« 野洲銅鐸博物館桜生史跡公園 | トップページ | 基調講演2 五世紀のヤマト政権と大王 »

藤井寺から羽曳野丘を歩く

つどい246号 会員 佐藤洋榮

24607

24608

24609

24610


梅雨の中休みの六月二十八日、古代史愛好家二十五名は、中司照世先生を先頭に、近鉄南大阪線藤井寺駅を出発しました。商店街を抜けると、そこは辛国神社。歴史を感じさせる長い参道を進むと、厳かな本殿が、みどりの中におわします。  ご祭神は饒速日命。ニギハヤヒといえば、物部氏の氏神で『日本書紀』には、「雄略十三年春三月に、窖(ゑ)香(かの)長(なが)野(のの)邑(むら)を物(ものの)部(べの)目(めの)大(おお)連(むらじ)に賜ふ」とある。窖香長野邑は長野郷の前身で、旧藤井寺町のあたりと考えられている。この地を治めることになった物部氏は、神社をつくりその祖神を祀った。その後、辛國氏が祭祀をつとめ、辛國神社と称するようになった。 室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営(元の社地は現在の藤井寺町一丁目十九の十四(旧丹南郡岡村字春日山)から、北東二〇〇メートルの恵美(笑み)坂の西南神(こう)殿(どの)にあったという)し、奈良春日大社の祭神天児屋根命を勧請し合祀したと伝えられている。また、明治四十一年には、長野神社の祭神素盞鳴命を合わせ祀り、相殿には品田(ほんだ)別(わけの)命・市杵島姫命、末社には春日稲荷神社(宇迦之御魂大神)が祀られている。  中司先生のご説明では、辛国は韓国・唐国に通じるが、韓国連は『新撰姓氏録』和泉神別に采女氏と同族で伊香々色雄命の後とあることから、物部氏の一族であるとのことです。  参拝を済まし、一路、仲哀陵へ向かう。鬱蒼とした森の岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇恵我長野西陵)前方部の濠の上に立つ。    蓮の花咲きてお濠の水青し 幅の広い(五〇メートル以上)周濠をもつ、 三段築成の前方後円墳。墳丘の長さは二四二メートル。前方部の幅が一八二メートル。東のくびれ部にのみ造り出し部を持つのが特徴。鉢塚古墳(前方後円墳)と落塚古墳(円墳)は、ともに岡ミサンザイ古墳の墳丘主軸延長線上にあるので、陪冢ではないかといわれている。  昭和五十年(一九七五)宮内庁の外周囲柵の設置工事に先立つ発掘調査で、堤から円筒埴輪列が出土。この埴輪から岡ミサンザイ古墳は五世紀末の築造と判明。十四代仲哀天皇と時代が合わない。先生は、二十一代雄略天皇が葬られたのではないかと言われる。  正面に廻って参拝を済ますと、次はもと来た道を戻って、アイセルシュラホール(藤井寺市立生涯学習センター)を見学。奇妙な形の屋根は、土師の里遺跡内にある三ツ塚古墳の濠の中から出土した「修羅」(古墳時代の巨石を運ぶための二股の木ゾリ)を形どっている。館内にはいると、ボランティアのガイドの方が待機していて下さり、案内に従って二階に上がる。  平成十六年の秋、中国西安市郊外の工事現場から掘り出された「井(いの)真(ま)成(なり)」の墓誌が目に飛び込む。井真成は十九歳で第九次遣唐使(七一七年)の一員に選ばれ、阿倍仲麻呂や吉備真備・僧玄昉らと共に渡唐。当時の都長安で唐王朝に仕え、将来を嘱望されながら三十六歳の若さで亡くなった。一二七〇年の時を超えてわが国に帰ってきた墓誌は、かの地で玄宗皇帝より「尚衣奉御」という高い役職を追贈され、葬儀も官で行われ、深く哀悼されたことを我々に伝える。  各新聞紙上のニュースでは、「井」が犖井氏あるいは井上氏という渡来系氏族に因んでいるとすれば、その出身地は藤井寺市内だったことになるという。この地の犖井寺(藤井寺)は、百済王の子孫である犖井連の氏寺と伝えられている。寺伝によると、犖井(白(しら)猪(い))氏の氏寺として七世紀頃に建てられたことが出土した瓦によって判るとある。  次に、私の目が釘付けにされたのは、津堂城山古墳の東側周濠より発見された「水鳥形埴輪」三体です。近つ飛鳥博物館では何度も見ていたが、本物をこんなに間近で見られるとは!その大きさは総高一メートルを超え(二体が一〇九センチメートル、もう一体が八〇センチメートル)、誉田御廟山古墳出土の水鳥形埴輪をはるかに上回る。最大にして最古。「これはやっぱり仲哀陵だ」。  私の思いは遙かな時空を超える。仲哀天皇の父であるヤマトタケルは、東征を終え大和へ帰る途次、伊勢の能褒野で亡くなる。ヤマトタケルの魂は白鳥となって大和へ飛んで行く。白鳥は大和の琴弾原から河内の古市に留まり、その後、天高く飛び去っていったという。  