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5世紀の王権と大伴氏

つどい255号
5世紀の王権と大伴氏
堺女子短期大学准教授 水谷 千秋先生


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五世紀の王権と大伴氏
堺女子短期大学准教授 水谷 千秋

一 はじめに
 大伴氏のウジ名の由来となった「トモ」とは、特定の職務をもって王権に奉仕する官人の組織や団体のことである。この「トモ」を統率するのが、「伴造(トモノミヤツコ)」で、「大伴」とは多くの「トモ」を統率する「伴造(トモノミヤツコ)」の意味であろう。この「トモ」が六世紀前半ころになると、おそらく百済の影響を受けて「部」と呼ばれるようになる。「物部」はそこから来たウジ名である。   
 大伴とか物部とか蘇我といったウジの名前が成立するのは六世紀前半ころと考えられるが、それ以前からこうした血縁をもとにした政治集団が存在し、大和政権を構成していたことは言うまでもない。大伴氏はこれらのなかでも特に有力な存在で、五世紀後半に雄略天皇によって重用され、以後台頭した。 
 今年度の貴会のテーマである五世紀のヤマト政権を追究していくうえで、大伴氏の追究は不可欠である。私はこれまで体系的に大伴氏について考察したことはないけれども、この機会に少しく考察したことをお話したいと思う。

二 雄略天皇と大伴室屋大連
『日本書紀』の「雄略紀」以降には、天皇の即位記事に付随して大臣・大連の就任記事が多く掲載されている。たとえば、「雄略即位前紀」十一月条には、
  天皇、有司に命じて壇を泊瀬の朝倉に設けて、天皇位に即く。遂に宮を定む。平群臣真鳥を以って大臣と為し、大伴連室屋・物部連目を以って大連と為す。 
 とある。 
 大伴連室屋は、「清寧紀」にも大連としてみえる。「顕宗紀」と「仁賢紀」とには大臣・大連の記載はないが、「武烈紀」から「欽明紀」まで大連として大伴金村連がみえる。この間、大臣は「継体紀」に許勢男人、「宣化紀」から「欽明紀」までに蘇我稲目、「敏達紀」からは蘇我馬子の名前をみることができる。また大伴氏のほかに大連として、「武烈紀」から「宣化紀」まで物部麁鹿火、「欽明紀」に物部尾輿、「敏達紀」に物部連守屋の名がみえる。
 大伴氏は、金村が「欽明紀」元年条に任那四県割譲の責任を物部尾輿に追及され、「住吉宅」に隠退して以降、大連の地位に就くことはなくなった。しかしそれまでは彼らが豪族中随一の指導力を誇っていたと言っても過言ではない。
「雄略紀」七年是歳条には、雄略天皇が大伴室屋を通じて東漢直掬に命じ、新来の渡来人を上桃原・下桃原・真神原に定着させたことを示す記事がある。「桃原」は、のちに蘇我馬子の墓が営まれた場所、真神原はのちに飛鳥寺が築かれた場所である。のちに飛鳥とよばれる地域の開発が、雄略―大伴室屋―東漢直掬―渡来人、というラインで進められたことが確認できる。 
 雄略がこのラインを重用したことは、遺言をこの二人に託したとあることからも察せられよう。「雄略紀」二十三年条には、雄略が大伴室屋と東漢掬直とに対し、自らの亡き後、吉備氏を母方に持つ星川皇子を警戒するように言い残したと記している。果たして雄略の没後、星川皇子が反乱を起こし「大蔵」を占拠すると、ただちに大伴室屋と東漢掬直とが挙兵し、これを鎮圧した。
 大伴氏は物部氏とともに車の両輪の如く雄略を支え、のちには執政官としての役割も担うに至った。それが大連への就任であろう。東漢氏など渡来人の管轄権の一部を獲得したのも、これに伴う利権とみていいのではないだろうか。かつては、葛城氏が外交・軍事において重要な役割を果たし、渡来人の掌握・管轄も担当していたとみられる。葛城氏の衰退によって、その利権の一部を継承したのが大伴氏であった。大伴氏は東漢氏など渡来人との結びつきの中で、大陸先進文明とも逸早く接触する機会を得たに違いない。そこに、のちに述べる大伴氏の国際的先進性が育まれる下地があったのであろう。 
 
