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五世紀のヤマト政権とコシ(越)

つどい260号
元福井県埋蔵文化財センター所長 中司照世先生 

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五世紀のヤマト政権とコシ(越)
             元福井県埋蔵文化財センター所長     中司 照世

はじめに
 今回は、若狭に北東に接し、越前から越後・佐渡にかけての六カ国にあたる、コシ(越)における古墳時代中期の動きについて述べたい。
 ところで、以前から筆者は、古墳時代の動静が端的に表れている畿内の主要古墳の少なくない例で、既往の報告内容に問題があると主張してきた〔中司一九九八「行者塚古墳と畿内周辺の首長墳」『開かれた古墳時代のタイムカプセル記録集』加古川市教委、ほか〕。たとえば、全国的にも有名な滋賀県安土瓢箪山、大阪府紫金山、奈良県市尾墓山(いちおはかやま)・烏土塚(うどづか)、三重県石山などの各古墳のほか、紀伊の歴代大首長墳である和歌山県大谷・花山六号・大谷山二二号・大日山三五号・井辺(いんべ)八幡山・天王塚・井辺一号などの各古墳でも、墳丘に関する報告の内容に疑問が残ると指摘している。
 そして、こうした例に止まらず、それほど有名ではないかも知れないが、その他の主要古墳の墳形等についても、再検討が必要な例が散見される(以下、少し具体的に記す)。
まず、滋賀県北谷一一号、岐阜県長良龍門寺一号、兵庫県西野山三号・森尾・出石(いずし)茶臼山などの各古墳は、いずれも円墳ないしは方墳と報告されている。だが、全て前方後円(方)墳と見なすべきと考える。次に、京都府奈具岡北古墳は、墳丘長六〇メートルの前方後円墳と報告されている。だが、事実は古墳ではなく、前方後円形を呈する自然丘稜上に穿たれた土坑墓に過ぎない。また、三重県宝塚一号墳は三段築成の前方後円墳と報告されているが、最下段は墳丘下の基台部である疑いが濃い。
 幸い、紫金山古墳はその後京都大学により、大日山三五号墳は和歌山県教委により、それぞれ再調査が実施され、段築数や規模などが訂正されるに至っている。
それでも、北谷一一号・長良龍門寺一号の両古墳については、やはり円墳とする旧報告に大過ないと主張する反論〔用田政晴 一九九〇「三つの古墳の墳形と規模」『紀要』第三号、滋賀県文化財保護協会、ほか〕が出されている。また、その主張に同調する意見も見受けられる。反論は、その地方の古墳時代研究をリードする研究者によってなされているが、問題はその根拠がわが国の古墳の実態と乖離しており、そしてそのこと自体を論者が理解していないことである。
実は、こうした個別の例だけではなく、最近ようやく解決みたところの、真の継体天皇陵に関連する墳形とされたいわゆる「剣菱形前方後円墳」の存否を初め、相似形の墳形をもつ古墳の存在を主張するいわゆる「相似墳論」や、前方後円形の古墳における方形部が短い例に関して、円丘部径に対する方形部長の比により、帆立貝形古墳(本来「帆立貝形前方後円墳」と記述すべきだが、このように略記)と造出付円墳とに分類する説など、疑問が多くより大きい全体に関する見方についても、学界に混迷があるといわざるをえない。
いずれにしろ、事の大小を問わず、疑念がある例は少なくない(注一)。ここで逐一言及するだけの余地はないが、多くの研究者がわが国の古墳造営の実態を、正しく理解しないまま、種々の所論が展開されている現状は、誠に残念である。
 今回対象とするコシについても、こうした基礎的な認識の差によって、いくつかの論議が生じている。各地の首長の勢威や動静を検討する場合、それは少なくない影響を及ぼさざるをえないことになり、黙過しがたい。

