5世紀における磐余と忍坂
つどい259号
奈良県立図書情報館 館長 千田稔 先生
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イワレとイワレヒコ
磐余(いわれ)も忍坂(おしさか)も今日の桜井市に含まれ、神社名や地名として遺称されています。忍坂は桜井市の市街地の東南方、万葉歌で知られる忍坂山は、今は外鎌(そとがま)山とよばれています。後に述べますように、忍坂は、近江の坂田郡に本拠をもつ息長氏の大和における拠点であります。一方、磐余という地名の由来について、『日本書紀』神武紀に次のように記されています。
記紀や風土記の地名伝承は、語呂合わせのような解釈が多く、その語義については信用できません。ただ、磐余の元の名を「片居」あるいは「片立」といったとありますが、これらの地名も、今日残っていません。そこで、あえて磐余のあたりを想定するならば、いわれ(いわれ風)(この読みについては後述)山口神社が桜井市谷にありますので、桜井駅南方一帯ではないかと思われます。
「イワレ」の意味と漢字表記について考えてみましょう。もともと岩がたくさん群がっていたために、「磐(岩)群れ」とよばれ、「イワムレ」の「ム」が脱落して「イワレ」となったと推定します。漢字表記については、「磐余」は磐 + 余(アレ)という組み合わせで、「石寸」という表記は、イワムラ= 磐村→石村で、「村」の「木ヘン」が落ちたとみてよいでしょう。別の説もありますが、ここでは自説のみを掲げておきたいと思います。
この「イワレ」という地名をとった神日本磐余彦天皇(紀)あるいは神倭伊波礼?古命(記)が神武天皇のことをさしますが、なぜ神武天皇が「イワレヒコ」なのかという問いかけは当然あると思います。これは、容易に答えをみいだせるものではありませんが、いわゆる「神武東征」伝承の解釈にもかかる問題だと思います。「神武東征」に反映するような史実があったように思いたくなるとしても、伝承の中に、史実をさがそうとすることは、本来やってはいけないことだと思います。九州の高千穂を舞台として語られる天孫降臨神話にはじまってイワレヒコが瀬戸内を東に進み熊野から大和に入ったというのは、「神話」と「伝承」を組み合わせた「物語」なのです。高千穂の話と、熊野の話と磐余の話が孤立してあったのを一本の糸で結び付けて、一筋の「物語」がつくられた可能性もおおいにありうると想定できます。ということは、ヤマトのイワレヒコという名の英雄伝承を全く関係のなかった高千穂などの神話と物語的に仕上げたという想定も、念頭においておかねばなりません。ですから、邪馬台国論を神武東征伝承と軽々に重ね合わすといったことは、断じてやってはいけないことなのです。むしろ、「ローカルな問題」として、ヤマトのイワレヒコ伝承が生れる素地として磐余地域の歴史的実体からは、目を離さないでおかねばなりません。その結果として、「神武東征」伝承が史実の片鱗にふれることが見出せるかもしれませんが、それはより慎重な手続きが必要とされます。
イワレと王権
五世紀~六世紀前半にかけての王権の実像は、わからないことのほうが多いと、私は思います。
『日本書紀』に従うとして仲哀天皇・神功皇后は実在性については、きわめて疑わしいといわれてきました。そのことを念頭に置きながら、書紀の即位の順序は、(仲哀・神功皇后)―応神―仁徳―履中―反正―允恭―安康 ―雄略―清寧―顕宗―仁賢―武烈―継体とありますが、『宋書』『南史』『梁書』に記載のあるいわゆる「倭の五王」の時代でもあります。その名は、讃・珍(彌)・済・興・武で『書紀』の天皇名にあてる場合、讃については、応神、仁徳、履中のいずれとするか断案はありませんが、珍―反正、済―允恭、興―安康 、武―雄略とみる説は有力であります。
継体
武烈
仁賢
顕宗
清寧
雄略
安康
允恭
反正
履中
仁徳
応神
(神功皇后)
天皇
磐余玉穂宮
泊瀬列城宮
石上広高宮
近飛鳥八釣宮
磐余甕栗宮
泊瀬朝倉宮
石上穴穂宮
遠飛鳥宮
丹比柴籬宮
磐余稚櫻宮
難波高津宮
難波大隅宮
明宮(軽島豊明宮)
磐余若桜宮
宮
そこで、この時代から六世紀前半の天皇とその宮をあげますと次表のようになります。
