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基調講演3 倭の五王の外交政策

つどい257号
文化財講演会09
-豊中歴史同好会設立20周年・『つどい』250号記念-
特集 「5世紀のヤマト政権を探る」(Ⅲ)
基調講演3 倭の五王の外交政策
京都府立大学 名誉教授 坂元義種先生
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基調講演3 

   倭の五王の外交政策

 
一 倭の五王はいつ最初の使者を中国へ送ったか
倭の五王の外交という場合、その出発点を、どこに置くかとなると、『晋書』安帝紀に見える義煕九年(四一三)の、「義煕九年是歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師、
並献方物」の記事を以て、遣使があったとするのが普通だが、この史料には、倭の誰が使者を送ったのか、またもし倭王であるならば誰であったのかが示されていない。
それを考える材料として『梁書』倭伝には、「晋安帝時。有倭王賛」と、また、『南史』倭国伝にも、「晋安帝時。有倭王讃。
遣使朝貢」とあるので、これらを併せ考えれば、東晋安帝の義煕九年に倭王讃が東晋に使いを送ったことが一応確認できる。ところが、この遣使に対する東晋の対応について考えて見ると疑問があるのである。
 話はそれるが、ヤマトの貴族は、この倭国の「倭」という文字を嫌い、やがて日本という国名に変わって行くのであるが、その際、何が問題になったのかというと、「倭」という文字は、人に従い、女に従う。女の君主に従っている人民だ、といわれるのが嫌だ、というのと、もう一つは、倭という字は「周(しゅう)道(どう)倭(い)遅(ち)」といって「遥かに遠い」という意味があり、中国からすれば、倭というのは遥か遠い国であって、そのようなところから使者が貢物を献上するためにやって来るというのは、中国王朝にとって、時の政権が天から祝福されている、という風な捉え方をするのであるが、そういう中にあって東晋はどうしたのかと見ていっても何の対応もしていない事に気が付く。
この時一緒に朝貢した高句麗は『宋書』高句驪伝を見ると、「高句驪王高璉、晋安帝義煕九年、遣長史高翼奉表献赭白馬。以璉為使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王楽浪公」とあるように高句驪は赭白馬という赤毛と白毛のまじった珍しい馬を献上し、それに対し東晋は、使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句驪王・楽浪公という、官爵号を高句驪王に与えているのである。

二 高句麗による「倭国朝貢の謀略説」
そうであるならば、遥かに遠い国から来た倭国王に対しても相応の官爵号を与えても良さそうなものであるが、それがないのはどうしたことかと疑問になるのである。     
そこで更に『太平御覧』巻九八一香部麝条所引の『義煕起居注』を見ると、つぎのような記事がある。「義煕起居注曰、倭国献貂皮人参等、詔賜細笙麝香」 (義煕起居注とは、義煕が年号、皇帝の日常の立居振舞いのあらゆる細かい事を記録したもので、やがて、これ等を元にして晋書などの歴史書が編纂されてゆく基になるもの) 。
そこには倭国が、貂皮や人参を献上したという記事があるが、倭国では手に入れ難い北朝鮮特産の貂皮や人参をわざわざ朝貢するのも考え難く、これは一緒に行った高句麗の王による何等かの工作ではないかと考える方が良さそうである。思い巡らすと、この年の少し前の好太王碑文に、永楽十年庚子(四〇〇)新羅の要請を受けた高句驪王は倭軍と戦ってこれを壊滅せしめ、やがて鎧鉀壱萬余領を奪った、などとあるので、この時奪ったのは武器・武具類だけではなく、捕虜になった人もいたはずであり、これ等の人を倭国の使いだと偽称して帯同していったのでないかと、考えられるのである。
 実は、高句麗の朝貢には、似たような事例がある。
 『宋書』巻六 孝武帝本紀によると、「大明三年(四五九)十一月己巳(五日)高麗国、使いを遣わして方物を献ぜしむ。粛慎国、重訳して楛矢・石砮を献ず。西域、舞馬を献ず」とある。この記事を見ると、この日、高句麗・粛慎国・西域が主体性を以て入貢したかに見える。とくに粛慎国が遠方から通訳を重ねながら楛矢・石砮を献上したという記事は注目にあたいする。
