基調講演2 五世紀のヤマト政権と大王
文化財講演会09
-豊中歴史同好会設立20周年・『つどい』250号記念-
特集 「5世紀のヤマト政権を探る」(Ⅲ)
堺女子短期大学 学長 塚口義信 先生
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私は、主題のテーマに関し、文献史料の分析を中心とした歴史学の立場から、左記
の五項目に絞って、その要点を述べたいと思う。
一 『古事記』『日本書紀』の陵墓記事と『延喜式』の陵墓記事
二 原帝紀と大王陵の伝承
三 百舌鳥古墳群の大王と古市古墳群の大王
四 原帝紀のイデオロギーと二王統の確執
五 二王統の確執と『宋書』
はじめに
五世紀代になると、大王級の古墳を含むいわゆる大王墓古墳群は、平城宮跡の北一
帯に所在する佐紀盾列古墳群(西群)から河内の古市・百舌鳥古墳群へ移動する。
その理由については幾つかの説があるが、私はヤマト政権、すなわち畿内政権の政
権担当集団が、佐紀の政治集団から河内の政治集団に替わったことによるものと考
えている。具体的には四世紀末前後の時期に、対朝鮮問題(百済王家の内紛)に端
を発したヤマト政権の最高首長権をめぐる争いが政権内部で起こり、その結果、勝
利した政治集団が政権を掌握し、河内の古市・百舌鳥の地域に大王墓を築いた、と
考えている。
これを一言でいえば、「四世紀末の内乱の結果、河内政権が誕生した」ということ
になるが、私はヤマト政権を畿内政権として捉えており、またその内部に起こった
争乱の結果、政権担当集団が替わったのであって、ヤマト政権全体が他の勢力によ
って打倒されたとは考えていないので、これを「王朝交替」とは理解していない。
では、古市・百舌鳥古墳群を築いた大王家の実体は、いったいどのようであったの
か。
一 『古事記』『日本書紀』の陵墓記事と『延喜式』の陵墓記事
まず陵墓の問題から考えてみたいと思う。
江戸時代以来、天皇陵の治定は『延喜式』(九二七年成立)の記載によって行われて
きた。例えば、継体天皇陵について見ると、その陵墓名は三嶋藍野陵と言い、摂津
国嶋上郡に所在すると記されている。ところが現在、継体天皇陵として祀られてい
る太田茶臼山古墳は、嶋上郡ではなく嶋下郡に属しているから、「この治定はおか
しい。嶋上郡にある今城塚古墳の方を継体天皇陵と考えなければならない」という
ことになる。
ところが『延喜式』よりも古い『古事記』を見ると、「三嶋之藍御陵」、『日本書
紀』では「藍野陵」とだけ記されていて、摂津国嶋上郡の記載がない。ということ
は、この嶋上郡の記載を根拠に陵墓比定を行ってはならないということである。こ
の記載は、あくまでも『延喜式』が編纂された時代における陵墓比定にすぎないと
見なければならないのである。
次に、仁徳天皇の陵墓名をご覧いただきたい。『延喜式』では「百舌鳥耳原中陵」
とあり、「中」の字が入っている。履中天皇の場合は「百舌鳥耳原南陵」で、「南
」の字が、また反正天皇の場合は「百舌鳥耳原北陵」で「北」の字がそれぞれ入っ
ている。これをそのまま信用して、堺市の百舌鳥古墳群にある巨大古墳に当て嵌め
ると、いわゆる百舌鳥三陵の比定が可能となる。しかし、周知の通り、このいわゆ
る百舌鳥三陵の築造年代は仁徳・履中・反正天皇の時代と合わないのである。例え
ば、仁徳陵に治定されている大仙古墳(前方後円墳・約四八六メートル)の築造年
代は一般に五世紀の後半もしくは半ば前後と言われているが、仁徳天皇が活躍した
時代は概ね五世紀の初頭もしくは前半で、しかも『日本書紀』によると寿陵であっ
たと伝えられている。
このように、現在の考古学による古墳の編年研究の成果から考えると、『延喜式』
の内容には問題があると言わざるを得ないのである。
日本で天皇陵や皇后陵などを定期的に祀る、いわゆる陵墓祭祀の風習が出てくるの
は、おそらく七世紀後半の持統朝(その初見史料は『日本書紀』持統天皇五年〈六