三 大伴氏の勢力圏
 大伴氏の勢力圏は、大和と河内の双方に分布している。大和においては、奈良盆地の東南地方、現今の桜井市南部にあたる磯城・十市の周辺がまず挙げられる。河内においては、難波津やのちの和泉大鳥地方が重要な拠点であった。 
「神武紀」二年条二月条に、前年に橿原宮に即位した神武天皇が、功臣「道臣命」に賞を与え、宅地を賜与した記事がある。 
  二年春二月甲辰朔乙巳に、天皇功を定め、賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひて、築坂邑に居らしめて、寵異みたまふ。亦、大来目をして畝傍山の西の川辺の地に居らしめたまふ。今、来目邑と号くるは、此れその縁なり。 
 道臣命は、元年条に「大伴氏の遠祖道臣命」と記される。もとは、「日臣命」という名であったが、その勲功を神武に誉められ、「道臣命」という名を与えられたという。彼
が宅地として賜った「築坂邑」は、現在の橿原市鳥屋町の辺りにこの地名が残っている。宣化天皇の「大倭国身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのうへのみささぎ)」の付近で、陵墓の名前にも「つきさか」という地名が含まれる。 
 以下に挙げる地図は、岸俊男氏が「ワニ氏に関する基礎的考察」という論文で発表
したもので、大和盆地内の諸豪族の勢力分布が示されている。  
 六世紀初頭、近江・越前から即位した継体天皇は、樟葉宮、筒木、弟国を経て、即位二十年目に大和国磐余玉穂宮に遷都したとされるが、この磐余もまた大伴氏の本拠の範疇に含まれる。時の大連大伴金村は、継体擁立を提案した一人であると『日本書紀』に記されるが、継体の大和定着にあたって、金村は自らの本拠地に継体を招き入れたと言ってもよいであろう。
 河内においては、先にも触れた「欽明紀」元年条に、大伴金村が任那四県割譲の責任を物部尾輿に追及され、「住吉宅」に引退したという記事がみえる。「雄略紀」九年五月条には、天皇が大伴大連室屋に下した詔の一節にこのようにある。
  …汝大伴卿、紀卿等と同国近隣之人、由来尚し。 
「汝大伴卿は、紀氏と同じ国の近隣の人であり、古くからの由来もある。」と言っているのである。紀氏といえば、紀伊国を本拠とすることは言うまでもない。大伴氏の本拠はこれと近いところにあった。 
『万葉集』巻第一 六十六番の歌に、
「太上天皇、難波宮に幸しし時の歌」として
  大伴乃 高師能浜乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
  (大伴の 高師の浜の 松が根を 枕き寝れど 家し偲ばゆ)
 同 六十八番歌には、
  大伴乃 美津能浜尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉 
  (大伴の 三津の浜なる 忘れ貝 家なる妹を 忘れて思へや)
 とある。「高師の浜」は、現在の堺市の浜寺公園から高石市にかけて、「大伴の三津の浜」は現在の大阪市から堺市にかけての沿岸の総称で、「三津」の原義は「御津」、すなわち公的な港津であったとされる。岸俊男氏も言われるように、大伴氏は「摂津・河内・和泉の大阪湾沿岸に勢力を扶植していたらしい」と見て間違いないであろう。 
トモを統率する大和・河内・和泉各地の有力な「伴造(トモノミヤツコ)」が王権に
よって集められ、一つの氏として結集したのが大伴氏であったと推定されるのである。 

四 大伴氏と渡来人     
 大伴氏が一時期、渡来人の掌握にあたっていたとみられることは、先にも触れた。彼らがその後、国際的に開明的な立場をとったことは、こうしたことと関わりがあるのかもしれない。
「欽明紀」十五年条や「敏達紀」十四年三月条、「用明紀」二年四月条には、仏教受容の可否をめぐる論争のあったことを示す記事があるが、ここには大伴氏の人物は現れない。現れるのは仏教受容賛成派の蘇我稲目、馬子と、反対派の物部氏と中臣氏のみである。大伴氏が仏教に関して賛否どのような態度を表明したか、『日本書紀』には残念ながら全く示されていないのである。 
 しかし「崇峻紀」三年是歳条をみると、大伴氏が仏教に深い理解のあったことが知られる。ここには十一人の尼と鞍部司馬達等の子「多須奈」の出家が記録されているが、その筆頭に「大伴狭手彦連」の娘「善徳」および、「大伴狛夫人」がみえるのである。渡来系豪族出身者の出家は、すでに敏達十三年の「善信尼」(司馬達等の娘)などがある。しかし倭人(日本人)系では、大伴氏出身の「善徳」が初めての出家者であった。意外にもこれは蘇我氏よりも早いのである。 
 このことは大伴氏の開明的な姿勢を示すものとして、高く評価すべきであろう。「欽明紀」や「敏達紀」、「用明紀」の仏教受容論争に大伴氏が現れないのは、仏教賛成派に蘇我氏のみを挙げることで蘇我氏の功績を印象付ける、原資料のねらいがあるのかもしれない。大伴氏が仏教に理解があったのは、蘇我氏との関係も背景として考慮しなければならないであろう。欽明朝に大連の地位を失って以降、大伴氏は蘇我氏の配下に入っていったようにみえる。
「欽明紀」二十三年八月条には、大伴狭手彦が高句麗征討の大将軍として勝利を収めた際、獲得した戦利品を天皇に献上すると共に、高句麗の宮廷女性とその侍女を、蘇我稲目に贈ったとの所伝がある。ほかにも「用明紀」二年四月条には、大臣蘇我馬子と大連物部守屋との対立が激化したとき、大伴毘羅夫連が槻曲にある馬子邸を昼夜を分かたず警護したという記事もある。かつては蘇我氏と大伴氏といえば、対立関係にあったとする見解が一般的であった。しかし実は両氏の間柄はきわめて友好的であった。両氏の接近を大伴氏の没落後のこととみる見解もあるが、大伴氏の勢威が盛んなころから関係は始まっていたと見たほうが適切ではないであろうか。それは先に触れた、継体天皇の大和定着をめぐって、両氏が歩調を合わせていたようにみえることもその証左となろう。


「葛城」
       (準会員) 曽川 直子
葛城の古道懐かし
心迷う 風の森
稲株の続く田に白鷺が舞いおりる
志那都比古神は黙っておはす
年々もくもく水をひき耕す者たちを
見守り風を吹かせて ただ見守って来た
上鴨社の赤鳥居
阿治須岐高彦根命は鉱脈の上の高みにおはし
じっと鎮まっておられる
耐え抜いた人たちを見守り 時に
「カモ」になってはばたかれたか
歩いて 歩いて 曲って 曲って
高天彦神社に行く
蜘蛛窟で倒した多くの血を清めるために
水を巡らし
今頃は鶯宿梅が咲いているか
高天ヶ原からはるかに下をみれば
豊かなみのり 煙たちのぼる里
一願成就の神さまは
室の大墓を見おろして
かって高丘宮に幼き日を過ごした
磐之媛の記憶を蘇らせる
そこから佐紀盾列は
ひとっとび
白いつばさに乗って
大和路をかけよ

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