Ⅰ.各地方の動向
越前
 越前を主とする北陸南西部における古墳群や主要古墳の分布を図1に示す。また、紙面の制約上詳述は避けるが、越前の大首長墳は表1のように変遷したものと考えている。
 ただ、筆者らが帆立貝形古墳としてきた免鳥長山・泰(たい)遠(おん)寺(じ)山(やま)両古墳について、後に造出付円墳とする異なる見解が示されている〔沼澤豊二〇〇六『前方後円墳と帆立貝古墳』、ほか〕。前記したが、この種の墳形の分類は、方形部長と円丘部径との比率による機械的な区分が主流となっており、本例をも含めて古墳の実態を軽視しているきらいがある(注二)。
 ところで、越前では大首長は随時異なる集団から輩出した感があるが、終始一系列で変遷したものと考えられる。一方、こうした説に対して、四・五世紀こそ大首長は一系列であるが、六世紀には二系列に分かれたとする並立説〔青木豊昭一九八五「越前における大首長墓について」『福井県立博物館紀要』第一号〕が提起され、見解が対立していた。ちなみに、越前の大首長墳の変遷について紹介された例では、後者の並立説に拠ったものが大半である。
しかしながら、近年町教委の発掘で、並立説の根拠の一つで六世紀前葉の大首長墳と主張された鳥越山(とりごえやま)古墳(図4)は、私見のように大首長の膝下に位置する五世紀の小首長墳であり、今一つの根拠で六世紀中葉の大首長墳と主張された三峰山(みつみねやま)古墳は、古墳ではなく中世の砦跡であることが判明している。

加賀
加賀における主要古墳(図1参照)の変遷は表2のとおりである。ただ、今後該当する大首長墳が新たに発見される余地が残る。一方、表中の古墳に関する既存の報告内容にも、再検討すべき点が散見される。
まず、秋常茶臼山一号墳は、三段築成で墳丘長一四〇メートルの、北陸地方最大級
の古墳とされている。しかし、筆者は、最下段墳丘とみなされている箇所は自然丘稜であり、本来の墳丘は二段であって、長さも一二〇メートル余りとみている。調査担当者は、葺石の存在を根拠に自説を主張している。だが、前記の北谷一一号墳の円墳説でもそうであるが、葺石の存否は必ずしも墳丘の当否とそのまま対応するわけではなく、墳形特定の根拠になりえない。
次に、二子塚狐山古墳は、一般的には墳丘長五四メートルとされている。しかし、市教委が行った、墳丘外周域のトレンチ調査による結果からすると、むしろ六三メートル前後に復原するのが穏当であろうと考える。
さらに、臼のほぞ古墳については、筆者は以前から六世紀(中葉)の築造と推定しており、明確な異見をみなかった。ところが、後年の測量報告に伴う論考では、墳丘長五二メートルで、景行天皇陵(渋谷向山古墳)と墳丘の平面形が相似形をなし、埴輪も存在しないとして、前期に属す蓋然性が強調
〔古墳文化を学ぶ会一九九二「加賀・能登の古墳測量調査」『石川考古学研究会々誌』第三五号〕されている。
今さら述べるまでもないが、全面発掘が実施されていない墳丘を対比の上、相似形だと特定して両被葬者間に何らかの関係の存在を想定するいわゆる「相似墳論」は、科学的とはいいがたい。また、疑念が指摘された埴輪の欠如に関しても、六世紀中葉はコシにおける埴輪の消滅期である点を承知しないまま古相とみなしている。いわゆる「三湖台地区」所在で時期の判明している古墳は、いずれも後期に属すことや、当古墳の崩落土から六世紀の須惠器が採集されていることこそが、何よりも築造時期を雄弁に物語っているのではないか、と考えざるをえない。

能登
 能登における大首長墳(図1参照)の変遷は表3のとおりである。五世紀後半代の該当例が見当たらないが、詳細な実態が判明している他地方の例からみても、既に古墳が削平されているのか、あるいはなお未発見であるのか、などの可能性を考慮する余地がある。
注目すべきは、崇神天皇の皇子の「大入杵(おおいりきの)命(みこと)墓」とされている小田中親王塚古墳(宮内庁陵墓参考地)の存在である。コシでは目下唯一の確実な三段築成例であり、かつ、立地もコシでは稀で大和の大王墳と同様な山麓への造営、ならびに『古事記』で大入杵命が能登臣の祖と伝えられていることなど、種々の点においてを整合しており、現被葬者像に背反する明確な根拠を見出しがたい。
後続の雨ノ宮一号墳では、調査により畿外では異例の豊富な腕飾形石製品が出土(注三)し、能登の地理的・政治的な重要性が改めて再認識された。難所「親不知(おやしらず)」の所在で、陸路越中から越後へ越えることは至難という地形的条件と、後代の斉明朝のことながら、阿倍比羅夫による蝦夷征討軍の船団に加わって、戦死したと伝えられる能登臣の存在などが、ダブルイメージとなって想起されるなど、いわば能登の地は日本海側を北進するさいの、ヤマト政権の橋頭保とみなしうる。香島津(かしまづ)(七尾港か)から海路北東に進むと佐渡島に到るが、その西端の鹿伏山(かぶせやま)から車輪石が出土していることも、誠に興味深い現象である。
 ところで、当地でも五世紀の水白鍋山(みじろなべやま)・滝大塚の両大首長墳は帆立貝形であり、その点越前と共通する様相が窺える。特に滝大塚古墳は、半島西端部の滝港を見下ろす所在であって、まさに示唆的な立地を有する点を含めて、免鳥長山古墳との類似は見逃しがたい。