九一〉十月八日の条)以後であろう。それまでは何十年か経つと、たとえ大王の墓
といえども、いわゆる「弔(とむら)い上(あ)げ」(まつりじまい、問い切りなどと
も言っている)を行い、その墓の主(あるじ)は個性を失って祖霊に融合・同化して
しまうと考えられていたのではないだろうか。今でも、よほどの人でない限り、三
十三回忌ぐらいで弔い上げを行い、それ以後、その人の霊魂は個人としては祀られ
なくなるのが普通である。そうすると、年月が経つと、どの古墳に誰が葬られてい
るのか忘れられ、結局、分からなくなってしまう。『延喜式』が編纂されていた時
代には、四世紀代や五世紀代といった古い時期の古墳の多くは、そのような状態に
なっていたと推測されるのである。『続日本後紀(しょくにほんこうき)』
承和(じょうわ)十年(八四三)四月己(つちのと)卯(う)の条によると、三月十八
日に奇異があったので、図録を搜検してみたところ、神功皇后陵と成務(せいむ)
天皇陵が間違って祀られていたので元に戻した、としるされている。
ちなみに、三十三年という弔い上げまでの期間は、ほぼ一世代に当たる。古代の一
世代は二十年前後であろうと見る人が少なくないが、実際にデーターを集めて分析
してみると、三十年前後となる。「世」の字が「卅」に由来していることも参考と
なろう。したがってこの三十三年という期間は、仏教思想もさることながら、子ど
もが親を祀ることのできる期間ということになる。五十回忌ができるということは
、この視点から考えると、特別な人を除き、本来的には親が早く亡くなってしまっ
たとか、子どもが長生きであったとか、といったような事情による場合が少なくな
かったかと思われる。
実は、陵墓を比定するに当たって最も重要な史料は、『延喜式』ではなくて、『古
事記』『日本書紀』である。表2の「『古事記』『日本書紀』による陵墓一覧表」
をご覧いただきたい。
これによると、仁徳・履中・反正の陵墓は、『古事記』ではそれぞれ「毛受之耳原
(もずのみみはら)」「毛受(もず)」「毛受野(もずの)」となっており、また『日本
書紀』では「百舌鳥野(もずのの)陵(みささぎ)」「百舌鳥耳原陵(もずのみみみさ
さぎ)」「耳原(みみはらの)陵(みささぎ)」となっている。『延喜式』のように「
中」「南」「北」といった文字が入っていないので、百舌鳥古墳群の中のどの古墳
が仁徳天皇の墓で、どの古墳が履中天皇の墓であるのか、これではよく分からない
のである。また、所在地を示す「郡」の記載もない。これが本来の伝承であったわ
けである。
二 原帝紀と大王陵の伝承
『古事記』『日本書紀』の陵墓の記事は、六世紀半ばの欽明朝に成書化されたと
考えられる原帝紀の中に既に記されていた、とする説に私は賛成である。このよう
な見方からすれば、どの古墳が仁徳の墓であり、また履中・反正の墓であるのか、
『古事記』『日本書紀』の記事からは分からないといっても、彼らの墓が百舌鳥古
墳群の中のどれかに該当することだけは否定できないと思われる。
研究者の中には、『古事記』『日本書紀』の陵墓記事と大王墓級古墳の編年が合わ
ないことをもって、例えば允恭の奥津城は古市古墳群(『記』『紀』)ではなく、
実は百舌鳥古墳群の中に存在しているのではないかと考えている人もいる。しかし
、こうした見解は、ほとんど成立しないであろう。なぜなら、多くの知識を口頭伝
承に拠っていたであろう古代社会のあり方に即して考えてみるならば、欽明から見
てたかだか四代ほど前の允恭の時代のことが、欽明朝にはすっかり忘れられてしま
っていたとは考えにくいからである。「親から子へ」の伝承過程ももちろんあり得
るし、また例えば、祖父母や親から聴いたことを子や孫に伝えることも当然あり得
る。この場合、一世代三十年前後として四代の伝承期間を想定してみると、おおよ
そ一二〇年前後となる。
いわんや大王墓の築造ともなれば、関わった人の数も多かったであろうから、それ
らすべての人々の子孫が百数十年くらい前の大王の陵墓がどの地域に造営されたの