これらの天皇とその宮に目をやりながら、さきにあげた倭の五王についてみると、讃は保留すると他の四王はいずれも磐余に宮をおいていません。だから、磐余の諸宮と倭の五王とは、直接関係づけられませんが、私は、伝承的要素が濃い神功皇后とその宮、磐余若桜宮に注意したいのです。先に申しましたように、仲哀天皇・神功皇后は実在性については、疑問としなければなりません。ただし、神功皇后紀が皇后であるにもかかわらず例外的に『日本書紀』に一巻を占めているのはなぜなのでしょうか。オキナガタラシヒメとも称し、息長氏とゆかりのある女性で、応神天皇の母とありますが、神秘的な表現で記されています。そのことから応神をもって始祖王朝とする説もありますが、むしろ息長氏が大王家の外戚として近江から大和に進出する状況を語っていると考えられる面も見落とせません。何よりも、神功皇后の宮を磐余若桜宮であるとしていることは、息長氏と磐余との関係も示唆しています。そして履中天皇の宮の名前が同じであることに注目したいと思います。継体天皇も息長氏とつながりのあることなど、イワレとその周辺の王権と息長氏との関係をみることができます。
履中紀における磐余池
『日本書紀』 履中天皇二年十一月に「 磐余池を作る」とあり、 履中天皇三年十一月には、次のように記されています。
それでは、履中天皇の稚桜宮と磐余池はどのあたりに比定できるでしょうか。『日本書紀』 は、ワカザクラノミヤを「稚桜宮」と表記しています。ところが、『日本書紀』の「稚桜宮」の故地にまつられていると推定できる延喜式内社の公的表記は、「ワカザクラ」のよみをとって「若桜神社」とあります。それゆえ桜井市谷の「若桜神社」は「稚桜宮」の故地である可能性が高い。
桜井市池之内には「稚桜神社」が鎮座するが、この「稚桜神社」という表記は、 時代は特定できないが、『日本書紀』の宮号を神社名にして、「稚桜宮」にあやかろうとしたにすぎない。
磐余池に関連して、大津皇子の辞世の歌をとりあげてみましょう。
大津皇子、死をたまは(たまは、)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首
百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(巻3-416)
大津皇子の家はおさ(おさ子)だ(ださ)(桜井市かい(かい市)じゅう(じゅう)))にありましたが、右の歌に磐余池をよんでいますので、磐余池が訳語田付近にあったと思われます。通説は桜井市池之内あたりとみられていますが、さらに東にあったと、私は想定できます。そのことによってその後の用明天皇の宮の位置などもおおよその場所がわかります。
隅田八幡神社人物画像鏡
磐余地域の五世紀このかたの政治状況を語るものとして、つぎにあげる「すだ(すだ域)八幡神社人物画像鏡」銘文があります。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
この銘文の解釈について和田あつむ(あつむの)氏の説を紹介します。
和田説によれば癸未年を 四四三年とする。銘文の意訳は次のように示されています。
き(き三)び(び三)年八月、日十大王の年(世)、男弟王がお(お月)し(し月)さ(さ月)かの(かの))みや(みや))にいます時、し(しま)ま(まま)は男弟王に長く奉仕したいと思い、かわちの(かわちの長)あたい(あたいの)とあや(あやい)ひと(ひとい)こん(こんい)す(すん)り(りん)の二人を遣わし、白い上等の同(銅)二百旱(貫)を用いて、この竟(鏡)をつくった。
この場合、四四三年は允恭朝であり、意柴沙加宮については、息長氏出身の妃、オシサカオオナカツヒメとの関係を示唆し、また男弟王をオホホド王(継体の曽祖父・オオナカツヒメの兄)にあてるとするものです。そして斯麻を摂津の三島地方の出身者とされています。癸未年を五〇三年として斯麻を百済の武寧王(百済斯麻王)とする説もあります。しかし、これについては、もしこの鏡が武寧王から献上されたとしても、「斯麻王」と「王」の文字を省略することはないと和田氏は述べています。
銘文の解釈は難解でありますが、癸未年を五〇三年とし、「男弟王」を「オホド王」とよみ、継体にあてるとする平野邦雄氏の説もあります。この説においては継体即位二年前となり、すでに継体は息長氏の拠点の忍坂にいたことになります。この説を私は無視できないと考えています。継体が抵抗する集団と対立しながら河内から山背の諸宮を経て大和の磐余玉穂宮にたどりついたとする書記の読み方に疑問を感じないわけにはいかないのです。もともと息長氏が大和に拠点をもっているとすれば、即位にさいしてそれを拒む条件がなかったと考えることもでます。たまたま河内や山背に宮を営まねばならない事情があったにすぎないという解釈もできます。この説の問題は「男弟」を「オホド」とよめるかどうかということです。さらに検討を加えたいと思います。