越中
越中における主要古墳(図2参照)の変遷は表4のとおりである。これら以外にも、板屋谷(いたやち)A一号墳(公称の墳丘長六五メートル)・関野一号墳(同六五メートル)・阿尾島田A一号墳(同七〇メートル)など、該当する規模の前方後円墳とされている報告例がある。しかし、前二者の墳丘の実態には課題が残り、また、阿尾島田A一号墳
は、そもそも前方後円墳ではなく、方墳(辺長二五メートル前後)と考える。
 ところで、径四五メートルで、五世紀前葉の造営の中型円墳とされている稚児塚(ちごづか)古墳の存在は、注目に値する。段築・葺石を備えるのみならず、平野部への造営で周濠を巡らすなど、越中では稀な畿内的に整備された古墳である。さらに、周濠外接の畔の形状が、あたかも西面の前方部が付設されていたかのような趣を呈している。そうであれば、本来墳丘長六〇余メートルの帆立貝形古墳になろう。
越後
越後における主要古墳(図2参照)の変遷は表5のとおりである。ただ、表中の古墳に関する既存の報告内容にも、再検討すべき点が散見される。
まず、径三〇メートルの円墳といわれる緒(お)立(だて)八幡神社古墳は、現参道下が前方部である可能性がある。また、菅原三一号墳では、横穴式石室の石材が露呈するが、くびれ部開口とみなせることから類推すれば、
まず北部九州系の石室であろう。
 ところで、越後では、大首長墳の該当例は見られず、中・小の首長墳が散在している。ゆえに、周辺の他地方と同様な広域の政治圏が形成されたとは考えがたく、首長の分立状況と解釈せざるをえない。そうした中で、先年、新潟平野から奥まった南魚沼市の飯綱山古墳群の調査で、同一〇号墳からコシでは例をみない類(たぐい)の壺形埴輪(図3)が検出された。越後は当然北陸道域ではあるが、南山間部の古墳文化は、上毛野国(群馬県)経由で伝播した可能性が大きい。