か、すっかり忘れてしまって何も分からなくなっていたなどということは、とうて
いあり得ないと考えられる。
三 百舌鳥古墳群の大王と古市古墳群の大王
以上のようにして私は、仁徳・履中・反正の各大王の奥津城が百舌鳥古墳群に所在
し、また応神・允恭・雄略・清寧の各大王のそれが古市古墳群に所在すると記され
ている『古事記』『日本書紀』の伝承は、個々の古墳の比定についてはなお精緻な
考証を必要とするが、大筋においては正しいと考えている。
しかし、仁徳・履中・反正の各大王陵がなぜ百舌鳥の地域に、また応神・允恭・
雄略・清寧の各大王陵がなぜ古市の地域に造営されているのか、さらに言えば、百
舌鳥と古市の二つの地域に造営されている意味はいったい何か、これらの疑問に答
えねばならない。
これらは難題であり、簡単には解けない問題であるが、全く何の手がかりもないわ
けではない。私は、これらの疑問の一端を解くカギは『記』『紀』の中に秘められ
ているように思う。
『古事記』下巻(仁徳~推古の段)の物語は、かなり明確な、ある一つの思想的立
場によって貫かれている。それは葛城氏と親密な関係にある仁徳・履中系王統を是
とし、忍坂大中姫の家系と深いつながりをもつ允恭系の王統を非とする思想的立場
である。次に具体例を示す。
『古事記』下巻に見える皇位継承の伝承( 大雀命(おおさざきのみこと) 〈のちの
仁徳〉と宇遅能和紀(うぢのわきき)郎子(いらつこ)はたがいに王位をゆずり合うほ
ど仲のよい兄弟であったが、和紀郎子が夭逝(ようせい)したので、仁徳が即位した
。〔応神記〕)
① 仁徳は高い山に登って四方の国を望み、国のなかに炊煙(すいえん)が立たない
のを見て、三年の間、課役(かえき)を免じた。その結果、人民は富み栄え、夫役(
ぶやく)に苦しむこともなかった。それゆえ、その御世(みよ)をほめたたえて、「
聖帝(ひじりのみかど)の世(みよ)」というのである。〔仁徳記〕
② 仁徳のあとを受け継いだ履中(りちゅう)の世に、墨江(すみのえの)中王(なかつ
みこ)が反乱を起こしたが、幸いにも弟の水歯別(みずはわけの)命(みこと) (のち
の反正(はんぜい))が忠誠で、機知によってこれを鎮めてくれた。〔履中記〕
③反正のあとは忍坂之大中津比売(おしさかのおおなかつひめの)命(みこと)の強い
要請によって病弱な允恭が即位したが、この二人の間に生まれた子供たちは、みな
暗愚(あんぐ)もしくは暴虐であった。允恭の崩後、太子の木梨之軽王(きなしのか
るのみこ)は同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめめ)と密通したため、百官およ
び万民は太子をすてて穴穂皇子(あなほのみこ)(のちの安康)に帰した。恐れた太
子は大前小前(おおまえおまえ)宿禰大臣の家に逃げ込んだが、大臣は穴穂皇子に向
かって、「我が天皇(おほきみ)の御子、いろ兄(せ)の王(みこ)に兵(いくさ)をな及
(や)りたまひそ。若(も)し兵を及りたまはば、必ず人咲(わら)はむ。僕(あれ)捕へ
て貢進(たてまつ)らむ」と言い、軽王を差し出した。軽王は伊余(いよの)湯(ゆ)(
松山市の道後温泉)に配流(はいる)され、やがて大郎女とともに命を断った。〔允
恭記〕
④それで、允恭のあとは安康が即位したが、安康は愚かにも根臣(ねのおみ)の讒言
(ざんげん)を信じて大日下王(おおくさかのみこ)を殺し、みずからも大日下王の子
の目弱王(まよわのみこ)によって殺害された。そこで、弟の大長谷王(おおはつせ
のみこ)(のちの雄略)は、天皇が殺されても平然としている同母兄の境之黒日子
王(さかいのくろひこのみこ)と八瓜之白日子王(やつりのしろひこのみこ)を殺すと
ともに、目弱王や彼に荷担(かたん)した葛城の都夫良意富美(つぶらのおおきみ)を
討つが、そのとき都夫良意富美は、「先の日(ひ)問(と)ひ賜へる女子(むすめ)、訶
良比売(からひめ)は侍(さもら)はむ。亦(また)五(いつ)処(と)の屯宅(みやけ)を副