ところが『宋書』高句驪伝には意外な事実を伝えているのである。「大明三年、また、粛慎氏の楛矢・石砮を献ず」というのがそれである。
 恐らく、高句麗は中国王朝に対し、北方の粛慎国というのは、特産物といっても楛矢・石砮くらいしかない最も野蛮な国であるが、我々はその国から朝貢させている大国なのだ、ということを誇示したかったものと思われる。
 中国周辺の諸国が自国の勢威を誇示するために外国人を従えて中国王朝に赴いた例は日本にもある。
 『日本書紀』斉明天皇五年(六五九)の条に遣唐使坂合部連石布らが蝦夷の男女二人を引率し唐の天子に見せたところ、天子は「蝦夷の身面の異なるを見て、極まりて喜び怪しんだ」とある。
 何故、そんな事をするのかといえば、倭国が、新たに服属させた野蛮な蝦夷人を唐帝に見せて自国の威勢を誇りたかったのであろう。
 だから、義煕九年の時の高句麗も、同じような工作をしたと考えられるので、この年に倭国の王が朝貢したという説は採ることが出来ないのである。
三 倭の五王の最初の遣使はいつか
 では、倭王の最初の遣使はどの段階になるのか、といえば、『宋書』倭国伝に出てくる永初二年(四二一)の左の記事である。
倭国は高驪の東南、大海の中に在り。世々貢職を修む。高祖の永初二年、詔して曰く、「倭讃、萬里、貢を修む。遠誠宜しく甄すべく、除綬を賜う可し」と。
ここに、倭讃とあるのは、即ち讃・珍・済・興・武の倭の五王の讃のことである。ここに初めて中国に朝貢したのが讃であり、この永初二年がいわゆる倭の五王の中国への最初の遣使なのである。
なお、「高驪」とか「高麗」は、高句麗のことである。「高驪」とは名馬の産地であるというイメージから、馬偏のこの字が用いられたようである。
除綬とは本来、もとの官爵を、一旦取り除き、改めて新しく官爵号授ける意味であったが、後には単に官爵を授けることをいう。
 この『宋書』倭国伝の記事の大意は、「倭国は遥か遠く高句麗の東南、大海中にあるが、世々代々貢物を持って中国王朝に通じてきた。宋の建国にともない、倭国王の倭讃が万里を遠しとせず、使者に貢物をもたせて来朝した。その遙か遠方から朝廷に忠誠を誓う態度は賞賛に値する。そこで官爵号を授けることにする」といっているのである。
 中国の、こうした発想は、『晋書』の中にもあって、中国の三国時代末期の魏の国の宰相(曹操の一族)が、徳を以て国を治めているから、倭国がしばしば朝貢して来るのだ、倭国から使者が来るのは、時の中国の王朝が天に祝福されているからだというように考えて対応をしているのである。
 そこで、はじめに一のところで指摘した中国が遥かに遠い国から来た倭国王の朝貢に対して評価していないということについては、『宋書』武帝本紀永初元年(四二〇)七月の条によって知ることができる。
 倭王讃が永初二年に初めて宋に朝貢した前年の「永初元年六月丁卯(一四日)」に宋が新王朝を樹立するのであるが、宋朝は、その一カ月後の七月戊戌(一六日)に、
ア 雍州刺史趙(ちょう)倫(りん)之(し)を後将軍から安北将軍に進号。
イ 北徐州刺史劉(りゅう)懐(かい)慎(しん)を征虜将軍から平北将軍に進号。
ウ 開府儀同三司楊(よう)盛(せい)を征西大将軍から車騎大将軍に進号。
 七月甲辰(二十二日)には、
エ 李(り)歆(きん)を鎮西将軍から征西将軍に進号。
オ 乞(きっ)仏(ぷく)熾(し)盤(ばん)を平西将軍から安西大将軍に進号。
カ 高句驪王高璉を征東将軍から征東大将軍に進号。
キ 百済王扶余映を鎮東将軍から鎮東大将軍に進号。
 アの趙倫之とイの劉懐慎は、宋朝内の内臣で州の長官。
ウの楊盛は、のちに武都の王となる五胡の氐族の出。
エの李歆は、西域の西涼王。
オの乞仏熾盤は、五胡の鮮卑族で西秦王。
【各進号の意味は、将軍を中心とした宋官品表を参照】
 宋朝は、右のように、国内の者だけではなく、外国の諸王に対しても、それぞれ位階を引上げているのであるが、その中に倭国王の名前が見当たらないのである。
 それに、この記事は、宋の新王朝樹立に伴った祝賀的任官記事であり、しかも、新王朝樹立の一カ月後のことであるから高句麗も百済も使者を宋朝に送っていないので、直接、それらの諸王の遣使と結びつくものではないのである。