Ⅱ.五世紀におけるコシの動静
前節で、越前から越後にかけての各地の首長墳の分布や変遷の大要を紹介した。中・小首長の分立状況が推定される越後を除くと、各地方ともほぼその全域を統括したと思える一系列の大首長などの変遷がたどれる。
 前期では、越前や加賀の大首長墳は、四世紀後半に特に大規模化している。ヤマト政権が各地の首長に宝器として配布したといわれる腕飾形石製品等〔小林行雄一九七六「古墳文化とその伝播」『古墳文化論考』〕の集中的な製作地帯の大首長であるが、その製作や貢納と関連した、勢力の興隆に伴う現象ではないか、と思える。
一方、中期には、越前や能登(あるいは越中でも)で特徴的であるが、五世紀前半に属す大首長墳が前代までの前方後円墳から帆立貝形古墳に変化しており、その意味するところはまさに検討を要する。
 従来、こうした墳形の変化については、大王による規制とする、いわゆる「規制論」が主張されてきた〔小野山節一九七〇「五世紀における古墳の規制」『考古学研究』第一六巻第三号〕。しかし、各地における帆立貝形古墳の分布実態を概観すると、前方後円形の大首長墳に隣接する形で造営されている例がきわめて多い、という特徴がある。
コシにおいても、こうした形で立地する帆立貝形古墳として、越前では石舟山古墳に近接する鳥越山古墳、加賀では二子塚狐山古墳に近接する東田一〇号墳などがある。つまり、隣接の大首長墳に従属する形で営まれた陪冢的な存在と考えざるをえない。よって、帆立貝形古墳の出現をそのまま大王による規制に結びつける考えは首肯しがたい。
むしろ、畿内における古市・百舌鳥両古墳群の大王墳と帆立貝形の陪冢との関係(注四)に見られる、中期大古墳群の典型例のミニ版とも称しうるものが、まさに地方の中期大首長墳を中心とする古墳群にも現出していることになろう。
 それでは、越前の免鳥長山・泰遠寺山、能登の水白鍋山・滝大塚の各古墳など、地方であるとはいえ、大首長墳にまちがいない墳形までもが帆立貝形に変化しているのは、どのように解釈すればよいのであろうか。
 その理由を探るいくつかの手掛かりがある。まず、免鳥長山・滝大塚両古墳では、従来とは立地が端的に異なり、平野中央部からは離れて、とりわけ臨海性が顕著な点が、誠に示唆的である。同時に、丁度この時期に、埴輪の使用が従来の越前から加賀・能登域にまで広がり、他方では小首長墳にまで韓半島系の渡来品の副葬が浸透し始め、集落でも韓式系土器の出土例が増加するなどの事実も、目を引く現象である。
 紙面の制約上要点のみ述べると、実は臨海性の立地を示す大首長墳の築造は、この時期広く西日本を中心に各地に広範に認められる現象でもある。再度コシに話を戻すと、当地方では若狭における大首長墳の登場とまさに合致している。つまり、膳臣の動静とあながち無関係なものとは考えがたい。
 一方、泰遠寺山古墳では、副葬品の仿製内行花文鏡の特徴などから、葛城氏との関係が指摘されている〔近藤喬一一九九三「西晋の鏡」『国立歴史民俗博物館報告』第五五集〕。
すなわち、地方首長とヤマト政権中枢の特定有力豪族との関係の成立に起因するものとみなしうるものであって、帆立貝形の大首長墳は、墳形からしても何らかの従属的な立場であることを推察せざるをえない。さらに、古代の文献の記載やその他の関連諸事情、副葬品類まで含めて勘案すれば、韓半島への出兵にまつわる軍事的な動員や編成に伴い、政権中枢の大豪族と地方の豪族間に主・従となる何らかの関係が成立したもので、そうした状況こそがまさに墳形に表出したものであろう。
 
おわりに
コシの豪族の動静に関しては、以前にもその概要を述べた〔中司二〇〇二「コシ(越)の政治集団とヤマト政権」『つどい』第一七四号〕。そこで、今回は論の展開に少なくない影響があるにもかかわらず、事実の検証がなおざりがちのまま、先行的な主張が交錯している学界の現状に、幾分かなりとも杞憂の意味を込めて私見を述べた。資料のより一層の正確さを究めるべく、基礎的な資料の見直しを進め、より厳密な論理に立脚することが、考古学へ対する一般の理解には欠かせぬことではないであろうか、と思えるのである。
繰り返しになるが、「はじめに」でも記したように、古墳研究に関しては、幾多の混乱が生じている面が否めない。自治体内の研究者が大多数を占め、「地域に密着した学問」といわれる考古学界であるが、それゆえにこそ地元については自らが最も正確に把握し熟知している、との自負を抱きやすい。それは同時に、時に過信にも繋がりかねず、外部の研究者による新知見の提起に対して、感情的な反発に陥りやすい負の側面を備えている。しかしながら、考古学の一層の進展を図るには、乗り越えざるをえない側面といえる。
 ところで、五世紀におけるコシ各地の豪族の動静については、ヤマト政権の中枢を構成する大豪族の動向が濃密な影響を及しているというのが今回の筆者の主張である。とりわけ、若狭の膳臣との関係の成立は切り離せないものであろう(注五)。
 時期的に遡るが、『記紀』における崇神朝
の四道将軍の記事に見られるコシへの大毘古(おおびこの)命(みこと)(以下主に『記』によって記す)の派遣は、後代の阿倍臣の国境視察の史実の投影とみなされてきた。前稿で、大和の阿倍臣から、伊賀の伊賀臣・阿閉臣(あへのおみ)、若狭の膳臣の如く、北陸にかけて大毘古命を祖とする伝承を持つ豪族の居住が推定され、それは主要首長墳にみる考古学的な現象ともまさに整合していることを指摘〔中司二〇〇九「五世紀のヤマト政権と若狭」『つどい』第二五四号〕した。
同様に、系列的に近い能登臣と、能登の首長墳にみる考古学的な現象とが整合している。ちなみに、こうした「大王家一族の地方豪族化」といいうる伝承と、考古学的な知見との整合例は、ほかにもいくつか指摘しうる。
 そうしたことと関連して、四道将軍の記事でコシを経由した大毘古命が、東海へ派遣されたその子建(たけ)沼(ぬな)河(かわ)別命(わけのみこと)と相津(会津)で会ったという伝承も、あながちには無視しがたい。
周知のように、前期ヤマト政権からの配布が主張された品に、三角縁神獣鏡と腕輪形石製品がある。従来、同種の鏡の北限は、福島県会津大塚山古墳出土例が知られていた。だが、近年腕輪形石製品の一種の車輪石が、同県大安場(おおやすば)古墳から出土して注目を集めた。
ヤマト政権の橋頭保ではないかとした能登では、前出の小田中親王塚古墳で両者がともに副葬されている。新たな分布圏の広がりなど、考古学的な知見の増加に伴う『記紀』にみる記載との符合例の増加は、古代史研究の既往の成果に、双方からする再度の検討を迫っている感すらあるのではないであろうか。