(そ)へて献(たてまつ)らむ。然るに其の正(ただ)身(み)参(まゐ)向(むか)はざる所
以(ゆゑ)は、往古より今時(いま)に至るまで、臣(おみ)連(むらじ)の王(みこ)の宮
に隠ることは聞けど、未だ王子(みこ)の臣(おみ)の家に隠りませることは聞かず。
是を以ちて思うに、賤(いや)しき奴(やっこ)意富美(おほみ)は、力をつくして戦ふ
とも、更に勝つべきこと無けむ。然れども己(おのれ)をたのみていやしき家に入り
坐しし王子は、死ぬとも棄(す)てまつらじ」と言い、まことにあっぱれな態度を示
したという。
こののち大長谷王は、市辺之忍歯王(いちのへのおしはみこ)を引き連れて狩りに出
かけ、卑劣(ひれつ)にも久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)で忍歯王を欺(あざむ)
き殺し、遺骸を馬の飼葉桶(かいばおけ)に入れて、地面と同じ高さにして埋め
た。〔安康記〕
⑤忍歯王の二王子、意祁王(おけのみこ・のちの仁賢(にんけん))・意祁王(を
けのみこ・のちの顕宗(けんぞう))は難を逃れて播磨(はりま)国で馬(うま)飼(
かい)・牛(うし)飼(かい)となって暮らしていたが、清寧(せいねい)の崩後、忍
歯王の妹の忍海(おしぬみの)郎女(いらつめ)の後押しで即位し、履中系の王統
を回復した。
意祁・意祁二王はたがいに王位をゆずり合ったが、「針間(はりま)の志自牟(しじむ)が家に住みし時、汝(いまし)命(みこと)名を顕(あらは)さざりせば、更
に天(あめの)下(した)しらす君に非ざらまし。是(こ)れ既に汝命の功(いさを)なり
。故(かれ)、吾(あ)は兄(あに)なれども猶(なほ)汝命先に天下を治めたまへ」とい
う兄の優しい言葉に断り切れず、弟の意祁王が先に即位した。〔清寧記〕
⑥顕宗は父の遺骸を捜し当て、蚊屋野(かやの)の東の山に御陵(みはか)を造り、そ
れを手厚く葬った。顕宗が報復のために父を殺した雄略の御陵を破壊させようとし
たとき、意祁王はみずからこの役を買ってでて、御陵の傍(かたわ)らを少し掘るに
とどめた。顕宗が意祁王にその理由を問いただすと、意祁王は、「然(しか)為(せ)
し所以(ゆゑ)は、父王の怨(うらみ)を其の霊(みたま)に報(むく)いむと欲(ほ)りす
るは、是れ誠に理(ことわり)なり。然れども其の大長谷(おおはつせの)天皇(す
めらみこと)は、父の怨にはませども、還(かへ)りては我が従父(をぢ)に為(ま)し
、亦(また)天下治めたまひし天皇なり。是に今ひとへに父の仇(あだ)という志(こ
ころ)を取りて、悉(ことごと)に天下治めたまひし天皇の陵を破りなば、後の人必
ず誹謗(そし)らむ。唯(ただ)父王の仇は報いざるべからず。故、少しく其の陵の辺
(へ)を堀りつ。既に是の恥を以ちて、後の世に示すに足りなむ」と説き、顕宗もま
た、この言葉に感服した。顕宗が亡くなると、ただちに意祁王が即位して、天下を
統治した。〔顕宗記〕
⑦武烈の崩後、王位を継ぐべき皇子がいなかったため、近江(おうみ)国より応神五
世の孫の袁本杼命(をほどのみこと)(のちの継体)を上京させ、仁賢皇女の手白髪命(たしらかのみこと)にめあわせて、天下を授けた。〔武烈記〕
⑧継体には多くの皇子女がいたが、そのうちの欽明・安閑・宣化が即位し、師木島(しきしまの)大宮(おおみや)・勾之金箸宮(まがりのかなはしのみや)・桧?之廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)で、それぞれ天下を統治した。〔継体記・欽明記〕
(ここで、欽明の治天下の記事が先に記されていることと、その宮居が「大宮」
の称をもって呼ばれていることが注目される)
こうした仁徳・履中系王統と允恭系王統の確執の物語や、前者を是とし、後者を非
とするイデオロギーは、『古事記』だけではなく、『日本書紀』にも見え隠れして
いる。とすると、こうした物語の骨格は『記』『紀』両者が使用した共通の史料で