 宋王朝の考え方は、前の王朝である東晋から貢献・服属の証として将軍号等の官爵を与えられているとすれば、当然、宋朝になっても朝貢・服属してくるであろう。だから、彼等の地位を高めておいてやろうという発想なのである。
 その中に倭国王がいないのである。もし義煕九年が倭国にとって重要な年であり、中国側も本当に倭国からの遣使があったと認識しているのであれば何等かの対応があったはずである。
 それでは次に、この段階で百済はどのような対応をしていたのかという史料が次の東晋の記事である。
『晋書』巻九簡文帝紀 咸安二年(三七二)正月辛丑、百済・林邑王、各遣使貢方物。六月、遣使拝百済王餘句、為鎮東将軍領楽浪太守。
『晋書』巻九孝武帝紀 太元十一年(三八六)四月、以百済王世子餘暉、為使持節都督鎮東将軍百済王。
 これ等は何れも百済側の遣使と東晋朝の対応の内容であるが、特に太元十一年(三八六)四月条では、世子(世継)として朝貢した百済に対して百済王の爵号を与えているのである。
 このように百済は、東晋に対し何度も、こうした交渉があって百済王として認められていたからこそ、新王朝になった場合に、
前の王朝と親交を持っていた百済王として認められ、進号を受ける事が出来たのである。
 従って、倭国の讃は、永初元年の段階では未だ中国から良く認識されておらず、永初二年になって初めて讃が倭国の王として認められる段階に入ったと、いう事になるのだと理解すべきだと考える。
 私の説を覆す史料が出ない限り倭国王讃の外交の始まりは、義煕九年ではなく、永初二年だと理解して頂きたい。

四 倭王は、なぜ名前を倭讃と名乗ったのか
 倭国王は遣使の際に自らの名をなぜ倭讃と名乗って中国に伝えたのであろうか。
これは、当時の倭国の外交は孤立した存在ではなく、東アジア外交の慣例を踏まえた称号だったのである。その背景には百済や高句麗の外交にその理由がある。なぜかというと、今見て来たように『晋書』簡文帝紀や孝武帝紀の記事のように、百済王の名は餘句、餘暉である。また『宋書』百済国伝でも多くの百済王族達が餘と名乗っているのである。
 百済王の、この餘というのは、扶餘から来ているのであって。百済王姓は、普通は扶餘というが、略称して餘ともいっており、王姓は餘の一字で表記することがある。
 百済は、彼等の伝承の中に自分たちの先祖は、高句麗と同じく扶餘から出ているのであり、その伝統と誇りもあって、王達は姓を餘と名乗るのである。
 高句麗の場合も『宋書』武帝本紀永初元年七月の条に高句驪王の高璉の名が出てくるが、高璉の高が高句麗の国号を取った姓であり、璉(長寿王)が王の名である。因みに高璉の父が好太王で高安と名乗っている。
 こうした百済・高句麗の事例から、倭国でも当時の中国が日本を指して倭と呼んでいたので、已むなく倭を国姓とし、名は讃の一字を取って倭讃としたものと考えられる。讃というのは褒め称える意味であり、
別に中国側から指示された訳ではなく日本側で、多くの漢字の中から選んで自らは褒め称えられる存在なのだと自負して、称えた名前なのであり、後の倭王もそのように考えなければいけないのである。

五 司馬曹達とは何か
 次に、『宋書』倭国伝に、「太祖の元嘉二年(四二五)、讃、又、司馬曹達を遣わし、表を奉りて方物を献ず」とあり、倭讃は司馬曹達を使節として中国に派遣している。
 この司馬曹達の司馬というのは、将軍府の僚属である「長史・司馬・参軍」の中の司馬である。
 これを見ると讃はこのとき既に安東将軍に叙せられていたと見えて、将軍府が設置されていたのであろう。長史は軍府の僚属のトップで文官の長、次の位が司馬で軍馬を司る武官の長、参軍というのは三番目で軍議に参加できる参謀である。
 軍府の僚属を使者に任命しているのも、百済や高句麗がしているように、当時の外交慣例に基づいて行ったものと思われる。
 その事例として、高句麗が東晋に使節を送った時の記事であるが、『宋書』高句驪国伝に、「義煕九年、長史高翼を遣わして赭白馬を奉献す」とあり、将軍府の僚属である長史の高翼が派遣されている。
 それでは、倭国が何故、将軍府トップの長史を使節とせずに二番目の司馬を送ったのか。これは、恐らくトップが行く必要はないだろう、下の者が行けばよいのだという当時の倭国の王達のプライドの高さや気概であったと思う。
