)と倭国からの圧力が動因となって阿花王派が辰斯王を殺害したものと見られる。 では、この両派に対するヤマト政権の対応はどうであったのか。私は別稿(「百済王家の内紛とヤマト政権」『堺女子短期大学紀要』第四四号、愛泉学会、二〇〇九年)で、当時のヤマト政権の内部には辰斯王を支持する体制派(忍熊王の名で語られている既存の支配勢力)と阿花王を支持する反体制派(神功・応神の名で語られている勢力)の二つのグループ(派閥)が存在していたこと、三九一年前後の時期に、阿花王政権の樹立に当たって支援した反体制派によるクーデターがヤマト政権内で勃発し、これによりヤマト王権の政権担当集団が交替して〝河内政権(河内大王家)〟が成立したこと、などを考証した。 この考察に大きな誤りがなければ、このとき新政権樹立派に属していた政治集団は争乱終結後、ヤマト王権の権威と権力を背景として急速に台頭し、それまでの首長層に替わって新たな支配層を形成した場合が少なくなかったと思われる。とすれば、日向の諸県集団を中心とした勢力も、まさしくそうした勢力の一つであったと見ることができる。このようにして、応神を頭目とする〝河内政権〟は南九州(日向)の勢力と親密な関係にあり、両者の間にはヤマト政権の最高首長を〝兄〟とし、日向の政治集団の首長を〝弟〟とするような従属的な同盟ないし連合関係が形成されていたと考えられる。応神・仁徳の時代以降、それまで「熊襲」と呼称されていた南九州の集団が「隼人」と呼ばれるようになるのも、畢竟、こうした情況変化と不可分である。「隼人」の用語は「杖刀人」(埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘)や「典曹人」(熊本県江田船山古墳出土の大刀銘)などと共に、こうした視点から考えられるべき用語ではないかということを、ここに改めて提案しておきたい。 はじめにも述べたように日向では四世紀後半から五世紀初頭にかけての時期に、日向独特の柄鏡式前方後円墳が築造される。これらの古墳は畿内の墓制を必ずしも受け入れていないという意味において、非あるいは反ヤマト政権的である。日向の柄鏡式古墳をこのように理解すると、四世紀後半のこととして語られている仲哀の「熊襲征討物語」も極めて合理的に解釈し得る。神功の朝鮮半島出兵の物語の発端がなぜ仲哀による「熊襲征討」となっているのか。従来、この点を問題とし、またそれを解明した研究者は皆無と言ってよい。しかし、柄鏡式古墳築造の意味を以上のように捉えると、四世紀後半における南九州の諸集団の多くが反ヤマト政権的立場にあったということを仲哀の伝説は語っていることになる。『記』『紀』の仲哀に関わる物語には疑問な点が少なくないが、熊襲征討伝承の背後にはこのような史実が存在していたと考えられるのである。 むすびにかえて目弱王が起こした安康殺害事件を契機に、〝日下王家〟は没落の運命を辿ることとなる。しかし、これは何も〝日下王家〟だけに限ったことではなかった。目弱王に荷担した葛城南部の葛城集団の族長家もこれに連坐して没落し、やがてこの族長家と近しい関係にあった吉備集団の族長家もまた没落する。このように、〝河内新政権〟樹立に当たってその一翼を担った巨大な政治集団が、五世紀代後半期までに次々と没落していったのであるが、その背景には仁徳・履中・反正系王統と允恭・安康・雄略系王統の確執が存在していたと考えられる。この点については、今年一月十日に開催されたシンポジウム「五世紀のヤマト政権を探る」の基調講演(「五世紀のヤマト政権と大王」)で私見の概要を述べさせていただいたので、ここでは割愛したいと思う。ご寛恕を乞う次第である。(文責 会員 石塚一郎)

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