ある帝紀のもととなった書物、すなわち欽明朝に成書化された原帝紀に既に記され
ていたと考えられる。
では、なにゆえ欽明朝に成書化された原帝紀はこのようなイデオロギーを有してい
るのか、次にそれが問題となる。
四 原帝紀のイデオロギーと二王統の確執
私は、安閑・宣化朝と欽明朝の二朝併立説には賛成ではないが、六世紀代前半の朝
廷内部に、継体・安閑・宣化(・敏達)系王統と欽明系王統の対立、確執があった
ことは想定して誤りないと考えている。
原帝紀はこうした状況下で、欽明のグループによって編纂された書物である。だか
らこそ、その中で欽明系王統につながる仁徳・履中系の人々を是とし、継体・安閑
・宣化(・敏達)系王統と近い関係にある允恭系の人々を批難したのである。こう
したイデオロギーは、欽明系王統の正統性を説くことにその目的があった原帝紀の
性質に由来しているのである。
このように、允恭系王統を非とし、仁徳・履中系王統を是としているような『記』
『紀』の人物像は、原帝紀の性質に由来しているものであって簡単に史実とは考え
がたいから、『記』『紀』によって人物評価を行ったり、事の善悪を判断したりす
ることにはよほど慎重でなければならない。しかし、それにしても、両王統の陵墓
が百舌鳥と古市にきっちり分れていることは、両王統間に確執があったと伝えられ
ていることと全く無関係であるとも思えない。
私は、これまで仁徳・履中系と允恭系の確執を『古事記』によって説明してきたが
、実は『日本書紀』にも次のような注目すべき記事が見られるのである。すなわち
、允恭天皇即位前紀の条に、
「私(允恭天皇)は不運にも長く重病にかかり、歩くことができない。また私はか
つて病を除こうとして、自分勝手に内緒に身体をこわして病を治療したが、やはり
治らなかった。このために、先皇(仁徳天皇)は私を責めて、『お前は病にかかり、
勝手に身体を傷つけた。これよりひどい不孝があろうか。それでは長生きしたとし
ても、決して天下を治めることはできない』と仰せられた。また我が兄の二天皇(
履中天皇と反正天皇)が、私を愚かだと軽蔑なさったことは、群卿の皆が知るとこ
ろである」
とある。この記事もまた原帝紀のイデオロギーに影響されている可能性が大きいと
思われるが、仁徳・履中・反正の陵墓と允恭の陵墓がそれぞれ百舌鳥と古市に分け
て営まれていることを併せ考えると、全く無稽の伝承として一蹴してしまうわけに
もいかない。
これを要するに、仁徳・履中系王統を是とし、允恭系王統を非とするような記事は
簡単には信じられないのであるが、五世紀代の両王統系間に確執があったことはこ
れを認めてもよいということである。
五 二王統の確執と『宋書』
『宋書』などの中国史書によると、五世紀代に五人の倭王が中国南朝に朝貢し、官
爵号を受けたことが記されている。五王の名は讃・珍・済・興・武といい、いずれ
も当時の呼び名を中国風に改めたものと考えられている。済・興・武は彼我史料に
おける系譜上の一致と遣使の年代から考えて、それぞれ允恭・安康・雄略の各天皇
にあてられるが、讃と珍については諸説があって、いまだ意見の一致を見ていない
。しかし、仁徳・履中・反正のうちのいずれかの天皇に比定するのが妥当なようで
ある。
ところが、『宋書』には、讃・珍と済との続柄が記されていないのである。この点
に注目した研究者は、五世紀代の倭国には讃・珍と済・興・武をそれぞれ出した、
たがいに全く血縁関係のない二つの大王家が存在していたが、それを「帝紀」「旧
辞」もしくは『記』『紀』の編述者が一系に改変したのではないかと考えた。今、
仮にこの説に従うと、仁徳・履中系王統と允恭系王統の確執の問題や大王家の墓域
が百舌鳥と古市の二つに分かれている意味も、極めて合理的に理解することができ
る。
しかし私は、坂元義種氏(『古代東アジアの日本と朝鮮』吉川弘文館・一九七八年
、同『倭の五王』教育社・一九八一年など)や武田幸男氏(「平西将軍・倭隋の解