 こうした発想は、奈良時代に入って遣唐使派遣の場合も同様である。決して政界のトップは行かない。行くのは、もっと下の者が行けばよいという発想を持っており、遣唐使は概ね四位の者が任命された。然し、中国側が下位の者と判れば気分が悪かろうというので、使節の着用する衣は、中国と同じ、一位から三位の者のみ着用出来る紫衣で以て体裁を整えていた。
 こうした気持ちはすでに五世紀頃から行われていたのではないかと思うが、このように当時の外交慣例を交えながら交渉を行っていた、といえる。
六 倭王の自称と除正官爵号について
 倭の五王は、自分が或る一定の役割を持っている者だ、と自称してそれを中国に認めて欲しいと要請するのであるが、その具体例を見ると『宋書』倭国伝に、次のようにある。
元嘉十五年(四三八)四月、珍、「使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と自称し、表して除正を求む」と。
 考えてみると、何故、倭国王が使持節・都督諸軍事とか安東大将軍など、と自称したのか。そこには、当時の慣例が前提としてあるのだろうから、そこで、その材料となる史料として、高句麗の黄海北道安岳郡柳雪里の安岳三号墳の壁画に描かれた、冬寿墓に左のような墨書の墓誌銘があるのでこれを見ると、
「永和十三年(三五七)十月戊子朔二十六日癸丑。使持節、都督諸軍事、平東将軍、護撫夷校尉、楽浪□、昌黎・玄莵・帯方太守、都郷侯。幽州遼東平郭都郷敬上里。冬寿、字□安。季六十九。薨官」とある。
この中の楽浪□の□の文字は何とか相と読めるので、これは楽浪相で、彼が服属していた人物(高句麗王)が所持していた楽浪国の太守に相当する官名である。
 今一つは、平安南道大安市の徳高里古墳の墓誌銘であるが「□□郡信都□都郷□甘里、釈加文仏弟子□□氏鎮、仕位建威将軍・ 国小大兄・左将軍・龍驤将軍・遼東太守、 使持節・東夷校尉・幽州刺史鎮、年七十七薨。□以永楽十八年太歳在戊申十二月辛酉朔二十五日乙酉、成遷移玉柩、周公相地」
というように、朝鮮半島には中国の官制が入っていて、国の支配者は自国の官号と中国の官号を名乗らなければならないと考えていたようである。こうした高句麗の事情も踏まえないと倭王が自称した称号の意図が理解出来ない。
勿論、直接的には百済王が「使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王」に封冊されているから、これに倣えば良いわけであるが、いずれにせよ倭国は、孤立していた訳でなく、百済、高句麗の様子、特に百済を視野に入れて自分の地位を固めようとしていた訳である。

七 倭王の外交目的について
 倭王の外交の目的としていたものは何か。一体、倭国はどういうつもりで外交したのか。というようなことは、『宋書』に記載はなく、よく分からないが、外交史料による限りでは倭国王が求めたものは官爵号の取得である。然し、それに対して中国側の対応は、といえば結構冷たいのである。
 先ほどの『宋書』倭国伝にある倭珍の自称称号要請は「使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」であったが、これに対する封冊は「安東将軍・倭国王」だけである。
 次の済の元嘉二十年(四四三)の場合も倭珍同様、「安東将軍・倭国王」であるが、済の場合は、やがて元嘉二十八年(四五一)には「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍」が加号・進号されているので、恐らく強い要請を行ってきたのであろう。
 更に次の興の大明六年(四六二)の場合も倭済同様、「安東将軍・倭国王」である。
 このように珍・済・興ともに、最初与えられた称号は「安東将軍・倭国王」であるところから、讃が、永初二年の時には「除綬」を賜っただけで称号が判らなかったのであるが、今、見てきたような結果から珍・済・興などと同様に「安東将軍・倭国王」であったと考えられる。
 然し、倭王の意図は、単なる「安東将軍・倭国王」ではなくて、「使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」の官爵号を要求しているのである。