 今回も、紙面の関係で報告書類等の基礎的な参考文献の掲載は省略している。ご了承賜りたい。なお、小稿における説明不足の点については、『つどい』第一七四号・第二五四号をも併読して頂きたい。

 一 たとえば、言及されることが多く、真の崇峻天皇陵とみなされている方墳の奈良県赤坂天王山古墳が、円墳(径五三メートル)の大阪府聖徳太子墓(叡福寺北古墳)と同大(辺長五三メートル)であるにもかかわらず、一般にはより小型(同四五・五メートル)とさ
れているが、この種の類の問題は枚挙に暇がない。
 二 青木豊昭・沼澤豊・高橋克壽の各氏らがこうした立場を採る。論拠を明示する沼澤説では、免鳥長山古墳についても、前方部に相当する部分が後円部径の八分の一の長さであることから、他の二箇所とともに造出部と断定している。しかし、一方の方形部が丘陵の稜線を切断した形で形成され、その先端頂部が次第に高まっているなど、全国的にごく普遍的な前方部の構築状況にまさに合致している。しかも、この部分のみ他の方形部とは異なり、基部は段築間の平坦面(テラス)より高くなって円丘部(後円部)に接続している点を無視している。同時に、類似の墳形を有する帆立貝形古墳の兵庫県行者塚古墳の存在も黙過しがたい。わが国の古墳の実態を未精査のままの、いわば理論先行型の見解には賛同しがたい。
三 こうした腕飾形石製品の出土については、ヤマト政権の勢力の伸長を示す配布品とする小林説に対して、流通の結果とする異説が提起された。だが、越前北部から加賀にかけての集中的な生産地帯における首長墳でさえも、出土は稀である。他方、大王家に関連する古墳では多量の副葬が顕著である。その点からも、流通説等の成立しがたいことは言をまたない。
四 こうした大王墳とその陪冢とされる帆立貝形古墳との関係については、大阪府允恭天皇陵(市野山古墳)や仁徳天皇陵(大仙古墳)などが例示されがちである。ただ、大阪府応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部北側周濠に外接し、国宝の金銅製鞍金具などの出土で知られ、径四五ないしは五〇メートルの円墳(あるいは造出付円墳)とされている誉田丸山古墳も、その実態は図上復原長七〇メートル前後の北面の帆立貝形古墳である。はたして陪冢であれば、この種の出現例は遡る。
五 前回、ともに五世紀後葉の、若狭の西塚と加賀の二子塚狐山の両古墳の副葬品に、渡来系遺物が豊富で、しかも、同一工房製作の品である銅製鈴が双方に混在していることを紹介した。特に後者の分有の事実は、両被葬者間に何らかの特別な関係の存在さえ窺わせる。

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