釈―五世紀の倭国政権にふれてー」『朝鮮学報』77・一九七五年)が明快に説かれ
たように、二つの大王家論は成立しないと考えている。理由は以下の通りである。
『宋書』倭国伝の永初二年(四二一)の条に「倭讃」とあるが、同書の帝紀の部分
にも「倭王倭済」(元嘉二十八年〈四五一〉の条)とあって、讃・済の上にそれぞ
れ倭の文字が付いている。この倭の文字はいずれも姓(氏(うじ)の名)を表してい
ると考えられるが、そうすると、讃も済も同一の姓を称していたことになる。して
みると、珍は讃の弟であり、興・武の兄弟は済の子であるから、彼ら五人はいずれ
も倭を姓とする同一の氏族集団に属していたと考えざるを得ないことになる。五世
紀代の大王家は、やはり一つであったと見なければならないであろう。
むすびにかえて
以上見てきたように、五世紀代の大王家は一つであったのだが、その内部にはたが
いに反目する二つの王統(派閥)が存在した。これが、允恭・雄略・清寧の陵墓が
百舌鳥ではなく古市古墳群に築かれた、一つの理由であったと考えられる。では、
これらの王統はそれぞれどのような豪族と深い関わりを有していたのか。
まず仁徳・履中系の王統について考えてみると、葛城集団(のちの葛城氏)や日向
、吉備の政治集団と深い関わりを有していたと推測される。『日本書紀』允恭天皇
五年七月の条によれば、葛城集団の族長の玉田宿禰は允恭によって殺害されたと伝
えられ、玉田宿禰の後を継いだ円大臣もまた日向系王族の眉輪王と共に允恭の子の
大泊瀬皇子(のちの雄略)によって殺害されたという。さらに、雄略は吉備下道臣前津屋を討つと共に玉田宿禰の子の毛媛を妻としている吉備上道臣田狭を殺し(『日本書紀』雄略天皇七年是歳の条の別本)、その子の清寧は吉備稚媛所生の星川皇子に荷担しようとした吉備上道臣らを詰責して、その所領の山部を奪ったという(『日本書紀』清寧天皇即位前の条)。
では、葛城集団や吉備集団と深い関係にあった仁徳・履中系に対し、允恭系はどのような政治集団と深い繋がりがあったのか。
『日本書紀』允恭天皇七年の条によると、允恭皇后の忍坂大中姫の妹の弟姫は、允恭に召し出される前、「母と共に近江の坂田にいた」という。このことから允恭は、湖北の政治集団と深い繋がりを有していたことが考えられる。そして、この湖北の政治集団に属する忍坂之大中津比売(おしさかのおおなかつひめの)命(みこと)(忍坂大中姫)の兄の意富富杼王(おほどのみこ)から、後に継体天皇が出てくることになる(『釈日本紀』所載の「上宮記曰、一云」による)。『古事記』が継体を「近つ淡海国より上りまさしめて」と伝えているのは、このことを示しているのである。
さらに『日本書紀』によると、弟姫を允恭のもとに連れてきたのは中臣氏の祖先の中臣烏)賊津使主(なかとみのいかつのおみ)であったというから、中臣氏の前身の一族(おそらく卜部集団)もまた允恭系王統と深い関わりを有していたと考えられる。
そしてその中臣氏が基盤としていた地域の一つに摂津の三嶋があり、中臣大田連氏や中臣藍連氏らが盤踞していた。また、藤原氏の家伝である『大織冠伝』によれば、この三嶋の地には中臣鎌足の別邸があったという。
要するに、允恭系の王族は湖北の政治集団や三嶋の中臣氏ときわめて深い関わりを有していたのである。後に允恭系に属する継体が三島の地に葬られた(今城塚古墳)のも、こうした因縁によるものであろう。
したがって今城塚古墳と指呼の距離の所に営まれている太田茶臼山古墳(継体陵古墳)の被葬者も、その所在地と築造年代(五世紀中葉)、古墳の規模(墳丘長二二六メートル)などの点から考えて、允恭と深い関わりをもつ継体の祖先の誰かであったと推測される。例えば、意富富杼王・忍坂之大中津比売命・藤原之琴節郎女(弟姫)あたりがその有力な候補者となってくるであろう。允恭の奥津城と考えられる市野山古墳と太田茶臼山古墳の墳形が酷似しているのも決して偶然ではないと思うのである。
(文責 会員 阪口 孝男)