白鳥は哀しからずや   海の青 空のあをにも染まずただよふ 若山牧水  ヤマトタケルを思うとき、いつもこの歌が私の胸の中で高鳴る。息子である仲哀天皇が、父を偲んで白鳥を陵の池(古墳の濠)で飼いたいと思い、白鳥の捕獲を命じたという。このことを中西康裕氏は「アイセルシュラホールの展示図鑑」の中で次のように書いておられる。「古墳の周濠に白鳥を放し飼いにするというモチーフは、津堂城山古墳の濠内の島上の特殊墳丘に三体の水鳥形埴輪が配置されていたことの解釈に大きな示唆を与えています」と。  因みにこの古墳は四世紀末の築造。墳丘の長さは二〇八メートルの前方後円墳。二重の周濠と外堤をめぐらせている。  アイセルシュラホールをあとにして、藤井寺駅前の食堂で、思い思いの昼食をとる。一時に駅前よりバスに乗り、羽曳野市野々上で下車。野中寺に着く。朱の山門をくぐり、広い境内にはいる。先ず、ヒチンジョ池西古墳の石槨を見学。二上山の凝灰岩を加工して造られた横口式石槨。七世紀の終わりから八世紀初めのもの。古墳は来目皇子墓西方のヒチンジョ池西側にあったが、今は消滅している。庭内のお部屋で「弥勒菩薩像」を拜ませて頂く。今日は、歴史愛好家ということで特別の御開扉(本来は毎月十八日とのこと)。台座の下框に造像記の銘文がある。それによると、この像は、天智天皇五年(六六六)の製作。飛鳥時代の中宮寺の本尊像(七世紀前半)などに比べ、腰裳の衣文が複雑に乱れており、一歩天平時代に近づいたことを感じさせる。 両足を覆う裳の周辺に彫られた連珠文様も、七世紀中葉ごろにわが国に入ってきたペルシャ系の文様である。本像は、白鳳時代中期の基準的作例としても、弥勒と明記された最古の尊像としても重要である(以上は『日本仏像名宝辞典』東京堂出版より)。  なんともつつましく、きびしいお顔、鼻すじの高さが印象的。  弥勒菩薩とは、釈迦の死後、五十六億七千万年ののちに兜率天(六欲天の一つで、物が満足な世界)からこの世に下って仏になり衆生を救うという菩薩とか。  この「中の太子」である野中寺は、「上の太子」の叡福寺、「下の太子」の大聖勝軍寺と共に河内三太子の一つ。発掘調査の結果、飛鳥時代~奈良時代前半には法隆寺式の大 規模な伽藍があった。その頃の建物の礎石があり、中門跡(現在の朱の山門、これは当時の二分の一)・回廊跡・講堂跡(現在の本堂)・塔跡・金堂跡が確認されている。中門の南四十メートルに南大門があり、竹内街道に面していたという。、  この付近は、渡来系氏族船氏の本拠地で、野中寺は船氏の氏寺であったといわれている。船氏は百済からの渡来人で王辰爾を祖とする。『病から古代を解く』の中で槇佐知子氏は、王辰爾のことを次のように書いている。「応神朝に来朝した辰孫王は、百済王の孫であった。辰孫王の長男太阿郎王は仁徳天皇のおそば近くに仕えた。その孫の一人が王辰爾である。王辰爾は蘇我稲目に命じられて五四五年に船の割り当てを数え、その登録簿を作製した。その能力は高く評価されて船(ふねの)史(ふひと)の姓を賜り、船連の祖となっている。」  このあと、鎌倉初期の作といわれる地藏菩薩像(一木立像)を拝見し、野中寺僧坊(江戸時代には律宗の学問所で、僧侶の起居する寺院付属の建物)を見たり、お染久松の墓にお参りしたりして寺をあとにした。  少し歩いて、藤井寺市青山にある仁賢天皇埴(は)生(にうの)坂(さか)本(もとの)陵(みささぎ)を参拝。またの名を「オケ山」「ボケ山」ともいう。仁賢天皇は億(お)計(け)尊と呼ばれていたので、「オケ山」はナットク。    緑萠ゆ小雨そぼふるオケの山 前方部北西の周濠外周に埴輪窯(二基)があり、ここで焼いて並べていた埴輪列が出土している。墳丘の長さ一二二メートル。六世紀の前方後円墳。  ここより南に下り羽曳野市の峯ヶ塚古墳を見学。五世紀末から六世紀初頭の築造。墳丘長九六メートルの前方後円墳。次に小口山古墳を見る。軽里の掘抜石棺として有名。徑約三〇メートルの円墳。凝灰岩を掘り抜いた横口式石槨。  最後に塚穴山古墳(塚山古墳とも呼ばれる)、来目皇子の墓という。上円下方墳。辺の長さ五〇(説明版による)メートル。 『日本書紀』によれば、来目皇子は推古十年(六〇二)撃新羅将軍として西下、翌年、筑紫で亡くなる。土師氏により周防国(山口県東南部)娑婆(佐波)県で殯が行われ、河内の埴生山の岡に葬られている。  以上で、六月の現地見学の行程を全部終了しました。たいへん盛り沢山な内容で、充実した一日となりました。中司先生には始めから終わりまで熱意あふれるご説明と、懇切なご指導を賜り、まことに有り難うございました。また、詳しく分かりやすい資料を作って頂き本当にうれしかったです。               再合掌

« 野洲銅鐸博物館桜生史跡公園 | トップページ | 基調講演2 五世紀のヤマト政権と大王 »