 もう一つは、珍が要請した中に「珍、又、倭隋等十三人に平西・征虜・冠軍・輔国の将軍号を除正せんことを求む。詔して並びに聴す」とあるように、倭王の外交の目的には、必要な官爵号を倭王だけでなく、配下の者に対しても与えて欲しいと要求し、獲得することにあったのである。然も中国側が勝手に選んで与えるのではなく、倭王自らが指定した者に官位を明らかにして、与えるように要請し、認められているのがこの記事である。なお、これは、この年だけでなく更に済の元嘉二十八年(四五一)にも、先に述べた済に対する加号記事に続いて「安東将軍(この段階では安東大将軍になっている。)は元の如し。并に上(たてまつ)る所の二十三人を軍・郡に除す」の記事がある。
 これも倭国王自身が要求した人物に対して要求した軍・郡号(軍は将軍号、郡は郡太守号)が、その通りに認められているのである。
 それでは、中国に求めるのはそれだけか?といえば、『宋書』倭国伝では判らないが、百済では官爵号以外の他の物も求めているものがあって、『宋書』百済国伝に、元嘉二十七年(四五〇)「易林・式占・腰弩」を求めて許可されたとあり、また、『梁書』百済伝には「中大通六年(五三四)大同七年(五四一)累遣使献方物。并請涅盤等經義、毛詩博士、并工匠、畫師等。勅並給之」のように経典とか詩経博士、技術者、絵師などを求めて許されているのである。
 史料面だけで見ると、倭国の求めるものは軍事的なもので、百済は文化的なものを求めているようだが、これは史料の編纂者の立場や癖のようなものがあって、『宋書』の外国伝を書いた人(沈約)は不思議に官爵号にこだわって編纂したようである
 兎に角、倭の五王の外交目的といえば、以上のように官爵号の取得に強い関心があったとみてよかろう。
八 倭王は除正された官爵号を何に使ったのか
 それでは倭王が敢えて将軍や太守という軍・郡号を求めた真の狙いは何処にあるのか。
 やがて倭国にも郡が設置されるが、そのような後代の倭国内の郡に狙いがあったのではない。この郡は後代の国に当たるような、例えば楽浪郡とか、帯方郡のような広大なところを郡と捉えていたはずで、それをどこに配置し適用するのかといえば、南朝鮮地域であったと思われる。それを総称しているのが、「使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事」という称号にある。
 倭王が求めた称号は、先ず使持節・都督である。都督とは総ての軍権を握るものである。
 そこで良く言われるのは、馬韓から百済に変わったではないか、秦韓から新羅に変わったではないか、と。然しそれは後の話であって最初から全部変わった訳でなく、その一部から変わっていったのであり、未だ服属しない地域もあるはずで、その地域を総称するためには両方を挙げなければならない。
 なお、任那はどこか、といえば弁韓といわれたところであり、倭王武の上表文にあるように海北九十五カ国といわれた、この地域を支配しようとして設置しようとしていたのが郡の太守であろう。
 最後に倭国王の基盤となったものはどこか。また、どういうものかといえば、倭国に中国がこのような称号を与えるのは、朝鮮側の人が要求しているからであり、自分達がもっと力を伸ばすためには百済や新羅に付くのではなく、倭に付いて倭の力を利用して勢力を蓄えようとして突き動かしたのではないかと、考えられる。
 そこで、それを受けて倭国が中国と交渉する、つまり南朝鮮の有力者というか、百済、新羅に属していない勢力が背景にいるのだろうと思われる。
 次に当時の倭国の領域で、平西将軍が置かれたのは、「西」海道諸国といわれている九州筑紫で、安東将軍が置かれているのは、「東」のヤマトだと考えている。
 いわゆるヤマト朝廷の大王が安東大将軍であった「倭国王」だと考えている。
それから、よくいわれるのであるが、安東大将軍は平西将軍との位階は一階違いで、あまり差はなく、弱かったのではないか、あまり力がなかったのではないか、というが、それは間違いである。
 安東大将軍というのは、「使持節・都督・安東大将軍」であり、高句麗をのぞく朝鮮半島の軍事権の総てを握っている者であり、平西将軍はその駒の一つであって対等である訳がない。
 「珍、又、倭隋等十三人に平西・征虜・冠軍・輔国の将軍号を除正せんことを求む。」とあるように、平西の将軍号を求めた者は、倭隋であって、王族の弟など、倭王の近親者であろう。
さらに述べたいこともあるが、それはまた次の機会に讓りたい。
      (文責 会員 阪口 孝男)

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